次は21時
遠くで一発の銃声が鳴った。
表の通りのほうだった。乾いた短い音がアーケードの屋根に跳ね返り、細い路地の奥まで届いた。それきり二発目は鳴らなかった。
ハンターたちがもう一頭の肉食恐竜を撃ったのだろうか。それが当たったのか外れたのか、男には分からなかった。そもそも銃声の意味をそれ以上考えている余裕などなかった。
崩れた段ボールの山が動いていた。
倒れたラックの鉄パイプが内側から押し上げられ、軋んだ音を立てた。絡まっていた自転車が一台横へずり落ちる。濡れた段ボールが一枚、また一枚と滑り落ちていき、その下から灰褐色の背中が現れた。脇腹から血を流している。折れた鉄パイプで裂いたのか、自転車のフレームで切ったのか。それでも灰褐色はゆっくりと身を起こした。
その足元には二つの身体があった。
一つは二号だった。
小さな身体がアスファルトの上に横たわっていた。脇腹から背中にかけて深い爪の痕が三本走り、そこから溢れた血が灰色の路面を黒く染めていた。目は半分開いていたが、その目はどこも見ていなかった。
もう一つは妹だった。
段ボールと自転車の間に仰向けに倒れていた。紺色のコートは肩から裂け、その下の白いセーターが赤く汚れている。二号の血なのか妹自身の血なのか、男には分からなかった。
妹の胸が小さく上下していた。生きている。目を開けて自分の上にのしかかっている灰褐色の顎を見上げていた。
声も出せずに。
灰褐色が首を持ち上げた。黄色い目が足元の二つの身体を見下ろしていた。動かなくなった小さいほうと、まだ息をしている人間のほう。どちらから喰うか選んでいるような目だった。
顎が開き、ゆっくりと妹の喉元へ下りていった。
◇
世界が赤くなった。
さっき通りで欅を薙ぎ倒したときとは違った。あのときは視界の端が滲んだだけだった。今度はすべてだった。路地の壁も灰色の空も倒れた自転車も、何もかもが血を流し込んだように真っ赤に染まった。
音が消えた。自分の心臓の音さえ聞こえなかった。
男はもう考えていなかった。
次に気づいたとき、灰褐色の首は男の顎の中にあった。
どうやってそこまで届いたのか覚えていなかった。五メートルの距離を一歩で詰めたのかもしれない。首の傷も足の重さも何もかも消えていた。ただ牙の間に細い首の骨の感触があった。
男は顎を閉じた。
骨が砕ける感触が牙の根元から頭蓋の奥まで響いた。灰褐色が四肢をばたつかせ、爪で男の胸を引っかいた。鱗が裂けたが痛みはなかった。男は首を咥えたまま灰褐色の身体を持ち上げ、路地の壁に叩きつけた。
一度、二度と繰り返し、三度目で壁のモルタルが砕け落ちた。
それでも男は止まらなかった。
灰褐色がもう動かなくなっていることにも気づいていなかった。地面に叩きつけ、前肢の爪で引き裂いた。何度も何度も繰り返すうちに肉が裂け、骨が覗き、血が路地の壁に飛び散った。
喉の奥から自分のものとは思えない声が溢れ出していた。唸り声でも咆哮でもない。もっと古い、もっと暗い場所から湧き上がってくる獣の声だった。
赤い世界の中で男はただ目の前のものを壊し続けていた。
◇
どれくらいそうしていたのか分からなかった。
最初に戻ってきたのは音だった。ひゅう、ひゅうというか細い呼吸の音が耳に届き、男はようやく動きを止めた。
前肢の下には灰褐色だったものがあった。もう形を留めていなかった。路地の壁にも地面にも男自身の身体にも、その血がべったりとこびりついていた。口の中には鉄の味が満ちていた。
赤い色が少しずつ視界から引いていく。
男は顔を上げた。
妹がそこにいた。
段ボールの山の脇に上半身を起こして座り込み、両手で自分の身体を抱きしめるようにしていた。その目が男を見ていた。
見たことのない目だった。
妹が生まれたときから同じ家で暮らしてきて、一度も見たことのない目だった。喧嘩をしたときも泣いていたときも、こんな目で兄を見たことはなかった。
恐怖だった。
純粋な底のない恐怖。目の前にいるものが次に自分を引き裂くかもしれないと本気で思っている目だった。歯の根が合わずかちかちと鳴っていた。逃げようとしても脚が動かず、ただ背中を段ボールに押しつけて少しでも男から遠ざかろうとしていた。
自転車置き場の陰では老婆が地面に額をこすりつけながら震え、念仏を唱えていた。
路地の出口にも人影があった。薬局から逃げ出した母親が子供の顔を自分の胸に押しつけている。見せないようにしているのだ。女子高生は壁に背中をつけたままずるずると座り込み、薬剤師は口を押さえて顔を背けていた。
その手前にはライフルを構えた二人のハンターがいた。
若いほうの銃口がまっすぐ男の頭を向いていた。今度は揺れていなかった。
誰も何も言わなかった。
路地の中にいる全員が同じものを見ていた。血まみれの黒い、四メートルを超える肉食恐竜。たった今、目の前で同じ肉食恐竜を無残に引き裂いた怪物を。
男は自分の前肢を見た。黒い鱗が赤く濡れ、爪の間には肉の切れ端が挟まっていた。
(……俺がやったのか)
さっき欅を折ったときと同じ言葉だった。けれど意味がまるで違っていた。
妹の目から涙が一筋こぼれた。
助かった安堵の涙ではなかった。怖くて怖くてどうしようもなくて溢れた涙だった。
男はその涙から目を逸らすことができなかった。
◇
足元で小さな音がした。
ぴ、と。
二号だった。
血溜まりの中で半分開いた目が男のほうを向いていた。小さな喉が震えている。もう一度鳴こうとしていた。
短く二度。待っているあいだも、戻ってきたときも、夜中に知らない音が聞こえたときも、ここにいると伝えるために何度も鳴らしてきた音だった。
ぴ、と一度だけ鳴って止まった。二度目は出なかった。
男は膝をついた。
二号の身体に前肢を差し入れた。そっと、強すぎないように。血で滑る小さな身体を胸に抱き上げる。
軽かった。
出会った日に木の実を一つ咥えて近づいてきたときと同じくらい軽かった。
まだ温かかった。かすかに胸が動いていた。
男は二号を胸に抱いたまま立ち上がった。
ここにはいられなかった。妹のあの目の前にはいられなかった。
段ボールの山の脇に妹の鞄が落ちていた。肩紐が引きちぎられ、布地が大きく裂けている。中身が半分こぼれ出していた。ハンカチに財布、家の鍵につけた小さな猫のキーホルダー。
男は片方の前肢で二号を抱いたまま、もう片方の前肢を鞄へ伸ばした。
妹がびくりと身体を震わせた。
男は爪の先を鞄の表の布地に当てた。ゆっくりと震える爪で、人間だったころ玄関で何千回も口にしてきたあの四文字を刻んでいく。
た。
だ。
い。
ま。
書き終えると男は爪を離し、妹の顔を一度だけ見た。
妹は男を見ていなかった。鞄を見ていた。布地に刻まれた歪んだ四つの文字を見つめていた。その目が恐怖とは違う何かで大きく見開かれていくのが分かった。
男は背を向けた。
路地の出口とは反対側、薬局の裏手のさらに奥へ。二号を抱いたまま建物の隙間へ走り出した。
背中にライフルの銃口が向いているのが分かった。撃つなら撃てばいいと思った。
銃声は鳴らなかった。
◇
御門優子がその路地にたどり着いたのは、黒い背中が建物の隙間へ消えようとするまさにその瞬間だった。
指揮所でドローンの映像を見ていられなくなり、飛び出してきたのだ。誰の許可も取らなかった。止める声も聞かなかった。白衣の上にコートを羽織っただけの格好で警察車両の後部座席に押し込んでもらい、渋滞の隙間を縫ってここまで来た。
路地の入口で御門は足を止めた。
血の匂いがした。
壁にも地面にも赤いものが飛び散っていた。その真ん中に灰褐色の恐竜だったものが横たわっていた。
研究者として何百という恐竜の死体を見てきた。けれどこれほど徹底的に壊されたものを見たのは初めてだった。
ライフルを構えたままの岳がこちらを振り返った。その顔は紙のように白かった。
「……先生」
御門は答えなかった。
段ボールの山の脇に若い女性が座り込んでいた。裂けた鞄を両腕で抱きしめている。その鞄の表に何かが刻まれているのが見えた。
爪で書かれたひらがなだった。
ただいま。
御門の頭の中でばらばらだった欠片が一斉に音を立てた。
自販機でコーラを買った恐竜。交番の扉を二回ずつ叩いた恐竜。防犯カメラに向かって頭を下げた恐竜。福島で母娘の前に立った恐竜。
言葉を理解しているとは誰も言い切れなかった。研究者なら言い切ってはいけなかった。
けれど今、目の前にあるのは。
あの恐竜がこの街に来た理由。この路地にまっすぐ飛び込んできた理由。この若い女性の前であれほど我を忘れた理由。そして去り際にわざわざこの四文字を残していった理由。
まるで出来の悪い物語のような仮説だった。根拠と呼べるものは何一つなかった。学会でこんなことを口にすれば笑われるどころでは済まない。
こんなのは研究者のやることではない。
分かっていた。
それでも御門は路地の奥へ走り出していた。
「先生! 危ない!」
岳の声が背中に飛んできたが構わなかった。血溜まりを踏み越え、灰褐色の死骸の横を抜けて建物の隙間の入口まで走った。
その奥に黒い背中が見えた。
狭い隙間を両肩で壁を削りながら遠ざかっていく。その胸に小さな何かを抱いているのが見えた。
「待って!」
御門は叫んだ。しかし黒い背中は止まらなかった。
御門は大きく息を吸い、生まれてから一度も出したことのないような声を喉の奥から絞り出した。
「私は恐竜の研究者です! 御門といいます!」
狭い隙間に声が反響した。
「あなたに、もし言葉が分かるなら! 山梨の国道四一一号、柳沢峠! 道路のカメラの前に来てください!」
黒い背中がほんの一瞬だけ動きを止めたように見えた。けれど振り返りはしなかった。
「その子を助けられるかもしれない! 私が必ず行きます! だから――」
御門の声が途切れた。
黒い背中はもう建物の隙間の向こうへ消えていた。
御門は壁に手をついて肩で息をした。自分の心臓の音が耳の奥でうるさいほど鳴っていた。
言ってしまった。根拠もない仮説を信じて研究対象に向かって名前を名乗り、待ち合わせ場所まで叫んでしまった。
振り返ると岳と榊原が呆然とした顔でこちらを見ていた。
「……先生、今の」
「聞かなかったことにしてください」
御門は乱れた髪を手で押さえた。
「……いえ。聞いておいてください。もし私の頭がおかしくなったのでなければ、たぶん必要になります」
段ボールの山の脇では若い女性がまだ鞄を抱きしめていた。爪で刻まれた四文字を震える指で何度もなぞっていた。
遠くでまたサイレンが鳴った。
十二月二十四日、午後三時四十二分。八王子の街に肉食恐竜の姿はもうどこにもなかった。
血に染まったクリスマスイブはこうして幕を閉じた。
第43章 血濡れのただいま 了