みかんは孫の好物だった。
明日、娘夫婦が孫を連れて帰ってくる。去年は熱を出して来られなかったから二年ぶりだった。電話の向こうで孫は「ばあばのみかん、こたつで食べる」と言っていた。それを聞いたその日に老婆は箱で買っておこうと決めた。
スーパーが午後の一時間だけ店を開けると聞いて家を出た。外出を控えるよう言われているのは知っていた。それでも近所のスーパーまでは歩いて五分だった。一時間だけ。みかんを一袋。それくらいなら大丈夫だと思った。
レジに並んでいるとき、客たちの携帯電話が一斉に鳴った。
店を飛び出したときには家に帰るつもりだった。来た道を戻ればいいだけの五分の距離だった。けれど店の前の通りはすでに人で埋まり、誰もが同じ方向へ走っていた。押されて肩をぶつけられ、誰かの鞄が背中に当たる。
立ち止まれば後ろから突き倒されそうになり、やがて来た道がどちらだったのかも分からなくなった。見慣れたはずの通りが知らない街のように見えた。
気がついたときには家とは反対の方向へ、人の波と一緒に走っていた。
転んだのは商店街の入口だった。袋が破れてみかんが床に散らばり、起き上がろうとして顔を上げると灰色の顔がこちらを見ていた。そこから先はよく覚えていない。誰かが目の前に割り込んできて、何かが金属にぶつかる音がした。それから腕を掴まれ、走ってと言われた。
今はドラッグストアの奥で在庫の段ボールの間に座り込んでいる。
コートのポケットに手を入れると、みかんが一つだけ入っていた。転ぶ前になぜか一つだけポケットに入れていたのだった。
老婆はそれを両手で包み、額に押し当てた。
明日ちゃんと渡せるだろうか。自分に明日は来るのだろうか。
「会いたい、会いたいよ……」
皺の刻まれた目尻から一筋の涙がこぼれた。それを拭ってくれる人はどこにもいなかった。
◇
後部座席から祖母が「伏せてなさい」と言った。
その声が聞こえたのはボンネットの上に灰色の恐竜が飛び乗ってきた直後だった。フロントガラスの向こうには牙があり、青年はハンドルに突っ伏したまま息もできなかった。
祖母は週に三回、人工透析に通っている。今日がその日だった。病院からは緊急事態でも透析は休めないので、来られるなら来てくださいと電話があった。送っていけるのは自分しかいなかった。
交差点で車が動かなくなったとき、頭の中が真っ白になった。前の車も横の車も少しも動かず、予約の時間だけが過ぎていく。祖母が後ろで小さく咳をする。気がつくとアクセルを踏み込んでいた。動かない車の中でエンジンだけが唸り続けていたが、自分が何をしているのかさえ分からなかった。
その音にあれが寄ってきた。
車の屋根を爪が引っかく音がした。金属が裂ける音だった。後ろから祖母の皺だらけの手が伸びてきて、青年の手の甲に重なった。冷たい手だったが少しも震えていなかった。
「大丈夫。大丈夫だから顔上げるんじゃないよ」
助手席の窓を誰かが叩き、伏せてろと叫んだ。青年は祖母の手を握り返しながら何度も何度も頷いた。
「おばあちゃんがついてるからね。あなたは絶対おばあちゃんが守るからね」
いつの間にか祖母は後部座席から身を乗り出し、青年の背中を隠すように覆いかぶさっていた。不格好ではあっても精いっぱいの愛情と献身を込めて、年若い家族を守ろうと身を挺していた。
◇
ベランダで少女は泣きながらスマートフォンを構えていた。
撮りたいわけではなかった。動画を撮影しているのでもない。カメラの拡大機能を使って通りの向こうを覗いていたのだ。
商店街の入口の交差点には警察官が何人も立っていた。その中の一人が少女の父だった。
朝、出がけに今日は帰れないかもしれないと言っていた。クリスマスなのにごめんな、と。少女は別にいいよと素っ気なく答えた。中学に入ってから父とはほとんど話していなかった。最後にちゃんと顔を見たのがいつだったのかも思い出せなかった。
画面の中で父は逃げてくる人たちを路地へ押し込んでいた。帽子が飛んで頭が見えた。思っていたより白髪が多かった。
灰色の影が交差点を横切った。
少女は息を止めた。画面が震えて父の姿がぶれたため、指で拡大し直した。
どこ。どこにいるの。
いた。電柱の陰で誰かを抱えていた。小さな子供だった。
少女はスマートフォンを胸に押しつけ、ベランダの柵にしがみついて声を上げて泣いた。下の部屋の人に聞こえても構わなかった。
お父さん。帰ってきて。ちゃんと帰ってきて。
今度はちゃんとおかえりって言うから。
◇
ケーキ屋の店主は閉めた扉の内側で冷蔵ケースの前に立っていた。
ケースの中には白い箱がいくつも並んでいた。全部予約の品だった。一つ一つの箱に名前を書いた紙が貼ってある。毎年来てくれる家族の名前。今年初めて予約してくれた若い夫婦の名前。子供の字で「サンタさんのやつ」と書き添えられた注文票の写しもあった。
午後二時からお渡しと黒板に書いて店の前に出した。取りに来られたのはまだ三組だけだった。四組目が来る前にあの音が鳴った。
外で何かが倒れる轟音がした。ガラスの割れる音と悲鳴が響き、誰かが走っていく足音が聞こえた。店主は扉に近づこうとしてやめた。妻が厨房の奥から震える声で名前を呼んだ。
四十年、この商店街で店をやってきた。震災のときも疫病のときも、毎年クリスマスにはケーキを焼いた。焼いて並べて取りに来る人を待った。
閉店の時刻を過ぎても取りに来ない客は毎年いた。それでも翌日には必ず誰かが店の扉を開けた。すみません、昨日は急に残業で。子供が熱を出しちゃって。そう言って頭を下げる客に箱を渡してきた。四十年間、一つも捨てたことはなかった。
店主は冷蔵ケースのガラスに手を当てた。
今年は何人が取りに来られるだろう。何人が取りに来られなくなるだろう。
どれだけ遅くなってもいいからと店主は思った。明日でも明後日でも、年が明けてからでもいい。生クリームが傷んでいたら焼き直して渡す。何回でも焼く。
だから全部取りに来てくれ。
生きて取りに来てくれ。
◇
匿名掲示板
【実況】八王子終了のお知らせwww【恐竜クリスマス】
001:名無しの八王子市民
はい八王子オワタ
中型肉食二頭が市街地に侵入、さらに温泉恐竜まで来るらしいぞ
地元民の俺が実況してやる
窓の外、悲鳴とクラクションしか聞こえねえw
002:名無しの観測者
>>1
不謹慎すぎだろ
003:名無しの八王子市民
>>2
不謹慎? 何が?
クリスマスにリア充どもがケーキ抱えて逃げ惑ってんの最高のエンタメだろ
人類は恐竜に負けて終わるんだよ。もう決まってんの
世界中で同じことになってんだろ、ニュース見ろよ
004:名無しの観測者
>>3
お前の家にも来るかもしれんのだぞ
005:名無しの八王子市民
>>4
来いよw どうせ俺の人生とっくに終わってるし
七年部屋から出てねえ人間に失うもんなんかねえよ
社会が終わるなら、俺みたいなのも、まともに生きてる連中も、みんな同じとこまで落ちてくる
それが見たいんだよ俺は
006:名無しの観測者
こいつやべえ
007:名無しの観測者
通報しとくわ
008:名無しの八王子市民
>>7
何罪だよw
あ、今でかい音した。木が倒れたっぽい
窓から見える。人がめっちゃ走ってる
ばあさんがコケた。誰も助けねえw これが人間の本性だよ
◇
瀬川はそこまで打ち込んでから指を止めた。
カーテンの隙間から家の前の道路が見えていた。二階にある自室の窓だった。七年間ほとんど開けたことのない窓だった。
道路の真ん中で老婆が倒れていた。
その横に老人がしゃがみ込んでいる。老婆の腕を引いて立たせようとしているが、老人のほうも腰が曲がり杖をついていた。何度引いても老婆の身体は持ち上がらなかった。老人の口が動いているのが見えたが、何と言っているのかは聞こえなかった。
何人かがその横を走り抜けていった。
誰も止まらなかった。いや、止まれなかったのだ。後ろから何が来るのか分からない。自分の子供を抱えている。自分の親の手を引いている。誰もが自分の誰かのことで精いっぱいだった。
老人が顔を上げた。
周りを見回している。誰か。誰か。助けを求めるように、その目が通りに並んだ家々の窓を一つ一つ見上げていく。どの窓にもカーテンが引かれており、一つとして開かなかった。
その目が瀬川の部屋の窓の前で止まった。
見えているはずがなかった。カーテンの隙間は指一本分しかない。それでも瀬川は反射的に身を引いた。心臓がうるさいほど鳴っていた。
(関係ねえだろ)
関係ない。他人だ。知らない年寄りだ。自分は世界が終わるのをここで見物していればいい。そう決めたはずだった。掲示板にもそう書いたばかりだった。
それなのに気がつくと椅子から立ち上がっていた。
部屋の扉までは三歩だった。ノブに手をかけると金属が冷たかった。
そこで足が止まった。
この扉の向こうには廊下がある。階段がある。台所には母親がいる。七年前、最後に自分の足で玄関を出た日のことを瀬川は思い出せなかった。思い出したくもなかった。
扉を開ければ何かを言われる。何かを見られる。七年分、何もしてこなかった自分をまとめて突きつけられる。
ノブを握ったままどれくらい立っていたのか分からなかった。手のひらの汗でノブが滑った。
(無理だ)
手を離した。椅子に戻りかけて、もう一度だけカーテンの隙間を覗いた。
老人はまだそこにいた。老婆の頭を自分の膝の上に載せていた。もう引き起こそうとはしていなかった。ただ老婆の白い髪を皺だらけの手でゆっくりと撫でていた。
逃げることを諦めたのだと分かった。二人でここにいることに決めたのだと。
瀬川はそのあと自分がどうやって扉を開けたのか覚えていなかった。
気がついたら階段を下りていた。冷たい廊下を抜け、玄関でサイズの合わない父親のサンダルに足を突っ込んでいた。台所から母親が何か叫んだが、聞こえなかった。
玄関の扉を開けると冷たい空気が顔を叩いた。
七年ぶりの外だった。眩しかった。曇っているはずなのに目が痛かった。遠くでサイレンが鳴っている。足が震え、膝が自分のものではないみたいだった。
それでも道路へ出た。
老人が驚いたように顔を上げた。
「あ……」
声がうまく出なかった。人と話すのは何年ぶりだろう。喉が錆びついたように軋んだ。
「……う、うち。そこ。入って」
それだけ言うのが精いっぱいだった。
老婆の脇に腕を差し込んで持ち上げる。重かった。七年間何も持ち上げてこなかった腕が悲鳴を上げた。老人が反対側から支え、三人でもつれるように玄関へ向かった。サンダルが片方脱げたが、拾っている余裕はなかった。
玄関の上がり框に老婆を座らせると母親が奥から飛び出してきた。息子の顔と見知らぬ老夫婦の顔を何度も見比べていた。母親の目に何かが浮かんでいるのが見えたが、瀬川はそれを見ないようにして玄関の鍵をかけた。
「……すみません、すみません」
老人が何度も頭を下げていた。老婆は肩で息をしながら瀬川の顔をじっと見ていた。
「ありがとうねえ」
老婆が言った。
「お兄ちゃん、ありがとうねえ」
瀬川は何も答えられなかった。答え方が分からなかった。
逃げるように二階へ上がって部屋の扉を閉めた。椅子に座り込むと膝がまだ震えていた。片方だけ裸足になった足の裏が冷えてひりひりと痛んだ。
画面の中では掲示板の書き込みが勝手に進んでいた。
◇
匿名掲示板・続き
009:名無しの観測者
>>8
で、そのばあさんどうなったんだよ
010:名無しの観測者
>>1はもう逃げたんだろ
011:名無しの観測者
煽るだけ煽って消えるパターン
012:名無しの八王子市民
拾った
013:名無しの観測者
は?
014:名無しの八王子市民
家の前でじいさんとばあさんが倒れてたから、うちに入れた
今、一階にいる
015:名無しの観測者
>>14
嘘乙
016:名無しの観測者
世界終われって言ってたやつが何してんだよw
017:名無しの八王子市民
知らねえよ
俺にも分かんねえ
体が勝手に動いた
018:名無しの観測者
それでいいんだよ
019:名無しの八王子市民
なあ、年寄りに出す茶って、どうやって淹れんの
急須とか、触ったことねえんだけど
020:名無しの観測者
>>19
ティーバッグでいい。
021:名無しの観測者
>>19
母ちゃんに聞け。家にいるんだろ
022:名無しの八王子市民
>>21
……それが一番ハードル高えんだよ
023:名無しの観測者
www
でも行ってこい。今日はたぶん、いける日だ
024:名無しの八王子市民
行ってくる
◇
瀬川はもう一度部屋の扉を開けた。
階段の下から母親と老婆の話し声が聞こえていた。どこか笑っているような声だった。
外ではまだサイレンが鳴っていた。世界は終わってなどいなかった。終わりかけた街の中で誰もが自分の誰かのために必死に走り回っているだけだった。
瀬川は片方だけ裸足のまま階段を一段下りた。
断章16 それぞれの午後三時 了