裂けたシャッターの隙間から、灰褐色の頭が入ってきた。
蛍光灯の白い光の中で、その目は黄色く濡れていた。細長い顎の先から、涎とも血ともつかないものが、薬局の床に滴り落ちる。鼻先が、ゆっくりと左右に揺れた。匂いを嗅いでいるのだ。この狭い店の中に、何人の人間がいるのかを。
妹は、カウンターの陰で、息を止めていた。
背中に、女子高生がしがみついている。その震えが、制服越しに伝わってきた。すぐ横では、子供を抱いた母親が、我が子の口を手のひらで塞ぎ、自分の唇を血が出るほど噛んでいた。薬剤師は、奥の調剤室の扉の前で、両手を広げたまま固まっている。
その扉の向こうに、裏口がある。分かっていた。けれど、カウンターの陰からそこへ行くには、待合の前を横切らなければならなかった。シャッターの隙間から突き出した、あの頭の、すぐ鼻先を。
杖の老婆だけが、待合の椅子に取り残されていた。
逃げ遅れたのだ。シャッターが裂けた瞬間、皆がカウンターの陰へ飛び込んだとき、老婆の脚は、それについてこられなかった。椅子の背に掴まったまま、灰褐色の頭を、見開いた目で見つめていた。
恐竜の肩が、シャッターの隙間をくぐった。前肢が、床を踏んだ時には、老婆との距離は、もう三メートルもなかった。
そのとき、足元を何かが走り抜けた。
小さな影だった。シャッターの隙間から、灰褐色の脚の間をすり抜けて飛び込んできた、一メートルほどの生き物。それが、灰褐色の尾の付け根に、思いきり噛みついた。
灰褐色が、甲高い声を上げて振り返った。
小さな生き物は、尾に食らいついたまま、振り回された。棚にぶつかり、薬の箱が雨のように降ってくる。それでも、離さなかった。
妹には、それが何なのか分からなかったが、ただ恐竜だということだけは分かった。けれど、どうしてそれが、あの灰褐色に噛みついているのか。
「今のうちに!」
薬剤師が、調剤室の奥の扉を押し開けた。裏口だ、冷たい外の空気と、細い路地の灰色の光が流れ込んでくる。
「こっちから出られます! 早く!」
◇
最初に飛び出したのは、子供を抱いた母親だった。続いて、女子高生。薬剤師が、二人の背中を押し出す。
妹は、カウンターの陰から飛び出して、待合の椅子へ走った。
「おばあちゃん、こっち!」
老婆の腕を、自分の肩に回す。軽かった。驚くほど軽くて、そして、まったく足が出なかった。杖が床に転がる。拾う暇はなかった。妹は、老婆の身体を半分抱えるようにして、調剤室の扉へ向かった。
背後で、何かが壁に叩きつけられる音がする。
小さな生き物が、ついに振り飛ばされたのだ。床に落ちて、動かなくなっている姿が見えた。あまりにも細くて弱弱しい姿に、胸が痛む。灰褐色が尾を一振りして、こちらを向いた。
黄色い目が、妹と、老婆を捉えた。店の中に残っている最後の二人を。
「急いで!」
薬剤師が、裏口から叫んでいた。妹は老婆を引きずるようにして、調剤室を抜けた。棚の間の狭い通路で、老婆の肩がぶつかり、薬の瓶が床で砕けた。背後から爪が床を引っかく音が迫ってくる。
裏口を抜けた。
細い路地だった。両側を建物の壁に挟まれ、室外機と、ゴミの集積所と、自転車が何台か並んでいる。その先に、表の通りへ抜ける出口が、四角く明るく見えていた。母親と女子高生の背中が、その光の中へ消えていくところだった。
あそこまで、二十メートル。老婆の足は、もう、ほとんど動いていなかった。息が、乾いた冬の空気にさらされ、苦しそうにひゅうひゅうと鳴っている。
「大丈夫、大丈夫だから、もう少し」
自分に言い聞かせるように、妹は繰り返した。肩に回した老婆の腕に、ふいに力がこもった。前へ進むための力ではなかった。妹の肩を、押し返すための力だった。
「……お嬢ちゃん」
息の切れた、かすれた声だった。
「もう、いいの。ここに置いていきなさい」
「何言ってるの」
「この足じゃ、逃げれられやしないよ。あんただって、分かってるでしょう」
老婆は、妹の肩から、自分の腕を抜こうとしていた。その手が、細かく震えていた。寒さのせいではなかった。
「ごめんねえ。あんたを、こんなことに巻き込んで。こんな日に、婆さんが薬なんか取りに来たばっかりに」
「おばあちゃんのせいじゃない」
「いいから、お聞き」
皺だらけの指が、妹のコートの袖を掴んだ。待合で、ぐずる子供に飴を差し出していた、あの指だった。
「私はね、もう八十を過ぎてるの。じいさんも、とうに向こうで待ってる。あんたは、まだ若い。この先、いくらでも時間がある。そういう子が、こんな婆さんのために死ぬなんて、そんなことは、私が許さないよ。順番が、逆さまだ」
背後の裏口の向こうで、何かが棚を薙ぎ倒す音がした。瓶の割れる音が、雨のように続いた。
「先にお行き。私がここに座ってれば、あれは、こっちに――」
「やだ」
妹は、老婆の腕を、自分の肩に掴み直した。振りほどかれないように、手首ごと、強く。
「お嬢ちゃん」
「やだって言ってるの!」
自分でも驚くほど、大きな声が出た。
「順番とか、若いとか、そんなのどうでもいい! 理屈なんか、どうでもいいの! みんなで逃げるの! みんなで!」
喉が、裂けそうだった。涙が溢れてきた。拭おうにも、両手は塞がっていた。
「うちのお兄ちゃん、四か月前から帰ってこないの。どこにいるのかも、生きてるのかも、分かんないの。待ってるほうがどんな気持ちか、私、知ってるの。おばあちゃんのこと待ってる人だって、絶対いる。だから、置いていかない。絶対に、置いていかない!」
老婆は、何か言いかけて、口をつぐんだ。
妹は、もう返事を待たなかった。老婆の身体を半分背負うようにして、一歩、前へ出た。もう一歩。膝が笑う。靴底が、濡れたアスファルトの上で滑る。それでも、止まらなかった。
「……馬鹿な子だよ」
耳元で、老婆が呟いた。泣いているような声だった。それから、老婆の足が、ほんの少しだけ前に出た。引きずられるのではなく、自分の力で。
「馬鹿でいいよ。行くよ、おばあちゃん。いち、に。いち、に」
掛け声に合わせて、二人の足が、少しずつ揃っていく。老婆は声にならない声で、小さくうめくようにありがとうと繰り返していた。出口の四角い光が、ほんの少しだけ、近づいた。鞄の中で、スマートフォンが震えていた。父だった。分かっていた。出られなかった。三回目の電話は、ここを抜けてからだ。家に帰るって言うのは、ここをしのいでからだ。
背後で裏口の扉が弾け飛んだ。
死は理不尽に誰にでも降りかかる、それは重ねた年月を理由にしなかった。
◇
男は、薬局の前の通路で、ようやく立ち上がっていた。
首の傷から、血が止まらなかった。一歩踏み出すたびに、視界が揺れる。それでも、裂けたシャッターの中から、悲鳴が遠ざかっていくのが聞こえた。奥へ、裏へ。
その、さらに向こうで、誰かが叫んでいた。
言葉までは、聞き取れなかった。けれど声は分かった。さっき、シャッターの向こうで聞いた声だった。泣きながら、誰かを叱りつけているような声だった。
裏口があるのだ。
男はシャッターの隙間を見た。自分の身体では通れない。無理に押し入れば、店ごと壊す。中にまだ誰かがいたら。
男は薬局の隣の路地へ飛び込んだ。
建物と建物の間の、細い隙間だった。四メートルを超える身体には、狭すぎた。両肩が壁をこすり、室外機を押し潰し、雨樋をへし折る。首の傷が壁に擦れて、また血が噴き出した。構わなかった。今は、何も壊さないなどと言っていられなかった。
路地を抜けた先に、薬局の裏手の通路が見えた。そこに、灰褐色の背中があった。
その向こうに、二つの人影があった。腰の曲がった老婆と、それを支えている、若い女。
妹だった。
四か月ぶりに見る顔だった。髪が、少し伸びていた。コートは、去年の冬に母と買いに行ったと話していた、紺色のものだった。その顔が、真っ白になって、迫ってくる灰褐色を見ていた。男は、走った。
◇
妹は薬局の裏口がある背後を振り返っていた。灰褐色の恐竜が路地の真ん中で、身を低く今にもとびかかろうとしていた。逃げられないと思った。老婆を抱えたままでは、路地からでて身を避けるためのあと十メートルが、どうしても遠かった。
その灰褐色の、さらに向こう。隣の路地の出口から、黒い巨体が、壁を削りながら飛び出してくるのが見えた。
温泉恐竜だった。ニュースで何度も見た。その身体は首から肩にかけて、真っ赤な血に濡れていた。四メートルを超える身体がこちらへ向かって地面を揺らしながら走ってくる。
前には進めなかった。背後には牙があった。妹は老婆の身体をつかむ手を強く握った。
それから、灰褐色の恐竜が、跳んだ。
考えるより先に、身体が動いていた。
妹は老婆の身体を両腕で思いきり横へ突き飛ばした。路地の脇の自転車置き場の陰へ。老婆の小さな身体が、自転車の間に転がり込むのが見えた。
それで、自分が逃げる時間はなくなった。
灰褐色の顎が、目の前で開いていた。
◇
間に合わない。
男には、それが分かった。
灰褐色が跳んだ。妹が老婆を突き飛ばした。そして、妹はそこから動けなくなった。男と妹の間には、まだ灰褐色の身体があった。あと五メートル。たった五メートル。全力で地面を蹴っても、ぎりぎり届かない。
首の傷が、足を鈍らせていた。血が目に入って世界が赤くぼやけている。
(頼む)
生まれてから一度も、本気で祈ったことはなかった。初詣で手を合わせても、何を願えばいいのか分からなかった。神様なんて、いるのかいないのかも、考えたことがなかった。
それでも、今男は祈っていた。
(頼む。誰でもいい。神様でも何でもいい。俺の命なんか、全部持っていっていい。だから、あいつだけは――)
灰褐色の爪が妹の胸元へ振り下ろされた。その、次の瞬間だった。
路地の脇から小さな影が矢のように飛び込んできた。
二号だった。
薬局の中で、壁に叩きつけられて、動かなくなっていたはずの二号だった。どうやってここまで来たのか。どこからそんな力が残っていたのか。小さな身体が、真横から灰褐色の前肢に食らいついた。
止められるはずがなかった。二号の体重は、灰褐色の何分の一もない。跳んだ勢いも振り下ろされる爪も、一メートルの身体で受け止められるものではなかった。
それでも、前肢に全身の重さがぶら下がった分だけ、宙にある灰褐色の身体が、わずかに傾いた。
ほんの数十センチ。
妹の胸元へまっすぐ落ちていくはずだった爪が、その数十センチだけ横へ流れた。妹の肩口をかすめて紺色のコートを裂き、その勢いのまま前肢にぶら下がった二号の脇腹から背中を、三本まとめて薙いだ。
二号の身体が、くの字に折れた。
それでも、二号の牙は決して離れなかった。灰褐色のとびかかる勢いはなお止まらず、灰褐色と、二号と、妹が、ひとかたまりになって路地の奥へもんどり打って倒れ込んでいった。その先に、ゴミの集積所がある。資源ごみを積んでおくための、鉄パイプを組んだ背の高いラックが、壁際に据えられていた。
灰褐色の背中が、それに真横から叩きつけられた。
ラックが傾いた。留め具が弾け飛び、上の段に積まれていた古紙の束と段ボールが、雪崩のように崩れ落ちる。ポリバケツが弾け飛んで、中の汚水がすべてを濡らした。将棋倒しになった自転車が、その上に重なり、最後に、鉄パイプの骨組みそのものが、轟音を立てて倒れ込んだ。
布の裂ける音がした。女性の悲鳴が上がった。
何かが、高く宙を舞った。紺色の布の切れ端と、鞄の肩紐だった。それが、男の目の前を、ゆっくりと落ちていった。
それから、路地は、静かになった。
◇
男は、立ち尽くしていた。
倒れたラックと、絡まり合った自転車と、崩れた段ボールの山が、路地の奥を塞いでいた。鉄パイプの骨組みの向こうは、何も見えなかった。その下から、何の音も聞こえなかった。灰褐色の唸り声も、二号の鳴き声も、妹の声も。
段ボールの隙間から、赤いものが、ゆっくりと流れ出していた。
誰の血なのか分からない。
自転車置き場の陰で、老婆が地面に座り込んだまま、両手で口を押さえていた。その目が、段ボールの山と男の黒い身体を、交互に見ていた。
男は、一歩、踏み出そうとした。足が、動かなかった。
段ボールの山の手前に、白いものが落ちていた。
薬局の紙袋だった。口が開いて、中の薬が、アスファルトの上に散らばっていた。袋の表に、名前が書いてあった。
母の名前だった。
その横で、スマートフォンが、画面を上にして震えていた。着信を知らせる明かりが、灰色の路地の中で、規則正しく点滅していた。
画面に、文字が浮かんでいた。
お父さん。
その電話に出る人はいなかった。
第42章 犠牲 了