十二月二十二日。山梨県東部で二頭分の新しい痕跡が確認されたという情報は、その日のうちに東京都側の警戒態勢を一段引き上げた。
東京都内への侵入は、まだ確認されていない。それでも泥に残された足跡や食べられた野生動物、山中の監視カメラが拾った灰褐色の影を地図へ落としていけば、二頭が少しずつ東へ移動していることだけは否定できなかった。長野の違法施設から逃走した五頭のうち三頭はすでに駆除されたが、残る二頭は群馬で一度包囲されかけた末、異常な行動を示した草食恐竜の群れが乱入したことで逃走している。
そして、その先にあるのが東京都多摩地域だった。
山梨と東京の間に、恐竜を止める壁はない。都県境を示す標識は人間にとって重要でも、山も谷も沢も森林も、そんな線とは関係なく続いている。道路を封鎖するだけでは足りず、すべての山道へ人員を置くこともできない。まして相手は、長野から山梨にかけて警察車両やドローン、ハンターに追われ続け、そのたびに生き残ってきた二頭だった。
だから東京都は、水際作戦として東京都西部の山林地帯を戦場と定めた。
警察、消防、自治体、危険生物対策部門、獣医師、ドローン運用班、それに複数のハンター団体が情報を共有し、山梨側の捜索網と接続する。学校や保育施設には、状況に応じて即座に屋内待機へ切り替えられる連絡系統を確認させ、登山道や林道については閉鎖候補を選定する。住宅地に近い区域では、恐竜を発見した場合にどこへ住民を逃がし、どの道路を塞ぎ、どこなら銃を使えるかまで先に決めていった。
行政文書に「首都防衛」という言葉はなかった。それを使い始めたのは、ネット民やバズ目的のやからたちだった。
◇
「山梨県東部で逃走中の中型肉食恐竜二頭について、政府と東京都は本日、多摩西部での警戒態勢を強化しました」
昼のニュースでは、山梨から東京にかけての地図が大きく表示されていた。黄色く塗られた警戒範囲は東京都側まで広げられ、その中には八王子市西部も含まれている。
「現時点で東京都内への侵入は確認されていません。しかし二頭がさらに東へ移動する可能性を考慮し、警察や自治体に加え、危険恐竜への対応経験を持つハンターが多摩地域へ配置されています」
画面が切り替わる。
山間部へ入っていく警察車両。ケースから取り出されるドローン。臨時の指揮所へ運び込まれる大型モニター。銃器の状態を確認するハンターたち。その映像の上に、大きな字幕が重なった。
「首都防衛へ――東京の上位ハンター集結」
言葉だけなら、ひどく勇ましい。
だが映像に映っている人間たちは、誰一人として勇ましいことをしていなかった。
地図を見ていた。
◇
「学校がここ。こっちは住宅地。南へ抜けられると面倒だな」
榊原宗一は地図へ指を置いたまま、配置表を確認した。
前線指揮所として借りられた施設には、朝から人が増え続けている。長野と山梨で二頭を追ってきた班だけではない。東京都側からも経験のあるハンターが集められ、危険恐竜への対応実績を基準に配置が組み直されていた。
三枝は西側。真壁は南側。そのほかにもランキング上位へ名前を連ねる者が何人もいる。単独で肉食恐竜へ挑むためではなく、追跡、射撃、現場判断のいずれかで十分な経験を持ち、状況が崩れたときにも仕事を続けられる人間が優先されていた。
「ずいぶん集めましたね」
山馬が配置表を見て呟いた。
「東京だからな」
「それだけですか?」
「それで十分だろ。山梨側で止められなかったら、この先は人が増える一方だ。戦う人数が欲しいんじゃない。失敗しても次の手を打てる人数が要る」
榊原が答えたところで、駐車場へ一台の車が入ってきた。
何人かがそちらを見る。
降りてきたのは、報道で見る姿よりずっと普通の青年だった。派手な装備を身につけているわけでもなく、周囲の視線を気にする様子もない。長いケースを車から下ろすと、指揮所へ向かう前に一度立ち止まり、周囲の山を見渡した。
榊原が地図から顔を上げた。
「で、あれが東側」
若いハンターが目を丸くする。
「岳……」
東京で活動するハンターの名を知っている者なら、説明はいらなかった。
以前から危険な大型肉食恐竜の狩猟で知られていたが、その名を世界規模で広めたのは、一頭の大型交雑種の肉食恐竜との戦闘だった。銃撃の末に弾薬を使い果たし、自身も負傷した状態からマチェットで仕留めた映像は世界中へ流れ、報道とネットは彼に「リアル・ドラゴンバスター」という異名まで与えた。
本人がその呼び名を好んでいないことも、同じくらい有名だった。
「最新の位置は?」
指揮所へ入ってきた岳は挨拶を済ませると、すぐ地図の前へ来た。
「二時間前に来ている情報だと、ここだ」
榊原が印を指す。
岳はそこだけを見なかった。標高、沢、道路、集落の位置を順番に確認し、最後に東京側へ目を移した。
「二頭とも、長野から逃げてる灰褐色の個体で間違いないんですよね」
「ああ。少なくとも痕跡と映像は一致してる」
「行動は?」
「お前が思ってるより面倒だ。傷を負っても退かない。一度人間を追い始めると切り替えが悪い。長野じゃそれで死人が出てる」
「例のブレーキが弱いって話ですか」
「御門はそう見てる、こっちの肌感覚としてもその判断に違和感はねぇな」
岳は小さく頷き、二頭の推定位置へ視線を戻した。
「長野で三頭やられて、そのあと山梨でも何度も追われてる。残った二頭は、人間そのものを理解してなくても、車とか集団とか銃声を避けるくらいは覚えてると思ったほうがいいですね」
「俺もそう思う、厄介なのは臨戦態勢に入るまではそれなりに知恵が回るってとこだ」
「射殺すること自体は、そんなに難しくないです」
近くにいた若いハンターが驚いた顔で岳を見る。
榊原は驚かなかった。
「言うねえ」
「撃てる場所に出てくれれば、ですけど」
岳は地図上で指を東へ滑らせ、山地が住宅地へ変わる場所で止めた。
「人口密集地へ侵入されたら、ハンターの人数の問題じゃない。守るべき民間人こそが、やつらを守る盾になる」
榊原の口元がわずかに上がった。
「そういうことだ、くそったれ。守るべき人と守りたい人を区別できないことが、この仕事の嫌なところだ」
◇
作戦説明が始まると、報道で使われる「トップハンター」という肩書きはほとんど意味を失った。
二頭の現在位置を把握する。一般人を近づけない。山中で発見しても不用意に追い立てず、移動方向を共有する。一頭を見つけても、もう一頭の位置が分からないうちは接近しすぎない。発砲する場合は標的の背後を確認し、住宅や道路がある方向へは撃たない。傷を負わせて逃がせば追跡がさらに難しくなるため、条件が悪ければ撃たない。
特別な戦術ではない。長野でも山梨でも繰り返されてきた基本だった。違うのは、その基本を実行する人間の層が厚いことだった。
三枝が西側の山道を担当し、真壁が住宅地へ抜ける南側の監視網を確認する。別の上位ハンターは河川沿いを受け持ち、ドローン班と地上班の間には警察が入る。誰か一人が二頭を倒すことを前提にせず、一つの班が見失っても別の班が拾えるように配置されていた。
榊原は全員を前に、地図を叩いた。
「勘違いするなよ。ランキング上位が何人集まったって、藪の五メートル先から出てきたら普通に死ぬ。強い奴を集めたから安心なんじゃない。失敗しにくい配置を作るために集めたんだ」
誰も笑わなかった。
「人がいるなら避難が先。追うなと言われたら追うな。一頭を撃てる状況でも、もう一頭が分からなければ待て。俺たちの仕事は、今日のニュースで格好いい映像を撮らせることじゃない」
「二頭とも仕留めて、全員帰る。ですね」
真壁が言った。榊原はまるで目の前でショートケーキのイチゴを取られたような憮然とした表情をしながらぼやいた。
「それ、俺の台詞なんだけど」
「いい言葉だったので」
「ふん、使用料取るぞ」
榊原が苦笑しながら言うと、張りつめていた空気が少しだけ緩んだ。
そのとき、後方から声が上がった。
「確認いいですか」
若手のハンターだった。その手は少し震えている。
「黒い大型個体も、南へ移動してるって話がありますよね。温泉恐竜のほうです」
何人かの視線が地図へ向く。
青森から始まり、宮城、山形、福島、栃木。その後も各地で目撃情報を残しながら南へ移動している黒色大型個体については、ここにいる誰もが知っていた。
指揮担当者が資料を確認する。
「黒色大型個体は今回の二頭とは別対象です。福島での行動を含め、現時点で人間への積極的な攻撃は確認されておらず、駆除対象にも指定されていません。発見した場合は接触せず、位置を報告してください」
「撃たない?」
「こちらからは発砲しないでください。自衛が必要な場合は別ですが、少なくとも発見だけを理由に射撃する対象ではありません」
榊原が引き取った。
「灰褐色二頭と黒いのを混同するな。黒いほうは、こっちから撃つな」
福島でも、一度似たような言葉が飛んだことがある。
あのとき黒い個体は、結果として人間側へ牙を向けなかった。
「もっとも」
榊原は地図を見た。
「本当にこっちまで来てるなら、何しに来てるのかは俺も聞きたいけどな」
「温泉じゃないですか」
三枝が言った。
「東京まで温泉探しに来るなよ、本場はどっちかといえば東北だろ」
何人かが笑った。
◇
午後、御門優子も指揮所へ到着した。
彼女が呼ばれた理由は、ハンターたちとは違う。二頭をどう撃つかではなく、どう動く可能性があるかを検討し、長野と山梨で蓄積された行動記録を現場へ還元するためだった。
「御門先生」
「はい」
「こいつら、人を狙って東京まで来てる可能性は?」
三枝の質問に、御門は即座に首を振った。
「それを示す材料はありません。東京という場所を理解している証拠も、特定の目的地へ向かっている証拠もありません。人間からの圧力を避け、山地を利用して移動した結果として東へ進んでいる、と考えるのが現時点では妥当です」
「温泉恐竜みたいに、目的地があるわけじゃないと」
「温泉恐竜にも目的地があるとは確認されていません」
三枝が榊原を見る。
「絶対言うと思った」
「俺を見るな」
御門は構わず地図へ近づいた。
「ただし、人間に追われた経験は無視できません。銃器を理解しているという意味ではありませんが、人の集団、車両、ドローンの音、銃声などを危険と関連づけている可能性はあります。ですから、大人数で山へ入れば発見しやすくなる、とは限りません」
「追い立てるだけになるか」
「その可能性があります」
岳は少し離れたところから話を聞いていた。御門が気づく。
「岳さんですね」
「初めまして」
「映像は何度も見ています」
「……どっちのです?」
「大型人工肉食恐竜との格闘戦です」
「ああ、あれですか……」
岳の返事がわずかに重くなった。
「最後の接近前、相手の右後肢の踏み込みが一度浅くなっていますよね。あれはそれ以前の銃創によるものだと思うのですが、実際に正面から見たときの――」
「先生、今は二頭のほうを」
榊原が止め、御門が一秒だけ黙る。
「……そうでした」
岳は榊原を見る。
「この人、いつもこんな感じなんですか」
「恐竜が絡むとな」
「聞こえてます」
「聞こえるように言ってる」
それでも御門はすぐ仕事へ戻った。
「今回の二頭については、戦闘能力そのものより位置管理が重要です。一頭を発見した場合、そちらへ人員を集中させすぎないでください。高度な連携をしているという意味ではなく、結果としてもう一頭の監視が薄くなる可能性があります」
「一頭に釣られるな、ですね」
岳が言う。
「はい。それと、負傷後も行動の切り替えが弱い可能性があります。撃つなら確実に、という榊原さんの判断に賛成します」
「先生、もう一つだけ」
三枝が、地図の北のほうを指で叩いた。
「群馬で見つかった、未登録の大型。あれはどうなってます? 二頭を追ってる最中に、あんなのまで山から下りてきたら、正直、手が回りません」
指揮所の空気が、わずかに硬くなった。福島の赤い恐竜の件を、ここにいる誰もが覚えている。登録のない大型肉食恐竜が一頭、人の住む場所へ出てくるだけで、何が起きるのか。
御門は、手元の資料をめくった。
「足跡は、群馬北部の山中で途絶えています。最後に確認できた足跡は、北へ向かっていました。そこから先は、雪と岩場で追えていません」
「北か」
榊原が呟いた。
「はい。それ以降、目撃情報は一件も入っていません。現在は、陸上自衛隊の特殊部隊が、栃木と福島の県境方面へ捜索を続けています。こちらの二頭の対応に、そちらから人を割く必要はない、というのが本部の判断です」
「つまり」
岳が言った。
「東京にいる俺たちは、少なくともデカいほうは気にしなくていい」
「現時点で、東京方面へ向かっていることを示す材料はありません」
御門はそう答えてから、少しだけ言葉を足した。
「……見つかっていない、というだけですが」
「嫌な言い方するな」
「事実です」
榊原は鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。岳も地図へ視線を戻す。北の山は、自衛隊が見ている。なら、こっちは目の前の二頭に集中すればいい。指揮所に流れていた張り詰めた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
ただ御門だけは、しばらくのあいだ、地図の北の端から目を離さなかった。岳と榊原がほぼ同時に頷いた。
その直後、指揮所の無線に別件の報告が入った。
◇
「ドローン三号機、一時退避します。飛翔種が接近」
オペレーターが聞き返した。
「接触したのか?」
「接触はしてません。かなり近くまで寄られました。こちらが高度を落としたら追従してきたので、いったん戻します」
「種類は?」
「映像送ります」
大型モニターの一角に、揺れる空撮映像が表示された。
山の稜線。その上を横切る翼のある影が一つ。ドローンが旋回すると、影も進路を変えている。やがて映像が大きく揺れ、機体が高度を下げたところで記録は終わった。
「縄張り行動か?」
三枝が尋ねる。御門はすぐには答えなかった。
「この映像だけでは分かりません。ただ、最近、飛翔種が人や無人機へ通常より長く接近する事例がいくつか報告されています」
榊原が顔をしかめる。
「初耳なんだけど」
「まだ件数が少なく、同じ現象かどうかも確認されていません。今回の個体も、単に機体へ興味を示しただけかもしれません」
「また若い個体か?」
「それも確認中です」
「地上だけでも人が足りねえのに、今度は空まで見ろってのか」
榊原の声には、冗談にしきれない疲労が混じった。
長野では五頭の中型肉食恐竜。山梨では同じ群れの草食恐竜八頭のうち六頭に異常な行動が見られた。その対応だけでも警察、消防、行政、獣医師、ハンターを大量に動かしている。
空まで同じことが起こるなら、単純に人を増やせば済む話ではなくなる。
「今は二頭へ集中しましょう」
御門が言った。
「飛翔種の件は別に記録を集めます。少なくとも、この一件だけで異常行動と決めるべきではありません」
「分かってるよ」
榊原は額を掻いた。
「分かってるけど、頼むから一種類ずつ来てくれ」
「恐竜側に調整をお願いする窓口はありません、残念ながら」
「わぁってるよ、んなこたぁ。温泉恐竜がいい感じで通訳とかしてくれねぇかな」
岳が小さく笑った。それで話は終わった。
だが、ドローンへ近づいた翼の影についての記録は消されず、別件として保存された。
◇
日が落ちる前に、各班は配置へ入った。
岳が担当する東側は、山地と住宅地の境界に近い。ここまで来られる前に別班が止めるのが理想だが、理想どおりにならなかった場合のために岳たちがいる。
道路脇へ車を置き、そこから先は徒歩で地形を確認した。同行する若いハンターが、山の向こうを見ながら言った。
「岳さんがいるなら、ちょっと安心します」
「やめてくださいよ」
「嫌なんですか?」
「俺がいるから大丈夫、って考えられるのが一番困ります」
岳は斜面を見たまま答えた。
「俺だって見えなきゃ撃てないし、後ろに家があれば撃てない。五メートル先の藪から出てきたら普通に怖いですよ」
「でも、勝てますよね」
「その状況を作った時点で半分失敗です」
若いハンターは黙った。岳は少しだけ表情を緩める。
「百メートル先の開けた場所に出てくれて、こっちが先に見つけてて、後ろに何もない。それなら任せてください」
「そこまで揃えば俺でもいけそうですけど」
「そういう状況を作るのが仕事ですよ」
派手な答えではなかった。
だが若いハンターは、少しだけ肩の力を抜いた。
◇
午後八時十九分、新しい情報が入った。二頭分の足跡だった。
山梨県東部。前日に確認された地点より、さらに東。泥が乾ききっておらず、周囲には折れた枝と新しい糞も見つかった。指揮所の大型画面へ位置が表示される。
「新しいな」
榊原が言った。
「数時間以内だと思います」
現地からの報告が返る。岳も端末で同じ位置を確認した。予測範囲の中だったから、驚くことではない。それでも昨日より東京へ近い。
岳は地形図を拡大した。沢、尾根、林道、人家。どこを通るか断定する材料はない。断定しないまま、通りそうな場所を一つずつ潰すしかなかった。
しばらく地図を見てから、岳が言った。
「都内側、もう一段警戒度を上げたほうがいいですね」
「ああ」
榊原も同じ場所を見ていた。
追加の連絡が飛び、夜間の監視班が動き始める。警察側では住宅地に近い道路の封鎖候補が再確認され、ドローン班は翌朝の飛行区域を修正した。
岳は新しい痕跡の位置へ赤い印を置いた。
地図の東側には八王子がある。さらにその先には、数え切れないほどの家がある。
山が終われば、住宅地が始まる。そこへ入れる前に止める。
今回の仕事は、それだけだった。
◇
同じころ、八王子の家でも同じ地図を見ていた。
もちろん、警察やハンターが使う詳細なものではない。テレビ画面に表示された簡略な地図で、山梨県東部から東京都多摩西部にかけて黄色い警戒区域が広がり、その中に八王子市の名前があった。
「現在、八王子市西部を含む多摩地域では警戒が強化されています。住民の皆さんは自治体からの情報を確認し、危険な恐竜を目撃した場合は決して近づかず――」
「ずいぶん近くまで来たのね」
母が言った。
父はテレビを見たまま答えなかった。
妹はスマートフォンで自治体から届いた通知を確認していた。登山道の一部閉鎖、不要不急の山林への立ち入りを控えること、目撃時には屋内または車内へ退避すること。まだ住宅地全体に外出自粛が出ているわけではない。
母がテーブルの端に置いていた薬袋を手に取った。中身を数えるように、指先で袋の上から押さえている。
妹が気づいた。
「薬、あとどのくらい?」
「二十四日の分までは、あるわよ」
「ぎりぎりじゃん」
「いつもの薬局が、恐竜のせいで臨時休業でしょう。駅の向こうの薬局に頼んだら、入荷が二十四日の午後になるって」
父が、そこでテレビから目を離した。
「その薬局、どこだ」
母が答えた。妹はスマートフォンの地図を開き、テレビに表示されている警戒区域と見比べた。
「……こっち側だね。黄色いとこの、ぎりぎり外」
「二十四日は、俺が行く」
「お父さん、寒くなると膝が痛いって言ってたじゃん。歩くならともかくいざとなったら走れないでしょ」
妹は、スマートフォンを伏せた。
「私が行くよ。午後に入荷したら、すぐ取りに行って、まっすぐ帰ってくる。明るいうちに」
「でも」
「大丈夫。この前の配信でも言ってたもん。薬は我慢しちゃだめだって。明るいうちに、行き先言って、寄り道しないで帰ってこいって」
父は、しばらく黙っていた。
「……行く前に、薬局に電話しろ。警報が出てたら、やめろ」
「分かってる」
「ごめんね」
母が小さく言った。
「お母さんが自分で行ければいいんだけど」
「いいって。ついでにケーキ買ってくる。イブだし」
妹は笑った。母も、少しだけ笑った。母は薬袋を、テーブルの端へ戻した。それで話は終わるはずだった。テレビでは、配置につくハンターたちの映像へ切り替わっている。岳の名前が字幕に出て、その横には過去の戦闘映像が小さく流れた。
母はそれをしばらく見てから、不意に尋ねた。
「そういえば、黒い子は? 温泉に入ってた」
「ああ、温泉恐竜とちいかわ」
「最近、こっちのほうへ来てるんでしょう」
「たぶん。最後に出た映像も南のほうだったし」
父がテレビへ目を戻した。
「あの狂暴化しているらしい二頭とは別だって話だよな」
「変なことにならないといいけど」
母はそれ以上言わなかった。福島で母子の前に立った黒い身体。戦いが終わったあと、人間たちへ頭を下げた姿。何度も見た映像で、妹も何も言わず、スマートフォンを伏せた。
窓の外には、いつもと変わらない八王子の住宅街が広がっていた。まだサイレンも聞こえず、人が逃げているわけでもない。少し離れた道路を車が通り、向かいの家には明かりがついている。
人間たちは、その日、二頭の危険な恐竜を八王子へ入れないための準備を始めていた。
その八王子へ、青森からはるばる旅した恐竜が帰ろうとしていた。
第35章 首都防衛 了