夜明けの尾根は、白い息が出るほど冷えていた。
男が身体を起こすと、腹の横で丸くなっていた二号が転がり落ち、落ち葉の上で四肢をばたつかせた。しばらく何が起きたのか分からない顔で空を見上げていたが、やがて起き上がり、何事もなかったように鼻先で地面を掘り始める。寝起きの悪さだけなら、人間だったころの自分といい勝負だった。
昨夜は、東京都と神奈川県と山梨県の境が入り組むあたりの山で眠った。地図の上では、八王子はもう指一本ぶんの距離しかない。人間の足なら、山を下りて数日。恐竜の足でも、人目を避けて遠回りをすれば同じくらいはかかるだろう。
(今日中に、東京都の外れまでは行けるな)
そう考えただけで、尾の先がまた勝手に揺れた。二号がそれを見逃さず、跳びついてくる。油断していた男のしっぽは二号に噛みつかれ、男は驚いて飛び上がった。
(何をするだァーッ!)
男の内心を除いて朝の山は静かだった。鳥の声と、遠くの車の音と、二号が落ち葉を蹴散らす音。それだけのはずだった。
最初におかしいと思ったのは、獣道の様子だった。
尾根から沢へ下る斜面の途中で、低木が広い範囲にわたって折られていた。踏みつけられた跡が何本も重なり、湿った土が深くえぐれている。鹿や猪の通り道ではない。もっと重いものが、何頭も、同じ場所を何度も行き来している。
鼻を近づけると、草食の恐竜の匂いがした。
それ自体は珍しくない。この旅で、草食恐竜の群れとは何度もすれ違ってきた。たいていは向こうがこちらの匂いに気づいて先に逃げるし、こちらが風下にいれば、互いに気づかないまま離れていくこともある。肉食恐竜の身体を持つ者として、それが当たり前だと思っていた。
ただ、この匂いには、どこか引っかかるものがあった。
何が違うのかは、うまく言えない。強いて言うなら、怯えの匂いがしなかった。草食恐竜の群れは、いつもどこかに緊張の匂いを纏っている。周りを警戒し、何かあればすぐ逃げられるように身構えている匂いだ。それが、この跡にはなかった。
男は、先日の夜に公園のテレビで見たニュースを思い出した。山梨の造成地に突っ込んできた草食恐竜の群れ。人間を見ても退かず、一度向かってくるとなかなか止まらない。
(……例のニュースが言っていたのはこういう手合いなのか?)
ここは山梨ではない。種類も違う。気にしすぎだと分かっていても、男は斜面を下りるのをやめ、尾根筋へ戻ることにした。遠回りになるが、構わない。
二号に、短く二度、喉を鳴らす。
二号は掘っていた穴から顔を上げ、名残惜しそうに一度だけ振り返ってから、男の後ろについた。
◇
尾根を半時間ほど歩いたところで、木々が途切れた。
何年か前に伐採されたらしい斜面だった。切り株が点々と並び、その間を枯れかけた草とススキが覆っている。見晴らしはいい。ただ、そのぶん身を隠す場所もなかった。男は林の縁で足を止め、斜面の下を見下ろした。
六頭いた。
全長は二メートル半ほど。二本の後肢で立ち、前肢を地面についたり離したりしながら、斜面の草を食んでいる。頭は小さく、口先が硬い嘴のように尖っていた。草食恐竜の中ではありふれた体格で、体重なら、四メートルを超える自分の半分にも満たないだろう。
普通なら、こちらに気づいた時点で逃げる。
男はそう思っていた。
一頭が頭を上げた。続いて二頭目、三頭目。六頭すべてが草を食むのをやめ、斜面の上に立つ黒い肉食恐竜を見上げた。
逃げなかった。
身構えもしない。威嚇の声も上げない。ただ、六対の目が、じっとこちらを見ている。その目には、怯えも、警戒も、興味すらなかった。何かを見ているというより、見ているものに向かって身体が勝手に引っ張られている、そんな目だった。
背中の鱗が、内側からざわついた。
(……あれだ、こいつらもあいつらと同じ)
ニュースの角竜類と同じだった。種類は違っても、中身の壊れ方が同じだった。
男はゆっくり後ろへ下がった。走らない。背中を見せない。この旅で覚えたこと、ハンターたちがいつもやっていたことを、そのままなぞる。相手を刺激せず、距離だけを開ける。普通の相手なら、それで終わる。
一頭が、斜面を登り始めた。
続いて、残りの五頭も。
急いではいない。歩くような速さで、切り株の間を縫って、まっすぐこちらへ登ってくる。
(草食恐竜が肉食恐竜に喧嘩売りに来るなよ、後退のねじが外れてんのか)
男はもう一歩下がった。六頭も一歩ぶん登った。距離は変わらない。そのとき、男の脚の陰にいた二号が、動いた。
六頭の目が自分に向いていないことに気づいたのか、あるいは、ただ怖くなったのか。二号は男の後ろから飛び出し、林の中へ向かって一目散に走り出した。
(待て、走るな――)
六頭の頭が、一斉に二号へ向いた。
次の瞬間、群れが走り出した。
◇
速かった。
二本の後肢で斜面を駆け上がってくる六頭は、さっきまでののろさが嘘のように、地面を蹴るたびに距離を詰めてくる。狙いは男ではなかった。男の横をすり抜けるようにして、林へ逃げた二号を追っていく。
男は身体を捻った。
尾を振る。考えるより先に、身体がそうしていた。太い尾が先頭の一頭の脚を薙ぎ、二メートル半の身体が、切り株の上へ横倒しに叩きつけられる。二頭目は男の前肢に肩を払われて斜面を転がり落ちた。
だが、群れは六頭いた。三頭目と四頭目が、男の脇をすり抜けた。
男は振り向きざまに前肢を伸ばした。爪の先が、三頭目の尾をかすめた。かすめただけだった。追おうとした脚へ、斜面を転がり落ちたはずの二頭目が横から体当たりしてくる。重い衝撃ではない。ただ、一歩ぶん、遅れた。
その一歩が、ひどく遠かった。
林の入口まで、二十メートルもない。四メートルを超える身体なら、数歩で届く距離だった。それなのに、地面を蹴るたびに、林の入口のほうが遠ざかっていくような気がした。
(逃げろ、二号! 止まるな、そのまま走れ!)
叫んだつもりだった。喉から出たのは、言葉にならない低い唸りだけだった。
声が出ない。名前を呼ぶことすらできない。そもそも二号という名前を、二号自身は知らない。男が二号に伝えられる言葉は、たった一つ、短く二度喉を鳴らす、あの合図しかなかった。
男は喉を鳴らそうとした。
出てきたのは、自分でも聞いたことのない、割れた咆哮だった。林の入口で、二号が振り返った。
追ってくるものを確かめたのではなかった。二号が見ていたのは、男だった。いつもそうしてきたように、どちらへ行けばいいのかを、男の顔に訊いていた。
その一瞬の迷いに、四頭目が追いついた。硬い嘴のついた頭が、横から二号の身体をしたたかに打ちすえた。
鈍い衝突音の後、間を置かずに、細く小さな身体がいびつに曲がって宙に浮いた。
男には、それがひどくゆっくり見えた。
宙で一度回る小さな脚。こちらを向いたままの目。いつも落ち葉を掘り返していた鼻先。自分の尾を追いかけて跳ねていたときと同じ高さまで浮き上がり、そして、跳ねていたときとはまるで違う落ち方で、落ちていった。
ぐしゃりとも、ぱきりともつかない音がして、二号は切り株の根元に叩きつけられ、そのまま転がって、止まった。
悲鳴はなかった。派手な流血もなかった。
ただ、二号の身体はぴくりとも動かなかった。
◇
男がようやく林の入口へたどり着いたとき、二号は三メートルほど先で横倒しになっていた。小さな身体が、見たことのない形に丸まっている。前肢が一本、胴の下敷きになったままだった。
落ち葉が一枚、ひらりと落ちてきて、二号の鼻先に乗った。
落ち葉は、動かない。息をしていれば、揺れるはずだった。
男は待った。一秒。二秒。三秒。小さな胸が上下するのを、鼻先の落ち葉がわずかに震えるのを、ただ待った。
何も起きなかった。
(……嘘だろ)
あの岩壁の前で出会ってから、ずっと一緒だった。怯えて震えていた小さな身体。勝手についてきて、勝手に寝床を作って、勝手に「ただいま」の上で丸くなった。追い払っても、翌朝にはまた足元にいた。
ついさっきまで、そこで尾を追いかけていたのに。
音が、消えた。
ススキが風に鳴る音も、六頭の足音も、自分の呼吸も、何も聞こえなくなった。視界の端から色が抜けていく。見えているのは、切り株の根元に転がった小さな身体と、その横に立つ灰色がかった草食恐竜だけだった。
四頭目が、倒れた二号へ頭を下げた。
その瞬間、男の身体は、男の意識より先に動いていた。
どう地面を蹴ったのか覚えていない。気づいたときには四頭目の背中にのしかかっていた。体重をかけて押し潰し、前肢の爪を肩口へ深く食い込ませる。草食恐竜が身をよじり、嘴で男の前肢を打った。痛みはなかった。痛みという言葉そのものが、どこか遠くへ行ってしまっていた。
顎が開いた。
自分で開けたのではなかった。開いていた。
目の前に、草食恐竜の首がある。細く、柔らかく、脈打っている。そこへ歯を立てれば、すべてが終わる。終わらせたいと思った。いや、思ったのではない。思う前から、身体の奥の、自分の知らない場所で、それはとっくに決まっていた。
熱いものが、腹の底からせり上がってくる。
壊せ、と、何かが言っていた。言葉ではなかった。言葉になる前の、もっと古くて、もっと単純なものだった。奪われた。だから壊す。目の前のこれも、その後ろのあれも、動くものは全部。
牙が、首の皮に沈んだ。
血の味がした。
悪くない、と思った。
◇
――ぴ、ぴ。
小さな音がした。
切り株の根元からだった。短く、二度。
男の顎が止まった。
――ぴ、ぴ。
もう一度。弱々しく、かすれて、それでも確かに、短く二度。
男が二号を呼ぶときの音だった。毎日、何度も鳴らしてきた音。ついてこい、ここにいる、大丈夫だ。そういう意味を込めて、青森からずっと鳴らしてきた音を、二号が、倒れたまま鳴らしていた。
色が戻ってきた。
音が戻ってきた。風の音、ススキの音、そして、自分の荒い呼吸の音。
男は、自分が何をしているのかを見た。
草食恐竜の背中に乗り、爪を肩に食い込ませ、首に牙を立てている。口の中に、生温かい血が溜まっている。
(……何、やってんだ、俺)
顎を開いた。牙が抜ける。押さえつけていた前肢から力を抜くと、四頭目はもがきながら男の下から這い出した。首から血が流れている。それでも、逃げようとはしなかった。よろめきながら向き直り、また男へ頭を向けた。
いままでも狩りとしてさんざん草食恐竜は殺して食べている。しかし、今回のこれは違った。この衝動のままこの恐竜たちを殺してしまえば、なにか取り返しのつかないところに自分が転がり落ちてしまうような気がした。
男は、血を流してこちらを向く草食恐竜を見ていなかった。切り株の根元へ駆け寄る。
二号は横倒しになったまま、首だけを持ち上げて、こちらを見ていた。脇腹の皮が擦りむけ、土と血で汚れている。片方の前肢を地面につけられずにいる。それでも、目は開いていた。男の顔を見て、もう一度、かすれた声で鳴いた。
――ぴ、ぴ。
(……ああ)
男は、喉の奥で何かを返そうとして、うまく鳴らせなかった。
(ここにいる。生きてる。大丈夫だ)
それが、二号に向けた言葉なのか、自分に言い聞かせた言葉なのか、男には分からなかった。
◇
背後で、ススキが揺れた。
六頭は、一頭も逃げていなかった。尾で薙ぎ倒された一頭目も、斜面を転がった二頭目も起き上がり、首から血を流す四頭目と並んで、こちらへ向かってくる。仲間が倒されたことも、自分が傷を負ったことも、何一つ判断に入っていない動きだった。
男は二号の前へ立った。頭は、驚くほど冷えていた。
さっきまで腹の底にあった熱は、どこにも見当たらない。代わりに、自分の身体の重さと、六頭の位置と、足元の地面の固さが、ひどくはっきりと分かった。
一頭目が、真正面から飛び込んできた。
男は半歩だけ横へずれ、すれ違いざまに尾を振った。相手の脚がまとめて払われ、二メートル半の身体が切り株へ叩きつけられる。今度は、起き上がろうとした脚を前肢で踏んだ。骨の折れる感触が伝わってきた。
二頭目と三頭目が、左右から同時に来た。男は身体を沈め、右から来た一頭の胴へ肩からぶつかった。体重の差は倍以上ある。相手は斜面を三メートルほど転がり、立ち上がろうとして、脚がもつれて倒れた。左から来た一頭の嘴が、男の脇腹を打つ。鱗の上を、硬いものが滑っていく感触があった。男はその首の付け根を前肢で押さえ、地面へ叩きつけた。
五頭目は、背後から二号を狙っていた。
男の尾が、それより速かった。
六頭目は、斜面の上から助走をつけて突っ込んできた。男は正面からそれを受け止め、頭を下げて相手の胸元へぶつけた。鈍い音がして、六頭目は仰向けに倒れ、そのまま動きが鈍くなった。
四頭目だけが、首から血を流したまま、まだ立っていた。男はそれを見た。
首の傷は、男がつけたものだった。あと一瞬、二号の声が遅ければ、この草食恐竜は今ごろ立っていなかった。
四頭目がよろめきながら頭を下げ、突っ込んでくる。
男は、牙を使わなかった。前肢で頭を横から払い、倒れたところへ体重をかけて、脚を押さえた。折れるまで、押さえた。
それで、終わりだった。時間にすれば、一分もなかったかもしれない。
六頭は、斜面のあちこちに倒れていた。
どれも死んではいない。けれど、立ち上がれる個体もいなかった。脚を折られた一頭は、それでもなお前肢で地面を掻き、男のほうへ這い寄ろうとしている。斜面を転がった一頭は、もつれた脚を何度も動かして、起き上がっては倒れ、起き上がっては倒れを繰り返している。逃げようとする個体は、最後まで一頭もいなかった。
一方的だった。
四メートルを超える肉食恐竜と、二メートル半の草食恐竜六頭。通常の恐竜同士ならいざ知らず、人間の知性と大型肉食恐竜に届こうかという体躯を備えた男と草食恐竜の群れでは、最初から、勝負になるはずのない相手だった。男自身、どこにも大きな傷を負っていない。脇腹の鱗に、嘴の擦れた跡が白く残っている程度だった。
それなのに、勝ったという気分は、どこにもなかった。
◇
男は、二号のそばへ戻った。
二号は、どうにか起き上がろうとしていた。擦りむけた脇腹を庇いながら、三本の脚で地面を押す。片方の前肢は、地面に触れるたびに引っ込められた。折れてはいないようだったが、ひどく打ったのだろう。
男は前肢を伸ばしかけて、止まった。
自分の前肢の爪には、まだ草食恐竜の血がこびりついていた。
口の中にも、まだ鉄の味が残っている。
二号を咥えて運べば、早い。今までにも、沢を渡るときに何度かそうしてきた。けれど、この顎で、この口で、二号に触れるのが、どうしても嫌だった。ついさっき、別の生き物の首を噛み切ろうとした口だった。
男は地面に腹をつけ、できるだけ身体を低くした。前肢を、二号の横にそっと置く。
二号は少しのあいだ男の顔を見ていたが、やがて、よろよろと男の前肢に身体を預けてきた。小さな身体が、思っていたよりも温かかった。
男はそのまま、前肢で二号を抱えるようにして立ち上がった。
背後では、六頭がまだ地面を掻いていた。
振り返らなかった。振り返れば、あの目をもう一度見ることになる。あの、何も見ていないのに、こちらへ引っ張られ続けている目を。
そして、それを見て、自分がまた何を感じるのかが、怖かった。
遠くで、ヘリコプターの音がした。数日前に見たのと同じ、西の方角だった。誰かがあの斜面を見つけるまで、そう時間はかからないだろう。倒れた六頭と、そこに残された大きな足跡を見て、人間たちは何を思うだろうか。
男は林の奥へ入った。
◇
その夜は、ほとんど眠れなかった。
岩の張り出しの下で、二号は男の腹に背中を押しつけて丸くなっている。脇腹の擦り傷は乾き始め、前肢も、夕方には恐る恐る地面につけるようになっていた。寝息は穏やかだった。
男は、自分の前肢を見ていた。
沢の水で、血はもう洗い流してある。爪の間にこびりついていたものも、一本ずつ、石でこすって落とした。それでも、あの感触は消えなかった。首の皮に牙が沈んでいく、あの柔らかさ。口の中に広がった、温かい味。
悪くない、と思った。
あの一瞬、たしかにそう思った。
(……俺じゃ、なかったよな。まるで人間よりもこの身体に引っ張られているような)
自分に問いかけてみる。答えは返ってこなかった。
あれは、この身体のせいだと思いたかった。肉食恐竜の身体に入っているのだから、肉食恐竜の本能が残っていても不思議ではない。そう考えれば、少しは楽になる。けれど、その考えには、どこか収まりの悪いところがあった。あの熱は、外から来たものではなかった。自分のいちばん奥の、自分でも手の届かない場所から、当たり前のような顔をして上がってきた。
人間の理性によって肉食恐竜の本能を制御できなかったと思う。自分が何者かわからない、その不完全さが自分の人間としての自意識に揺らぎを与えている気がして仕方がなかった。
そして、あの声がなければ、止まらなかった。
男は、前肢の爪で、岩の下の土に字を書いた。
た。だ。い。
ここまでは、昨日練習したとおりに書けた。
ま。
最後の線を払うところで、爪が震えた。線は右へ大きく曲がり、昨日よりもずっと遠くまで逃げていった。
男はしばらく、その曲がった「ま」を見ていた。
(あれを、家族の前でやったら)
考えたくなかった。考えないようにしていた。それでも、浮かんでしまった。玄関の前で、家族の前で、今日のあの熱がもう一度上がってきたら。止めてくれる声が、どこにもなかったら。自分はこの身体を十分に制御できるのだろうか、自分が何者かもわからないままで。
(最近、人間としての記憶と身体の乖離が起きている気がする。そんな不安定な状態で、俺は俺が何者かを知らないままで、家族の前に立てるのか。)
男は前肢で、四文字をそっと均した。
腹の横で、二号が小さく身じろぎした。寝ぼけたまま、かすれた声で、短く鳴く。
――ぴ、ぴ。
男は、その小さな背中に鼻先を寄せた。それから、今度はちゃんと、喉の奥で短く二度、鳴らした。
二号は、満足したように、また寝息を立て始めた。
男は、朝まで目を閉じなかった。 目を閉じれば自分の身体が勝手に動き出しそうで、何よりも己自身が信用ならなかった。
(俺は、誰なんだ……)
答えはかえってこなかった。
第32章 最後の一線 了