アーケードの下は薄暗かった。
屋根の明かり取りから差し込む曇り空の光とクリスマスの電飾の点滅だけが、シャッターの並ぶ通路をまだらに照らしている。そこに人の姿はもうなかった。逃げられる人は逃げ、逃げられなかった人はどこかの店の奥で息を殺していた。
岳はライフルを低く構えたまま通路の真ん中を進んでいた。足元には逃げた人たちが落としていったものが散らばっている。片方だけの手袋に紙袋、踏み潰されたスマートフォン。点滅する電飾の光の中で、それらがまるで誰かの暮らしの抜け殻のように見えた。
「いるぞ」
後ろで榊原が囁いた。
通路の先、二十メートルほど向こうに灰褐色の背中があった。こめかみから流れた血が乾き、首筋に黒い筋を作っている。金物屋のシャッターに頭から突っ込んだあの一頭だった。恐竜は閉じた店のシャッターに鼻先を押しつけ、一軒ずつ匂いを嗅いで回っていた。
中に人がいるかどうかを確かめているのだ。岳は背筋が冷たくなるのを感じた。
「……榊原さん、いい加減撃ちたいですね」
「分かってる。それでも俺たちぁハンターだ。我慢して仕事をしなきゃなんねぇ」
この通りの店の奥にはまだ何人もの人が隠れているはずだった。シャッター一枚の向こうで震えながら、あの鼻息が遠ざかるのを待っている。
撃てない。この距離で外せば弾はシャッターを貫き、その向こうの誰かに届く。当てても貫通すれば同じことだった。
「あいつをここから引っ剥がす」
榊原がライフルの先に銃剣を取りつけながら言った。かちりと金属の噛み合う音がした。
「次にあいつが通路の真ん中に出たら俺が前から行く。お前は横から回れ。撃つのはそれからだ」
「その歳で銃剣突撃ですか」
「勇ましいだろう? それと歳のことは言うな。こちとら生涯現役なんでね」
榊原はちらりと笑ったが、すぐに真顔に戻った。
『指揮所より!』
無線が鳴った。三枝の声だった。
『二頭目と黒いの、そっちのアーケードの東口から入りました! 同じ通路です! 岳さんたちの正面、百メートル!』
岳と榊原は同時に通路の奥を見た。
電飾の光の向こう、通路の反対側の出口から何かが走ってくる音がした。軽く速い足音と、それを追う重く地面を揺らすような足音だった。
灰褐色の一頭目がシャッターから鼻先を離し、ゆっくりと頭を上げた。
◇
男はアーケードの通路を走っていた。すぐ後ろを二号が息を切らしながらついてくる。
前を行く灰褐色は少しも速度を落とさなかった。丘陵の市道からずっと追ってきた一頭だった。シャッターの並ぶ通路をまっすぐ西へ、その先に何があるのかも知らずに走っていく。
知っているのは男のほうだった。
この通路の中ほど、花屋とクリーニング屋の間に小さな薬局がある。母がいつも薬をもらっていた薬局だ。子供のころ母の付き添いで来るたびに、店先のガチャガチャを眺めて時間を潰した。
その薬局の前で追ってきた灰褐色が急に足を止めた。
前方にもう一頭がいたのだ。
無線の声が「一頭目」と呼んでいたあの一頭だった。こめかみから首筋へ乾いた血が黒い筋を引いている。その灰褐色が通路の向こうからこちらを見ていた。背後にはライフルを構えた人間が二人いる。交差点で発炎筒を掲げていたあのハンターたちだった。
体つきはほとんど同じだった。細い首に長い尾、脇腹に残る白く引きつれた古い傷痕までよく似ている。違うのはこめかみの血の筋だけだった。
二頭の灰褐色が薬局の前で向かい合った。仲間を見つけたように鼻先を寄せ合うでもなく、威嚇し合うでもない。ただ互いの存在を確かめるように首を傾げていた。
それから二頭は同時に男を見た。
(……来いよ、銃なんて捨ててかかってこい)
男は身を低くした。
次は外さない。次は何も壊さない。さっき自分に言い聞かせた言葉をもう一度腹の底で繰り返した。
最初に動いたのは血の筋のあるほうだった。
薬局の前の通路を一直線に駆け、男の喉元めがけて跳んできた。男は身体をひねってその牙を避けようとした。
ぎりぎりだった。灰褐色の牙が首の鱗をかすめていく。男の身体の横をすり抜けた灰褐色は勢いを殺しきれず、そのまま背後のシャッターへ突っ込んだ。
薬局のシャッターだった。
金属が悲鳴のような音を立てて裂けた。下半分が内側へめくれ上がり、その隙間から蛍光灯の白い光が通路へ溢れ出した。血の筋のある一頭は裂けたシャッターの縁に首を引っかけたままもがいていた。
めくれ上がった隙間の向こうに店の中が見えた。白い床と倒れた陳列棚。待合の長椅子には杖を握りしめたまま座り込んでいる小さな老婆がいた。カウンターの縁からはいくつもの目がこちらを覗いていた。
向こうからも見えているのだ。裂けた隙間に首を突っ込んでもがく灰褐色と、そのすぐ外に立つ黒い恐竜の姿が。
中から悲鳴が上がった。
いくつもの悲鳴だった。子供の泣き声に年寄りのうめき声、女の子の引きつった叫び声。それから一つだけ、叫ぶのではなく誰かに向かって必死に呼びかける声があった。
「伏せて! 奥へ! カウンターの裏に――!」
男の身体が凍りついた。
知っている声だった。
知らないはずがなかった。妹が生まれたその日からずっと同じ家で聞き続けてきた声だった。朝、寝坊した自分を叩き起こす声。夕飯の席でどうでもいいことで言い争う声。四か月前、温泉にでも行きたいとぼやいた自分に「勝手に行けば」と笑った声。
(……なんで)
なんでここに。
家にいるはずだった。窓を閉めて鍵をかけ、テレビを見ているはずだった。こんな日に外へ出る理由なんてないはずなのに。
母の薬。
その考えが頭の中で形になるより先に、首筋へ焼けた鉄を押し当てられたような痛みが走った。
◇
丘陵から追ってきたあの一頭だった。
男が動きを止めたほんの一瞬を灰褐色は見逃さなかった。横から跳びかかり、男の首の付け根に牙を立てたのだ。肩から首へ牙が深く食い込んでいき、熱いものが鱗の隙間から噴き出した。
男は喉の奥で声にならない声を上げた。
首を振って振りほどこうとするが牙は外れない。灰褐色は後肢を踏ん張り、男の身体を引き倒そうとしていた。視界が揺れ、通路の電飾がぐるりと回った。
その横で血の筋のある一頭が裂けたシャッターから首を引き抜いた。
血を流している男を見て黄色い目が細くなった。弱った獲物を見つけた目だった。灰褐色は身を低くし、男のがら空きになった脇腹へ向かって跳ぼうとした。
その瞬間、首筋に鈍い光が叩き込まれた。
あの若いハンターだった。交差点で黙って銃口を下げたハンター。
いつの間に距離を詰めていたのか、灰褐色のすぐ横にその姿があった。両手で握ったマチェットが灰褐色の首の付け根に深々と食い込んでいた。銃を撃てないなら刃で。最初からそのつもりで走り込んできたのだ。
血の筋のある一頭が悲鳴のような声を上げて身をよじった。牙が若いハンターの顔のすぐ横で空を噛む。ハンターはマチェットを引き抜きざまに後ろへ跳び、灰褐色の首から黒い血が溢れ出した。
「榊原さん!」
「おうよ! こいつでカンバンだ!」
反対側から年配のハンターが突っ込んできた。ライフルの先に取りつけた銃剣が灰褐色の脇腹に体重ごと突き立てられる。白く引きつれた古い傷痕のすぐ横だった。
灰褐色がよろめいた。
それでも倒れなかった。首から血を流し、脇腹に銃剣を受けたまま灰褐色の身体はまだ立っていた。痛みを感じていないかのように黄色い目が二人のハンターを交互に睨みつけていた。
「……まだ動くのかよ。カッコつかねぇな」
年配のハンターが銃剣を引き抜きながら歯を食いしばった。
◇
男は首に食い込んだ牙をようやく振りほどいた。
前肢で灰褐色の顎を掴み、力任せに引き剥がす。肉が裂ける音がした。自分の肉だった。首から肩にかけて熱いものが流れ落ちていく。視界の端が赤く染まっていたが、今度は怒りのせいではなかった。
振りほどかれた灰褐色は口の周りを男の血で濡らしたまま通路を転がり、すぐに跳ね起きた。
男を見た。それから男から目を逸らした。
その視線の先には裂けたシャッターがあった。下半分がめくれ上がり、白い光が溢れ出している隙間。その奥から子供の泣き声と押し殺した悲鳴、それを必死になだめる声が聞こえていた。
人間の匂いが溢れ出していた。
閉じ込められて逃げ場のない、たくさんの獲物の匂いだった。
(……やめろ)
男は立ち上がろうとした。
首の傷からまた血が溢れた。前肢に力が入らず、四メートルを超える身体がぐらりと傾いた。
口を血で濡らした灰褐色が身を低くした。裂けたシャッターの隙間へ細い首がゆっくりと差し込まれていく。
蛍光灯の白い光の中から悲鳴が上がった。その中にはさっき聞いた声があった。
(やめろ)
男の喉から低い唸り声が漏れた。傾いた身体を持ち直そうとするが、前肢の痺れと出血で態勢が崩れてしまう。
灰褐色の肩がシャッターの隙間をくぐった。前肢が薬局の床を踏んだ。
(やめろ――!)
その足元を小さな影が一直線に駆け抜けていった。
第41章 シャッターの向こう 了