前回町へ下りてから数日、鹿や小型のイノシシを狩猟して、山の中で十分な肉を食べ、日中のほとんどを休んで過ごした男は、日が沈み始めるころになると、何度も町のある方向へ顔を向けるようになっていた。体格は一回り以上大きくなり、全長は二メートルを超えている。腹は減っておらず、水にも困っていない。あの戦いで負った傷も、無理に走り回らなければほとんど気にならない程度まで治っているのだから、今夜わざわざ人間の住む場所へ近づく必要など、本来ならどこにもなかった。
それでも、一度テレビやラジオという文明へ触れてしまったことで、それまで意識せず我慢できていたものが急に恋しくなっていた。人間の声を聞きたいし、ニュースで世の中がどうなっているのかも知りたい。できればテレビも見たい。そして何より、前回町を歩いたときに見つけた自動販売機の白い光と、その中に並んでいた飲み物がどうにも頭から離れなかった。町は危険だという意識もあるが、人間だったころの感覚が、今の暮らしでは物足りないと訴えていて、我慢が難しかった。
(コーラ、飲みたいな)
人間だったころなら、それだけで終わる欲求だった。財布から百数十円を出して自動販売機で買うか、コンビニへ寄ればいい。家の冷蔵庫に入っていれば、取りに行くことすら面倒に思ったかもしれない。それほどありふれていた飲み物が、沢の水だけで暮らすようになった今では、文明そのものを凝縮したような贅沢品に思えた。
問題は、今の自分には一円もないことだった。だからといって店から盗むつもりはなく、人間から奪うなど論外であり、自動販売機を壊して商品を取り出すことも、この身体なら不可能ではないからこそ絶対にやりたくなかった。人間としての生活へ帰りたいと思っているのに、その人間社会から物を奪って生きるようになれば、自分の中に残っている大事な一線を越えてしまう気がする。
ならば、落ちている金を探すしかない。我ながら何をやっているのだろうとは思ったが、冷えたコーラへの欲求は、そんな疑問を押し切る程度には強かった。
男は完全に暗くなるのを待ち、夜の町へ下りていった。
◇
探し始めて一時間もしないうちに、男は獲物を探すより小銭を探すほうが難しいのではないかと思い始めていた。駐車場、自動販売機の周辺、商店の前、道路脇など、かつての感覚で硬貨がありそうな場所を回ってみたものの、そう都合よく現金が散らばっているはずもない。しかも車が来れば隠れ、人の声が聞こえれば動きを止め、犬の匂いがする家は大きく迂回しなければならなかった。防犯カメラや人感ライトにも注意する必要があり、たった百数十円を集めるために必要な労力は、人間だったころとは比較にならない。
それでも諦めずに探していると、小さな駐車場の車止め近くで、街灯を反射する丸いものが見えた。近づいてみれば十円玉であり、金額よりも、本当に金が落ちていたことのほうが嬉しかった。
(あった)
周囲を確認してから前肢を伸ばしたものの、爪の先が硬貨へ触れた瞬間、十円玉は乾いた音を立てて地面を転がった。慌てて追いかけ、もう一度爪を伸ばせば、また転がる。獲物なら逃げても追いかけられるし、鹿だって仕留められる。自分より大きな肉食恐竜とさえ戦ったというのに、十円玉一枚が拾えない。
(待てって)
前肢そのものは、目覚めたころよりずっと器用に使えるようになっていた。獲物を押さえたり、枝をどかしたり、簡単なものを引っ掛けたりすることはできるが、硬貨は薄すぎるうえ、人間の指先ほど繊細に爪を動かすことはできない。何度か試した末、男は十円玉を爪で車止めの側面まで押し、逃げ場をなくしてから両側から挟み込むことで、ようやく持ち上げることに成功した。
(親指って偉大だったんだな……)
人間だったころ、一度でも親指へ感謝したことがあっただろうか。しかし達成感に浸ったのも束の間、今の自分には服がなく、当然ながらポケットもないという根本的な問題へ気づいた。口へ入れて運ぶのは誤飲が怖いし、前肢で持ち続ければ移動しにくくなる。十円玉を手に入れたことで、今度は財布が必要になってしまった。
(コーラ一本、遠すぎるだろ)
幸運にも、その問題は町外れのゴミ集積所で解決した。袋を破ったり中身を漁ったりすることは避けていたが、その脇に明らかに廃棄された古いショルダーバッグが置かれていたのである。布地は汚れ、金具には錆が浮き、人間の匂いも薄い。中身がほぼ空であることを確かめてから肩掛け用の紐へ頭を通すと、少し嫌な感覚がよみがえる。しかし、コーラへの欲求にはあらがえず、前肢で位置を調整しながら何度も身体を捻った結果、首から前肢の付け根へ斜めに回すことで、どうにか身体の側面へ固定することができた。
歩けば多少揺れるものの、両方の前肢は自由に使える。先ほどの十円玉を苦労して中へ落としたとき、男は思わず胸を張りたくなった。以前なら捨てられた鞄など見向きもしなかっただろうが、今では初めて手に入れた自分専用の装備品であり、十円しか入っていなくても立派な財布だった。
◇
それからの小銭探しは、奇妙な意味で狩りに似ていた。獲物がいそうな場所を予測するように硬貨が落ちていそうな場所を選び、危険を避けながら移動し、見つけたら確実に回収する。自動販売機の下では十円玉を見つけ、月極駐車場の隅では五十円玉を拾った。百円玉を発見したときなど、周囲に誰もいないことを確認してから、危うく声にならない歓声を上げそうになったほどだった。
拾い方にも少しずつ慣れてきた。直接摘まもうとせず、爪で壁や段差まで押してから挟めばいい。バッグの口を開く動作も最初より素早くなり、硬貨を落とす回数も減っていった。やがて人目のない路地で集めた金を並べてみると、合計は百七十円になっていた。
足りる。
顔を上げれば、道路の向こう側で一台の自動販売機が夜の闇を白く照らしていた。交通が途切れるのを待って道路を渡り、水、お茶、コーヒー、スポーツドリンクと商品を順番に確認していくと、ついに見覚えのある赤いラベルが目に入った。値段は百六十円で、購入ボタンも点灯している。
(買える)
ここまで来て売り切れだったらどうしようという不安まで抱いていたため、それだけで安堵した。しかし、本当の難関はそこからだった。百円玉をバッグから取り出し、爪で挟んで投入口へ近づけてみると、人間の指に合わせて作られた細い穴へ硬貨を入れるだけの作業が、今の身体では恐ろしく難しい。最初の一枚は入口へ当たって落ち、二度目は角度が合わず弾かれたため、男は爪で摘むことを諦め、側面を押さえながら投入口の縁へ硬貨を乗せ、滑らせるように押し込んでみた。
百円玉が吸い込まれ、表示が変わる。
(入った……!)
続いて五十円、十円と投入する。十円玉を一度落として自動販売機の下へ転がしかけたときには本気で焦ったものの、最後の硬貨が入ると、コーラの下にあるボタンが明るく点灯した。爪の関節を使うようにして押した直後、機械の内部から突然ガタンと大きな音が響き、男の身体は反射的に後ろへ跳んだ。
何かが襲ってきたわけではない。商品が落ちただけだと理解してから、少し気恥ずかしくなりつつ取り出し口を覗くと、そこには冷えたペットボトルが一本転がっていた。
(買った)
胸の奥に、妙な達成感が広がった。壊していないし、盗んでもいない。拾った金ではあるものの、きちんと百六十円を支払い、自分で商品を選んで買った。恐竜の身体になる前なら記憶にも残らなかった程度の行為が、今は自分がまだ人間社会のルールから完全には離れていないことを確かめる、小さな儀式のように感じられた。
ところが、コーラ一本の大冒険には最後の難関が残されていた。ペットボトルを前肢で押さえ、牙でキャップを回そうとしても滑ってしまう。力を込めれば簡単に噛み砕けるだろうが、そんなことをすれば炭酸が噴き出してしまうため、牙の先をキャップの溝へ軽く引っ掛け、ボトルを固定したまま少しずつ回していった。
やがて小さく空気の抜ける音がして、甘い匂いが鼻へ届いた。それだけで、人間だったころの記憶が鮮やかに蘇る。
慎重にキャップを外して少量を口へ流し込むと、冷たい液体が舌へ触れ、その直後に炭酸が弾けた。
甘く、冷たく、強い刺激がある。たったそれだけの飲み物なのに、男はしばらくその場から動けなかった。外出先から帰る途中に買ったこともあれば、家でゲームをしながら飲んだこともある。コンビニの弁当と一緒に何気なく選び、飲み切れずに炭酸を抜いてしまったことだってあったはずだ。そんな記憶の中では背景にしかならなかった味が、沢の水だけで暮らすようになった今では、かつての日常そのものだった。
(……うまいな)
一気に飲み干したい気持ちを抑えてキャップを閉める。せっかくなら、残りはテレビを見ながら飲みたかった。男が去ったあとも、自動販売機は低いうなりを響かせながら飲料を冷やし続けている。その側面には、真新しい張り紙が一枚あった。
『付近で肉食恐竜の目撃情報あり。夜間の外出に注意』
◇
以前テレビを見た平屋へ戻るのは危険だと分かっていたが、道路から離れ、犬もおらず、庭には身を隠せる植木があるという条件は捨てがたかった。男は前回以上に慎重に周囲を確認してから庭へ入り、ショルダーバッグとペットボトルを植木の陰へ寄せ、自分もその脇へ伏せる。動きを止めてしばらくすると、黒い体表が周囲の暗い色調へ馴染み、窓から庭を眺めた程度では輪郭を捉えにくくなった。
窓の向こうでは、ちょうどニュースが流れていた。政治、経済、事件、スポーツ、農作物を荒らした恐竜の話題まで、かつてなら興味のないものは聞き流していただろうが、今ではどれも人間社会と自分をつないでくれる貴重な情報だった。山の中で獲物を追い、沢で水を飲み、木の根元で眠っている間にも、世の中は何事もなかったように動き続けている。
やがて天気予報が始まると、男はさらに集中した。翌日はまだ大きく崩れないものの、その次にはまとまった雨になる可能性があるらしい。現在地だけでなく南側の予報も確認し、移動するなら雨が来る前に距離を稼ぎ、濡れても困らない場所を探しておいたほうがいいと考える。
コーラを一口飲みながら週間予報を見る。それだけの時間が、不思議なほど心を落ち着かせた。人間だったころの自分は、飲み物を片手にテレビを眺め、明日の天気を確認する夜を何度も過ごしてきたはずだ。何の価値も感じていなかった「普通の夜」が、今では狩りに成功することとは別の意味で、ひどく贅沢な時間に思えた。
天気予報が終わったところで帰ろうとしたが、次に始まったのは旅番組だった。画面いっぱいに湯気の立つ露天風呂が映った瞬間、男はもう少しだけ残ることにした。
(……これは見る)
番組では出演者が温泉へ入り、続いて旅館の夕食が紹介された。焼き魚、刺身、鍋料理、白い米。山で生肉を食べることにはすっかり慣れたつもりだったが、焼かれた料理や炊きたての米を見ると、人間だった舌の記憶が容赦なく刺激される。温泉を見れば湯へ浸かりたくなり、布団が映れば柔らかい寝床が恋しくなった。観光客が土産物屋を歩く姿には、誰にも怖がられず普通に町を歩けることへの羨ましささえ感じたが、そうした欲求が生まれること自体は嫌ではなかった。生き延びることだけを考えていたころには、温泉へ入りたいなどという贅沢な不満を抱く余裕すらなかったからである。
途中、家の住人らしい老人がテレビの前を横切り、何気なく庭へ視線を向けた。男はすぐに全身の動きを止めたが、そのときになって、植木の陰へ置いたコーラのペットボトルがわずかに光を反射していることに気づいた。老人の視線が庭をゆっくり横切った数秒間、下手に動かすこともできず、そのまま通り過ぎてくれるのを待つしかない。やがて老人が何事もなかったようにテレビへ向き直ると、男はようやく緊張を解いた。
(次から、ボトルもちゃんと隠そう)
生き延びるための知識に、「テレビを見るときは飲み物まで隠す」という、ひどく限定的な教訓が加わった。
番組が終わるころにはコーラも空になっていたが、男はペットボトルを庭へ残さずバッグへしまった。野生で暮らす肉食恐竜がポイ捨てを気にする必要などないはずなのに、それだけは妙に抵抗がある。百七十円を拾い、鞄を手に入れ、自分でコーラを買い、ニュースと天気予報を確認し、最後には旅番組まで楽しんだ。戦闘も狩りもしていない夜だったが、この身体になってから過ごした時間の中では、特に人間らしく、満足感の大きい夜だった。
◇
翌朝、空を覆う雲を見た男は、わざわざ町まで下りて天気予報を確認した意味があったと実感した。まだ雨は降っていないものの、西側には厚い雲が集まり始めている。青森の山中は夜になるとかなり冷えることがあり、そこへ雨まで重なれば体温を奪われる可能性がある。自分の身体がどの程度低温に耐えられるのか分からない以上、試す必要のない危険をわざわざ試す理由はなかった。
(雨具が欲しいな)
傘は前肢で持ち続けることが難しく、山中を走れば枝へ引っかかる。人間用のレインコートも身体の形が違いすぎるうえ、急速に成長している今の身体では長く使えそうにない。必要なのはもっと単純で、背中から胴体を覆え、邪魔になればすぐ外せる防水性の布かシートだった。
男は朝のうちに十分な量の肉を食べて沢で水を飲み、夕方まで山で身体を休めた。雨が降る前に使えそうなものを探しておけば、悪天候の中を動き回らずに済む。食料に余裕がある今なら、狩りに使うはずだった時間を準備へ回すことができた。
夜になって町へ下り、まず前日にバッグを拾ったゴミ集積所を確認したものの、都合よく防水シートまで捨てられてはいなかった。少し離れた資材置き場には新品らしいブルーシートが積まれていたが、所有者がいると分かっている物を持ち去るのは、自動販売機を壊してコーラを盗むのと本質的には変わらない。未練はあったものの、そこは諦めて町外れまで足を延ばした。
畑と林の境界付近まで来たところで、風に飛ばされた農業資材が藪へ絡んでいる場所を見つけた。ビニール片や切れた紐に混じって、泥で汚れた大きな防水シートが枝へ引っかかっている。端は破れ、人間の匂いもほとんど残っていないため、少なくとも現在使われている物には見えなかった。
(これならいいか)
男は牙で絡んだ蔓だけを切り、爪で枝を押さえながら慎重にシートを引き出した。広げてみると、今の身体なら背中から脇腹まで十分覆える大きさがある。近くには農業用らしい細い紐も落ちていたため、シートへ爪で小さな穴を開け、そこへ通して身体へ固定しようとしたが、細い紐を扱う作業は硬貨以上に厄介だった。
そこで小銭を拾ったときと同じように、爪だけですべてを済ませようとすることを諦めた。地面や石を作業台として使い、牙と前肢を交互に使えば、多少時間はかかっても作業そのものはできる。結び目を作ることまでは難しかったので、身体へきつく巻きつけるのではなく、肩口へ緩く引っかけ、枝などへ絡んだときには強く引けば抜ける程度に調整した。
完成したものはレインコートと呼ぶにはあまりにも粗末で、黒い肉食恐竜の背中から泥のついた青いシートが垂れているだけだった。それでも歩けば落ちず、走るときには小さく畳んで背中へ寄せておける。沢へ戻って水をかけてみると、完全防水ではないものの、雨を直接浴び続けるよりははるかに役立ちそうだった。
(マントだな)
そう呼ぶことにした。
(マントは擬態能力を打ち消してしまうから、使い時は気を付けないといけないな)
翌日、本当に雨が降り始めると、その効果は想像以上だった。頭や脚までは濡れるものの、背中から胴体へ冷たい雨が直接当たらず、大きな木の根元へ身体を寄せて風上側をシートで覆えば、体温を奪われる感覚もかなり弱くなる。雨脚が強まり、沢の音が大きくなっても、食料と水がある以上、無理に移動する必要はなかった。
防水シートを叩く雨音を聞きながら身体を丸めていると、バッグの中から硬いものが脇腹へ当たった。取り出してみれば、あのコーラの空のペットボトルである。町へ戻ったときに捨てるつもりだったそれを眺めているうちに、男はようやく別の使い道へ思い至った。
(……これ、水入るよな)
五百ミリリットルしか入らないとしても、水を持ち運べるのとまったく持てないのとでは意味が違う。男はシートから身体を出し、ペットボトルを咥えて沢へ向かった。
◇
容器の底にはコーラがわずかに残り、甘い匂いもついていたため、そのまま水筒代わりにする気にはなれなかった。浅瀬へボトルを置いて前肢で押さえ、水を半分ほど入れてから蓋を閉める。牙を立てないよう口で咥えて頭を左右へ振ると、中で水が激しく動いたので、その水を捨ててまた入れ直した。何度か繰り返して匂いを確かめ、甘さがほとんど気にならなくなったところで、最後に沢の水をいっぱいまで入れてバッグへ収めた。
今の身体にとって五百ミリリットルは決して多い量ではない。それでも、これまでは沢や湧き水を見つけるたびにその場で飲むしかなかったことを考えれば、水を持ち運べるというだけで行動の自由は少し広がる。南へ進めば地形も変わるし、水場から離れなければならない場面が出てくるかもしれない。怪我をして動きにくくなる可能性もある以上、非常用として持っておく価値は十分にあった。
もちろん、ペットボトルを本格的な水筒として長期間使うつもりはない。朝になれば古い水を捨てて容器をすすぎ、新しい水へ交換する。普段は沢から直接飲み、持ち歩く水は必要になるまで残しておけばいい。人間だったころなら考えるまでもなかった衛生管理まで、自分で工夫しなければならないのが今の生活だった。
バッグを身体へ掛け直すと、水の重さより、中で液体が揺れる感覚のほうが気になった。そこで紐を少し調整してバッグを胴体へ密着させ、歩いたり軽く走ったりして、移動の邪魔にならない位置を探した。ようやく納得できる場所へ収まると、男は木の根元へ戻り、拾った防水シートを広げて身体を包んだ。
今では雨具があり、鞄の中には少額ながら金と非常用の水まで入っている。何も持たず青森の山中で目を覚ましたころと比べれば、ずいぶん旅人らしくなったものだった。あの夜テレビを見なければ雨が来ることを知らず、知らなければ防水シートを探そうとも考えなかっただろうし、食料に余裕がなければ装備探しに時間を使うこともできなかった。
以前なら、天気予報を見ることも、雨具を用意することも、水筒を持って出かけることも特別な能力ではなかった。しかし山の中では、そうした「当たり前」が牙や爪とは別の強さになる。寒くなってから耐えるのではなく、寒くなる前に備える。喉が渇いてから水を探すだけではなく、水のある場所で予備を確保しておく。危険に遭遇してから逃げ道を探すのではなく、その前に周囲を確認しておく。この身体が最初から持っていた能力ではなく、人間として生きてきた自分が持ち込んだ習慣だからこそ、男にはそれが妙に頼もしく感じられた。
翌朝には雨が上がり、雲の切れ間から光が差し込み始めた。男は残っていた肉を腹へ入れてから沢へ向かい、前日に汲んだ水を捨て、ペットボトルをすすいで新しい水を満たした。背中には畳んだ防水シートをまとめ、身体の横には古びたショルダーバッグを掛ける。その姿が水面に映ると、黒い人工肉食恐竜に人間の道具だけを無理やり装備させたようで、野生動物には到底見えなかった。
(旅人だな)
そう考えると、少しだけ楽しくなった。
目覚めた日の自分には何もなかった。どこにいるのかも分からず、何を食べられるのかさえ知らないまま、ただ八王子へ帰りたいという思いだけで歩き始めた。それが今では自分で狩りをし、人間の町から情報を集め、天候を予測し、拾った道具を身体に合わせて使い、わずかな量とはいえ非常用の水まで持ち歩いている。身体が人間へ戻ったわけではなく、声も出せず、店にも入れない。百六十円のコーラを一本飲むだけでも、人間だったころには想像もしなかった苦労が必要だったが、それでもできないことばかりではなかった。
男はバッグの位置を確かめ、南へ身体を向けた。雨上がりの森はまだ濡れており、踏み出すたびに足元の土がわずかに沈む。空気には湿った土と葉の濃い匂いがあり、木々の間から差し込む朝の光が、枝葉に残った水滴を無数の小さな光へ変えていた。
八王子までは、まだ遠い。けれども昨日までの自分より、ほんの少しだけ遠くへ行けるようになっている。その違いを生んだのは巨大な牙でも鋭い爪でもなく、苦労して百六十円を支払った一本のコーラだった。