的に維持しています。
第39章 崩れ行く日常
午後二時三十八分。岳は初めてその姿を正面から見た。
浅川から南へ一キロほど入った古い商店街の入口だった。アーケードの屋根の下にはシャッターの下りた店が並んでいる。祖父の代から続く金物屋、毎朝パンを焼く小さなベーカリー、年末になると正月飾りを店先に並べる花屋。どれもこの街の人たちが何十年もかけて当たり前にしてきた景色だった。
クリスマスの飾りつけが誰もいない通路の上で場違いなほど明るく点滅していた。入口のケーキ屋の店先には予約受け取りの案内を書いた黒板が出しっぱなしになっている。本日十四時より、ご予約のお客様へお渡し。その時刻をもう三十分以上過ぎていた。
その商店街の中央、自転車置き場の柵をなぎ倒した先に灰褐色の背中があった。
全長三メートルほどの身体に細い首と長い尾。脇腹には古い銃創が白く引きつれて残っている。恐竜は倒れた自転車の山に鼻先を突っ込み、何かを探すように匂いを嗅いでいた。自転車のスポークが牙に引っかかり、ぎしぎしと嫌な音を立てていた。
岳はライフルを肩に当て、照準の中にその頭を収めた。手袋の内側が汗でぬるりと滑った。
引き金に指をかけたまま岳は撃たなかった。いや、撃てなかった。狙いも風向きも申し分なく、百回撃てば九十九回は当てる自信があった。しかし残る一回の失敗さえ許されないのが市街地戦だった。人がいる。守るべき人々が最大の障害になっている。
照準の向こう、恐竜の背後にはアーケードの奥へまっすぐ続く通路があった。その途中にあるドラッグストアでは、閉まりかけたシャッターの下から何本もの足が見えている。中へ入りきれなかった人たちがシャッターと床の隙間に身体を押し込もうとしているのだ。
ハイヒールの片方が脱げて転がっていた。小さな子供の赤い長靴も見えた。その手前の柱の陰では若い会社員が震える手でスマートフォンを構えている。撮影しているというより、何かにしがみついていなければ立っていられないような手つきだった。
弾が当たったとしても恐竜の身体を貫通すれば、あの通路のどこかにいる誰かに届いてしまう。外れれば言うまでもなかった。
「……避難がまだです。撃てません」
岳は照準から目を離さずに言った。心拍数はおそらく平常時の倍になっている。一秒が永遠にも感じられる緊張の中、呼吸と瞬きさえ抑えながら刹那の機会を待っていた。
「奴の背後に逃げ遅れた民間人がいる。当てても弾が抜けたら誰かに当たります」
「分かってる。市街戦、くそっ、人類の領域だってのになんて不自由さだ」
隣で榊原が低く答えた。ここまでほとんど走り通しだったため息が荒い。その後ろには駆けつけたハンターが三人、肩で息をしながら銃を構えていた。しかし誰も引き金に指をかけていなかった。撃てる場所がどこにもなかったのだ。
「撃てないなら撃てる場所に動かすしかない。アーケードから追い出して人のいない開けたところへ連れていく」
「そんなところありますか? この市街地のど真ん中で」
「この先に市営の駐車場がある。奥は擁壁だ。あそこなら外れても弾は土に入る」
岳は頭の中の地図を思い浮かべた。駐車場までは通りを一本渡って二百メートルほど。地図上の位置は把握していたが、駐車場の奥に何があるかといった立体的な情報までは把握できていなかった。
榊原はハンターという危険極まりない稼業で歴戦と呼べるだけの戦いをくぐり抜け、隊員の犠牲を一人も出さなかった伝説の男だった。岳はその背中の偉大さを改めて感じていた。
射撃の腕でもなければマチェットを振るう腕力でもない。集団としての人間を扱い、周囲の環境を最大限に活用する能力。それもまた一つの人類の極致なのかもしれない。
「そこまで誰が引っ張るんです」
榊原は答えずに腰のベルトから発炎筒を一本引き抜くと、いたずらを思いついた子供のように笑った。
◇
最初の十秒はうまくいった。
榊原が通りの反対側で発炎筒を擦ると赤い火花と煙が噴き上がった。同時に岳が携帯用のエアホーンを鳴らし、耳をつんざく音がアーケードの屋根に反響した。
灰褐色の頭が跳ね上がった。
普通の恐竜ならここで逃げる。音と光と人の気配に驚き、山のほうへ走っていく。それがこれまで何十年もハンターたちが頼りにしてきた恐竜の習性だった。
しかしこの恐竜は逃げなかった。
煙の向こうの榊原を見つめ、それからゆっくりと首を低くした。獲物を見つけたときの姿勢だった。喉の奥から湿ったくぐもった音が漏れた。
「やっこさん、乗りやがった。来るぞ!」
榊原が発炎筒を握ったまま後ずさった。
その瞬間、アーケードの奥から悲鳴が上がった。
ドラッグストアのシャッターの前にいた人たちだった。恐竜が動いたのを見て誰かが叫び、その声に押されるように全員が一斉に走り出したのだ。アーケードの奥へ逃げればいいものを、何人かは反対のこちら側へ向かってきた。恐竜のいる入口のほうへ。
「戻れ! そっちじゃない!」
榊原の声は悲鳴にかき消された。
恐竜の首がくるりと後ろを向いた。
走ってくる人間たちはばらばらで無防備だった。その中で老齢の女性が足をもつれさせて転んだ。手に提げていたスーパーの袋が破れ、みかんがいくつも床に転がり出る。女性は起き上がろうとして自分のほうを向いている灰褐色の顔を見た。
声が出なかった。口を大きく開けたまま床に座り込み、後ろへ這おうとして再び手を滑らせた。
恐竜が跳んだ。
岳は考えるより先に女性と恐竜のあいだへ身体をねじ込んでいた。
ライフルを構える時間はなかった。右手が腰の鞘からマチェットを引き抜き、分厚い刃がアーケードの電飾の光を一瞬だけ跳ね返した。
灰褐色の顎が目の前で開いた。黄ばんだ牙の列から生臭い息が吹きつけてくる。
(中型肉食恐竜との格闘戦なんて正気の沙汰じゃないな! この前といい、そういう星の下にでもいるのか俺は!)
岳は真正面から受けなかった。刃の腹を斜めに当て、迫ってくる上顎の横っ面を外へ向かって叩き流した。金属と牙がこすれる耳障りな音が響き、手首が痺れるほどの衝撃が肘まで抜けていく。それでも跳びかかってきた勢いは横へ逸れ、灰褐色の身体は岳の肩をかすめてシャッターの下りた店の前へ頭から突っ込んだ。
シャッターが轟音を立ててへこんだ。金物屋のシャッターだった。その内側から誰かの短い悲鳴が聞こえた。店主の老人が中に閉じこもっていたのだ。
岳はその隙に座り込んだ女性の腕を掴んで引き起こした。
「走って! 奥へ! 振り返らないで!」
女性はしゃくり上げながら走り出した。みかんは床に転がったままだった。
背後でハンターの一人が乾いた声で笑った。笑わなければ膝が抜けてしまいそうな声だった。
「……さすがドラゴンバスターだな」
「小型ならまだしも、よく中型と格闘戦をしようと思えますね……」
もう一人が銃を構えたまま、呆れと尊敬が半々に混じった視線を向けてきた。
「その呼び方、やめてください」
岳は憮然とした表情でマチェットを握り直しながら言った。刃こぼれが一つ新しく増えている。そろそろ研ぎ直しても限界だろう。この戦いまでもてばいいが。
「だいたい誰がつけたんですか、そのあだ名。俺は許可してないというか、人から言われて初めて知りましたよ」
「そりゃあ配信者とかSNSとかだろ。面白おかしい無責任な情報は大体そこから湧いてくる」
榊原が呆れながら言った。実は本人も動物の赤ちゃんの写真を見るためにSNSの匿名アカウントを持っているのだが、それは妻にも言っていない秘密だった。
「いいから前を見ろ。起きるぞ。まだ三回表、序盤も序盤ってところか。出血しても前後で様相が変わらんのはどうにも不気味だな」
へこんだシャッターの前で灰褐色の身体が首を振りながら起き上がった。こめかみのあたりから細く血が流れている。それでも目は少しも濁っておらず、痛みを感じていないかのようにまっすぐ岳を見ていた。
岳はライフルを構え直した。今度こそ射線の先には誰もいないように見えた。
いや、いた。
地面の上には誰もいない。しかしアーケードの出口の向こう、通りを挟んだマンションのベランダにいくつもの人影があった。窓を開けて身を乗り出し、こちらを見下ろしている。スマートフォンのレンズが薄暗い空の下でハンターを嘲笑うように小さく光っていた。
岳は血がにじむほど歯を食いしばり、引き金から指を離した。
また撃てなかった。
◇
そこから先は追いかけっこだった。
恐竜は一か所に留まらなかった。人を見つけては向かい、ハンターが割り込めば身を翻して路地へ消え、別の通りにまた現れる。岳たちはそのたびに走った。走って割り込み、音を鳴らして注意をこちらへ引きつける。そして撃てる場所へ誘い出そうとするたびに、誰かがそれを台無しにした。
家から飛び出して自分の車へ走る会社員がいた。妻と子供が家で待っているのだと泣き叫ぶように言いながら、警察官の制止を振り切っていった。電話がつながらないのだという。妻にも子供の通う学童にも何十回かけても話し中の音しか返ってこない。この街の何十万という人間が同じ瞬間に同じように誰かへ電話をかけていた。
ベランダから身を乗り出して動画を撮り続ける学生たちもいた。一人は撮りながら泣いていた。SNSには真偽の分からない書き込みが秒単位で流れている。駅前で人が噛まれた。小学校に入り込んだ。もう五頭いる。どれが本当でどれが嘘なのか誰にも分からなかった。分からないからこそ誰もが一番悪い想像をした。
閉め出された店の前では老人がシャッターを叩き続けていた。開けてくれ、開けてくれと同じ言葉を壊れたように繰り返している。家には寝たきりの妻が一人でいる。薬を取りに出ただけだった。三十分で戻ると言って出てきたのだと、駆け寄った警察官に老人は何度も同じことを訴えていた。
交差点の真ん中ではパニックを起こした乗用車がエンジンを空ぶかしし続けていた。その音に恐竜が反応してボンネットに飛び乗ったとき、岳は心臓が止まるかと思った。運転していた青年はフロントガラス越しに牙を見て、ハンドルに突っ伏したまま動かなくなった。
青年を守ろうと後部座席の老婆が覆いかぶさる。恐竜が車の屋根を爪で引き裂こうとしているあいだに榊原が車体の横から近づき、助手席の窓を叩いて伏せてろと叫んだ。青年は突っ伏したまま何度も頷いていた。
恐竜が駆け抜けたあとの住宅街には壊れたものだけが残っていた。
なぎ倒された生け垣に横倒しになった三輪車。玄関先のプランターからは土と一緒にパンジーがこぼれていた。路上には誰かが落としていったケーキの箱が潰れ、白いクリームと苺がアスファルトの上に飛び散っている。箱に貼られたシールには子供の名前とメリークリスマスの文字が印刷されていた。
ある家の窓の向こうでは飾りつけたばかりのクリスマスツリーが倒れていた。ガラス越しに見える電飾だけが床の上で変わらず明るく点滅していた。
昨日までここには暮らしがあった。今朝の時点でもまだあった。外へ出られなくても窓を閉めていれば、鍵をかけていれば、家の中だけは昨日と同じだと信じていられた。
それがあの灰褐色の身体が一つ通り過ぎるだけで、こんなにも簡単に壊れていく。
ほとんどの人は悪くなかった。
怖いのだ。家族が心配なのだ。何が起きているのか自分の目で確かめなければ気が狂いそうなのだ。誰だってそうなる。岳にもそれは分かっていた。
分かっていても走るたびに喉の奥から悪態がこみ上げてきた。
路地の角を曲がった先でランドセルを背負った小学生が一人、電柱の陰にしゃがみ込んでいた。学校からの帰り道で警報に足がすくみ、動けなくなっていたのだ。岳が駆け寄ると、その子は声も出さずに岳の上着にしがみついた。小さな指が布地を握りしめて離さなかった。
岳はその子を抱え上げ、一番近くの民家の玄関へ走った。扉は中から開けられた。見知らぬ家の老婦人が子供を奪うように抱きとめ、震える手で扉を閉めた。
閉まる直前、扉の隙間からテレビの音が聞こえた。この街の、今まさに岳が走っている通りの映像をニュースが映していた。
『こちら指揮所、三枝!』
無線が鳴った。ドローンからの映像を見ているのだ。
『岳さん、二本北の通りに抜けました! その先は浅川沿いの住宅地です! 屋内退避は出てますが、外に出てる人が何人か映ってます!』
「了解。……榊原さん、北です!」
「聞こえてる!」
榊原の顔は真っ赤だった。額から汗が流れ、肩が大きく上下している。若くはない身体で、もう一時間近く市街地を全力で走り続けているのだ。
「榊原さん、少し――」
「休めって言ったらぶっ飛ばすぞ」
榊原は岳の顔も見ずに言った。
「誰も死んでない。今のところ誰も死んでない。それだけが俺たちの価値の証明で、勝ちへの分水嶺だ」
岳は何も言い返せなかった。
確かにまだ誰も死んでいなかった。怪我人は出ている。転んだ人、車にぶつかった人、人波に押し倒された人。救急車は渋滞に阻まれてなかなか現場にたどり着けない。それでもあの灰褐色の牙が誰かの身体に届いたという報告はまだ一つもなかった。
撃てない銃を抱えて走り、叫び、割り込んで人々を守る。倒すことはできなくても誰も死なせない。今の岳たちにできるのはそれだけだった。
それがいつまで続けられるのか、誰も口には出さなかった。
◇
薬局のシャッターが外から叩かれていた。
どん、どんと拳で叩く鈍い音が響き、その合間に甲高い声が混じる。
「開けて! 開けてください! お願いします!」
若い女の子の声だった。
店の中の誰もがシャッターを見ていた。子供を抱いた母親は子供の耳を手で塞ぎ、自分も目を固く閉じていた。杖の老人はカウンターの端を握りしめ、唇だけを小さく動かしている。念仏のようだった。薬剤師はシャッターの取っ手に手をかけたまま迷うように振り返った。
開ければ何かが入ってくるかもしれない。開けなければ外の誰かがどうなるか分からない。
妹は立ち上がっていた。
「開けましょう。私、手伝います」
薬剤師と二人でシャッターを膝の高さまで持ち上げると、冷たい外気と一緒に制服姿の女子高生が這うようにして転がり込んできた。妹がその腕を掴んで店の中へ引きずり込み、薬剤師がすぐにシャッターを下ろした。床に叩きつけるような音が響いた。
女子高生は床にへたり込んだまま肩で息をしていた。顔は真っ白で片方の膝から血がにじんでいた。
「い、今、そこの通りの先で……見た……灰色の……こっち見て……」
そこまで言って女子高生は口を押さえ、泣き出した。声を殺そうとしても殺しきれず、喉の奥でしゃくり上げていた。
妹はその子の背中をさすった。手が震えていたのは女子高生のほうだけではなかった。
シャッター一枚の向こうを今あれが歩いている。
隣では子供を抱いた母親がつながらない電話を何度もかけ直していた。夫の名前を祈るように呟きながら。杖の老人はもう念仏も唱えていなかった。ただ下りたシャッターの一点をじっと見つめていた。
妹は鞄の奥にある白い紙袋の感触を確かめた。母の名前が書かれた軽い袋だった。
今から帰るよという報告の電話はまだかけられなかった。
◇
『指揮所より全員!』
三枝の声が無線を割った。それまでとは声の調子がまるで違っていた。
『西側の丘陵の裾、市道沿いでもう一頭を確認! 灰褐色、三メートル級! 市街地の方向へ東へ移動中です!』
岳と榊原は同時に足を止めた。後ろのハンターたちも息を呑んで立ち尽くした。
「……まだだ。諦めるにはまだ早い。分かっていたことだろうが」
榊原が吐き捨てるように言った。一頭だけでもこれだけ手が回らないのだ。そこへもう一頭が加わる。
『それと――』
三枝の声が一瞬途切れた。
『それと、その後ろにもう一頭います。黒い。四メートル超。……温泉恐竜です』
指揮所の向こうで誰かが息を呑む音まで無線は拾っていた。
『灰褐色を追うように同じ方向へ移動中。小型の個体も一頭、一緒に映っています。三頭ともこちらへ……八王子の市街地へ向かってます!』
岳は西の空を見た。
低い雲の下に丘陵の稜線が灰色にかすんでいた。あの向こうから二頭の肉食恐竜がこの街へ下りてくる。
「……黒いのも?」
岳の呟きに榊原は答えなかった。ただライフルのスリングを握り直した手がわずかに白くなっていた。
岳の頭の中で地図が組み変わっていく。
一頭でさえ自分たちは一度も撃てていない。走って割り込み、注意を引きつけるだけで手一杯だった。そこへ西からもう一頭が加わる。二頭が別々の通りに散ればハンターも二手に分かれるしかない。一頭に人を割けばもう一頭の前が空く。御門が言っていた通りだった。連携などしていなくても二頭いるというだけで、こちらの網には必ず穴が開く。
そして黒い恐竜。
青森で、福島で人を守った。それは岳も知っている。けれどそれは比較的人の少ない状況での話だった。四メートルを超える肉食恐竜が人で溢れ返ったこの市街地へ、あの灰褐色を追って入ってくる。
何のために。誰の味方として。
それを確かめる方法はどこにもなかった。
もし三頭が同じ通りでぶつかったら。
逃げ場のない住宅街の真ん中で肉食恐竜同士の殺し合いが始まったら、家の塀も車も閉じこもった人たちの窓ガラスも何一つそれを止められはしない。そして自分たちの銃はそのときもきっと撃てない。
最悪なのは三頭が別々の方向へ散り、人を襲い始めることだった。そうなればもはや打つ手はない。歴戦のハンターたちでさえ犠牲者を出さずに済ませることは不可能かもしれない。そんな現実を突きつけられていた。
後ろでハンターの一人が小さく呟いた。
「……三頭なんて、どうすんだよ」
榊原は怖気づいたハンターの震える肩を軽く叩いた。
「どうもこうもねぇだろ。やるこたぁ一緒だ。俺が必ず撃てる機会を作ってやる。手柄が欲しい奴はここが命の張りどころだぜ。わくわくするな」
榊原は遠足を楽しみにする子供のような表情で笑った。岳にはそれが士気を維持するための演技だと分かったが、怯えていたハンターには違ったようだ。肩の震えが止まり、その瞳には弱々しくも確かな炎が宿っていた。
「こんな状況だ。仕方がないと世間は言うかもしれねぇ。それでもな、それは被害者の救いにはならんし、ただの言葉だ。今まさに目の前で命が失われようとしている。それを見過ごせる奴はハンターなんぞにならんだろ」
一同はライフルを握り直し、強く頷いた。
数分後、防災行政無線が再び鳴った。
「八王子市から緊急のお知らせです。市の西部において新たに肉食恐竜を含む複数の恐竜が確認され、市街地方向へ移動しています。屋内にいる方は決して外へ出ないでください。繰り返します――」
その放送が最後の堰を切った。
住宅街のあちこちで玄関の扉が開いた。家の中で耐えていた人たちが子供を抱え、年寄りの手を引き、車の鍵を握りしめて外へ飛び出してきたのだ。
ここにいたら駄目だ。もっと遠くへ。どこかあれが来ない場所へ。
外へ出るなと言われていることは誰もが分かっていた。それでも家の壁一枚を挟んで三頭の肉食恐竜が近づいてくるのを、じっと待っていられる人間は少なかった。
すでに詰まっていた道路が完全に止まった。クラクションが鳴りやまない。誰かが車を捨てて走り出し、その後ろの車もまた次の車も扉を開けたまま置き去りにされていく。乗り捨てられた車の後部座席では、ラッピングされたままのクリスマスプレゼントがずり落ちかけていた。
遠くでまたサイレンが鳴った。どこかの家の窓の奥からは子供の泣き声が聞こえてきた。
十二月二十四日の午後三時。
昨日まで当たり前にあったこの街の暮らしが音を立てて崩れていく。八王子はもうどこにも逃げ場のない場所になりつつあった。
それでも人間は無力ではなかった。
抗う者たちがここにいた。
第39章 崩れ行く日常 了