温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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本編とは関係ない話。
とりあえずVIVANTを見よう。


断章14 存在しない部屋

 ヴィクトル・ハースは、ホテルのスイートの窓から、夜の港を見下ろしていた。

 

 南の海に面した、名前を言えば誰でも知っている港町だった。湾の向こうには、コンテナ船の灯りが、星座のように並んでいる。あのうちのいくつかには、税関の書類とはまるで違うものが積まれている。そのうちのいくつかは、ハース自身が手配したものだった。

 

 ハースは、自分のことを運送屋だと思っている。

 運ぶものは、相手が欲しがるものなら何でもよかった。絵画。象牙。設計図。人工交雑種の卵や幼体。生き物は手間がかかるが、そのぶん値が張る。とりわけ、ここ数年は恐竜がいい。世界中に、自分の庭に本物の肉食恐竜を飼いたがる金持ちがいる。檻の中で吠える牙を、客に見せびらかしたがる連中がいる。ハースは、そういう客たちの欲しいものを、欲しい場所まで、誰にも見られずに届けてきた。

 

 机の上のタブレットでは、同じ動画が、繰り返し再生されていた。

 夜の雪道の、自動販売機の前。黒い大型の肉食恐竜が、前肢の爪で、器用に小銭を投入口へ押し込んでいる。ボタンを押す。取り出し口に頭を突っ込み、赤い缶を咥えて、身を起こす。それから、周りを見回して、少し気まずそうに、闇の中へ歩き去っていく。

 

 世界中で、何億回と再生された映像だった。

 

「……言葉が分かるのか」

 

 ハースは、独り言のように言った。

 

 スイートの奥のソファで、秘書のレイが、別の端末から顔を上げた。

 

「分かる、と考えるのが妥当です。福島では人間の母子を守り、栃木では泥酔者を交番まで運び、交番の扉をノックしています。防犯カメラに向かって、頭を下げたという映像もあります」

 

「頭を下げた」

 

「お辞儀です。日本人の挨拶の」

 

 ハースは、笑った。

 恐竜を欲しがる客は、ここ数週間で、目に見えて増えていた。ボス・首領・オーナー・フィクサーと呼ばれる種類の人間たちだ。南米の、東欧の、中東の、名前を出せば国が一つ揺れるような連中が、揃って同じものを欲しがっている。

 

 人の言葉が分かる肉食恐竜。

 檻に入れて、見せびらかすためだけではない。あれを手元に置いておけば、どんな客人も黙る。言うことを聞く巨大な牙ほど、権力を分かりやすく見せるものはない。研究施設に売れば、その頭の中身にいくらでも値がつく。どちらに転んでも、金になる。

 

 提示された額は、ハースがこれまで扱ったどの荷よりも、ゼロが一つ多かった。

 客が増えた理由は、ハースにも分かっていた。

 ここ一年ほどで、世界中の恐竜が、おかしくなり始めていた。南米では、保護区の大型肉食恐竜が柵を破り、近くの町を三つ、地図から消した。東欧では、ある大物が屋敷の地下で飼っていた中型の肉食恐竜に、家族ごと食い殺された。アフリカの国境地帯では、密猟者のキャンプが、追っていたはずの獲物の群れに夜明け前に呑み込まれた。どこの国の軍も、どこの国のハンターも、火を消して回るだけで手一杯だった。

 

 治安が乱れれば、ハースのような人間には仕事が増える。普通なら、そうだった。けれど今回は、勝手が違った。混乱に乗じて動いた同業者たちが、次々に消えていった。警察に捕まったのではない。檻を開けた先で、運んでいた荷に、あるいは、通りすがりの何かに、襲われたのだ。恐竜は、相手が善人か悪人かなど、気にしない。

 

 だから、ボスたちは、あれを欲しがっている。

 どの恐竜も、怖れを忘れ、止まらなくなっていく世界で、一頭だけ、自分の意思で止まる恐竜がいる。人間の前で牙を収め、頭を下げる恐竜がいる。それがどれほどの値打ちを持つのか、裏の世界の人間ほど、よく分かっていた。

 

◇

 

「日本の状況を」

 

 ハースが言うと、レイは端末の画面を壁のモニターに映した。

 日本地図の上に、赤い印がいくつも散らばっていた。

 

「九州北部。三日前、中型肉食恐竜が一頭、地方都市の市街地に侵入しました。死者が出ています。現地のハンターと自衛隊が、まだ周辺の封鎖を解いていません」

 

 レイは、印を一つずつ指していく。

 

「四国沖。海竜による船舶被害が続いています。漁船が二隻、沈められました。海上保安庁と海上自衛隊が、海域の警戒に張りついています」

 

「石川県。小型草食恐竜の群れが、数百頭規模で市街地に流れ込みました。草食とはいえ、暴走した群れです。家屋の損壊、交通の麻痺。こちらにも、隣県のハンターまで駆り出されています」

 

 ハースは、地図を眺めた。

 日本という国は、こういうときに、意外なほど脆い。恐竜への対処は、地方のハンター組合と、自治体と、警察と、自衛隊の、つぎはぎの網で成り立っている。普段はそれで足りる。けれど、同じ週に三か所で網が破れれば、繕う手が足りなくなる。

 

「それから、長野で、誰かの荷がこぼれたそうです」

 

 レイが、少しだけ声の調子を落とした。

 

「違法施設からの輸送中に、数頭が逃げた。中型の肉食が二頭、まだ関東の西の山にいるらしい、という話です。県警とハンターが追っていますが、九州と石川に人を取られて、手が足りていない」

 

「うちの荷ではないな」

 

「はい。うちではありません」

 

 ハースは、鼻を鳴らした。下手な仕事をする同業者は、どこにでもいる。

 

「警察は」

 

「動きが鈍いです。上のほうから、何かしらの圧力がかかっているようで。恐竜関連の業界団体なのか、政治家なのか、そこまでは分かりません。ただ、現場の判断で動ける範囲が、ずいぶん狭められている」

 

「ハンターは西へ、自衛隊は海と北陸へ、警察は上を見ている」

 

 ハースは、壁の地図の、関東のあたりを指先で叩いた。

 

「今、この国の真ん中は、空っぽだ」

 

 関東の山の中で、中型の肉食恐竜が二頭うろついている。それすら、満足に追いかけられない国だ。そこを、一頭の黒い恐竜が、一人でふらふらと歩いている。

 

 これほど、拾いやすい荷はなかった。

 

◇

 

 ハースは、日本へ人を送った。

 

 腕のいい連中だった。南米の密林で、アフリカの保護区で、東南アジアの国境地帯で、生きたまま大型の獣を運び出してきた者たち。麻酔の扱いにも、追跡にも、人目を避けることにも慣れている。何人かは、軍にいた。人間を相手にした仕事のほうが、獣を相手にするより得意だという者もいた。

 

 侵入は三つの班に分けて行われた。それぞれ別々の経路で入国させ、観光客として、釣り客として、商談のための出張者として、日本の各地に散らせた。黒い恐竜の足取りは、ネットに流れる目撃情報で、おおよそ追える。那須で自販機。そこから南へ。今は、埼玉の西の山か、その先の山梨のあたりにいるらしい。

 

 足と宿は、日本の取引先に手配させた。北関東の金貸しで、以前から、荷の受け渡しを何度か任せてきた相手だった。金に困った人間を何人も抱えていて、運転手でも、宿の下働きでも、使い捨てにできる手駒をいくらでも出してくる。その手駒が日本の警察に捕まったところで、困るのはハースではない。

 

 千葉の沖には、船を一隻、用意させた。表向きは遠洋の漁船だった。船倉には、大型獣を眠らせたまま運ぶための設備が、ひそかに積み込まれている。黒い恐竜を山で眠らせ、トラックで運び、夜の海岸から小舟で沖の船へ移す。あとは、公海に出てしまえばいい。

 

「一週間」

 

 ハースは、レイに言った。

 

「一週間あれば、あれは私の船の中だ」

 

 レイは、頷いた。

 ハースは、自分の見立てを疑っていなかった。これまで、いつもそうだったように。

 

◇

 

 ハースの部下たちが日本の空港に降り立つ、十日ほど前のことだった。

 

 交番に転がり込んだその日のうちに、莉奈とプルゴリは逮捕されていた。

 結婚詐欺の未遂。出所の分からない荷物の運搬。荷台のケースから少女が見つかったことで、未成年者の略取に関わった疑いまでついた。取り調べで、二人は知っていることをすべて話した。話せることは、それしかなかった。少女は病院へ運ばれ、二人は別々に、冷たい部屋で夜を過ごすことになった。

 

 莉奈は、拘置所の薄い布団の上で、毎晩、同じことを考えていた。当然の報いだ、と。健一から奪おうとしたもの。半年間、嘘の顔で踏みにじり続けたもの。あの子を、知らずに箱ごと運んでいたこと。結局、誰からも一円も取れなかった。それでも、取ろうとしたことに変わりはない。少なくとも、ここにいれば、もう誰からも何も奪わずに済む。

 

 逮捕から十日が過ぎた朝、刑務官が独房の扉を開けた。

 

「出なさい。釈放だ」

 

 理由は、何も告げられなかった。取り上げられていた私物が、紙袋に入れて返された。泥だらけのまま押収されていたコートを羽織って通用門を出ると、別の出口から、同じように紙袋を提げたプルゴリが出てくるところだった。濃紺のスーツは、片方の袖が破れたままだった。

 

「……莉奈さん」

 

「……何なのよ、これ」

 

 二人が顔を見合わせていると、門の前に停まっていた灰色の乗用車の後部座席の扉が、内側から開いた。

 

「どうぞ。寒いでしょう」

 

 灰色の背広を着た人物が、座っていた。年齢は、四十にも六十にも見えた。顔立ちに特徴がなく、廊下ですれ違ったら、三歩も歩かないうちに忘れてしまいそうだった。名前は、名乗らなかった。

 

 車が走り出すと、その人物は膝の上のファイルを開いた。

 

「三浦健一さんに対する、結婚詐欺の未遂。出所の分からない荷物の運搬。未成年者の略取に関わる輸送」

 

 平坦な声だった。

 

「最後のは、知らなかったの」

 

「知らなかったことは、存じています。知らなかったからといって、あの子が箱に入っていた事実は変わりませんが」

 

 莉奈は、何も言えなかった。プルゴリも、珍しく口を閉じていた。

 その人物は、ファイルから一枚の写真を抜き出した。黒い樹脂製のケース。表面に印刷された、管理番号らしい数字の列。

 

「この番号の振り方は、日本のものではありません。ある組織が、国境を越えて荷を動かすときに使う書式です。人も、恐竜も、同じ書式で運ぶ。私たちは、その組織の手が、近いうちに日本へ入ってくると見ています」

 

「……私たち?」

 

「警察ではありません」

 

 それ以上の説明はなかった。

 

「お二人にお願いしたいことが、三つあります。今回はその一つ目です」

 

 その人物は、二人の顔を順に見た。

 

「三つとも済ませていただければ、今回の件はすべて、なかったことになります。逮捕の記録も、これまでの経歴も、きれいに洗います。前科もつきません。どこへ就職しても、誰と結婚しても、困ることはなくなります」

 

 莉奈は、耳を疑った。プルゴリは、口を半開きにしていた。

 

「……そんなこと、できるの」

 

「できます」

 

 あまりにも当たり前のように言われたので、かえって信じられなかった。

 

「一つ目は、あなた方の金主のところへ戻っていただくことです。荷を恐竜に食われて、命からがら逃げてきた運び屋として。取り調べで金主の名前は一度も出さず、証拠不十分で釈放された。……そういうことにしてあります」

 

「金主を捕まえるんじゃないの?」

 

「それは警察の仕事です。いずれ、ですが。私たちが知りたいのは一つだけです。その金主の電話に、海の向こうから、誰がかけてくるのか」

 

 沈黙が落ちた。最初にそれを破ったのは、プルゴリだった。

 

「……つまり、アンダーカバー・ミッションということですね!」

 

「そういう呼び方をしたことはありませんが、はい」

 

「断ったら、どうなるの」

 

「拘置所へお戻りいただきます。通常どおり、裁判を受けていただくことになります。実際の被害は出ていないので、そう重い刑罰にはならないでしょう。二人とも初犯ということもあり、執行猶予付きで実刑にならないかもしれない」

 

 莉奈とプルゴリはお互いの顔を見合わせた。ほんの少し希望が見えてきた。

 しかし、その人物は、少しだけ間を置いて冷や水を浴びせる。

 

「先にお伝えしておきます。お願いする仕事に、命の保証はありません。ただし、仕事を受けずに通常の手続きで世間に戻ったあなた方は、金主からの借金はそのままに、警察で何をしゃべったのか知りたい人はいくらでもいるでしょう。人生をかけた逃亡生活はそれなりに大変だと思いますよ」

 

 車内の空気が、冷たくなった。

 

「ミッションにアサインして、エージェントになれば……」

 

 プルゴリが訊いた。

 

「あなたたちの情報は我々が秘匿します。その間に金主とそれに連なる組織が壊滅すれば、日常に戻れるでしょう」

 

 プルゴリが、ごくりと喉を鳴らした。

 

「……ハイリスク、ハイリターン」

 

「リターンって、ゼロに戻るだけでしょうが!」

 

 莉奈は思わず怒鳴ってから、はっとして口を押さえた。向かいの人物は、表情一つ変えなかった。

 

 ゼロに戻るだけ。そう言ってから、莉奈は気づいた。ゼロに戻れるのだ、と。

 生まれてから一度も、そんな場所に立てたことはなかった。気がついたときには、もう誰かに借りがあった。借りを返すために別の誰かから借り、その穴を埋めるために、とうとう人を騙す側に回った。ゼロは、いつも、手の届かないところにあった。

 

 莉奈は、病院へ運ばれていった少女の顔を思い出した。毛布にくるまって、プルゴリの腕の中で眠っていた顔だった。親切そうな大人に声をかけられて、車に乗った、と言っていた。

 親切そうな大人。それは、自分たちが半年間、健一の前で演じ続けてきたものだった。

 

「……やるわよ」

 

 莉奈は、顔を上げずに言った。

 

「やればいいんでしょ。三回」

 

 その人物は頷き、背広の内ポケットから、古い型の折り畳み式の携帯電話を取り出して、莉奈の手に載せた。

 

「登録されている番号は、一つだけです。毎晩十時に、一言で構いませんので、連絡をください」

 

「連絡しなかったら?」

 

「そういうことになったのだと、理解します」

 

 助けに来る、とは言わなかった。淡々とした言葉の裏には、自分たちの価値が大したものではない、そう伝えているようだった。

 

◇

 

 金主の事務所は、前と同じ、窓のない部屋だった。

 

「警察で、何を喋った」

 

 金主は、最初にそれを訊いた。

 

「何も。荷物の中身なんて知らないって、それだけ。……知らなかったのは、本当だもの」

 

 金主はしばらく莉奈の顔を見ていたが、やがて顎で続きを促した。

 

 莉奈は、あの夜のことを、ほとんどそのまま話した。待ち合わせ場所に、相手の車が潰れていたこと。十メートルを超える恐竜が、その車を食っていたこと。軽トラックごと噛み上げられ、命からがら山を下りたこと。荷台のケースから少女が見つかったことも、隠さなかった。隠したところで、どうせニュースで知られる。

 

 話を聞きながら、金主は鼻で笑っていた。それから手下の一人が、ネットのニュースを見せた。栃木の山中で、大型肉食恐竜に襲われたとみられる四輪駆動車が見つかった。乗っていた人物の安否は分かっていない。

 

 金主は、笑うのをやめた。

 話を信じたからといって、許されたわけではなかった。荷は消え、取引相手は死に、その穴は誰かが埋めなければならない。

 

 プルゴリは、事務所の床で、三人がかりで殴られた。莉奈は壁際に立たされ、それを見ていることしかできなかった。プルゴリは一度も殴り返さなかった。両腕で頭を抱え、背中を丸め、殴られるたびに、太い身体が小さく揺れた。普段は笑いものにされてばかりの筋肉が、今は、ただ痛みを受け止めるためだけに使われていた。

 

 莉奈も、無事では済まなかった。

 金主は、莉奈の顎を掴んで顔を上げさせ、一度だけ平手で打った。それから、机の上の鋏を手に取ると、莉奈の髪を一房掴み、根元から切り落とした。半年間、健一の前で丁寧に巻いて、褒められるたびに少しだけ得意になっていた髪だった。床に落ちた髪の束を、金主は靴先で莉奈のほうへ蹴った。

 

「顔は残しといてやる。まだ使うからな」

 

 殴り終えた手下たちが息を切らしたころ、金主が言った。

 

「借金は、倍だ」

 

 それから、机の引き出しから紙を一枚出した。

 

「来週、外国の客が来る。運転手と、宿の世話をする人間が要る。英語ができるやつがいいと言われてる」

 

 床に転がっていたプルゴリが、腫れた顔を上げた。

 

「……お任せください。私は、ビジネス・イングリッシュの、エキスパートです……」

 

 莉奈は、絶望と諦めを脳裏に満たして、目を閉じた。

 

◇

 

 客は、四人、三人、三人の、三つの組に分かれてやってきた。

 

 プルゴリは、空港で借りたワゴン車のハンドルを握り、最初の四人を乗せて秩父へ向かった。莉奈は、その先の山あいの古い民宿へ、先回りして入っていた。金主の知り合いが持っている宿で、表向きは冬季休業中だった。莉奈の役目は、掃除と、食事の支度と、客の機嫌を取ることだった。

 

 民宿に着いた四人は、プルゴリの英語に、心底困惑していた。

 

「ウェルカム・トゥ・ジャパン! レッツ・エンジョイ・ディス・ワンダフル・ビッグ・ビジネス・トリップ!」

 

 四人は顔を見合わせた。そのうちの一人、首の太い、元軍人らしい人物が英語で何か訊いた。プルゴリは満面の笑みで答えた。

 

「イエス! ノープロブレム! アイ・アム・ア・フィジカル・ソリューション!」

 

 元軍人は、しばらくプルゴリの顔を見ていた。それから、肩を揺らして笑い出した。仲間に何か言い、残りの三人もつられて笑った。それきり、四人はプルゴリのことを気にしなくなった。図体ばかり大きい、気のいい馬鹿の運転手。そう判断されたのだと、莉奈には分かった。

 

 分かったから、莉奈は笑顔を作った。

 

 四人の部屋に布団を敷き、湯を沸かし、夕食を運んだ。言葉はほとんど通じなかったが、笑顔だけは通じた。困ったように首を傾げ、少しだけ寂しそうに目を伏せる。それだけで、相手の警戒は、ほんの少し緩む。半年間、健一の前で磨き続けてきた顔だった。こんなところで役に立つとは、思ってもいなかった。

 

 四人が風呂へ行っているあいだに、莉奈は部屋に入った。

 鞄の名札。床に置きっぱなしにされた地図。地図には、赤いペンで、いくつも丸が付けられていた。湯の湧く沢。林道の入口。その一つの横に、英語で何か書き込まれている。莉奈には読めなかった。読めないから、全部、携帯電話のカメラで撮った。

 

 廊下で、床板が鳴った。

 莉奈は、息を止めた。足音は、部屋の前で止まった。襖が開く。そこにいたのは、元軍人だった。風呂へは行かずに、戻ってきたのだ。

 

 手の中の携帯電話が、ひどく重く感じられた。

 元軍人は、莉奈を見下ろした。それから、部屋の中を見回し、床の地図へ視線を落とした。

 莉奈は、笑った。

 自分でも驚くほど、自然な笑顔だった。押し入れを指差し、布団を抱える仕草をしてみせる。それから、少し照れたように首をすくめ、ぺこりと頭を下げた。

 

 元軍人の目が、莉奈の顔と、押し入れと、地図とを、ゆっくりと行き来した。

 次の瞬間、太い手が、莉奈の手首を掴んだ。

 骨が軋むほどの力だった。携帯電話を握ったままの手が、ゆっくりと持ち上げられていく。元軍人は、もう笑っていなかった。低い声で、何かを訊いた。一度。それから、もう一度。莉奈には、言葉は分からなかった。ただ、三度目はない、ということだけは分かった。

 

 そのとき、民宿の裏手で、けたたましい音がした。

 

 何かが、勝手口の戸を突き破ったのだ。続いて、皿の割れる音。甲高い鳴き声。台所のほうから、小型の恐竜が一頭、廊下へ飛び出してきた。灰色の、膝ほどの高さしかない草食種だった。普段なら人の気配がするだけで逃げていくはずの小さな恐竜が、目を血走らせ、壁にぶつかりながら廊下を走り回っていた。

 

 元軍人は、反射的に莉奈の手首を放し、そちらへ向き直った。

 

 その隙に、莉奈は携帯電話をエプロンのポケットへ滑り込ませた。

 小さな恐竜は、廊下で向きを変えると、まっすぐ莉奈のほうへ突っ込んできた。避ける暇はなかった。ふくらはぎに、焼けるような痛みが走った。噛まれたのだと分かったのは、床に倒れてからだった。小さな恐竜は莉奈の脚を放すと、廊下の突き当たりで障子を一枚破り、来たときと同じ勢いで勝手口から外へ飛び出していった。元軍人は、しばらく勝手口のほうを見ていた。それから、肩をすくめて、莉奈に何か言った。たぶん、この国は大変だな、というようなことだった。

 

 莉奈は、床に座り込んだまま、また笑ってみせた。ストッキングが裂け、ふくらはぎから血が流れていた。

 

 それでも笑った。

 笑うのをやめたら、何かが終わってしまう気がした。

 手首には、指の形をした痣が、くっきりと残っていた。

 

 その夜の十時、莉奈は民宿の裏の、凍った物干し場の陰で、携帯電話を開いた。呼び出し音が一回鳴っただけで、相手が出た。

 

「……写真、送りました。地図と、名札。それから、残りの二組の行き先も分かりました。一組は山梨の、峠の道の駅で車中泊。もう一組は、東京のビジネスホテルで、荷物が届くのを待つって。そっちの荷物も、あさってプルゴリが届けることになってます」

 

『荷物というのは』

 

「明日、プルゴリが運びます。麻酔の道具と、大きな檻みたいなのと……それを、千葉の港の船まで」

 

『船の名前は分かりますか』

 

「明日、見てきます」

 

 短い沈黙があった。

 

『分かりました。今夜は、もう何もしないでください』

 

 電話は、それで切れた。よくやった、とは言われなかった。莉奈は、冷えきった指で携帯電話を閉じ、しばらくその場に座り込んでいた。

 

◇

 

 次の夜、プルゴリは千葉の小さな漁港にいた。

 

 ワゴン車の荷台には、金属製の大きな檻の部品と、鍵のかかったケースがいくつも積まれていた。岸壁には、遠洋漁船らしい船が一隻、灯りを落として停泊している。船員たちは、荷物を船へ運び込むよう、身振りでプルゴリに命じた。手伝う者はいなかった。

 

 莉奈は、助手席で待っていろと言われていた。待っているふりをしながら、窓の隙間から携帯電話を出し、船体に書かれた名前と、開いた船倉の中を撮った。船倉の中には、漁船には似合わない設備が並んでいた。太い鎖。大型の獣を固定するための台。点滴の袋を吊るすための金具。

 

 助手席の窓を、誰かが叩いた。

 

 船員の一人だった。莉奈の手の中の携帯電話を見ていた。何か言いながら、ドアを開けようとする。莉奈は、とっさに携帯電話を胸の前で構え、自撮りをするように、背後の夜の海へ向けた。

 

「……う、海、きれいだったから」

 

 船員の顔は、まったく緩まなかった。ドアが開き、太い腕が伸びてくる。

 その瞬間、岸壁のほうで、派手な水音がした。

 船員が振り返った。莉奈も見た。岸壁の端に、檻の部品が一つ転がっていて、プルゴリの姿がなかった。

 

 凍った岸壁で、足を滑らせたのだ。

 

 十二月の夜の海だった。船員たちが慌てて岸壁へ駆け寄り、誰かが投げたロープの先で、真っ黒な水面から、プルゴリの腕が突き出した。莉奈は助手席から転がり出て、岸壁へ走った。携帯電話は、もうポケットの奥に押し込んでいた。誰も、それを気にしなかった。

 

 引き上げられたプルゴリは、ずぶ濡れで、唇が紫色になっていた。歯の根が合わず、全身が痙攣するように震えている。それでも、船員たちに向かって、真っ白な歯を見せた。

 

「ア……アイム……ファイン……」

 

 どう見ても、ファインではなかった。落ちるときに船の舷側で打ったのか、額が割れ、濡れた髪の間から血が筋になって流れていた。

 

 船員たちは呆れたように首を振り、もう荷物はいいから帰れ、と身振りで示した。残りの荷物は、自分たちで運び込むらしかった。

 帰りのワゴン車は、莉奈が運転した。噛まれた脚でアクセルを踏むたびに、ふくらはぎが脈打つように痛んだ。プルゴリは助手席で、宿から持ってきた毛布を二枚重ねてくるまり、暖房の吹き出し口に顔を押しつけていた。病院へは行けなかった。行けば記録が残る。記録が残れば、金主に知られる。

 

「……あんた、わざと落ちたの?」

 

 莉奈が訊くと、プルゴリは震えながら首を振った。

 

「……いいえ。……純粋な、スリップです」

 

「……そう」

 

 莉奈は、ハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。笑ったら、なぜか涙が出てきた。

 

「……あんたって、本当に、運だけはいいわよね」

 

「……ラッキー・ガイ、ですから」

 

 その夜の十時、莉奈は高速道路のサービスエリアの駐車場で、携帯電話を開いた。船の名前と、船倉の写真を送った。

 

『十分です』

 

 電話の向こうの声は、いつもと同じだった。

 

『今夜は、民宿へ戻らないでください。理由は訊かないでください』

 

「……分かった」

 

『それから、明後日の朝、あなた方の金主の事務所に、警察が入ります。それは私たちの仕事ではありませんが、匿名の通報くらいはします』

 

 莉奈は、助手席を見た。プルゴリは、毛布にくるまったまま、いつの間にか眠っていた。いびきの合間に、小さくくしゃみをした。

 

「……ねえ」

 

『はい』

 

「あの子、元気?」

 

 電話の向こうで、ほんのわずかな間があった。

 

『先週、ご家族のもとへ帰りました』

 

 それだけ言って、電話は切れた。

 

 莉奈は、携帯電話を閉じて、しばらくハンドルに額を押しつけていた。

 

「……懲り懲りだって、言ったのに」

 

 隣で、プルゴリがもう一度くしゃみをした。寝言のように、何か呟いた。

 

「……ミッション……コンプリート……」

 

「鼻水垂れてるわよ」

 

 莉奈はプルゴリの鼻をティッシュで拭きながら、エンジンをかけた。夜明けまでには、まだずいぶん時間があった。

 

◇

 

 最初の班からの定時連絡が途絶えたのは、入国から三日目の夜だった。

 秩父の山あいの、古い民宿を拠点にしていた班だった。四人。全員が、ハースの下で十年以上働いてきた者たちだった。

 前の晩の連絡では、黒い恐竜の痕跡を見つけたと言っていた。山の中の、湯の湧く沢の近くに、大きな足跡が残っていた。明日の朝から、本格的に追う。声は、自信に満ちていた。

 

 それきりだった。

 翌朝の定時連絡は、来なかった。昼の連絡も、来なかった。こちらからの呼び出しには、誰も応えなかった。

 

「事故か」

 

「四人同時に、ですか」

 

 レイの声は、硬かった。

 夜になって、二つ目の班からの連絡が途絶えた。山梨の、峠の道の駅に車を停めて、仮眠を取っていた三人だった。最後の通信は、ひどく短かった。

 

『……車の外に、誰か――』

 

 そこで、切れた。

 三つ目の班は、まだ動いていなかった。東京の郊外のビジネスホテルで、装備の到着を待っていた。ハースは、すぐに撤収を命じた。三人は、それぞれ別々にホテルを出た。

 

 空港に、たどり着いた者はいなかった。

 ハースは、北関東の取引先に電話をかけさせた。

 つながらなかった。翌日も、その翌日も同じだった。やがて、日本のニュースサイトの片隅に、小さな記事が載った。栃木県内の金融業者の事務所に、警察の家宅捜索が入った。違法な貸付と、未成年者の略取に関わった疑い。

 

 運転手と、宿の女の名前は、どこにも載っていなかった。

 

◇

 

 金主の事務所に家宅捜索が入ってから、一週間が過ぎた。

 金主は逮捕され、手下たちも芋づる式に捕まった。民宿の持ち主も、港の船員を手配した業者も、同じ記事の中に名前が並んでいた。莉奈とプルゴリの名前は、やはり、どこにもなかった。

 

 その日の夕方、番号が一つだけ登録された携帯電話が、初めて向こうから鳴った。

 

『一つ目は、完了です』

 

 灰色の背広の人物の声だった。莉奈は、借りたばかりの古いアパートの台所で、受話器を握ったまま立ち尽くした。噛まれた脚には、まだ包帯が巻いてある。手首の痣は、黄色く色を変え始めていた。不揃いに切られた髪は、近所の美容院で短く整えてもらった。

 

『残りは二つです。次にお願いするときは、この番号から連絡します』

 

「……いつ?」

 

『分かりません。明日かもしれませんし、一年後かもしれません』

 

「……そのときも、命の保証はないのね」

 

『ありません』

 

 あまりにもはっきりと言われたので、莉奈は、かえって少し笑ってしまった。

 

『それまでのあいだ、勤め先はこちらで用意しました。来週から、普通に働いてください。普通に』

 

 莉奈は、思わず受話器を握り直した。交番の前のベンチで、自分がプルゴリに言った言葉だった。普通に働くのよ。普通に。

 

「……ねえ」

 

『はい』

 

「三つ終わったら、本当に、全部なくなるの」

 

『なくなります』

 

 少しだけ間があった。

 

『少なくとも、書類の上では。……その先のことは、あなた方次第です』

 

 電話は、それで切れた。

 莉奈は、しばらく台所に立っていた。窓の外では、冬の日が、向かいの家の屋根の向こうへ沈もうとしていた。どこかの家から、夕飯の匂いが流れてきた。普通の夕方の、普通の匂いだった。

 

 莉奈は、もう一度携帯電話を開き、今度は自分のスマートフォンで、別の番号を押した。三回目の呼び出しで、相手が出た。

 

『……莉奈さん?』

 

 鼻声だった。港で海に落ちてから、まだ風邪が抜けていないのだ。

 

「一つ目、終わったって」

 

 電話の向こうで、プルゴリが息を呑んだ。

 

『……本当ですか』

 

「本当。あと、二つ。それで解放されるわ」

 

『あと、二つ……』

 

 プルゴリは、その数を噛みしめるように繰り返した。

 

「次も、命の保証はないって」

 

『……はい』

 

「また、殴られるかもしれないし、噛まれるかもしれないし、海に落ちるかもしれないのよ」

 

『……はい』

 

「それでも、やるの」

 

 電話の向こうで、プルゴリが小さく鼻をすすった。それから、いつもの調子で、けれど、いつもより少しだけ静かな声で言った。

 

『やりましょう、莉奈さん。あと二回で、我々のキャリアは、まっさらです』

 

「……まっさら」

 

『はい。クリーン・スレート。一から、いえ、ゼロからの、リスタートです』

 

 ゼロから。莉奈は、その言葉を、口の中で転がしてみた。

 

『それに、我々には実績があります』

 

「何の」

 

『悪運の、トラック・レコードです』

 

 莉奈は、台所の床にしゃがみ込んで、膝に額を押しつけた。笑ったのか泣いたのか、自分でもよく分からなかった。

 

「……ほんと、懲り懲りよ」

 

『……ノーモア、ですね』

 

「ノーモアじゃないのよ。あと二回は、モアなのよ」

 

『では、あと二回だけ、モアということで』

 

「……うん」

 

 莉奈は、顔を上げた。窓の外は、もう暗くなり始めていた。

 

 書類の上の名前は消えても、健一の半年は戻らない。健一が自分に向けてくれた笑顔も、結婚の話をしたときの照れた声も、全部、嘘の上に積ませてしまったものだった。一円も取れなかったからといって、何も奪わなかったことにはならない。ゼロに戻るというのは、たぶん、そういうものを全部抱えたまま、ゼロの場所に立つということなのだろう。

 

「……あと二回だけね」

 

 電話の向こうで、プルゴリが、くしゃみを一つした。

 

◇

 

 ハースは、スイートの窓の前に立っていた。

 夜の港は、いつもと同じように、灯りを並べていた。けれど、ハースの目には、それがもう、星座には見えなかった。

 

「……別室、という言葉を聞いたことがあるか」

 

 ハースは、背中を向けたまま言った。

 レイは、少し間を置いて答えた。

 

「噂だけは。日本には、公式には存在しない部署がある、と。名前もない。予算の項目もない。ただ、そう呼ばれている」

 

「通常の犯罪者や恐竜の相手はしない」

 

「はい。表に出られない組織ですから。恐竜が街を壊していても、彼らは出てこない。それは、ハンターと自衛隊の仕事です」

 

 レイは、言葉を切った。

 

「彼らが出てくるのは、国外から、悪意を持った人間が入ってきたときだけです」

 

 レイは、少し考えてから付け加えた。

 

「逆に言えば、それ以外のことはしません。国内の違法な飼育施設も、恐竜の密売の元締めも、彼らの仕事ではない。それは警察の領分で、名前のない部屋が表の捜査に顔を出すことはありません。……彼らが止めるのは、国境の外から入ってきた手だけです」

 

 ハースは、目を閉じた。別室、忍者とも揶揄される人員は本当にいたのか。

 日本は、真ん中が空っぽだと思っていた。ハンターは西へ、自衛隊は海と北陸へ、警察は上を見ている。この国の網は、恐竜のせいで、どこもかしこも破れている。だから、そこから手を突っ込めば、何でも拾えると思っていた。

 

 違ったのだ。

 恐竜に向けた網と、人間に向けた網は、別のものだった。恐竜に向けた網がどれだけ破れていても、もう一枚の網は、最初から、一目も欠けずに張られていた。誰にも見えないところで。誰の目にも触れないまま。

 

 そして、ハースの送り込んだ十人は、その網に、音もなくかかったのだ。かかったまま、二度と浮かんでこなかった。

 スイートの電話が鳴った。千葉の沖の、船からだった。船長の声は、震えていた。

 

『船の周りに、明かりが三つ。ずっと前から、こっちを見ている。漁船じゃない。……どうする』

 

 ハースは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。

 

「戻れ。何も積まずに、そのまま帰ってこい」

 

 電話を切った。レイが、静かに尋ねた。

 

「客には、何と」

 

「荷は、手に入らなかった、と」

 

 ハースは、タブレットを手に取った。画面の中で、黒い恐竜が、まだ、自販機の前で赤い缶を咥えていた。それから、少し気まずそうに、闇の中へ歩き去っていく。

 あの恐竜は、何も知らないのだろう、とハースは思った。

 

 自分を檻に入れて売り飛ばそうとした人間たちがいたことも。その人間たちが、自分の足跡のすぐそばまで迫っていたことも。そして、名前も顔もない誰かが、その全員を、雪の夜の中で、音もなく片づけていったことも。

 

 あの恐竜は、きっと今夜も、どこかの山の中で、自分の家のほうを向いて眠っている。

 

「……運のいい荷だ」

 

 ハースは、タブレットの画面を消した。

 

 窓の外で、一隻のコンテナ船が、ゆっくりと港を出ていった。その船には、何も積まれていなかった。

 

◇

 

 同じ夜。

 東京の、どこかの古いビルの、どこかの部屋だった。

 窓のないその部屋の机の上に、一枚の報告書が置かれていた。表紙には、何も書かれていなかった。中には、十人分の名前と、入国の経路と、拘束の日時と場所が、淡々と並んでいた。最後のほうには、こう書いてあった。

 

 拘束者十名、全員を当室にて収容中。送還の予定なし。

 対象恐竜への接触、なし。

 その下に、一行だけ、付け足すように書かれていた。

 協力者二名、生存。依頼残、二件。

 

 報告書を読み終えた人物は、協力者の欄の横に、鉛筆で小さく書き込んだ。悪運、強し。それから報告書を閉じて机の引き出しにしまい、壁の地図を見上げた。

 九州。四国沖。石川。そして、関東の西の山。赤い印が、いくつも散らばっていた。そのどれにも、この部屋の人間は、手を出すことができない。それは、別の誰かの仕事だった。

 

 地図の、山梨と東京の境のあたりに、小さな印が一つだけあった。黒いピンだった。

 

「……がんばれよ」

 

 その人物は、誰にも聞こえない声で言った。それから、部屋の明かりを消した。

 

 部屋の扉には、表札がなかった。

 

断章14 存在しない部屋 了

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