18時に断章を投稿して、21時に八王子事件予告を投げます
東京都西部で緊急事態宣言が続くなか、御門優子のもとへ青森県警から新しい資料が届いた。
始まりは、行方不明者の捜査ではない。福島事件のあとも南下を続けている黒色個体について、なぜあれほど人間の生活を理解しているのかを調べるため、御門が青森県内の違法業者や未登録飼育個体の洗い直しを依頼したことだった。硬貨を使って自動販売機から飲み物を買うという行動は、野生下で偶然身につけたと片づけるには具体的すぎる。幼体期に人間から何らかの訓練を受けていた可能性も含め、過去の飼育環境を調べる必要があった。
その調査で、以前に摘発された違法仲介業者の押収データが再解析された。削除された画像、暗号化されていた取引記録、車両の移動履歴。警察が復元した大量のデータの中に、一頭の幼体が残っていた。
「これです」
刑事が端末を御門へ向けた。
写真の中央には、金属製の輸送箱が写っている。側面の一部が開いており、その奥に黒い身体が見えた。まだ一メートルを少し超える程度の幼体で、前肢と後肢には輸送用の固定具が巻かれ、頭部にも簡易的な拘束具が取り付けられている。
御門は何も言わず、画像を拡大した。頭部の輪郭、眼窩の位置、前肢の指、爪、尾の比率。解像度には限界があるため、一つの特徴だけでは判断しない。別角度から撮影された画像を開き、体表の質感や四肢の長さも確認していく。
「同じ個体ですか」
「おそらく、断言は出来ませんが、その前提で考えるに足ります」
返答は早かった。
「成長前ですし、写真も十分ではありません。同系統の個体がほかに存在しなかったことも確認できていません。ただ、現在追跡されている黒色個体と矛盾する特徴は、この画像からは見つかりません」
刑事は頷き、次の資料を表示した。
取引時の簡単な状態記録だった。体長、推定体重、外傷の有無、給餌状況。生き物を扱っているというより、商品の状態を確認するためだけに作られたような、ひどく事務的な記録である。
御門の視線が末尾で止まった。
「攻撃性低、反応正常、知性兆候なし。ただの恐竜、という判断がされています。まぁ順当ですね」
「これを書いた人間は?」
「取引側の一人と思われます。筆跡については確認中です」
「主観的な記録ですね」
「非合法な組織ですからね、そこまで厳密な管理はされていないのかと」
「科学的な評価には使えません。ただ、少なくとも記録した人間には、特別な行動をする個体には見えていなかった」
御門は写真へ戻った。四か月前、青森にいた黒い幼体。現在、地図を持ち、荷物を運び、人間を助け、自動販売機で代金を払う黒色個体。
もし同じ個体なら、その間に何があったのか。
「この幼体は、その後どうなっていますか」
「記録上は所在不明です」
「売却先は?」
「引き渡しが完了した記録がありません。正式な登録もありません」
「最後に確認された場所は?」
刑事が地図を開いた。青森県内の山間部に印がついた。
御門は、その位置をしばらく見ていた。
◇
「それで、別の捜査とぶつかりました」
刑事の言葉で、御門は顔を上げた。
「別の捜査?」
「行方不明者です」
四か月前、青森県内で一人の男性が消息を絶っていた。生活拠点は東京都中野区のアパートで、実家と家族は八王子にいる。成人男性の単独行動で、当初は事件性を示す材料も乏しく、警察は足取りを追い続けていたものの、決定的な手掛かりは見つかっていなかった。
今回、違法業者の押収データから復元された車両記録が、その捜査に初めて接触した。
「業者が使っていた車です。位置情報が一部残っていました」
地図上に点が表示される。黒い幼体が記録された場所に近い。
「こちらが行方不明男性の最後の足取りです」
もう一つの印が追加された。完全に同じ場所ではなかった。だが、同じ山域と呼べる範囲に収まっている。
「日時は?」
「同じ夜です」
御門の視線が二つの印を往復した。
「行方不明の方は、この業者と関係が?」
「今のところ確認されていません。恐竜関連の仕事をしていたわけでもありませんし、業者側の通信記録にも名前は出てこない」
「青森へ行った理由は?」
「ご家族の話では、温泉だそうです」
御門の動きが止まった。
「……温泉?」
「ええ。行方不明になる前に、温泉へ行きたいと話していたそうです。千人入れるくらい大きな風呂があるところだ、と」
御門はしばらく刑事を見たあと、ゆっくり端末へ視線を戻した。
「日本人の多くは温泉が好きです」
「恐竜の多くは好きじゃないでしょう、ですよね?」
恐竜の専門家に恐竜のことを話す不安をにじませた刑事の言葉に、御門は答えなかった。意図的なものではないが、刑事はそれなりに居心地の悪さを感じている。いじわるではない。
青森へ温泉に入りに行った行方不明者。
その直後に東北各所で温泉に浸かっているところを撮影され、それが呼び名にまでなった黒い恐竜。並べれば意味があるように見える。だが、温泉が好きな人間など珍しくない。それだけで何かを証明できるはずもなかった。
御門は何も書き留めなかった。
「業者側には確認したんですか」
「一人、別件で身柄を押さえています」
「何か話しました?」
「ほとんど何も」
刑事が取調べ記録の一部を表示した。
仲介役は違法取引そのものについても曖昧な返事を繰り返し、車両について尋ねられても、自分は運転していないと答えている。黒い幼体の画像を見せられたときには、「覚えていない」の一点張りだった。
最後に、担当刑事が一枚の写真を机へ置いた。行方不明になっている男性の写真だった。
「この人を知っていますか」
仲介役は写真を見た。それまで背もたれへ預けていた身体が、わずかに固くなる。
「四か月前、この人の足取りが途絶えた場所の近くに、あなた方の車がいた。何か知っていますね」
仲介役は写真から目を逸らした。
答えなかった。その後も質問は続いたが、男性については何も話していない。
「これだけですか」
「今のところは」
「黙ったから知っているとは言えませんよね、むしろ知らないと言わなかったと見るべきです」
「ええ。あれは知らない人間の反応ではなかった、十分調べる理由にはなります」
御門は頷いた。二つの捜査が、そこで初めて触れた。
まだ、触れただけだった。
◇
「もう一つあります」
刑事が出した三つ目の資料は、警察のものではなかった。
複数の観測機関から集められた記録だった。電磁的な変動、地磁気観測値の急激な乱れ、各観測点で記録された時刻と数値。御門の専門から外れる項目も多かったが、発生日時を見たところで表情が変わった。
「これも事件と同日同時刻ですか」
「はい、そして複数地点の測定器で急激な乱れを拾っています。懸念だった単独の機器故障ではないそうです」
「雷や太陽フレアの活動由来という線は?」
「規模と分布が合わないという回答でした」
長く続いた現象ではない。一瞬だけ現れ、消えている。しかし観測された変動は通常の範囲と強度から大きく外れており、当時の記録にも原因不明として残されていた。
「発生源は特定できますか」
「そこまでの精度はありません。継続して発生していればともかく、少なくとも観測上あの地点で起きたのはこの一回だけです」
地図が切り替わる、表示されるのは黒い幼体が最後に記録された山域。行方不明男性の足取りが途絶えた山域。違法業者の車両がいた山域。
そして、一過性の強烈な異常な地磁気。
場所、日時ともに無関係として捨てるには近すぎた。
御門は席を立ち、部屋の隅にあったホワイトボードを引き寄せた。
左上に書く。
四か月前――行方不明男性。家族・八王子。
少し離して、
違法取引――黒い幼体。
さらに離れた場所へ、
一過性パルス。
三つを書き終える。
パズルのピースは揃ってきたが、それを組み合わせるパーツの形はまだ見えていなかった。
◇
榊原は朝から都内各地の対応に追われていた。
青梅、町田、多摩で異常行動を疑われる恐竜が現れ、長野から逃げた灰褐色の中型肉食恐竜二頭もまだ捕捉できていない。昨日までなら資料を見るために椅子へ座ったかもしれないが、今日は立ったまま合流した御門の説明を聞いていた。
「つまり、四か月前に青森で黒い幼体が取引されてた」
「取引される予定だった、までです。引き渡しの記録はありません」
「その近くで男が一人消えて、同じ夜に妙な観測記録がある」
「はい」
「幼体と今の黒いのは?」
「同一個体だとは確認できていません。ただし、画像から矛盾する特徴も見つかっていません」
榊原は幼体の写真を見た。
「このころは普通の恐竜だった?」
「記録を書いた人間の主観では」
「それが四か月経ったら、コーラを金払って買って、地図持って、人助けして、こっちへ向かってる」
「最後だけまとめ方が雑です」
榊原はそこでホワイトボードへ目を向けた。数秒後、表情が変わった。
「その男、実家は八王子なんだろ」
「……はい」
「で、黒いのは南へ来てる。俺たちが今守ってるのも八王子だ」
部屋にいた刑事も板を見る。御門は何も答えなかった。ホワイトボードへ近づき、マーカーを手に取る。家族・八王子。黒い幼体。御門の手が、その二つの間へ動いた。
途中で止まる。マーカーの先端は板に触れなかった。
「困ったことに、人間はなんにでも理由、この場合は物語と言ってもいい。それを見出したがります。そうすると、これらがつながって見えてしまいます」
御門はホワイトボードへ背を向けた。
「南へ移動していることは事実です。でも、八王子を目的地にしている証拠はありません。日本列島を南下していれば東京方面へ近づくこと自体は不自然ではない。それに、この幼体と現在の黒色個体が同一だという前提すら確認できていません」
「分かってる、エンタメにするなってことだろ」
「はい、だからこそ今は事実を事実として受け入れるまでです。決して人の意識が入った恐竜が家に帰ろうとしているなんて、荒唐無稽な物語を前提にするわけにはいかない」
榊原はそれ以上言わなかった。
板には事実だけが残った。
◇
御門がもう一枚のホワイトボードを用意した。こちらへ書くのは、四か月前の出来事ではない。現在、各地で起きている異常行動だった。
年齢。出生時期。孵化した場所。幼体期の飼育場所。移送歴。異常行動が確認された場所。
「青梅の三頭は去年、同じ施設で生まれています。町田の個体も若い。多摩で車両へ突進した個体も、成熟してそれほど時間が経っていません」
「長野の五頭も若かったな」
「はい」
さらに青森県からも新しい報告が届いていた。
小型の雑食種が住宅の物置へ繰り返し体当たりした事例。別の地域では若い草食種が道路上で興奮状態となり、警察車両へ何度も突進している。過去の記録を洗い直すと、当時は単発の事故として処理された事例の中にも、似た行動を示す若い個体が含まれていた。
「青森、多くないか」
「そう見えます」
「またその言い方か」
「青森の資料を重点的に調べているから、多く見つかっている可能性もあります。実際に発生率が高いのかは、ほかの地域と条件を揃えて比較しないと分かりません」
御門は青森の事例についても、現在いる場所ではなく過去を追った。
どこで生まれたか。
いつ孵化したか。
幼体だった時期に、どこにいたか。
榊原は二枚のホワイトボードを見比べた。
一枚には四か月前の行方不明男性、黒い幼体、一過性パルス。
もう一枚には現在の異常行動と、若い個体への偏り。
「こっちのパルス、これは狂暴化の原因じゃないのか」
榊原が一枚目を指して問うた。
「分かりません。むしろ、地磁気とパルスは同じものとして扱わないでください」
御門の声が少しだけ強くなった。
「パルスの発生は一回です。少なくとも、同規模の現象がその後も繰り返された記録はありません。一方、異常行動は時間を置いて複数の場所、複数の個体で確認されています。一過性の現象と持続的に現れている問題を、青森という共通点だけで一つにするのは危険です」
「地磁気とパルスの発生源、上流の方に同じ何かがある可能性は?」
「あります」
「そこは否定しないんだな」
「否定する材料もありませんから」
榊原は納得したような、していないような顔で二枚の板を眺めた。
◇
警察側では、行方不明男性と違法業者について追加の確認が続けられていた。
男性の写真を見たときだけ黙り込んだ仲介役が、本当に何も知らないのか。車両が山中へ入った時刻と、男性の最後の足取りをどこまで狭められるのか。警察が積み上げているものも、御門が研究で行っていることと大きくは変わらなかった。
「黒い個体との関連も、家族にはまだ話せませんね」
刑事が資料をまとめながら言った。
「当然です」
「行方不明者の捜査で新しい手掛かりが出たこと自体は伝えられます。ただ、この段階で恐竜の話まで持ち込めば、エンタメのような物語を事実みたいに聞かせることになる」
御門は頷いた。刑事は幼体の写真を閉じようとして、少し手を止めた。
「それに、黒色個体本人に確認する方法も――」
御門がそちらを見る。刑事も自分の言葉に気づいた。
「……先生につられたな」
榊原が横から言った。御門は一言いいたかったが、旗色の悪さを察して二人を無視することにした。研究対象として呼ぶなら、黒色個体でいい。
それでも福島で母子の前へ割って入り、人間たちへ頭を下げ、硬貨を一枚ずつ自動販売機へ入れた存在について話していると、時折その呼び方が妙に遠く感じる。
「しかし、四か月と少しでよく育ったな」
榊原が幼体の写真を見ながら言うと、御門は顔を向けないまま答えた。
「現在は四メートルを超えています。中型から大型と判断される閾値に達していると言えますね」
「まだ育つ見込みか?」
「おそらくは、類似種の傾向と骨格分析からは最低でも五メートルは見込んだほうが」
「となるとまごうことなく大型だな、嫌な話だ」
「本人に言ったら傷つくかもしれませんよ、温泉に入りにくいって」
刑事が小さく笑った。御門は幼体の写真を取り戻すと、何事もなかったように資料へ挟もうとしてしれっとコピーを取った。写真はファイルに戻したが、コピーは壁のよく見えるところに貼り付けた。
◇
情報共有が終わりかけたころ、青森からもう一件の連絡が入った。
山間部の道路で若い中型恐竜が車両へ突進し、警察と危険生物対応班が出動している。先ほど報告された草食種の事案もまだ完全には収束しておらず、周辺で活動するハンターにも応援要請が出ていた。
「東京も足りない。青森も足りない。長野と山梨はまだ後処理中。北海道と九州、四国沖に石川は自衛隊が封鎖と排除中。あっちは避難者も出て仮設住宅やらの手配でてんてこ舞いらしいな」
榊原が端末を見ながら言った。
「関西や中部で出てないのはまだ救いか、都市圏とはいえ日本は一時間も行けばすぐに山だ」
御門は新しい事例を二枚目の板へ追加した。若い個体。青森。
通常なら距離を取る状況で退かない。書き終えると、刑事も青森関係の資料をまとめ始めた。
「今日はここまでですね。業者の車両記録はもう一段掘ります。再聴取も続けます」
「幼体の元画像が残っていれば送ってください。画像だけでも確認できる特徴が増えるかもしれません」
「分かりました、趣味ではないですよね?」
「趣味だけではありません。観測記録は専門の方にも見てもらいます。ただし、黒色個体や現在の異常行動については伏せた状態で、まず現象そのものを評価してもらいたいです」
「先入観を持たせないため?」
御門は最初のホワイトボードを見ながらうなずいた。
四か月前――行方不明男性。家族・八王子。
違法取引――黒い幼体。
一過性パルス。
そこには最後まで、三つの事実だけが残った。
◇
隣の部屋から大きな声が聞こえたのは、その直後だった。
「八王子、入った!」
榊原が真っ先に振り向いた。
部屋に残っていた人間たちが一斉に動き、御門も閉じかけていた端末を開き直す。大型モニターへ東京都西部の地図が表示され、その横に防犯カメラの映像が呼び出された。
夜の住宅地だった。街灯の下を、灰褐色の影が横切る。
「時刻は?」
「十二分前です。八王子市内で間違いありません」
「どっちだ」
「映像だけでは個体識別できません。ただ、長野から逃走した二頭のうち一頭と見ていいかと。もう一頭はまだ不明です」
榊原は無線機を取った。
「岳たちに回せ。警察は周辺道路を閉じろ。見つけても無理に追うな。住宅地で走らせるほうがまずい」
次々に指示が飛び、警察側も動き始める。御門はモニターに映った住宅街と、そのすぐ横に表示された地図を見た。
八王子。
数分前まで見ていたホワイトボードにも、同じ地名が書かれている。
御門は青森の資料を閉じた。
四か月前に何が起きたのかを調べる仕事は、明日も続けられる。今は、生きている人間が暮らす街へ入った二頭を探すほうが先だった。
一頭は八王子へ入った。その後の位置は分からない。もう一頭も見つかっていない。
そして警察も御門も、黒色大型個体がどこまで近づいているのか把握していなかった。
街はすでに止まっている。店が閉まり、道路が封鎖され、人々は家の中で朝を待っている。
それでも夜が明ければ、薬を飲む人がいる。食べ物も必要になる。いつまでも、すべてを止めておくことはできない。
止まった街にも、朝は来る。
その朝までに二頭を見つけられる保証は、どこにもなかった。
第37章 真実はいつもひとつ 了