十二月二十三日、朝六時十二分。八王子市内の防災行政無線が鳴った。
目覚まし時計が鳴るよりも早い時間だった。カーテンの向こうはまだ暗く、住宅街には夜の静けさが残っている。新聞配達のバイクや早番へ向かう車の音が聞こえ始めるはずの時間に、屋外スピーカーから流れた声は、家の中にいた三人をほとんど同時に起こした。
「八王子市から、緊急のお知らせです。現在、多摩西部において危険な中型肉食恐竜二頭の所在が確認できていません。東京都から発表された緊急事態宣言に伴い、市民の皆様は不要不急の外出を控え――」
母が最初にリビングへ下りてきた。続いて父、最後に妹が階段を下りる。寝起きの三人がテレビをつけると、どの局も通常番組を中断しており、画面上部には赤い帯が表示されていた。昨日まで黄色く塗られていた多摩西部の警戒区域はさらに広がり、八王子市もその中へはっきり含まれている。
「東京都は午前六時、多摩西部を対象として危険恐竜事案に伴う緊急事態を宣言しました。対象地域では不要不急の外出を控えるよう強く要請されているほか、公共施設の閉鎖、事業者への営業自粛や在宅勤務への切り替えなどが進められています」
母はテレビを見ながら、昨夜テーブルの端へ置いていた薬袋を手に取った。中身は変わらない。残っているのは、今日と、明日の二十四日の分だけだった。
「薬局、開くかしら」
「九時になったら電話してみればいい」
父はスマートフォンの画面から目を上げずに言い、それから付け加えた。
「今日は誰も勝手に出るなよ」
「分かってるよ」
妹も反論しなかった。昨日までは、八王子へ来るかもしれないという話だった。近づいてはいるが、まだ山梨県内にいる。東京側では経験のあるハンターが待ち構えている。そんな前提が一晩で崩れ、今朝は、どこにいるのか分からないから外へ出るなと言われている。
窓の外だけを見れば、昨日と何も変わっていなかった。
◇
最初に状況が動いたのは、午前二時四十七分だった。
あきる野市北部を走っていた新聞配送の軽ワゴンが、道路脇から飛び出してきた灰褐色の中型肉食恐竜と遭遇した。運転手は急ブレーキを踏みながらハンドルを切り、車体の前をガードレールへぶつけたものの、恐竜そのものとの正面衝突は避けている。
そこで終われば、単なる遭遇だった。だが、恐竜は逃げなかった。停車した車両へ向きを変えると、運転席側へ接近した。運転手が窓を閉めた直後、灰褐色の頭部がガラスへぶつかり、続いて前肢がドアを引っかく。車体を揺らすほどの衝撃が何度も続くなか、運転手はシートの上で身を縮めながら警察へ電話をかけていた。
「車から出ないでください。窓も開けないでください。エンジンはかかりますか。かかるなら、周りを確認して、ゆっくり離れられますか」
「無理です、前、ガードレールに刺さってて……!」
「分かりました。では、そのまま車内にいてください。警察が向かっています」
通話記録には、金属を引っかく音まで残っていた。
襲撃は二分近く続いた。やがて遠くから別の車のヘッドライトが近づくと、恐竜はそちらへ注意を向け、その隙に運転手は車を後退させてガードレールから引き剥がし、現場から離脱した。運転手は軽傷で済んだ。
問題は、その三十分後に起きた。
◇
午前三時二十一分。最初の現場から南東へ数キロ離れた住宅地で、早朝勤務へ向かうため自宅を出た四十代の会社員が襲われた。
近隣の防犯カメラには、道路を走って逃げる会社員と、その後ろから現れた灰褐色の影が記録されていた。会社員は自宅へ戻ろうとしたが間に合わず、通報を受けた警察が到着した時点で、恐竜の姿はすでになかった。
会社員は、搬送先の病院で死亡した。
映像に残された個体の体格と模様は、長野から逃走している二頭のうち一頭と矛盾しなかった。さらに午前四時過ぎ、別の道路を横切るもう一頭の姿がドライブレコーダーに映る。二頭とも東京都内へ入った可能性が極めて高く、少なくとも一頭はすでに人間を襲っている。そして、どちらも現在位置が分からない。
午前五時を過ぎるころには、東京側が前日まで維持していた「山地で捕捉し、住宅地へ出る前に止める」という作戦は、前提から崩れていた。
◇
「ここです」
大型モニターに二つの地点が表示された。
臨時対策本部には、夜明け前から人が集まり続けている。岳、榊原、三枝、真壁だけではない。警視庁、消防、東京都、関係自治体、ドローン班、獣医師、御門優子を含む研究者側の人間まで揃っていた。
岳は死亡事故の地点だけでなく、その周囲へ視線を移した。住宅、道路、学校、公園、河川。それらの間を、細い緑地や丘陵がつないでいる。昨日まで見ていた山梨側の地図と違い、人間の生活圏を避けながら追跡できる余地は、急速に少なくなっていた。
「二頭は一緒じゃないですね」
「現時点ではな」
榊原が答えた。
「だから余計に面倒だ。一頭見つけても、全員でそっちへ行くなよ。その間にもう一頭が住宅地へ出たら終わりだ」
「もう出てます」
三枝が、モニターの死亡事故の地点を指して言った。榊原が顔をしかめる。
「……そうだったな」
昨日までなら、少しは笑いが起きたかもしれない。今日は誰も笑わなかった。
岳は地図を拡大した。
「追い回すのはまずいです。住民が屋内にいるなら、そのままでいてもらったほうがいい。道路を全部人間で埋めたら、こいつらがどっちへ逃げるか読めなくなる」
「見つけたら?」
「見失わないようにします。撃てるなら撃つ。ただし、後ろに住宅があるなら撃てません」
答えは簡単だった。実行するのが難しいだけである。
「首都防衛だなんて言ってた割に、あっさり入られたな。結局のところ東京西部の全面をカバーするなんざ、土台無理な話だったんだ。国内の人出を集結できればまだしも、あっちこっちに人手を分けざるを得ない状況だからな」
榊原が重くため息をつきながら呟いた。岳は地図から目を離さなかった。
「だから、ここで止めるんでしょう。いつだって遅すぎることはない、分水嶺はまだ先です。市街地のど真ん中にでも入られたら、ハンターは銃が使えなくなる。マチェット一本で肉食恐竜と格闘戦なんて、ハンターどころか人間の仕事では無いですよ」
榊原が一度だけ岳を見る。
「お前が言うのか……」
岳は地図から目を反らさず、そっと榊原に背を向けた。榊原も額を抑えながらそれ以上は、何も言わなかった。
◇
ところが、人間側の仕事は二頭だけでは終わらなかった。
午前七時三十八分、青梅市内の公園で、小型草食恐竜三頭がフェンスへ何度も身体をぶつけているとの通報が入った。人間へ直接向かってくるわけではないものの、通行人が離れても興奮状態が収まらず、植え込みと柵の間を行き来し続けている。
午前八時十一分には、町田市郊外で小型の雑食恐竜一頭が住宅の庭へ侵入した。住人が窓越しに追い払おうとしても逃げず、ガラスへ何度も飛びついたため、警察が周辺を封鎖した。さらに午前八時四十六分、多摩地域の別の場所では、普段なら人間を避ける中型草食種が道路上に居座り、近づいた車両へ向かって突進している。
一件ずつなら、野生動物による事故として処理できる範囲だった。だが、この数週間、人間側は同じような事例を何度も見てきている。
御門は届いた報告を一つずつ開いた。
「対象の年齢、成体か否か、成体なら若いかどうかを確認してください」
「成体になりたてくらいですね、またですか?」
「はい、またです」
担当者が情報を集める。一件目は若く、二件目も若い。三件目も、成熟してからそれほど時間が経っていない可能性が高かった。
御門はそこで結論を口にしなかった。代わりに別の資料を開き、今度は現在地とは違う項目を指した。
「出生地と、幼体期にいた場所もお願いします。今いる場所だけではなく、過去の飼育記録まで。極論、出生地さえわかればいいです」
「長野の件と同じ調査ですか、だいぶ傾向はつかめてきていると思いますが」
「比較できる材料を増やしたいんです。確証が得られれば、そもそも異常行動個体の発生を抑止できる可能性があります。今後も人間と恐竜がバランスを守って生存するには、必須の条件だと考えています」
榊原が横から資料を覗き込んだ。
「二頭だけでも人が足りねえって日に、まだ増えるのかよ。しかも小型の草食と雑食ときた、大人なら素人でも何とかなる範囲だってのに」
「異常行動個体の厄介なところですね。通常ならハンターや警察が出るまでもなく、柵や金網で相互の生活圏が分かれていて、そもそも退治という話にならないのに。1が2になるより、0が1になるほうがインパクトが大きいですよ」
「人手は湧いて来ないってのに、異常行動恐竜は見境なしに湧いてきやがる。これに例の超大型の未登録恐竜だろ。こいつは自衛隊の受け持ちで、うちらの管轄じゃないとはいえ、遭遇したらと思うと頭が痛いぞ……」
その声には、山梨で異常な草食恐竜の群れへ対応した日の疲労が、まだ残っていた。
肉食か草食かは関係ない。大型か小型かだけでもない。人間を避けるはずの動物が避けなくなるだけで、道路を止め、警察を動かし、獣医師を呼び、場合によってはハンターまで投入しなければならない。それが、一件では済まなくなり始めていた。
◇
午前九時過ぎ、さらに別の報告が入った。
「ドローン七号、飛翔種に接近されています」
榊原が天井を仰いだ。
「今度は何だ。俺ぁもう胃薬と毛生え薬を経費で落とせる段階だぞ」
「異常行動個体と似ています。これまでとは違って、こちらが離れても追ってきます。僕はこの前胃薬が経費で落ちましたよ」
「そいつは地獄に仏だ、いっとう高いの買ってやるか。それで、高度は?」
「はい、高度百二十。回避のため下降中――待って、近い、近い! おい、これ三十五万もするんだぞ、あぁ!」
映像が大きく揺れ、翼が画面を横切った。人工的に復元された小型の翼竜だった。人間一人を運べるような大きさではない。それでも、高速で飛ぶ生物がドローンへ体当たりすれば、機体は無事では済まない。映像は回転し、木々が上下逆さまになったところで途切れた。
「落ちたか?」
「七号、通信途絶。これ、顛末書案件じゃないですよね? さすがに不可抗力でしょ」
部屋の空気が重くなる。御門は映像の保存を指示した。
「これも年齢と生息履歴を確認してください、野生生まれの個体であれば映像からの推測で構いません」
「なぁ先生よ、昨日、俺なんて言ったっけ」
榊原が言った。
「頼むから一種類ずつ来てほしい、と」
「聞いてなかったみたいだな、向こうは」
「恐竜側に、調整をお願いできる窓口はありませんから」
「ちったぁ、こっちの事情を汲んでほしいもんだがね。国外から救援依頼も来てるんだろ? 冗談じゃねぇ、こっちだって手一杯だ」
昨日なら笑っていた岳も、今日は地図を見たままだった。
地上では、二頭の肉食恐竜が行方不明になっている。別の場所では複数種に異常行動の疑いが出始め、上空の監視に使うドローンまで落とされた。敵が増えた、という話ではない。守らなければならない場所と、確かめなければならない事象が増えている。そのほうが、ずっと厄介だった。
◇
八王子の家では、朝食を食べるきっかけを失っていた。
テレビからは次々に情報が入ってくる。青梅、あきる野、町田、多摩。そのたびに母が画面を見る。父は自治体から届く通知と交通規制を確認し、妹は知人たちから送られてくるメッセージを眺めていた。
近所で警察車両を見た。コンビニが閉まった。スーパーが営業時間を短縮した。会社から自宅待機を命じられた。真偽の分からない目撃情報も混じっていて、どこそこの公園で恐竜を見たという話が、十分後には別の場所の話に変わっている。
妹はスマートフォンを伏せた。
「お兄ちゃんがいたら、こういうとき、どうしてたかな」
母が顔を上げた。
「何よ、急に」
「いや。こういうニュース、一日中張りついて見てそうだなって」
「見てるだけならいい」
父が言った。
「見に行くなんて言い出したら、俺が止める」
「さすがに見には行かないでしょ。そこまで馬鹿じゃないよ」
「分からんぞ。あいつは昔から、変なところで行動力がある。近所の高齢の知り合いを助けに行くくらいならやりかねん」
妹は少し笑った。
兄がいれば。四か月が過ぎても、三人は自然にそういう話し方をする。
「帰ってきたら、この騒ぎ見てびっくりするかな」
「帰ってくる途中でさすがに気づくだろう。それこそ山の中を人里に下りないようにしない限りは、どこかで耳に入るはずだ。そもそも、まず、四か月以上もどこにいたのか説明させる」
父が言った。
「そして説教だ、さんざん心配をかけて、警察や人様にも迷惑をかけよって」
「だめです、まずはご飯でしょう」
母が口を挟んだ。
「帰ってきて最初に説教なんて、しないわよ」
「甘い、それでは示しがつかんだろう」
「あなた、そうは言うけど四か月ぶりに帰ってきた子を、最初から怒れる? きっとボロボロでどうにかたどり着いたって状態よ」
父は少し頬を赤くしてそっぽを向き、答えなかった。それを見て妹が笑う。
「お父さん、たぶんめっちゃ泣くよ。抱きしめてよく帰ってきたって」
「泣かん」
「絶対泣くでしょ」
「絶対泣かん」
そのやり取りだけは、いつもの家だった。兄がいないことも、兄が帰ってくるのをまだ諦めていないことも、この四か月、何も変わっていなかった。
◇
母が薬局へ電話をかけ始めたのは、九時ちょうどだった。何度かけても話し中で、ようやくつながったのは十一時近くになってからだった。
「はい……はい。いつもいただいている薬なんですけど」
父と妹が、自然とそちらを見る。
「手元には、明日の分まではあります。……はい。入荷は、予定どおり明日の午後で……」
母の表情が少し曇った。
「配達は、難しいですか」
しばらく相手の話を聞いてから、母は小さく頷いた。
「そうですよね。分かりました。そちらも、気をつけてください」
ため息をつきながら母が電話を切ると、妹がすぐに訊いた。
「どうだった?」
「入荷は予定どおり、明日の午後だって。でも、配達は無理みたい。配達の人が来られないんですって」
「じゃあ、取りに行くの?」
「今日行っても、まだ薬局に薬はないんだろう」
父が、母より先に答えた。
「明日の分までは、あるんだよな」
「ええ、まだあるけど」
「なら、状況が変わるかもしれない。明日、もう一回電話してから決めよう」
妹も頷いた。それが正しいと思った。
薬は必要だが、今すぐ必要なわけではない。誰も危険を軽く見ておらず、家族の誰も外へ出ようとはしなかった。それでも、必要なものには期限があった。
◇
午後零時十四分、二頭のうち一頭が再び姿を現した。
場所は、あきる野市南部。道路沿いの小さな事業所で、屋外作業を中止して建物へ戻ろうとしていた従業員二人が、駐車場の向こうから走ってくる灰褐色の恐竜を目撃した。
一人は建物へ駆け込んだ。もう一人は間に合わなかった。
恐竜は逃げる人間を追い、防犯カメラには、最初の一撃を受けて倒れるところまでが映っている。建物内から同僚が消火器を噴射し、別の者がフォークリフトを動かしたことで恐竜の注意が逸れ、負傷者はどうにか屋内へ引きずり込まれた。重傷だったが、命は取り留めた。
恐竜はその場に留まらず、数分後には隣接する緑地へ姿を消した。
「位置出ました!」
対策本部に声が飛ぶ。岳たちはすでに動いていた。
近隣の道路を警察が止め、住民へ屋内待機が通知される。ドローンを一気に上げず、地上の監視カメラと少数の機体で移動方向を確かめる。一頭を見つけたからといって、全員がそこへは向かわない。もう一頭がいることを、誰も忘れてはいなかった。
「南へ抜けました。緑地の縁沿い、住宅地側です」
三枝が映像から目を離さずに言った。画面の端で、灰褐色の影が生け垣の切れ目をすり抜けていく。
「速度は」
「走ってはいません。……頭を低くして、匂いを取りながら歩いてます」
岳の声が、一段低くなった。
「獲物を探してる歩き方です。腹が満ちてない」
対策本部の空気が、目に見えて張り詰めた。岳は地図の上に指を置いたまま、警視庁の連絡員のほうを向いた。
「緑地の南側、三丁目から五丁目に屋内待機の再通知をお願いします。窓際から離れること、ペットを外に出さないこと。それと、玄関を開けて様子を見ようとする人が必ず出ます。それもやめさせてください」
「了解しました」
「三枝さん、風は」
「北西、四メートル。しばらく変わりません」
「なら、南東から入れば風下です。こっちの匂いは届かない」
岳は指を地図の上で滑らせた。
「撃つなら北西向き。今いる緑地の縁なら、背後は斜面です。外れても、弾は土に入る」
「道路へ出られたら?」
榊原が訊いた。
「撃ちません。アスファルトは跳弾しますし、住宅の間じゃ、外れた弾がどこへ行くか分からない。出られたら追わずに、位置だけ押さえます。上にドローン一機、地上に二人」
「もう一頭が合流してくる場合は」
「それが一番やっかいです」
岳は地図の北側、丘陵の尾根を指した。
「朝のドライブレコーダーの位置から考えると、来るならこの尾根です。真壁さん、北側をお願いできますか。こっちが南の一頭に掛かってるあいだに背中を取られたら、挟まれます」
「一人でか」
真壁が短く訊いた。
「一人でお願いします。見るだけで構いません。撃たなくていい。見えたら、すぐ無線を」
真壁は何も言わずに頷き、銃のケースを掴んで部屋を出ていった。
「撃てそうか」
榊原が、もう一度訊いた。今度は声が低かった。
「緑地の縁にいるうちなら。ただ、距離を五十は切らせたくありません」
「お前でも、か」
「誰でも、です」
岳は即答した。
「中型は、一発で止まらなかったら三秒でこっちまで詰めてきます。長野の映像では、撃たれても怯えずにまっすぐ走ってきてる。走る中型肉食恐竜を一撃で落とせるとは思いません、最初から二発目を撃つ前提で行きます」
「……三秒か、撃つなら照準込みで二秒だな。攻撃距離で跳ばれたら当てても止まらん、即死しなければこっちがやられるぞ」
榊原は小さく息を吐き、椅子の背に掛けていた上着を取った。
「だから、二発目は俺が受け持つ」
岳が顔を上げた。榊原はもう上着の袖に腕を通していた。
「三枝、見失うなよ」
「見失いません」
三枝は、画面から一度も目を離さずに答えた。
榊原も、岳の後を追って部屋を出た。
◇
午後一時を過ぎるころ、八王子市の防災行政無線が再び鳴った。
「八王子市から、緊急のお知らせです。危険な中型肉食恐竜が、あきる野市南部で確認されました。現在、八王子市内での目撃は確認されていませんが、市民の皆様は引き続き屋内に留まり――」
妹は二階の窓から外を見た。
人がいない。普段なら車が通り、自転車が走り、犬の散歩をする人もいる時間だった。今日は道路そのものが静まり返り、遠くから聞こえてくるサイレンの音だけが、いつもの昼間ではないことを知らせている。
「本当に止まっちゃったね、街」
妹が言った。隣に来た父も、窓の外を見る。
「ああ、例のはやり病でもここまででは無かった。目に見える脅威との違いかもな」
仕事が止まった。公園が閉まり、道路が封鎖され、店も次々に営業を取りやめている。公共交通も一部で運転を見合わせ、宅配にも遅れが出始めていた。たった二頭の恐竜で、街の日常が止まり始めている。しかもニュースでは、それとは別の恐竜の異常行動まで報じられ始めていた。
「二人とも、窓から離れてね。念のため。恐竜用に防護フィルムをしてるとは言え、中型肉食恐竜でしょ? 耐えられないかもしれない」
階下から、母が呼んだ。
「ここ二階だよ」
「いいから、二階くらいまでなら跳んだり登ったりできるそうよ」
「はいはい」
妹は素直にカーテンを閉じた。
◇
同じころ、八王子の西側に連なる丘陵の上で、男は足を止めていた。
眼下には家があり、道路がある。遠くには建物が密集し、その向こうまで街が続いていた。山梨側からできるだけ山をつないで移動してきた男にとって、久しぶりに見る規模の人間の生活圏だったが、妙に動きが少ない。
車がまったくいないわけではない。それでも、これだけの家が並んでいるのに道路を歩く人間がほとんど見えず、公園にも人影がない。時折、赤色灯を回した車両だけが通り過ぎていく。
男は首をわずかに傾けた。谷の向こうから、拡声器の声が届いていた。
「八王子市から、緊急のお知らせです――」
頭が上がる。
(八王子)
道路標識でその文字を見つけたときとは違う。今度は、街そのものがその名前を名乗っていた。
尾の先が動きかけたところで、続く内容が耳に入る。危険な中型肉食恐竜。屋内待機。不要不急の外出を控えること。あきる野市南部で確認された個体についても、繰り返し呼びかけられている。
男はしばらく街を見下ろした。
(……あいつらか)
山梨で、自分の近くまで来ていた二頭の灰褐色の恐竜。直接姿を見たことはないが、山中に残っていた匂いと、人間たちの放送で、その存在は知っている。家族のいる街へ、あいつらを入れたくはなかった。放送によれば、八王子ではまだ見つかっていないらしい。
家は、もう近くにある。
男は背後を振り返った。二号は少し離れた場所で枯れ草の匂いを嗅いでいて、八王子という地名にも、街を覆っている緊張にも興味はないらしい。
人間のいない道路を見れば、今なら入りやすいとも思える。だが、それだけ警戒されているということでもある。男は地面へ腹をつけ、木々の間からもう一度だけ街を眺めた。
(もう少しだ)
この警戒と混乱の中で明るいうちに動ける理由はない。男は街から見えない位置まで身体を下げ、日が傾くのを待つことにした。
◇
午後三時四十分。対策本部には、新しい一覧が作られていた。
逃走中の灰褐色の中型肉食恐竜、二頭。そのうち人間への攻撃が確認された個体、少なくとも一頭。青梅の小型草食種、三頭。町田の小型雑食種、一頭。多摩地域の中型草食種、一頭。さらに、ドローンへ執拗に接近した飛翔種が一頭。
すべてが同じ現象だとは、まだ誰も言えない。だが、無関係だと言い切る材料もなかった。御門は一覧ではなく、それぞれの個体の来歴を見ていた。
「先生」
担当者が新しい資料を持ってきた。
「青梅の三頭、分かりました。全部、去年生まれです」
「出生施設は?」
「三頭とも同じです。場所は、こちらに」
御門は資料を受け取り、そこに記載された地名を確認した。地磁気の発生地点と合致していることについては、およそ想像の範囲であった。
「町田の個体もお願いします。今いる場所ではなく、孵化した場所と時期。それから、移送されるまでどこにいたか」
「分かりました」
担当者が離れていく。榊原はその背中を見送ってから、御門のほうを向いた。
「近づいてるのか? 原因というか、真相というか。まぁどうしてこんなことになったのか」
御門は少し考えた。
「調べるべき場所は、以前より絞れています。おぼろげながら何が起こっているのかのシルエットも。ただ、それがなぜ発生したのか、状況証拠以上の生理学的な原因までは見えていません」
「それを、近づいてるって言うんじゃねえのか」
御門は否定しなかった。しかし、研究者という立場上、軽率に同意もできなかった。いつしか彼女の両肩には、現地対応に手一杯で原因追及に手が及ばない、世界中の研究者からの期待も乗っていた。
世界を背負うにはあまりにその背中は小さく、か細かった。
それでも目は前を向き、背筋は伸びている。たとえ虚勢であってもうつむくことは一度もなかった。
◇
夕方になっても、灰褐色の一頭は見つからなかった。もう一頭も、朝から確かな姿を捉えられていない。
東京都内で人的被害が出た。多摩西部では緊急事態宣言が続いている。それとは別に、複数の種で通常とは異なる行動が報告され始めている。
人間側には、岳をはじめとする経験豊富なハンターがいる。警察も消防も行政も動いている。ドローンも監視カメラもあり、情報は集約され、必要な場所へ人員を配置する仕組みもある。それでも、街を完全に安全にはできなかった。守るべき場所のほうが、多すぎる。
榊原が前に口にした懸念が、現実になり始めていた。人が足りない。
◇
夕食の時間になっても、八王子の家ではテレビが消えなかった。
母の薬は、明日の分まで。薬局には明日の午後に入荷するが、配達はできない。父はスマートフォンで交通規制を確認し、妹は自治体から届く通知を読む。誰も「念のため早めに取りに行こう」とは言わなかった。少なくとも今夜はまだ薬はあり、しかし恐竜の脅威は晴れていないからだ。
「明日の午後になってもこのままだったら、やっぱり俺が薬局に行く」
父が言った。
「駄目よ、危ないわ」
「それでもだ、明日で薬がなくなるだろ」
「でも、まだ恐竜がどこにいるか分からないんでしょう」
「そうだ。だから明日、町の様子を見てから決める。本当に危険ならほかの手段を考える」
そこで話を切った父の判断に、妹も異論はなかった。
食事を終えてしばらくすると、母がいつもより早く横になった。
「お母さん、大丈夫?」
「ちょっと疲れただけ。朝からずっとニュースを見てたから」
「もしかして具合悪いんじゃないの?」
「そこまでじゃないわよ、母を甘く見ないで」
そう答えたものの、顔色はあまりよくなかった。父は薬袋を確かめ、水を持っていった。妹もそばへ行こうとしたが、母に「二人で囲まないで」と苦笑され、ひとまずリビングへ戻る。
テレビでは、灰褐色の中型肉食恐竜が走る防犯カメラの映像が、繰り返し流れていた。その映像が終わり、別のニュースへ切り替わる。
「また、都内では本日、複数の恐竜について通常とは異なる行動が報告されています。専門家は、現時点で一連の事例に共通する原因があるかどうかは確認できていないとして――」
「あの二頭だけじゃないんだ……」
妹が呟いた。父は母のいる部屋を気にしながら、テレビへ視線を戻した。
しばらくして、父は寝室の様子を見に行った。戻ってきたとき、その手には体温計があった。
「……母さん、熱がある。三十八度近い」
「え、そうなの? ヤバいじゃん」
「疲れが出たんだろう。前にも、こういうことはあった。……ただ、正直な話、これまでの経験則では明日もっと上がる可能性が高い。それなのに、救急に電話したって、今日の様子じゃ、すぐには来てもらえんだろう」
父は、薬袋をテーブルの上に置いた。
「だから、薬は――」
「私が行くって。昨日も言ったじゃん」
妹が、先に言った。
「午後に入荷したら、すぐ取りに行く。明るいうちに行って、まっすぐ帰ってくる。お父さんは、お母さんについてあげて。何かあったときにお父さんより私のほうが走れるでしょ、この前膝が痛いって言ってたじゃん」
父は、長いあいだ黙っていた。何か言いかけて、やめる。それから、もう一度口を開いた。
「……出る前に、薬局と市の通知を確認しろ。警報が出てたら、やめろ。出るときに電話。着いたら電話。帰るときも電話だ」
「そんなにいる?」
「頼む、本当はお前を行かせたくなんかないんだ」
妹はわかったよと、少しだけ笑ってみせた。父は笑わなかった。
窓は閉まっている。玄関には鍵がかかっている。今夜の食事もあり、薬も明日の分までは残っている。だから今は、まだ大丈夫だった。家族の誰も、危険へ近づこうとはしていない。
ただし、この時ばかりは、理不尽とは肉食恐竜の形をしていた。
第36章 街が止まる日 了