古い折り畳み式の携帯電話が、向こうから鳴ったのは、十二月の終わりの、よく晴れた朝だった。
莉奈は、勤め先の雑貨店のバックヤードで、段ボールを潰していた。ポケットの中で、聞き覚えのある、そして二度と聞きたくなかった着信音が鳴った。
手が、止まった。
登録されている番号は、一つだけだった。
『おはようございます』
灰色の背広の人物の声は、あいかわらず平坦だった。
『二つ目を、お願いします』
◇
「……つまり」
莉奈は、助手席で、手渡された資料の束を握りしめていた。
「私たちに、心霊スポット突撃系の配信者のふりをして、廃墟に入れって言うの」
「そういうことです」
灰色の乗用車の後部座席で、灰色の背広の人物が頷いた。運転席には、やはり特徴のない顔の人物が座っている。プルゴリは、莉奈の隣で、資料の写真を食い入るように見つめていた。
写真には、山の中の、古い採石場の跡が写っていた。崩れかけた事務所と、錆びた重機と、それから、場違いなほど頑丈そうな、窓のない大きな倉庫。
「福島と栃木の県境の、山の中です。十年前に採石場が廃業して、そのあと、ある組織が買い取りました。表向きは、資材置き場として」
「表向きは」
「実際には、恐竜を飼っていました」
その人物は、資料の一枚を指で示した。
「人を襲うように訓練した恐竜を、海外から運び込んで、一時的に置いておく場所です。その恐竜を使って、どこかで何かを壊す。誰かを消す。そういう仕事を請け負う組織でした」
車内が、静かになった。
「……でした、ってことは」
「もう、ありません」
その人物は、平然と言った。
「この数か月で、組織は壊滅しました。私たちが手を下したわけではありません。恐竜の異常行動は、ご存じでしょう。彼らが飼っていた恐竜たちも、例外ではなかったようです。ある夜を境に、構成員とは誰とも連絡が取れなくなった。施設は、それきり放置されています」
莉奈は、資料を膝の上に落とした。
「……飼ってた恐竜に、食べられたってこと?」
「推測ですが」
「その施設に、私たちが入るの?」
「はい」
「何がいるかも分からないのに?」
「何がいるか分からないから、あなた方にお願いしています」
その人物は、まっすぐに莉奈を見た。
「炭鉱のカナリア、という言葉をご存じですか。昔、炭鉱夫は、坑道に入るとき、鳥かごにカナリアを入れて持っていったそうです。有毒なガスが溜まっていると、人間より先に、カナリアが倒れる。それを見て、人間は引き返す」
「……私たちが、カナリアってこと」
「そういうことです」
プルゴリが、資料から顔を上げた。
「つまり、我々は、プロジェクトのパイロット・ユーザーということですね!」
「そういう呼び方をしたことはありませんが、近いと思います」
「近くないわよ!」
莉奈は、思わず怒鳴った。
◇
「施設の中には、何が残っているか分かりません」
灰色の背広の人物は、淡々と説明を続けた。
「恐竜が残っているかもしれない。死骸かもしれない。鎮静剤や興奮剤の類が、漏れ出しているかもしれない。建物そのものが、崩れかけているかもしれない。ですから、まず、あなた方に入っていただいて、何があるのかを見てきてほしいのです」
「なんで、配信者のふりなんか」
「保険です」
その人物は、小さな機械を二つ、取り出した。胸ポケットにつける、小型のカメラだった。それと、片耳に入れる、目立たないイヤホン。
「あなた方の配信は、私たちにだけ届きます。どこのサイトにも流れません。それでも、外から見れば、廃墟に突撃する配信者そのものです」
「……万が一のときは」
「万が一のときは」
その人物は、少しも声の調子を変えなかった。
「再生数欲しさに危険な廃墟へ侵入した、愚かな配信者二名の事故として処理されます。ニュースにも、そう出ます」
莉奈は、膝の上で、拳を握りしめた。
そういう話だということは、分かっていた。三つこなせば、全部なかったことになる。ただし、命の保証はない。最初から、そういう約束だった。
それでも、実際に言葉にされると、喉の奥が冷たくなった。
「……プルゴリ」
「はい」
「あんた、配信なんかやったことあるの」
「ありません!」
プルゴリは、胸を張った。
「しかし、プレゼンテーションには自信があります! コンテンツ・クリエイターとして、オーディエンスのエンゲージメントを最大化してみせましょう!」
「視聴者、この人たちだけなのよ」
「では、この方々のエンゲージメントを最大化しましょう!」
灰色の背広の人物は、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、口の端が動いたように、莉奈には見えた。
◇
「はーい、どうもー! 莉奈とー!」
「プルゴリです!」
「今日はー、ネットで噂の、ヤバい廃墟に突撃しちゃいまーす!」
胸元のカメラに向かって、莉奈は、思いきり明るい声を作った。半年間、健一の前で磨き続けた笑顔を、全開にした。誰に見せるためなのかと思うと、虚しさで膝から力が抜けそうになった。
採石場の跡は、雪に覆われていた。
崩れかけた事務所のプレハブ。錆びて動かなくなった重機。その奥に、写真で見た、窓のない大きな倉庫が建っていた。灰色の外壁に、ところどころ、黒い染みが浮いている。正面の大きな搬入口の扉は、半分だけ開いていた。
開いていた、というより、内側から押し曲げられていた。
分厚い金属の扉が、まるで紙のように、外側へ向かってめくれ上がっていた。
「……ねえ、プルゴリ」
「はい」
「あれ、何が出てきたら、ああなるの」
「……ビッグ・サムシング、ですね」
『止まらずに進んでください』
耳の中のイヤホンから、灰色の背広の人物の声がした。
『入り口付近の空気の匂いを、言葉で教えてください』
「匂い……」
莉奈は、鼻をひくつかせた。
「……古い、獣の匂い。それと、なんか、病院みたいな。消毒液っぽいの」
『鼻や喉に、刺激はありますか』
「ない……と思う」
『では、進んでください』
莉奈は、プルゴリの顔を見た。プルゴリも、莉奈の顔を見た。
二人は、めくれ上がった扉の隙間から、倉庫の中へ入った。
◇
中は、暗かった。
天井近くの換気口から、細い光が何本か差し込んでいるだけだった。懐中電灯の光を向けると、埃が、光の筋の中でゆっくりと舞っていた。
床は、分厚いゴムのマットで覆われていた。あちこちが裂けて、めくれ上がっている。その下のコンクリートに、深い溝が何本も刻まれていた。
爪の跡だった。
「……うそでしょ」
莉奈は、懐中電灯を、その溝に沿って動かした。一本一本が、莉奈の腕よりも太かった。
『その痕跡を、できるだけ近くで映してください』
莉奈は、震える手で、胸元のカメラを溝に近づけた。
「これ、何の恐竜の……」
『大型です。おそらく、十メートル級』
十メートル。
莉奈の頭の中で、何かが、嫌な音を立てた。
十メートル。泥だらけで、臭くて、ぼろぼろで。軽トラックごと、自分たちを噛み上げた。
「……ねえ」
声が、かすれた。
「まさか、ここって。あの、山の中で、私たちを襲った……」
『確認中です。進んでください』
イヤホンの声は、否定しなかった。
倉庫の奥に、檻が並んでいた。
檻と呼ぶには、あまりにも大きかった。鉄骨を組んだ枠に、太い鉄格子がはめ込まれている。一番奥の檻は、二階建ての家がまるごと入りそうなほどの大きさだった。その鉄格子の何本かが、内側から、外へ向かって大きく曲がっていた。
檻の床に、何かが落ちていた。
プルゴリが、懐中電灯を向けた。
輪だった。金属の、太い輪。人間の胴回りより、ずっと大きい。内側に、細い電線が何本も走っていて、その先が、小さな箱のような装置につながっていた。輪の内側には、黒ずんだ何かが、こびりついていた。
「……首輪、ですね」
プルゴリが、小さく言った。いつもの横文字は、出てこなかった。
『電気を流す仕組みの首輪です。訓練用の』
イヤホンの声が、説明した。
『言うことを聞かないと、電気が流れる。言われた通りに動けば、止まる。それを、何年も繰り返して、教え込むのです』
莉奈は、その首輪から、目を逸らせなかった。
あの夜の、濁った目を思い出していた。焦点の合わない目。何かを探すように動き続けていた目。顎から垂れていた粘液。苦しげな呼吸。
あれは、ここで、こうやって作られたのだ。
隣の檻は、それより、ずっと小さかった。
その床にも、首輪が落ちていた。大型のものより、一回り小さく、電極は無かった。ただの個体識別のための首輪のようだ。鉄格子に赤い鱗が何枚か引っかかっていた。
『その鱗を、一枚、回収してください』
「え、さ、触るの?」
『手袋をしてきましたね』
莉奈は、泣きそうになりながら、鉄格子に手を伸ばした。赤い鱗は、思っていたより薄くて、硬かった。指先でつまむと、乾いた音を立てて外れた。
「……赤い恐竜」
莉奈は、手の中の鱗を見下ろした。
「福島の。ニュースで見た。あの黒い恐竜が、戦ってた……」
『可能性があります』
莉奈は、鱗を、渡されていた小さな袋に入れた。手が、震えていた。
この倉庫から、二頭の恐竜が出ていった。一頭は、福島で人を殺した。もう一頭は、栃木の山で、自分たちを殺しかけた。
そして、このどちらも、最初は、ここで、首輪をはめられていたのだ。
◇
倉庫の奥の事務室は、ひどく荒らされていた。
机はひっくり返り、書類が床一面に散らばっていた。壁際の金属製のキャビネットは、引き出しが全部、乱暴に引き抜かれている。その真ん中で、小さな金庫が、扉を半開きにして転がっていた。
『金庫の中を、映してください』
プルゴリが、金庫を覗き込んだ。
「……ほとんど、空っぽです。紙が数枚と……あ」
プルゴリの太い指が、金庫の奥から、何かをつまみ出した。
小さなUSBメモリだった。
『それを、回収してください』
「ラジャーです!」
プルゴリは、それを胸ポケットにしまおうとした。
「ちょっと待って」
莉奈が、その手首を掴んだ。
「そこ、入れたら、落とすわよ。あんた、さっきから三回、懐中電灯落としてるでしょ」
「……では、ベストポジションはどこに」
莉奈は、プルゴリの手からUSBメモリをひったくると、自分のブーツの中に、靴下と一緒に押し込んだ。
「ここなら、落とさないでしょ」
『……適切な判断です』
イヤホンの声が、ほんの少しだけ、間を置いてから言った。
床に散らばった書類を、懐中電灯で照らしていく。ほとんどは、外国語だった。莉奈には読めなかった。それでも、カメラに映していった。数字の並んだ表。体重の推移らしい折れ線グラフ。誰かの名前と、金額の一覧。
その一覧の端が、焦げていた。
誰かが、燃やそうとしたのだ。燃やしきる前に、何かが起きた。
『そこまでで、十分です』
イヤホンの声が言った。
『顧客の一覧の一部です。組織そのものは、もう残っていない。けれど、この組織に仕事を頼んだ側は、まだどこかにいます』
莉奈は、焦げた一覧を見下ろした。
この組織に、誰かを消してほしいと頼んだ人間たち。何かを壊してほしいと、金を払った人間たち。
「……これ、見つけて、どうするの」
『私たちの仕事ではありません。この先は、別の人たちの仕事です』
イヤホンの声は、それ以上、何も言わなかった。
◇
倉庫の外へ出たとき、莉奈は、思わずその場にしゃがみ込んだ。
冬の日差しが、眩しかった。雪の白さが、目に痛かった。冷たい空気を、肺の奥まで吸い込んだ。消毒液と獣の匂いが、少しずつ、身体の中から抜けていった。
「……生きてる」
「サバイバル・サクセス……」
プルゴリも、膝に手をついて、肩で息をしていた。濃紺のスーツの膝が、倉庫の埃で真っ白になっていた。
「プルゴリ」
「はい」
「あんた、さっき、首輪見たとき、何も言わなかったわね。いつもの、変な英語」
プルゴリは、少しだけ黙った。
「……あれは、ビジネスでは、ありませんでしたから」
莉奈は、何か言い返そうとして、やめた。
『お疲れさまでした』
イヤホンから、声がした。
『二つ目は、これで――』
そこで、声が途切れた。
ほんの一瞬の沈黙のあと、イヤホンの声の調子が、わずかに変わった。
『……動かないでください』
「え?」
『採石場の入り口に、車が二台、入ってきます。私たちの車ではありません』
莉奈は、顔を上げた。
採石場の入り口の、雪に埋もれた坂道を、黒いワンボックスカーが二台、ゆっくりと登ってくるところだった。
◇
ワンボックスカーは、倉庫の前で止まった。
扉が開いて、人が降りてきた。五人。全員が、黒っぽい防寒着を着ていた。そのうちの三人は、明らかに日本人ではない顔立ちだった。残りの二人は、日本人のように見えた。何人かの腰のあたりが、不自然に膨らんでいた。
五人は、倉庫の前にしゃがみ込んでいる二人を見て、足を止めた。
互いに、顔を見合わせた。
『落ち着いて聞いてください』
イヤホンの声が、低く言った。
『あの五人は、別の組織の人間です。壊滅したこの組織の、残り物を拾いに来たのでしょう。恐竜か、顧客の一覧か、その両方か』
「……ど、どうすればいいの」
莉奈は、唇をほとんど動かさずに囁いた。
『あなた方を助ける理由は、私たちには、ありません』
莉奈の心臓が、止まりそうになった。
『ですが、あの五人は、確保したい。情報が欲しい。私たちの人員が、そちらへ向かっています。到着まで、十五分』
「じゅ、十五分……」
『それまで、時間を稼いでください。あの五人を、そこに留めてください。逃がさないように。あなた方が、殺されないように』
「どうやって!」
『方法は、お任せします』
莉奈は、目の前が真っ暗になりかけた。
五人のうちの一人が、こちらへ歩いてきた。日本人らしい、四十がらみの人物だった。鋭い目つきで、莉奈とプルゴリを交互に見下ろした。
「……お前ら、何だ」
莉奈の頭の中で、何かが、かちりと音を立てた。
逃げても、追いつかれる。黙っていても、怪しまれる。本当のことなど、言えるはずがない。
なら、やることは一つだった。
半年間、健一の前で、毎日やってきたことだった。
「あーっ、すみませーん!」
莉奈は、勢いよく立ち上がった。満面の笑みを、顔に貼りつけた。
「私たち、配信者なんですー! ここ、ネットで有名な心霊スポットって聞いてー、突撃しに来ちゃったんですー!」
「……配信者?」
「はいっ! 莉奈チャンネルでーす! 登録者、まだ三人なんですけどー!」
相手の眉が、ぴくりと動いた。莉奈は、構わず胸元のカメラを指さした。
「今も、配信中なんですよー。ほら、ここ、カメラ。ね、プルゴリ」
「イエス!」
プルゴリが、跳ね起きた。
「我々は、ネクスト・ジェネレーションのコンテンツ・クリエイター・ユニットです! 本日は、廃墟というレガシー・アセットの、ポテンシャルを発掘するプロジェクトの一環として!」
「……何言ってんだ、こいつ」
「よく言われます!」
相手は、莉奈の胸元のカメラを、じっと見た。それから、後ろの仲間たちのほうを振り返って、何か短く言った。外国語だった。仲間の一人が、首を横に振った。
「配信、見せろ」
「えっ」
「本当に配信してるなら、画面があるだろ。見せろ」
莉奈の背中を、冷たい汗が流れた。
配信の画面など、ない。カメラの映像は、別室にだけ送られている。スマートフォンには、何も映っていない。
『限定配信です』
イヤホンの声が、囁いた。
『招待した人にしか見えない設定にしている、と言ってください』
「げ、限定配信なんですー!」
莉奈は、声を裏返らせた。
「まだ登録者三人だから、恥ずかしくてー、招待した人しか見られない設定にしてるんですー! お母さんと、おばあちゃんと、あと高校の時の友達!」
「……」
相手の目が、細くなった。信じていない目だった。
あと、十二分。
◇
「お前ら、中、見たのか」
「見ましたー! すっごい暗くて、めっちゃ怖かったですー!」
「何があった」
「えっとー、なんか、でっかい檻と、なんか、変なわっかと……」
莉奈は、指を折って数えるふりをした。
「あと、事務所みたいなとこが、ぐっちゃぐちゃでー。泥棒でも入ったのかなって。あ、もしかして、お兄さんたち、ここの持ち主さんですか? 勝手に入っちゃって、ごめんなさーい!」
莉奈は、両手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。
「何か、持ち出したか」
「えー、持ち出してないですよー! だって、怖いじゃないですかー、呪われたら!」
ブーツの中で、USBメモリが、足の裏に食い込んでいた。相手は、莉奈の全身を、上から下まで見た。それから、プルゴリを見た。
「お前。ポケットの中、出せ」
「イエス!」
プルゴリは、満面の笑みで、スーツのポケットを全部裏返した。中から出てきたのは、のど飴が三つと、くしゃくしゃのレシートと、プロテインの試供品の小袋が一つだった。
「……なんだ、これ」
「プロテインです!」
プルゴリは、試供品の小袋を、両手で恭しく差し出した。
「実は私、フィットネス業界へのキャリアチェンジを果たしまして! こちら、私が担当しているジムのオリジナル・プロテインです! ホエイとソイのハイブリッド・ブレンドで、筋肉の合成効率を最大化する、画期的なソリューションで!」
「いらねえよ」
「では、お名刺だけでも!」
プルゴリは、どこからともなく名刺入れを取り出した。いつの間に入れていたのか、莉奈にも分からなかった。
「お兄さん、いい身体をしていらっしゃる! しかし、僧帽筋に比べて広背筋がややアンダーパフォームしている! このままでは、姿勢のバランスに長期的なリスクが!」
「……おい、こいつ、何なんだ」
相手が、後ろの仲間たちを振り返った。外国人の一人が、何か言いながら、肩をすくめて笑った。
あと、九分。
◇
五人のうちの、外国人の一人が、苛立ったように何かを言った。
日本人らしい人物が、それに頷いて、莉奈のほうへ向き直った。その手が、腰の膨らみのあたりに、ゆっくりと伸びていった。
「……もういい。お前ら、ちょっと車に乗れ」
莉奈の喉が、引きつった。
「え、えー、なんでですかー」
「話は、車の中で聞く」
手が、防寒着の裾をめくった。黒い金属の塊が、ちらりと見えた。
莉奈の頭の中が、真っ白になった。
あと、七分。七分もある。車に乗せられたら終わりだ。山の中の、どこかへ連れていかれて――。
そのとき、莉奈の膝から、ふっと力が抜けた。
わざとではなかった。本当に、抜けたのだ。恐怖で。莉奈の身体は、雪の上に、崩れるように倒れ込んだ。
「り、莉奈さん!」
プルゴリが、叫んだ。
「莉奈さん! しっかりしてください! ……ああっ、これは、いけない! 低血糖による、メディカル・エマージェンシーです!」
プルゴリは、雪の上に膝をつくと、莉奈の身体を抱き起こした。それから、相手の顔を見上げて、真っ白な歯を見せた。
「皆さん! 彼女は今、深刻なグルコース不足に陥っています! このままでは、ブレインの機能が! 誰か、甘いものを! チョコレートを! お持ちではありませんか!」
「……知るかよ」
「では、この、のど飴を!」
プルゴリは、雪の上に散らばったのど飴を拾い集めると、莉奈の口元へ押しつけた。
「莉奈さん、これを! ハチミツ・レモン味です! 糖分です!」
莉奈は、半分本当に意識が遠のきかけながら、口の中に押し込まれたのど飴を、噛んだ。甘かった。ハチミツの味がした。
ばかみたい、と思った。
こんなところで、こんな人たちの前で、のど飴を舐めながら死にかけている。半年前の自分が見たら、何と言うだろう。
相手が、舌打ちをした。
「いいから、二人とも、立て」
黒い金属の塊が、今度ははっきりと、防寒着の外へ引き抜かれた。
あと、四分。
◇
そのとき、相手の足元で、乾いた音がした。
雪の下だった。
倉庫の前の地面は一面雪に覆われていた。けれど、その雪の下には、採石場の古い排水溝が走っていた。何年も手入れされずに放置されて、錆びた鉄の蓋が、薄く積もった雪に隠れていたのだ。
相手が、銃を引き抜こうと一歩踏み出したその足の下で、錆びきった蓋が、音を立てて割れた。
「うおっ――」
相手の身体が、膝まで、排水溝の中に落ち込んだ。銃が手から離れて、雪の上を滑っていった。
莉奈の目の前まで滑ってきた。
莉奈はそれを見た。
プルゴリもそれを見た。
次の瞬間、プルゴリが黒い金属の塊を、靴の先で思いきり蹴り飛ばした。銃は、雪の上をくるくると回りながら、崩れかけた重機の下へ消えていった。
「ノー・ウェポン! ノー・プロブレム!」
「何やってんのよあんた!」
「いえ、反射的に!」
排水溝に脚を取られた相手が、怒鳴り声を上げた。後ろの四人が、一斉にこちらへ駆け寄ってきた。そのうちの何人かの手に、同じような黒い塊が握られていた。
莉奈は、プルゴリの腕にしがみついた。
終わった、と思った。
そのときだった。
雪の積もった斜面の上から、いくつもの影が、音もなく滑り降りてきた。
黒い服だった。顔は、覆われていた。足音が、ほとんどしなかった。四人の背後に回り込んだかと思うと、次の瞬間には、四人とも、雪の上に伏せていた。何が起きたのか、莉奈には、まったく分からなかった。銃声は、一発も鳴らなかった。悲鳴さえ、短かった。
排水溝に脚を取られていた最後の一人も、気がついたときには、両腕を背中で固められて、雪に顔を押しつけられていた。
黒い服の一人が、その耳元に顔を寄せて、何か短く言った。英語のようだった。莉奈には、聞き取れなかった。
全部で、十秒もかからなかった。
◇
「お疲れさまでした」
灰色の背広の人物が、斜面の上から、ゆっくりと降りてきた。
莉奈は、雪の上に座り込んだまま、動けなかった。口の中で、まだ、のど飴が溶けていた。
「……十五分って、言ったじゃない」
「十四分でした」
その人物は、腕時計を見ながら言った。
「一分、早く着きました」
「……一分」
莉奈は、乾いた笑いを漏らした。笑ったら、涙が出てきた。
灰色の背広の人物は、莉奈の前にしゃがみ込んだ。
「回収したものを」
莉奈は、震える手でブーツを脱いだ。靴下と一緒に押し込んでいたUSBメモリを、引っ張り出した。それから、赤い鱗の入った袋。全部、その人物の手のひらの上に載せた。
「……確かに」
その人物は、それを、背広の内ポケットにしまった。
「二つ目は、これで完了です」
「……あと、一つ」
「あと、一つです」
その人物は、立ち上がった。それから、少しだけ、何かを考えるように黙った。
「排水溝の蓋が割れたのは、偶然ですか」
「……当たり前でしょ」
「銃を蹴り飛ばしたのは」
「リフレクションです!」
プルゴリが、胸を張った。
灰色の背広の人物は、しばらく、二人の顔を見ていた。
「……そうですか」
それだけ言って、背を向けた。
去り際に、その人物が、小さく呟くのが聞こえた。
「……本当に、悪運が強い」
◇
帰りの車の中で、莉奈は、窓の外を流れていく雪景色を、ぼんやりと眺めていた。
隣で、プルゴリが、いびきをかいていた。濃紺のスーツは、膝も肘も、雪と埃でぐしゃぐしゃだった。片方の袖のボタンが、取れかけていた。
莉奈は、自分の手のひらを見下ろした。
赤い鱗をつまんだ指先の感触が、まだ残っていた。あの首輪の、内側にこびりついていた、黒ずんだもの。
あの夜、自分たちを殺しかけた巨大な恐竜は、あそこで、ああやって作られたのだ。電気を流されて、薬を打たれて、何年も、何年も。
怖かった。今でも、思い出すだけで、指先が冷たくなる。
それでも、ほんの少しだけ。
ほんの少しだけ、可哀想だと思った。
「……ねえ、プルゴリ」
いびきが、止まった。
「……はい」
「あの、でっかいやつ。まだ、どこかの山にいるのかな」
プルゴリは、しばらく黙っていた。
「……いるかもしれません」
「……そう」
莉奈は、窓の外を見た。
雪の山が、どこまでも続いていた。どこかで、あの濁った目をした巨体が、まだ、満たされない何かを探して歩いているのかもしれなかった。
莉奈は、目を閉じた。
「……あと、一回ね」
「……あと、一回、ネクストがファイナルワークです」
プルゴリが、もう一度いびきをかき始めるまで、それほど時間はかからなかった。
断章 カナリアは歌う 了