八王子事件本編は土日で終わらせる予定
灰褐色の背中は一度も止まらなかった。
丘陵の裾を抜けて最初の家並みに飛び込んでから、男はずっとその背中を追い続けていた。相手は細く軽く、そして速い。塀を跳び越え、生け垣の隙間をすり抜け、駐車場の車の屋根を踏み台にして路地から路地へ渡っていく。四メートルを超える男の身体では同じ道を通ることができなかった。塀を越えれば塀が崩れ、隙間に肩を入れれば周囲の壁ごと壊れてしまう。追いつきそうになるたびに何かに阻まれ、距離を引き離されていた。
それでも見失いはしなかった。獣の体臭に錆びた鉄と乾いた血が混じった独特の匂いがあった。風に乗って流れてくるその匂いの筋を、男は鼻先で手繰り寄せるように追っていった。後ろからは二号が必死についてきており、小さな後肢がアスファルトを蹴る乾いた音が絶え間なく聞こえていた。
家々の窓にはどこも鍵がかかっていた。カーテンの隙間からいくつもの目がこちらを見ており、男が通り過ぎるたびに窓の奥で悲鳴が上がった。壁越しに子供の泣き声が聞こえ、どこかの家では誰かが「来ないで、来ないで」と繰り返していた。
(違う。俺は恐竜じゃない! 人間のはずなんだ……)
言えるはずもなかった。たとえ言えたとしても伝わるはずがない。窓の向こうの人たちにとって灰褐色の恐竜も黒い恐竜も、同じ牙を持った怪物だった。
男は走り続けた。
◇
三つ目の交差点を曲がったところで男の足がわずかに鈍った。
見覚えがあった。
角の郵便ポストとその先に建つ白い外壁の歯医者。小学生のころ母に手を引かれ、泣きながら通った歯医者だった。看板の文字は少し色褪せていたが、あのころと同じだった。
その向こうには公園が見えた。ブランコが二つと滑り台に砂場。それから端のほうには古いジャングルジムがある。中学のとき友達と夜中にあそこへ集まり、くだらない話をした。妹が自転車の練習をしていたのもあの公園だった。何度も転んで膝を擦りむき、泣きながらもまた乗ろうとしていた。
男はその横を走り抜けた。灰褐色の匂いはまっすぐ東へ伸びており、その先に何があるのか男は知っていた。
知っていたからこそ心臓が冷たくなった。
大通りを渡った先にアーケードの屋根が見えていた。駅へ向かう道沿いの古い商店街だった。年末になると正月飾りを並べる花屋があり、祖父の代から続く金物屋がある。毎年クリスマスケーキを予約していたケーキ屋も、母がいつも薬をもらっている薬局もあった。
家まで歩いて十分もかからない。
(……なんでこっちに)
偶然だった。そんなことは分かっていた。あの灰褐色の恐竜が男の家族のことなど知るはずがない。ただ人の匂いの濃いほうへ、獲物の多いほうへ走っていくだけだ。そこがたまたま男の生まれ育った街で、一番見慣れた通りだったというだけだった。
それでも男の頭の中で何かが軋んだ。
あの商店街に今誰がいる。あの通りの先の家で誰が窓を閉め、テレビを見ながら帰ってこない息子のことを考えている。
灰褐色の背中が大通りの手前でちらりとこちらを振り返った。
黄色い目だった。濁ってもいなければ怖がってもいない。ただ何も考えていない目だった。人を見れば襲い、獲物があれば追う。その先に誰が住んでいて誰が誰を待っているのかなど、何一つ気にかけていない。
視界の端がじわりと赤く滲んだ。獣が身体の奥底から咆哮を上げ、人間としての自分を食い破ろうとしている。
◇
気がついたときには跳んでいた。
四メートルを超える身体がアスファルトを蹴った。地面が遠ざかり、灰褐色の背中が一気に近づいてくる。男は前肢の爪をその首筋めがけて振り下ろした。
視界が真っ赤だった。
何も聞こえなかった。サイレンも悲鳴も自分の呼吸も聞こえない。ただ目の前の灰褐色だけが赤い世界の中心でくっきりと浮かび上がっていた。
殺ったと思った。しかし届かなかった。
灰褐色の身体が爪の先からするりと横へ消えた。こちらの踏み込みを見てから動いたのではない。男が跳んだ瞬間にはもう身体をひねっていた。軽く速く、何のためらいもない動きだった。
男の身体は止まらなかった。空を切った前肢ごと跳躍の勢いに引きずられ、歩道の街路樹へ突っ込んでいった。
太い欅の幹だった。
爪が樹皮を裂いて食い込み、その上から胸と肩が叩きつけられた。四メートルを超える身体の重さが一点に集中し、衝撃が骨を伝って尾の先まで抜けていく。
足元で何かが裂ける音がした。
歩道の敷石が下から持ち上がっていた。根が舗装を割りながら土の塊ごと地面から引き剥がされていく。幹の根元には縦に大きな亀裂が走っていた。
大人が両腕を回してようやく届くほどの欅がゆっくりと傾いていく。枝が電線に絡んで火花が散り、引っ張られた電柱が軋んだ。やがて轟音とともに欅が車道へ倒れ込み、路上に停められていた乗用車の屋根を押し潰した。窓ガラスが一斉に砕け散り、けたたましい防犯ブザーが通り中に鳴り響いた。
男は自分の前肢を見下ろした。
赤い視界が少しずつ元の色に戻っていく。
裂けた幹の根元がすぐ足元にあった。中は黒く腐り、洞のように空いていた。何十年もこの通りに立っていた木はとうに中身を失っていたのだ。
それでも人の腕が回りきらないほどの大木だった。それをこの身体は一度ぶつかっただけで根ごと地面から引き抜いてしまった。
(……俺がやったのか)
思い出そうとした。黄色い目と赤く滲んだ視界の端。そこまでは覚えている。その次にはもう地面が遠ざかっていた。
時間が飛んだわけではなかった。跳んだ瞬間も爪が空を切った瞬間も幹にぶつかった瞬間も、全部この目で見ていた。それなのに跳ぼうと決めた自分がどこにもいなかった。
前肢には樹皮を裂いた感触がまだはっきりと残っている。この身体を動かしたのは間違いなく自分だった。けれどそれを自分のしたこととして思い出そうとすると、指の隙間から水がこぼれるように何も掴めなかった。
身体が勝手にやったとは思いたくなかった。この身体は俺の身体だ。四か月ものあいだ、ずっとそう言い聞かせてきた。
(じゃあ今のは誰だ。いや、何がこの身体を動かした)
分かっていたつもりだった。この身体が強いことは。福島で赤い恐竜と戦ったときも山の中で獲物を仕留めるときも、自分がどれだけの力を持っているのか何度も思い知らされてきた。
それでもここは山ではなかった。人間の街だった。自分が生まれ育った見慣れた通りだった。そこで自分で決めた覚えのない一撃が街路樹を一本、根元からへし折ってしまった。
もしあの爪の先に人がいたら。
背中を冷たいものが走った。
◇
倒れた欅の轟音は通り中に響き渡っていた。
それが最後の一押しになった。
家の中で息を潜めていた人たちが悲鳴を上げて飛び出してきた。何が起きたのか分からないまま、ただ近くで何かが壊れたことだけを知って逃げ出したのだ。玄関から、車庫から、閉じこもっていた店の裏口から次々と人が溢れ出してくる。子供を抱えた母親が裸足のまま走り、老人は杖を落としたまま壁に手をついて歩いていた。
そしてその人たちは倒れた欅の向こうに黒い恐竜の姿を見た。
悲鳴がさらに大きくなった。
人の波が通りの東へ、商店街のほうへと押し寄せていく。その流れに紛れ込むように灰褐色の恐竜が走り出した。逃げ惑う人たちを追い立て、その背中を嗅ぎながら牙を剥く。人々は振り返ってすぐ後ろに灰褐色の頭を見つけ、さらに叫びながら走った。
男が上げてしまった轟音が恐竜の背中を押していた。
(違う……家から出るな……! くそ、俺のせいだ。たかが家の壁ごとき何の妨げにもならないと証明してしまった!)
男は倒れた欅を跳び越えた。追いかけなければならない。止めなければならない。けれど男が一歩踏み出すたびに前を走る人たちはまた悲鳴を上げた。振り返った人の目に黒い身体が映るたび、その人はさらに必死に走ってつまずき、転んで後ろの人に踏まれた。
一人の少年が人波に押されて歩道の縁石に倒れ込んだ。立ち上がろうとしても再び押し倒される。母親らしい女性がその名前を叫びながら、人の流れに逆らって戻ろうとしていた。
男は足を止めた。
自分が近づけばこの人たちはさらに逃げる。逃げればさらに転ぶ。転べば踏まれる。
灰褐色の背中は人波の向こうでどんどん遠ざかっていく。
(どうしろってんだよ……!)
喉の奥から低い唸り声が漏れた。それがまた近くにいた誰かの悲鳴を呼んだ。
◇
そのとき通りの向こうで甲高い音が鳴った。
空気を引き裂くようなエアホーンの音だった。続いて赤い光が見えた。誰かが発炎筒を擦ったのだ。
人波の先、大通りが商店街の西口にぶつかる交差点に人影があった。
ライフルを肩にかけた若いハンターだった。片手に発炎筒を掲げ、もう片方の手で逃げてくる人たちを脇の路地へ誘導している。交差点の真ん中ではドアを開けたまま乗り捨てられていた軽トラックが斜めに停め直されていた。その運転席から年配のハンターが転がるように降りてきた。
年配のハンターは肩で息をしながら荷台の陰に立った。車体一台分でも灰褐色の進路を塞ごうとしているのだ。路地の入口にはオレンジ色のベストを着た人影がさらに二つ三つあり、逃げてくる人の腕を一人ずつ掴んでは奥へ押し込んでいた。
「こっちだ! 路地へ入れ! 走るな、転ぶぞ!」
「そっちじゃない! 右だ! 右へ!」
二人の声が人波の上を飛んでいく。
灰褐色の恐竜が発炎筒の赤い光に頭を向けた。ほんの一瞬だけ足が鈍り、その隙に何人かの人が路地へ転がり込んでいった。
若いハンターは灰褐色に向かってエアホーンを鳴らし続けながら交差点の反対側へ回り込んでいく。注意を人の流れから引き剥がそうとしているのだ。撃たずに、いや撃てないからこそ自分の身体を囮にしていた。
それからそのハンターの目が男を捉えた。
倒れた欅の向こうに立っている黒い恐竜を見つけ、ライフルの銃口がわずかにこちらへ揺れた。
男は動かなかった。若いハンターも撃たなかった。
ほんの一秒か二秒。互いに相手が何者なのかを測るように見つめ合っていた。人の悲鳴と防犯ブザーとサイレンの音が入り乱れる中、その数秒だけが妙に静かだった。
やがて若いハンターは銃口を下げた。何も言わずに男から目を逸らし、灰褐色のほうへ向き直った。
それが何を意味しているのか男には分からなかった。信じたのか。それとも今は一頭に集中するしかないと判断しただけなのか。
ただ撃たれなかった。それだけは確かだった。
◇
灰褐色の恐竜は軽トラックの脇をすり抜けた。しかし西口のアーケードには入らなかった。発炎筒の煙を嫌うように首を振り、商店街の外壁沿いの細い路地へ飛び込んで東のほうへ消えていった。
年配のハンターが悪態をついた。その腰では無線機ががなり立てていた。
『指揮所より! 一頭目、アーケードに戻りました! 西口から入ってシャッターを一軒ずつ嗅いで回ってます! 中にまだ人がいます!』
悲鳴とサイレンの中から男の耳はその声をはっきりと拾い上げた。
(……一頭目?)
自分が追ってきたのは一頭だけだった。丘陵の裾からずっとあの灰褐色の背中だけを見ていた。
もう一頭いる。それが今あのアーケードの中にいる。
『二頭目は外の路地を東へ! このままだと東口から同じ通路に入ります! 中で二頭が一緒になります!』
「中のやつが先だ!」
年配のハンターがライフルを掴んで西口へ走り出した。若いハンターも一度だけ男のほうを振り返り、それから後を追った。オレンジ色のベストの人影たちは路地の入口から動かなかった。そこを離れればまた誰かが通りへ飛び出してくる。
男はゆっくりと交差点へ近づいた。
さっきまで人で埋まっていた通りにはもうほとんど誰もいなかった。残っていたのは逃げ遅れた人と動けなくなった人だけだった。
縁石に座り込んで擦りむいた膝を押さえている少年。その母親は少年の身体を抱きしめたまま震えていた。歩道には老人が倒れてうめいており、そばには片方だけの靴が転がっていた。少し離れたところでは若い女性がハンカチを血で赤く染めながら、それでも誰かに電話をかけ続けていた。割れたガラスで手を切ったのかもしれない。
ハンターたちの声が届かなければ、発炎筒の光がなければ、この中の誰かはとうに灰褐色の牙にかかっていただろう。誰もまだ噛まれてはいない。誰もまだ死んではいない。
それは奇跡だった。
そしてその奇跡の外側でたくさんの人が傷ついていた。恐竜の牙ではなく恐怖に追い立てられ、転んで押されて踏まれていた。その恐怖の何割かは自分が上げた轟音のせいだった。
少年の母親が顔を上げた。
すぐそばに立っている黒い恐竜を見て、その目が限界まで見開かれた。悲鳴は上がらなかった。もう声を出す力も残っていないのだ。母親は少年の身体をさらに強く抱きしめ、自分の背中で男の視線から隠そうとした。
男は一歩後ずさった。
(……ごめん)
届かない言葉に意味はなく、冷たい現実だけが横たわっていた。
足元で二号が短く喉を鳴らした。男を見上げ、それから商店街の外壁沿いの路地へ顔を向ける。
灰褐色の匂いはその路地を東へまっすぐに伸びていた。無線の声が言ったとおりなら、その先であれはもう一度アーケードの中へ入る。母が薬をもらっている薬局のある、あの通路へ。
そこにはもう一頭がいる。
男は拳のように前肢を握りしめた。爪の先にはまだ欅の樹皮がこびりついていた。
次は外さない。
次は何も壊さない。
そのどちらも守れるのかどうか自分でも分からないまま、男は路地を東へ駆け抜けた。
そしてアーケードの東口の暗がりへ足を踏み入れた。
第40章 見慣れた通り、見慣れぬ光景 了