とりあえずVIVANTを見よう。
ヴィクトル・ハースは、ホテルのスイートの窓から、夜の港を見下ろしていた。
南の海に面した、名前を言えば誰でも知っている港町だった。湾の向こうには、コンテナ船の灯りが、星座のように並んでいる。あのうちのいくつかには、税関の書類とはまるで違うものが積まれている。そのうちのいくつかは、ハース自身が手配したものだった。
ハースは、自分のことを運送屋だと思っている。
運ぶものは、相手が欲しがるものなら何でもよかった。絵画。象牙。設計図。人工交雑種の卵や幼体。生き物は手間がかかるが、そのぶん値が張る。とりわけ、ここ数年は恐竜がいい。世界中に、自分の庭に本物の肉食恐竜を飼いたがる金持ちがいる。檻の中で吠える牙を、客に見せびらかしたがる連中がいる。ハースは、そういう客たちの欲しいものを、欲しい場所まで、誰にも見られずに届けてきた。
机の上のタブレットでは、同じ動画が、繰り返し再生されていた。
夜の雪道の、自動販売機の前。黒い大型の肉食恐竜が、前肢の爪で、器用に小銭を投入口へ押し込んでいる。ボタンを押す。取り出し口に頭を突っ込み、赤い缶を咥えて、身を起こす。それから、周りを見回して、少し気まずそうに、闇の中へ歩き去っていく。
世界中で、何億回と再生された映像だった。
「……言葉が分かるのか」
ハースは、独り言のように言った。
スイートの奥のソファで、秘書のレイが、別の端末から顔を上げた。
「分かる、と考えるのが妥当です。福島では人間の母子を守り、栃木では泥酔者を交番まで運び、交番の扉をノックしています。防犯カメラに向かって、頭を下げたという映像もあります」
「頭を下げた」
「お辞儀です。日本人の挨拶の」
ハースは、笑った。
恐竜を欲しがる客は、ここ数週間で、目に見えて増えていた。ボス・首領・オーナー・フィクサーと呼ばれる種類の人間たちだ。南米の、東欧の、中東の、名前を出せば国が一つ揺れるような連中が、揃って同じものを欲しがっている。
人の言葉が分かる肉食恐竜。
檻に入れて、見せびらかすためだけではない。あれを手元に置いておけば、どんな客人も黙る。言うことを聞く巨大な牙ほど、権力を分かりやすく見せるものはない。研究施設に売れば、その頭の中身にいくらでも値がつく。どちらに転んでも、金になる。
提示された額は、ハースがこれまで扱ったどの荷よりも、ゼロが一つ多かった。
客が増えた理由は、ハースにも分かっていた。
ここ一年ほどで、世界中の恐竜が、おかしくなり始めていた。南米では、保護区の大型肉食恐竜が柵を破り、近くの町を三つ、地図から消した。東欧では、ある大物が屋敷の地下で飼っていた中型の肉食恐竜に、家族ごと食い殺された。アフリカの国境地帯では、密猟者のキャンプが、追っていたはずの獲物の群れに夜明け前に呑み込まれた。どこの国の軍も、どこの国のハンターも、火を消して回るだけで手一杯だった。
治安が乱れれば、ハースのような人間には仕事が増える。普通なら、そうだった。けれど今回は、勝手が違った。混乱に乗じて動いた同業者たちが、次々に消えていった。警察に捕まったのではない。檻を開けた先で、運んでいた荷に、あるいは、通りすがりの何かに、襲われたのだ。恐竜は、相手が善人か悪人かなど、気にしない。
だから、ボスたちは、あれを欲しがっている。
どの恐竜も、怖れを忘れ、止まらなくなっていく世界で、一頭だけ、自分の意思で止まる恐竜がいる。人間の前で牙を収め、頭を下げる恐竜がいる。それがどれほどの値打ちを持つのか、裏の世界の人間ほど、よく分かっていた。
◇
「日本の状況を」
ハースが言うと、レイは端末の画面を壁のモニターに映した。
日本地図の上に、赤い印がいくつも散らばっていた。
「九州北部。三日前、中型肉食恐竜が一頭、地方都市の市街地に侵入しました。死者が出ています。現地のハンターと自衛隊が、まだ周辺の封鎖を解いていません」
レイは、印を一つずつ指していく。
「四国沖。海竜による船舶被害が続いています。漁船が二隻、沈められました。海上保安庁と海上自衛隊が、海域の警戒に張りついています」
「石川県。小型草食恐竜の群れが、数百頭規模で市街地に流れ込みました。草食とはいえ、暴走した群れです。家屋の損壊、交通の麻痺。こちらにも、隣県のハンターまで駆り出されています」
ハースは、地図を眺めた。
日本という国は、こういうときに、意外なほど脆い。恐竜への対処は、地方のハンター組合と、自治体と、警察と、自衛隊の、つぎはぎの網で成り立っている。普段はそれで足りる。けれど、同じ週に三か所で網が破れれば、繕う手が足りなくなる。
「それから、長野で、誰かの荷がこぼれたそうです」
レイが、少しだけ声の調子を落とした。
「違法施設からの輸送中に、数頭が逃げた。中型の肉食が二頭、まだ関東の西の山にいるらしい、という話です。県警とハンターが追っていますが、九州と石川に人を取られて、手が足りていない」
「うちの荷ではないな」
「はい。うちではありません」
ハースは、鼻を鳴らした。下手な仕事をする同業者は、どこにでもいる。
「警察は」
「動きが鈍いです。上のほうから、何かしらの圧力がかかっているようで。恐竜関連の業界団体なのか、政治家なのか、そこまでは分かりません。ただ、現場の判断で動ける範囲が、ずいぶん狭められている」
「ハンターは西へ、自衛隊は海と北陸へ、警察は上を見ている」
ハースは、壁の地図の、関東のあたりを指先で叩いた。
「今、この国の真ん中は、空っぽだ」
関東の山の中で、中型の肉食恐竜が二頭うろついている。それすら、満足に追いかけられない国だ。そこを、一頭の黒い恐竜が、一人でふらふらと歩いている。
これほど、拾いやすい荷はなかった。
◇
ハースは、日本へ人を送った。
腕のいい連中だった。南米の密林で、アフリカの保護区で、東南アジアの国境地帯で、生きたまま大型の獣を運び出してきた者たち。麻酔の扱いにも、追跡にも、人目を避けることにも慣れている。何人かは、軍にいた。人間を相手にした仕事のほうが、獣を相手にするより得意だという者もいた。
侵入は三つの班に分けて行われた。それぞれ別々の経路で入国させ、観光客として、釣り客として、商談のための出張者として、日本の各地に散らせた。黒い恐竜の足取りは、ネットに流れる目撃情報で、おおよそ追える。那須で自販機。そこから南へ。今は、埼玉の西の山か、その先の山梨のあたりにいるらしい。
足と宿は、日本の取引先に手配させた。北関東の金貸しで、以前から、荷の受け渡しを何度か任せてきた相手だった。金に困った人間を何人も抱えていて、運転手でも、宿の下働きでも、使い捨てにできる手駒をいくらでも出してくる。その手駒が日本の警察に捕まったところで、困るのはハースではない。
千葉の沖には、船を一隻、用意させた。表向きは遠洋の漁船だった。船倉には、大型獣を眠らせたまま運ぶための設備が、ひそかに積み込まれている。黒い恐竜を山で眠らせ、トラックで運び、夜の海岸から小舟で沖の船へ移す。あとは、公海に出てしまえばいい。
「一週間」
ハースは、レイに言った。
「一週間あれば、あれは私の船の中だ」
レイは、頷いた。
ハースは、自分の見立てを疑っていなかった。これまで、いつもそうだったように。
◇
ハースの部下たちが日本の空港に降り立つ、十日ほど前のことだった。
交番に転がり込んだその日のうちに、莉奈とプルゴリは逮捕されていた。
結婚詐欺の未遂。出所の分からない荷物の運搬。荷台のケースから少女が見つかったことで、未成年者の略取に関わった疑いまでついた。取り調べで、二人は知っていることをすべて話した。話せることは、それしかなかった。少女は病院へ運ばれ、二人は別々に、冷たい部屋で夜を過ごすことになった。
莉奈は、拘置所の薄い布団の上で、毎晩、同じことを考えていた。当然の報いだ、と。健一から奪おうとしたもの。半年間、嘘の顔で踏みにじり続けたもの。あの子を、知らずに箱ごと運んでいたこと。結局、誰からも一円も取れなかった。それでも、取ろうとしたことに変わりはない。少なくとも、ここにいれば、もう誰からも何も奪わずに済む。
逮捕から十日が過ぎた朝、刑務官が独房の扉を開けた。
「出なさい。釈放だ」
理由は、何も告げられなかった。取り上げられていた私物が、紙袋に入れて返された。泥だらけのまま押収されていたコートを羽織って通用門を出ると、別の出口から、同じように紙袋を提げたプルゴリが出てくるところだった。濃紺のスーツは、片方の袖が破れたままだった。
「……莉奈さん」
「……何なのよ、これ」
二人が顔を見合わせていると、門の前に停まっていた灰色の乗用車の後部座席の扉が、内側から開いた。
「どうぞ。寒いでしょう」
灰色の背広を着た人物が、座っていた。年齢は、四十にも六十にも見えた。顔立ちに特徴がなく、廊下ですれ違ったら、三歩も歩かないうちに忘れてしまいそうだった。名前は、名乗らなかった。
車が走り出すと、その人物は膝の上のファイルを開いた。
「三浦健一さんに対する、結婚詐欺の未遂。出所の分からない荷物の運搬。未成年者の略取に関わる輸送」
平坦な声だった。
「最後のは、知らなかったの」
「知らなかったことは、存じています。知らなかったからといって、あの子が箱に入っていた事実は変わりませんが」
莉奈は、何も言えなかった。プルゴリも、珍しく口を閉じていた。
その人物は、ファイルから一枚の写真を抜き出した。黒い樹脂製のケース。表面に印刷された、管理番号らしい数字の列。
「この番号の振り方は、日本のものではありません。ある組織が、国境を越えて荷を動かすときに使う書式です。人も、恐竜も、同じ書式で運ぶ。私たちは、その組織の手が、近いうちに日本へ入ってくると見ています」
「……私たち?」
「警察ではありません」
それ以上の説明はなかった。
「お二人にお願いしたいことが、三つあります。今回はその一つ目です」
その人物は、二人の顔を順に見た。
「三つとも済ませていただければ、今回の件はすべて、なかったことになります。逮捕の記録も、これまでの経歴も、きれいに洗います。前科もつきません。どこへ就職しても、誰と結婚しても、困ることはなくなります」
莉奈は、耳を疑った。プルゴリは、口を半開きにしていた。
「……そんなこと、できるの」
「できます」
あまりにも当たり前のように言われたので、かえって信じられなかった。
「一つ目は、あなた方の金主のところへ戻っていただくことです。荷を恐竜に食われて、命からがら逃げてきた運び屋として。取り調べで金主の名前は一度も出さず、証拠不十分で釈放された。……そういうことにしてあります」
「金主を捕まえるんじゃないの?」
「それは警察の仕事です。いずれ、ですが。私たちが知りたいのは一つだけです。その金主の電話に、海の向こうから、誰がかけてくるのか」
沈黙が落ちた。最初にそれを破ったのは、プルゴリだった。
「……つまり、アンダーカバー・ミッションということですね!」
「そういう呼び方をしたことはありませんが、はい」
「断ったら、どうなるの」
「拘置所へお戻りいただきます。通常どおり、裁判を受けていただくことになります。実際の被害は出ていないので、そう重い刑罰にはならないでしょう。二人とも初犯ということもあり、執行猶予付きで実刑にならないかもしれない」
莉奈とプルゴリはお互いの顔を見合わせた。ほんの少し希望が見えてきた。
しかし、その人物は、少しだけ間を置いて冷や水を浴びせる。
「先にお伝えしておきます。お願いする仕事に、命の保証はありません。ただし、仕事を受けずに通常の手続きで世間に戻ったあなた方は、金主からの借金はそのままに、警察で何をしゃべったのか知りたい人はいくらでもいるでしょう。人生をかけた逃亡生活はそれなりに大変だと思いますよ」
車内の空気が、冷たくなった。
「ミッションにアサインして、エージェントになれば……」
プルゴリが訊いた。
「あなたたちの情報は我々が秘匿します。その間に金主とそれに連なる組織が壊滅すれば、日常に戻れるでしょう」
プルゴリが、ごくりと喉を鳴らした。
「……ハイリスク、ハイリターン」
「リターンって、ゼロに戻るだけでしょうが!」
莉奈は思わず怒鳴ってから、はっとして口を押さえた。向かいの人物は、表情一つ変えなかった。
ゼロに戻るだけ。そう言ってから、莉奈は気づいた。ゼロに戻れるのだ、と。
生まれてから一度も、そんな場所に立てたことはなかった。気がついたときには、もう誰かに借りがあった。借りを返すために別の誰かから借り、その穴を埋めるために、とうとう人を騙す側に回った。ゼロは、いつも、手の届かないところにあった。
莉奈は、病院へ運ばれていった少女の顔を思い出した。毛布にくるまって、プルゴリの腕の中で眠っていた顔だった。親切そうな大人に声をかけられて、車に乗った、と言っていた。
親切そうな大人。それは、自分たちが半年間、健一の前で演じ続けてきたものだった。
「……やるわよ」
莉奈は、顔を上げずに言った。
「やればいいんでしょ。三回」
その人物は頷き、背広の内ポケットから、古い型の折り畳み式の携帯電話を取り出して、莉奈の手に載せた。
「登録されている番号は、一つだけです。毎晩十時に、一言で構いませんので、連絡をください」
「連絡しなかったら?」
「そういうことになったのだと、理解します」
助けに来る、とは言わなかった。淡々とした言葉の裏には、自分たちの価値が大したものではない、そう伝えているようだった。
◇
金主の事務所は、前と同じ、窓のない部屋だった。
「警察で、何を喋った」
金主は、最初にそれを訊いた。
「何も。荷物の中身なんて知らないって、それだけ。……知らなかったのは、本当だもの」
金主はしばらく莉奈の顔を見ていたが、やがて顎で続きを促した。
莉奈は、あの夜のことを、ほとんどそのまま話した。待ち合わせ場所に、相手の車が潰れていたこと。十メートルを超える恐竜が、その車を食っていたこと。軽トラックごと噛み上げられ、命からがら山を下りたこと。荷台のケースから少女が見つかったことも、隠さなかった。隠したところで、どうせニュースで知られる。
話を聞きながら、金主は鼻で笑っていた。それから手下の一人が、ネットのニュースを見せた。栃木の山中で、大型肉食恐竜に襲われたとみられる四輪駆動車が見つかった。乗っていた人物の安否は分かっていない。
金主は、笑うのをやめた。
話を信じたからといって、許されたわけではなかった。荷は消え、取引相手は死に、その穴は誰かが埋めなければならない。
プルゴリは、事務所の床で、三人がかりで殴られた。莉奈は壁際に立たされ、それを見ていることしかできなかった。プルゴリは一度も殴り返さなかった。両腕で頭を抱え、背中を丸め、殴られるたびに、太い身体が小さく揺れた。普段は笑いものにされてばかりの筋肉が、今は、ただ痛みを受け止めるためだけに使われていた。
莉奈も、無事では済まなかった。
金主は、莉奈の顎を掴んで顔を上げさせ、一度だけ平手で打った。それから、机の上の鋏を手に取ると、莉奈の髪を一房掴み、根元から切り落とした。半年間、健一の前で丁寧に巻いて、褒められるたびに少しだけ得意になっていた髪だった。床に落ちた髪の束を、金主は靴先で莉奈のほうへ蹴った。
「顔は残しといてやる。まだ使うからな」
殴り終えた手下たちが息を切らしたころ、金主が言った。
「借金は、倍だ」
それから、机の引き出しから紙を一枚出した。
「来週、外国の客が来る。運転手と、宿の世話をする人間が要る。英語ができるやつがいいと言われてる」
床に転がっていたプルゴリが、腫れた顔を上げた。
「……お任せください。私は、ビジネス・イングリッシュの、エキスパートです……」
莉奈は、絶望と諦めを脳裏に満たして、目を閉じた。
◇
客は、四人、三人、三人の、三つの組に分かれてやってきた。
プルゴリは、空港で借りたワゴン車のハンドルを握り、最初の四人を乗せて秩父へ向かった。莉奈は、その先の山あいの古い民宿へ、先回りして入っていた。金主の知り合いが持っている宿で、表向きは冬季休業中だった。莉奈の役目は、掃除と、食事の支度と、客の機嫌を取ることだった。
民宿に着いた四人は、プルゴリの英語に、心底困惑していた。
「ウェルカム・トゥ・ジャパン! レッツ・エンジョイ・ディス・ワンダフル・ビッグ・ビジネス・トリップ!」
四人は顔を見合わせた。そのうちの一人、首の太い、元軍人らしい人物が英語で何か訊いた。プルゴリは満面の笑みで答えた。
「イエス! ノープロブレム! アイ・アム・ア・フィジカル・ソリューション!」
元軍人は、しばらくプルゴリの顔を見ていた。それから、肩を揺らして笑い出した。仲間に何か言い、残りの三人もつられて笑った。それきり、四人はプルゴリのことを気にしなくなった。図体ばかり大きい、気のいい馬鹿の運転手。そう判断されたのだと、莉奈には分かった。
分かったから、莉奈は笑顔を作った。
四人の部屋に布団を敷き、湯を沸かし、夕食を運んだ。言葉はほとんど通じなかったが、笑顔だけは通じた。困ったように首を傾げ、少しだけ寂しそうに目を伏せる。それだけで、相手の警戒は、ほんの少し緩む。半年間、健一の前で磨き続けてきた顔だった。こんなところで役に立つとは、思ってもいなかった。
四人が風呂へ行っているあいだに、莉奈は部屋に入った。
鞄の名札。床に置きっぱなしにされた地図。地図には、赤いペンで、いくつも丸が付けられていた。湯の湧く沢。林道の入口。その一つの横に、英語で何か書き込まれている。莉奈には読めなかった。読めないから、全部、携帯電話のカメラで撮った。
廊下で、床板が鳴った。
莉奈は、息を止めた。足音は、部屋の前で止まった。襖が開く。そこにいたのは、元軍人だった。風呂へは行かずに、戻ってきたのだ。
手の中の携帯電話が、ひどく重く感じられた。
元軍人は、莉奈を見下ろした。それから、部屋の中を見回し、床の地図へ視線を落とした。
莉奈は、笑った。
自分でも驚くほど、自然な笑顔だった。押し入れを指差し、布団を抱える仕草をしてみせる。それから、少し照れたように首をすくめ、ぺこりと頭を下げた。
元軍人の目が、莉奈の顔と、押し入れと、地図とを、ゆっくりと行き来した。
次の瞬間、太い手が、莉奈の手首を掴んだ。
骨が軋むほどの力だった。携帯電話を握ったままの手が、ゆっくりと持ち上げられていく。元軍人は、もう笑っていなかった。低い声で、何かを訊いた。一度。それから、もう一度。莉奈には、言葉は分からなかった。ただ、三度目はない、ということだけは分かった。
そのとき、民宿の裏手で、けたたましい音がした。
何かが、勝手口の戸を突き破ったのだ。続いて、皿の割れる音。甲高い鳴き声。台所のほうから、小型の恐竜が一頭、廊下へ飛び出してきた。灰色の、膝ほどの高さしかない草食種だった。普段なら人の気配がするだけで逃げていくはずの小さな恐竜が、目を血走らせ、壁にぶつかりながら廊下を走り回っていた。
元軍人は、反射的に莉奈の手首を放し、そちらへ向き直った。
その隙に、莉奈は携帯電話をエプロンのポケットへ滑り込ませた。
小さな恐竜は、廊下で向きを変えると、まっすぐ莉奈のほうへ突っ込んできた。避ける暇はなかった。ふくらはぎに、焼けるような痛みが走った。噛まれたのだと分かったのは、床に倒れてからだった。小さな恐竜は莉奈の脚を放すと、廊下の突き当たりで障子を一枚破り、来たときと同じ勢いで勝手口から外へ飛び出していった。元軍人は、しばらく勝手口のほうを見ていた。それから、肩をすくめて、莉奈に何か言った。たぶん、この国は大変だな、というようなことだった。
莉奈は、床に座り込んだまま、また笑ってみせた。ストッキングが裂け、ふくらはぎから血が流れていた。
それでも笑った。
笑うのをやめたら、何かが終わってしまう気がした。
手首には、指の形をした痣が、くっきりと残っていた。
その夜の十時、莉奈は民宿の裏の、凍った物干し場の陰で、携帯電話を開いた。呼び出し音が一回鳴っただけで、相手が出た。
「……写真、送りました。地図と、名札。それから、残りの二組の行き先も分かりました。一組は山梨の、峠の道の駅で車中泊。もう一組は、東京のビジネスホテルで、荷物が届くのを待つって。そっちの荷物も、あさってプルゴリが届けることになってます」
『荷物というのは』
「明日、プルゴリが運びます。麻酔の道具と、大きな檻みたいなのと……それを、千葉の港の船まで」
『船の名前は分かりますか』
「明日、見てきます」
短い沈黙があった。
『分かりました。今夜は、もう何もしないでください』
電話は、それで切れた。よくやった、とは言われなかった。莉奈は、冷えきった指で携帯電話を閉じ、しばらくその場に座り込んでいた。
◇
次の夜、プルゴリは千葉の小さな漁港にいた。
ワゴン車の荷台には、金属製の大きな檻の部品と、鍵のかかったケースがいくつも積まれていた。岸壁には、遠洋漁船らしい船が一隻、灯りを落として停泊している。船員たちは、荷物を船へ運び込むよう、身振りでプルゴリに命じた。手伝う者はいなかった。
莉奈は、助手席で待っていろと言われていた。待っているふりをしながら、窓の隙間から携帯電話を出し、船体に書かれた名前と、開いた船倉の中を撮った。船倉の中には、漁船には似合わない設備が並んでいた。太い鎖。大型の獣を固定するための台。点滴の袋を吊るすための金具。
助手席の窓を、誰かが叩いた。
船員の一人だった。莉奈の手の中の携帯電話を見ていた。何か言いながら、ドアを開けようとする。莉奈は、とっさに携帯電話を胸の前で構え、自撮りをするように、背後の夜の海へ向けた。
「……う、海、きれいだったから」
船員の顔は、まったく緩まなかった。ドアが開き、太い腕が伸びてくる。
その瞬間、岸壁のほうで、派手な水音がした。
船員が振り返った。莉奈も見た。岸壁の端に、檻の部品が一つ転がっていて、プルゴリの姿がなかった。
凍った岸壁で、足を滑らせたのだ。
十二月の夜の海だった。船員たちが慌てて岸壁へ駆け寄り、誰かが投げたロープの先で、真っ黒な水面から、プルゴリの腕が突き出した。莉奈は助手席から転がり出て、岸壁へ走った。携帯電話は、もうポケットの奥に押し込んでいた。誰も、それを気にしなかった。
引き上げられたプルゴリは、ずぶ濡れで、唇が紫色になっていた。歯の根が合わず、全身が痙攣するように震えている。それでも、船員たちに向かって、真っ白な歯を見せた。
「ア……アイム……ファイン……」
どう見ても、ファインではなかった。落ちるときに船の舷側で打ったのか、額が割れ、濡れた髪の間から血が筋になって流れていた。
船員たちは呆れたように首を振り、もう荷物はいいから帰れ、と身振りで示した。残りの荷物は、自分たちで運び込むらしかった。
帰りのワゴン車は、莉奈が運転した。噛まれた脚でアクセルを踏むたびに、ふくらはぎが脈打つように痛んだ。プルゴリは助手席で、宿から持ってきた毛布を二枚重ねてくるまり、暖房の吹き出し口に顔を押しつけていた。病院へは行けなかった。行けば記録が残る。記録が残れば、金主に知られる。
「……あんた、わざと落ちたの?」
莉奈が訊くと、プルゴリは震えながら首を振った。
「……いいえ。……純粋な、スリップです」
「……そう」
莉奈は、ハンドルを握ったまま、しばらく黙っていた。それから、小さく笑った。笑ったら、なぜか涙が出てきた。
「……あんたって、本当に、運だけはいいわよね」
「……ラッキー・ガイ、ですから」
その夜の十時、莉奈は高速道路のサービスエリアの駐車場で、携帯電話を開いた。船の名前と、船倉の写真を送った。
『十分です』
電話の向こうの声は、いつもと同じだった。
『今夜は、民宿へ戻らないでください。理由は訊かないでください』
「……分かった」
『それから、明後日の朝、あなた方の金主の事務所に、警察が入ります。それは私たちの仕事ではありませんが、匿名の通報くらいはします』
莉奈は、助手席を見た。プルゴリは、毛布にくるまったまま、いつの間にか眠っていた。いびきの合間に、小さくくしゃみをした。
「……ねえ」
『はい』
「あの子、元気?」
電話の向こうで、ほんのわずかな間があった。
『先週、ご家族のもとへ帰りました』
それだけ言って、電話は切れた。
莉奈は、携帯電話を閉じて、しばらくハンドルに額を押しつけていた。
「……懲り懲りだって、言ったのに」
隣で、プルゴリがもう一度くしゃみをした。寝言のように、何か呟いた。
「……ミッション……コンプリート……」
「鼻水垂れてるわよ」
莉奈はプルゴリの鼻をティッシュで拭きながら、エンジンをかけた。夜明けまでには、まだずいぶん時間があった。
◇
最初の班からの定時連絡が途絶えたのは、入国から三日目の夜だった。
秩父の山あいの、古い民宿を拠点にしていた班だった。四人。全員が、ハースの下で十年以上働いてきた者たちだった。
前の晩の連絡では、黒い恐竜の痕跡を見つけたと言っていた。山の中の、湯の湧く沢の近くに、大きな足跡が残っていた。明日の朝から、本格的に追う。声は、自信に満ちていた。
それきりだった。
翌朝の定時連絡は、来なかった。昼の連絡も、来なかった。こちらからの呼び出しには、誰も応えなかった。
「事故か」
「四人同時に、ですか」
レイの声は、硬かった。
夜になって、二つ目の班からの連絡が途絶えた。山梨の、峠の道の駅に車を停めて、仮眠を取っていた三人だった。最後の通信は、ひどく短かった。
『……車の外に、誰か――』
そこで、切れた。
三つ目の班は、まだ動いていなかった。東京の郊外のビジネスホテルで、装備の到着を待っていた。ハースは、すぐに撤収を命じた。三人は、それぞれ別々にホテルを出た。
空港に、たどり着いた者はいなかった。
ハースは、北関東の取引先に電話をかけさせた。
つながらなかった。翌日も、その翌日も同じだった。やがて、日本のニュースサイトの片隅に、小さな記事が載った。栃木県内の金融業者の事務所に、警察の家宅捜索が入った。違法な貸付と、未成年者の略取に関わった疑い。
運転手と、宿の女の名前は、どこにも載っていなかった。
◇
金主の事務所に家宅捜索が入ってから、一週間が過ぎた。
金主は逮捕され、手下たちも芋づる式に捕まった。民宿の持ち主も、港の船員を手配した業者も、同じ記事の中に名前が並んでいた。莉奈とプルゴリの名前は、やはり、どこにもなかった。
その日の夕方、番号が一つだけ登録された携帯電話が、初めて向こうから鳴った。
『一つ目は、完了です』
灰色の背広の人物の声だった。莉奈は、借りたばかりの古いアパートの台所で、受話器を握ったまま立ち尽くした。噛まれた脚には、まだ包帯が巻いてある。手首の痣は、黄色く色を変え始めていた。不揃いに切られた髪は、近所の美容院で短く整えてもらった。
『残りは二つです。次にお願いするときは、この番号から連絡します』
「……いつ?」
『分かりません。明日かもしれませんし、一年後かもしれません』
「……そのときも、命の保証はないのね」
『ありません』
あまりにもはっきりと言われたので、莉奈は、かえって少し笑ってしまった。
『それまでのあいだ、勤め先はこちらで用意しました。来週から、普通に働いてください。普通に』
莉奈は、思わず受話器を握り直した。交番の前のベンチで、自分がプルゴリに言った言葉だった。普通に働くのよ。普通に。
「……ねえ」
『はい』
「三つ終わったら、本当に、全部なくなるの」
『なくなります』
少しだけ間があった。
『少なくとも、書類の上では。……その先のことは、あなた方次第です』
電話は、それで切れた。
莉奈は、しばらく台所に立っていた。窓の外では、冬の日が、向かいの家の屋根の向こうへ沈もうとしていた。どこかの家から、夕飯の匂いが流れてきた。普通の夕方の、普通の匂いだった。
莉奈は、もう一度携帯電話を開き、今度は自分のスマートフォンで、別の番号を押した。三回目の呼び出しで、相手が出た。
『……莉奈さん?』
鼻声だった。港で海に落ちてから、まだ風邪が抜けていないのだ。
「一つ目、終わったって」
電話の向こうで、プルゴリが息を呑んだ。
『……本当ですか』
「本当。あと、二つ。それで解放されるわ」
『あと、二つ……』
プルゴリは、その数を噛みしめるように繰り返した。
「次も、命の保証はないって」
『……はい』
「また、殴られるかもしれないし、噛まれるかもしれないし、海に落ちるかもしれないのよ」
『……はい』
「それでも、やるの」
電話の向こうで、プルゴリが小さく鼻をすすった。それから、いつもの調子で、けれど、いつもより少しだけ静かな声で言った。
『やりましょう、莉奈さん。あと二回で、我々のキャリアは、まっさらです』
「……まっさら」
『はい。クリーン・スレート。一から、いえ、ゼロからの、リスタートです』
ゼロから。莉奈は、その言葉を、口の中で転がしてみた。
『それに、我々には実績があります』
「何の」
『悪運の、トラック・レコードです』
莉奈は、台所の床にしゃがみ込んで、膝に額を押しつけた。笑ったのか泣いたのか、自分でもよく分からなかった。
「……ほんと、懲り懲りよ」
『……ノーモア、ですね』
「ノーモアじゃないのよ。あと二回は、モアなのよ」
『では、あと二回だけ、モアということで』
「……うん」
莉奈は、顔を上げた。窓の外は、もう暗くなり始めていた。
書類の上の名前は消えても、健一の半年は戻らない。健一が自分に向けてくれた笑顔も、結婚の話をしたときの照れた声も、全部、嘘の上に積ませてしまったものだった。一円も取れなかったからといって、何も奪わなかったことにはならない。ゼロに戻るというのは、たぶん、そういうものを全部抱えたまま、ゼロの場所に立つということなのだろう。
「……あと二回だけね」
電話の向こうで、プルゴリが、くしゃみを一つした。
◇
ハースは、スイートの窓の前に立っていた。
夜の港は、いつもと同じように、灯りを並べていた。けれど、ハースの目には、それがもう、星座には見えなかった。
「……別室、という言葉を聞いたことがあるか」
ハースは、背中を向けたまま言った。
レイは、少し間を置いて答えた。
「噂だけは。日本には、公式には存在しない部署がある、と。名前もない。予算の項目もない。ただ、そう呼ばれている」
「通常の犯罪者や恐竜の相手はしない」
「はい。表に出られない組織ですから。恐竜が街を壊していても、彼らは出てこない。それは、ハンターと自衛隊の仕事です」
レイは、言葉を切った。
「彼らが出てくるのは、国外から、悪意を持った人間が入ってきたときだけです」
レイは、少し考えてから付け加えた。
「逆に言えば、それ以外のことはしません。国内の違法な飼育施設も、恐竜の密売の元締めも、彼らの仕事ではない。それは警察の領分で、名前のない部屋が表の捜査に顔を出すことはありません。……彼らが止めるのは、国境の外から入ってきた手だけです」
ハースは、目を閉じた。別室、忍者とも揶揄される人員は本当にいたのか。
日本は、真ん中が空っぽだと思っていた。ハンターは西へ、自衛隊は海と北陸へ、警察は上を見ている。この国の網は、恐竜のせいで、どこもかしこも破れている。だから、そこから手を突っ込めば、何でも拾えると思っていた。
違ったのだ。
恐竜に向けた網と、人間に向けた網は、別のものだった。恐竜に向けた網がどれだけ破れていても、もう一枚の網は、最初から、一目も欠けずに張られていた。誰にも見えないところで。誰の目にも触れないまま。
そして、ハースの送り込んだ十人は、その網に、音もなくかかったのだ。かかったまま、二度と浮かんでこなかった。
スイートの電話が鳴った。千葉の沖の、船からだった。船長の声は、震えていた。
『船の周りに、明かりが三つ。ずっと前から、こっちを見ている。漁船じゃない。……どうする』
ハースは、しばらく黙っていた。それから、短く言った。
「戻れ。何も積まずに、そのまま帰ってこい」
電話を切った。レイが、静かに尋ねた。
「客には、何と」
「荷は、手に入らなかった、と」
ハースは、タブレットを手に取った。画面の中で、黒い恐竜が、まだ、自販機の前で赤い缶を咥えていた。それから、少し気まずそうに、闇の中へ歩き去っていく。
あの恐竜は、何も知らないのだろう、とハースは思った。
自分を檻に入れて売り飛ばそうとした人間たちがいたことも。その人間たちが、自分の足跡のすぐそばまで迫っていたことも。そして、名前も顔もない誰かが、その全員を、雪の夜の中で、音もなく片づけていったことも。
あの恐竜は、きっと今夜も、どこかの山の中で、自分の家のほうを向いて眠っている。
「……運のいい荷だ」
ハースは、タブレットの画面を消した。
窓の外で、一隻のコンテナ船が、ゆっくりと港を出ていった。その船には、何も積まれていなかった。
◇
同じ夜。
東京の、どこかの古いビルの、どこかの部屋だった。
窓のないその部屋の机の上に、一枚の報告書が置かれていた。表紙には、何も書かれていなかった。中には、十人分の名前と、入国の経路と、拘束の日時と場所が、淡々と並んでいた。最後のほうには、こう書いてあった。
拘束者十名、全員を当室にて収容中。送還の予定なし。
対象恐竜への接触、なし。
その下に、一行だけ、付け足すように書かれていた。
協力者二名、生存。依頼残、二件。
報告書を読み終えた人物は、協力者の欄の横に、鉛筆で小さく書き込んだ。悪運、強し。それから報告書を閉じて机の引き出しにしまい、壁の地図を見上げた。
九州。四国沖。石川。そして、関東の西の山。赤い印が、いくつも散らばっていた。そのどれにも、この部屋の人間は、手を出すことができない。それは、別の誰かの仕事だった。
地図の、山梨と東京の境のあたりに、小さな印が一つだけあった。黒いピンだった。
「……がんばれよ」
その人物は、誰にも聞こえない声で言った。それから、部屋の明かりを消した。
部屋の扉には、表札がなかった。
断章14 存在しない部屋 了