十二月二十四日、午後一時十分。
妹は、リビングのテーブルで、スマートフォンの画面を三度読み返した。
八王子市からの通知だった。緊急事態宣言は継続中。不要不急の外出は引き続き控えること。その下に、小さな字で一文が添えられている。通院、服薬に必要な薬の受け取りなど、生活の維持に不可欠な外出については、十分に注意したうえで行ってください。
昨日の昼、あきる野市南部で確認された一頭は、夕方を最後に足取りが途絶えている。もう一頭は、昨日の朝から確かな姿が見つかっていない。夜のうちに新しい被害は出ておらず、八王子市内での目撃情報は、今朝の時点でもゼロだった。
薬局にも、電話で確かめてあった。昼前に、予定どおり入荷した。今日は午後一時から三時まで、処方薬の受け渡しのためだけにシャッターを半分開ける。そう言われた。
「警報は出てないみたい。恐竜の目撃も、しばらくないって」
妹は、画面を父に向けた。父は、それを長いあいだ見ていた。
寝室から、浅い咳が聞こえた。
母の熱は、朝よりも上がっていた。三十八度四分。手持ちの薬は、今夜の分で最後だった。明日の朝の分は、もうない。父は昨夜からほとんど眠っておらず、目の下に濃い隈ができていた。
「自転車で行って、大通りだけ使って、受け取ったら、まっすぐ帰る。パッと行って帰ってくれば、三十分もかからないでしょ」
父は、眉間に深い皺を刻みながら、腕を組んでいる。すぐには答えが出なかった。
「……ああ」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「分かってるんだ。お前が行くのが一番いいってことは。分かってるんだが」
その先は、言わなかった。
寝室の扉の向こうから、母の声がした。
「……ごめんね。こんな日に」
「平気だって。すぐ戻るから、寝てて」
妹は、わざと明るい声で返した。
父は、玄関までついてきた。妹がスニーカーの紐を結ぶのを、上から黙って見下ろしていた。紐を結び終えて顔を上げると、父は、何か言いかけて、口を閉じた。それから、決めてあったことを、一つずつ確かめるように言った。
「出たら、電話しろ」
「うん」
「薬局に着いても、電話すること」
「はいはい、わかったって」
「帰るときも」
「電話するって、行って、着いて、帰るときに。三回でしょ。何回確認するの」
妹は笑って立ち上がり、玄関の扉を開けた。冷たい空気が、廊下に流れ込んできた。空は低く曇っていて、昼過ぎだというのに、夕方のように薄暗かった。
門を出て、自転車にまたがったところで、一回目の電話をかけた。
「今、出た。周りは静かだけどパニックとかは無いよ、平日の昼間みたいな感じ」
『……気をつけろよ、少しでも危険だと思ったら迷わず戻りなさい。今更だが子供を犠牲に生き延びたい親なんかいないんだから』
「愛されてるねぇ~、ふふ。ちょっとそこまで行ってきます」
ペダルを踏み込む。角を曲がる前に振り返ると、玄関の扉の隙間から、父がまだこちらを見ていた。
◇
大通りには、車がほとんど走っていなかった。
信号だけが、誰もいない交差点で律儀に色を変えている。コンビニは閉まり、ガソリンスタンドの屋根の下には、営業休止の札が下がっていた。歩道を行くのは、マスクをして早足で歩く年配の女性と、宅配の制服を着た配達員くらいのものだった。
どこかで、犬が吠えていた。いつまでも、吠えやまなかった。
薬局は、駅へ向かう商店街の中ほどにあった。
母に付き添って、何度も来た店だった。母が待合の椅子で薬を待つあいだ、妹は店先のガチャガチャを眺めて時間を潰した。そのガチャガチャも、今日は、半分下りたシャッターの陰に隠れていた。隙間から、店内の白い明かりが漏れていた。
自転車を店の脇に停め、身をかがめてシャッターをくぐる。
先客が、二人いた。杖をついた老婆と、小さな子供を抱いた母親。三人とも、顔を見合わせて、小さく会釈をした。こんな日にここにいる理由は、訊かなくても分かった。
妹は店の隅で、二回目の電話をかけた。
「薬局に着いたよ。待ってる人二人だけだからそんなに待たないかな。なんか不思議な感じ、街中がシーンとしてて」
『そうか、よかった』
父の声から、ほんの少しだけ力が抜けた。
『受け取ったら、すぐに帰るんだぞ。その時にも連絡しろ』
「分かってるって、もう」
カウンターの奥では、白衣の薬剤師が、届いたばかりの段ボールを開けて薬を仕分けていた。疲れた顔をしていたが、妹と目が合うと、無理に笑ってみせた。
「ごめんなさいね、お待たせして。今、まとめて確認してますから。あと十分くらいで、皆さんの分、お渡しできます」
「大丈夫です、よろしくお願いします」
妹は待合の椅子に腰を下ろした。
子供が、母親の腕の中でぐずっていた。老婆が、上着のポケットから飴を一つ取り出して、子供の前に差し出した。母親が恐縮したように頭を下げ、子供は飴を握りしめて泣きやんだ。
店内の暖房が、じわりと頬を温めた。
あと十分。受け取って、自転車に乗って、三回目の電話をかけて、まっすぐ帰る。帰ったら、母に薬を飲ませて、おかゆを温めて、それから――。
ポケットの中で、スマートフォンが鳴った。
自分のだけではなかった。老婆の上着のポケットでも、母親の鞄の中でも、カウンターの奥の薬剤師の白衣の中でも、同時に、同じ甲高い音が鳴り響いていた。
緊急速報の音だった。
店の中の空気が、一瞬で凍りつき一拍遅れて、外から防災行政無線の声が聞こえてきた。
「八王子市から、緊急のお知らせです。八王子市内において、危険な中型肉食恐竜が確認されました。屋外にいる方は、ただちに近くの建物へ避難してください。繰り返します。八王子市内において――」
子供を抱いた母親が、子供の頭を自分の胸に押しつけた。老婆の手の中で、杖が小さく震えた。
最初に動いたのは、薬剤師だった。カウンターを回り込んで飛び出してくると、半分開いていたシャッターの取っ手に飛びついた。
「下ろします! 皆さん、外に出ないで!」
金属の擦れる音がして、シャッターが床まで下りた。外の薄暗い光が消えて、店内には、蛍光灯の白い明かりだけが残った。
妹は、閉じたシャッターを見つめていた。
その向こうに、自転車がある。その先に大通りがあり、交差点があり、家がある。三十分もかからない距離だった。
スマートフォンの画面に、通知が次々に流れてくる。目撃地点、浅川北岸。住宅地の方向へ移動中。屋外へ出ないでください。
浅川北岸。
妹は、その地名を指でなぞった。この薬局から、二キロも離れていなかった。
手の中で、スマートフォンが震えた。父だった。
『警報聞いたな? 絶対に薬局から出るなよ、薬は一分一秒を争うものじゃないんだ』
父の声は、聞いたことがないほど低かった。
『絶対に出るな。そこにいろ。いいな』
「……うん」
『いざとなれば薬なんかいい。母さんは俺が何とかする。だから、そこから――』
「お父さん」
妹は、自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。
「大丈夫。シャッター閉まってるし、中に人もいるし。お父さんは、お母さんのそばにいて。またかけるから」
父は、しばらく何も言わなかった。電話の向こうで、母の咳が聞こえた。
『……帰るときに電話しろよ。三回目は、まだだからな』
「うん。分かってる」
電話を切ると、カウンターの奥から、薬剤師が戻ってきた。両手に、白い紙袋をいくつか抱えていた。
「こんなときですけど、お薬だけは、先にお渡ししておきますね。皆さん、そのためにいらしたんですから」
妹の手の上に、紙袋が一つ、載せられた。
軽かった。こんなに軽いもののために、と思いかけて、妹はその考えを振り払った。袋の表で、母の名前が、小さく揺れていた。
妹は、紙袋を鞄の一番奥にしまい、肩紐を、両手で握りしめた。
シャッターの向こうを、遠く、サイレンが通り過ぎていった。
これから帰るよの、三回目の電話は、まだかけられなかった。
◇
「浅川北岸、目撃一件! 住宅地方向へ移動中!」
指揮所に声が飛んだときには、岳はもう、上着の袖に腕を通していた。
「映像なし、通報のみ! 灰褐色、三メートル級、一頭!」
「発見されたのが一頭だけなら、もう一頭がどこかにいる。それを忘れるな」
榊原が、指揮所の全員に聞こえるように言った。それから、岳を見た。
「岳、正念場だ。行くぞ、こっから先は人間と恐竜の生存競争だ」
二人を乗せた車両が八王子の市街地へ入ったのは、それから十五分後だった。
街は、止まっていなかった。
止まっていたはずの街が、一斉に動き出していた。緊急速報を受けて、外にいた人間が、我先にと近くの建物へ駆け込んでいく。それだけなら、まだよかった。家族のもとへ戻ろうとする車が、通りという通りに、一斉に飛び出していた。交差点で二台が接触し、その後ろに車列ができる。クラクションが鳴り続ける。歩道では、転んだ老人を若い会社員が抱き起こしていて、そのすぐ脇を、子供の手を引いた母親が走り抜けていく。
「くそっ、グリッドロック状態です、もう動きません!」
運転席の警察官が、ハンドルを叩いた。車は、もう三分近く、同じ場所から動いていなかった。
「降ります。走ったほうが早い」
岳はライフルケースと大型のマチェットを掴んで、扉を開けた。榊原も、何も言わずに続いた。無線は、ひっきりなしに鳴っていた。
もはや情報が錯そうしており、行先すらも判断がつかない混沌に包まれ始めていた。
『浅川北岸から南へ二百! 民家の庭を横切った!』
『別地点、駐車場に灰色の影との通報、確認中!』
『交差点で車両事故、負傷者二名、救急要請!』
『さっきの駐車場、猫の見間違い! 訂正!』
『最初の地点から東へ三百! ブロック塀を越えた!』
岳は、走りながら、頭の中の地図を組み直していた。民家の庭。塀。生け垣。路地。人間にとっては行き止まりの場所が、三メートルの肉食恐竜にとっては、ただの通り道だった。追いかけて、角を曲がるたびに、そこにはもういない。
「だめだ、市街地で徒歩で追うには速すぎる。市街戦でおよそ厄介なのはこの手合いだ、三次元に動き回る殺戮者となると二次元移動の人間では補足しきれん」
榊原のぼやきに岳は、息を切らしながら言った。
「文字通り道なき道を使ってます。家と家の隙間、塀の上、空き家の軒先を抜けてる。こっちが尻尾をつかむころには、奴はもう二本向こうです」
榊原が、荒い息の合間に答えた。
「野生のなせる本能なのか、頭を下げて物陰ばかり選んで走ってやがる。長野で撃たれて覚えたんだろう。開けたところに出たら撃たれる、ってな。お笑い種だぜ、恐竜は巧みにこっちの照準を躱しているのに、人間様は自分から射線に出てくるってのはな」
『救助要請! 商店街入口、避難中に将棋倒し! 負傷者多数!』
岳の足が、一瞬だけ鈍った。
しかし、すぐにまた走り出した。将棋倒しの救助は、消防と警察がやる。自分たちが足を止めれば、その分だけ、あれが自由に動き回る。分かっていた。分かっていても、無線から聞こえる悲鳴まじりの声は、頭の芯に、何度も突き刺さった。
その声の向こうで、灰褐色の影は、まだ一度も、ハンターの前に姿を現していなかった。
◇
同じころ、八王子の西に連なる丘陵の中腹で、男は木々の陰に身を伏せていた。谷を渡って、防災無線の声が届いていた。
「――八王子市内において、危険な中型肉食恐竜が確認されました。屋外にいる方は、ただちに――」
男は、顔を上げた。
眼下に、街が広がっている。昨日よりもさらに静まり返っていたはずの街が、今は、ざわめいていた。遠くの通りで、車のクラクションが重なって鳴っている。サイレンが、あちこちで鳴り始めていた。
(最悪だ、市街地に入られてパニックが起きているのか。恐竜自体よりも恐怖そのものが伝播して未曽有の災害になるぞ……)
あの灰褐色のどちらかが、家族のいる街に入った。
前肢の爪が、地面の土に食い込んだ。
(行くか、このまま見ていられるか)
行って、どうする。
自分は、四メートルを超える肉食恐竜だ。街の人間から見れば、灰褐色の二頭と何も変わらない。むしろ、もっと大きくて、もっと恐ろしい。今、あの混乱の中へ黒い身体で飛び込めば、どうなるか。人々はさらに逃げ惑い、ハンターの銃口は、二頭ではなく、こちらを向くかもしれない。自分が出ていくことで、かえって誰かを危ない目に遭わせるかもしれない。
それに、家族がどこにいるのかも分からない。家の中にいるなら、出ていく必要はない。窓を閉めて、鍵をかけて、テレビを見ている。そのはずだ。
(……ハンターがいる。あいつらに任せればいい、それが道理のはずだ)
そう思おうとした。思おうとしたのに、身体の奥のざわつきは、少しも静まらなかった。
隣で、二号が、ぴたりと動きを止めた。小さな頭が、風下を向いている。尾の先が、ぴんと伸びていた。
男も鼻先を上げると、匂いが来た。
知っている匂いだった。山梨の山中で嗅いだ匂い。獣の体臭に、錆びた鉄と、乾いた血が混じったような。不倶戴天のそれが、すぐそばまで来ていた。
斜面の上の藪が音を立てて割れ、灰褐色の身体が飛び出してくる。
三メートルほどの、細身の肉食恐竜だった。脇腹に、古い銃創らしい引きつれた傷痕がある。黄色く濁った目が、男を捉え、それから、男の足元の二号を捉えた。
自身より一回り大きな恐竜へ攻撃を仕掛けることに、ためらいはなく、灰褐色は一直線に突っ込んできた。
男は、とっさに二号の前へ身体を入れた。肩に、鋭い牙が食い込む。重い衝撃が来て、四メートルの身体がわずかに押し戻された。男は首を振って相手を振りほどき、尾で横から薙ぎ払った。灰褐色の身体が斜面を転がり、すぐに跳ね起きる。
(例の異常行動個体! こっちに来るとは好都合、市街地に入られる前にここで仕留める!)
体格はこちらのほうがはるかに上だった。それなのに、相手は少しもひるまなかった。怖がっていない。逃げようともしない。牙を剥き、低く唸りながら、もう一度飛びかかる隙をうかがっている。
福島の赤い恐竜とは違う目だった。あれは怯えて行き場のない目だったが、これはある意味純粋で無機質な目だった。感情の混じる余地のない、ただ獲物を狩るための目。
男は身を低くし、二号を背中の後ろへ押しやった。顎と前肢に血が回り筋肉が肥大していくのが感覚でわかる。およそ眼前の恐竜程度なら、一撃で打倒できる確信があった。
次に来たら、今度こそ――。
そのとき、灰褐色が、ふいに顔を背けた。
斜面の下だった。丘陵の裾を縫うように走る、細い市道。そこに、一台の原付バイクが停まっていた。
ヘルメットをかぶった女性が、バイクの横にしゃがみ込んでいた。後輪のあたりを、必死に覗き込んでいる。荷台には、介護事業所の名前が入った鞄が括りつけられていた。この先の山あいの家に、介護が必要な誰かが待っているのだろう。止まった街でも、止められない仕事があったのだ。
ヘルメットのせいで、防災無線の声も、背後の物音も、ほとんど聞こえていないようだった。
灰褐色の頭が、そちらを向いたまま、動かなくなった。
男には分かった。分かってしまった。自分よりずっと小さくて、ずっと弱くて、ずっと狩りやすい獲物を、見つけたのだ。
灰褐色の身体が、斜面を蹴った。
男に背を向け、まっすぐ下へ。木々の間を縫い、藪を突き破り、市道へ向かって駆け下りていく。
(見逃せるか! どうせ大事になるなら、せめてやるべき事を、やる!)
男は、考えるより先に走り出していた。
斜面を、ほとんど転がるように駆け下りる。枝が顔を叩き、岩が足元で崩れる。前を行く灰褐色の背中との距離が、縮まらない。相手は細く、軽く、速かった。
市道の上で、女性が、ようやく顔を上げた。
斜面から飛び出してくる灰褐色の影を見て、その身体が凍りついた。悲鳴は、上がらなかった。声も出ないのだ。逃げることさえ、思いつかないのだ。
灰褐色が市道へ飛び降りた。女性まで、あと五歩。
その瞬間、男は、斜面の最後の数メートルを跳んだ。
四メートルを超える黒い身体が、灰褐色の背中へ、横から叩きつけられた。二頭はもつれ合ってアスファルトの上を転がり、原付バイクのすぐ横で、ガードレールにぶつかって止まった。
女性が、ようやく悲鳴を上げた。
男は身を起こし、女性と灰褐色の間に立ちはだかった。灰褐色も跳ね起き、牙を剥く。黄色い目が、男を見て、それから、男の脚の向こうで腰を抜かしている女性を見た。
男は、女性のほうへ、首だけを振った。
(行け、早く!)
言葉は、伝わらない。それでも、女性は這うようにしてバイクから離れ、市道の脇の民家の門へ転がり込んだ。
灰褐色が、それを追おうとして、身を翻したが男が前へ出る。相手が跳ね退く。また回り込もうとする。男が塞ぐ。
次の瞬間、灰褐色は、男にも女性にも背を向けて、市道を東へ走り出した。
その先には、住宅地があった。家々の屋根が、丘陵の裾から、ずっと街の中心まで続いていた。
(……くそっ、肉食の本能か。餌のありかをわかってやがる)
男は、一瞬だけ、背後の丘陵を振り返った。
あの山の中にいれば、見つからずに済んだ。人の目にも、カメラにも、銃口にも触れずに、夜を待つことができた。
そうしている間に、あの灰褐色の牙は、街の中の誰かに届く。
男は、前を向いた。
斜面の上から、小さな影が転がるように駆け下りてきた。二号だった。息を切らしながら男の足元に追いついて、短く喉を鳴らす。
男は、二号を見下ろした。来るな、と言っても、聞かないのは分かっていた。
男は、走り出した。
灰褐色の背中を追って、市道を東へ。丘陵の裾を抜け、最初の家並みの間へ。四メートルを超える黒い身体が、人間の街の中へ、入っていった。
その後ろを、小さな後肢が、必死に駆けてついていった。言葉にはならない、ただ、後を追って共にあることが、自分の役割であると腹の奥から感じていたのだ。
第38章 遥かな我が家 了