本日の投稿はこれで終わり
感想や評価お待ちしてます、どんな話が好きなのか知りたい
一頭目が倒れたのは、午後三時三十六分だった。
薬局の前で岳のマチェットに首を斬られ、榊原の銃剣に脇腹を抉られた灰褐色は、それでも倒れなかった。黒い恐竜が隣の路地へ飛び込んでいくのを見送るように首を巡らせると、ふらつく足取りでアーケードの西口へ向かって走り出したのだ。
逃げたのではなかったと岳は思っている。あれはまだ動けたから動いただけだった。痛みも恐怖も、自分の身体がもう長くは持たないということさえ、あの恐竜の頭にはなかったのかもしれない。
岳と榊原はその後を追った。
アーケードを抜けた先には通りを一本挟んで市営の駐車場があった。午後の初めに榊原が誘導先として選んでいた場所だ。奥には高さ五メートルのコンクリートの擁壁がそびえ、逃げ場を塞ぐように駐車場を囲っている。
灰褐色はその真ん中で足を止めた。
首から流れ続ける血が駐車場の白線を赤く濡らしていた。振り返った黄色い目が岳を捉え、傷ついた身体がゆっくりと沈み込む。最後の跳躍に備える姿勢だった。
その背後には擁壁しかなかった。人も窓も、スマートフォンのレンズもない。
岳は片膝をついてライフルを構えた。午後二時三十八分に初めて照準の中へ収めてから、一時間近く、一度も引けなかった引き金だった。
灰褐色が地面を蹴った。
か弱い人間一人を殺すには十分すぎる質量が、牙を剥いて迫ってくる。それでも岳は照準をぶらさなかった。跳躍の軌道を見極め、急所が狙線に重なった瞬間に引き金を絞った。
銃弾は一発で足りた。
空中にある肉食恐竜の急所を過たず貫いた弾丸は、その命を一瞬で刈り取った。灰褐色の身体は勢いを失い、岳の数メートル手前に崩れ落ちると、二度と動かなかった。
「……たった一発に一時間かかったな」
隣で榊原が言った。息はまだ荒く、肩が大きく上下していた。
「一時間かけて、撃てるところまで連れてきたんです」
岳はライフルを下ろしながら答えた。撃つまでは震えなかった手が、引き金を引いたあとになって止まらなくなっていた。
榊原は何も言わずに岳の肩を一度だけ叩くと、駐車場の車止めにどさりと腰を下ろした。この人が座るのを見るのは一時間ぶりだと岳は思った。
最後にライフルを撃ったのは自分だった。跳躍する肉食恐竜の急所を一撃で捉えた射撃は、傍から見れば神業と呼ばれるかもしれない。だが岳にとって、本当に驚嘆すべきものは榊原の指揮だった。
自らも市街地を走り回り、最後には銃剣を手に白兵戦まで演じながら、榊原は一度として現場全体への注意を失わなかった。避難する市民の動き、仲間の位置、恐竜の進路、発砲した場合の危険。そのすべてを把握しながら的確に指示を出し、最後には一時間前から目をつけていたこの駐車場へ獲物を誘い込んでみせた。
岳からすれば、これ以上ないほどのお膳立てだった。自分に同じことができるかと問われれば、とてもできないと答えるしかない。今後どれだけ経験を積んでも、榊原と同じ判断を下せるようになるとは思えなかった。
横目に見る榊原は、さすがに年齢相応の疲労を隠せなくなっていた。額には深い皺が刻まれ、呼吸もなかなか整わない。それでも一時間近く岳と同じ速度で走り、戦い抜いたのだ。体力自慢の若手ハンターでも容易には真似できないことを、現場の指揮と並行してやってのけたのである。
この人が引退したあとの日本のハンター業界はどうなるのだろう。そんなことを考えるだけで胃が痛くなった。
何より榊原には、守護神と呼ばれるだけの実績があった。現役二十年を超える経歴を持ちながら、自分のチームから一人の死者も出していない。危険の少ない仕事ばかり選んできたわけでもなく、大型肉食恐竜との死闘も幾度となく経験していると聞く。
福島の事件では、榊原自身がもうどうしようもなかったと語ったらしい。だが現場を知るハンターたちにとって、それは到底信じられない話だった。あの榊原でさえ手の打ちようがなくなる状況など、あってほしくなかったのだ。
路地の奥から獣の声が聞こえてきたのは、その直後だった。
「あっちの対応はまだ終わってないのか、ままならねぇが放ってもおけん。岳、サンタクロースの交通整理だ、ソリがつける街にしにいくぞ」
座ったばかりの榊原が跳ねるように立ち上がり、疲労など忘れたかのようにライフルを握り直した。岳も遅れずに駆け出しながら、その背中を追った。
(なんだろうな。あんたといると負ける気がしないよ、榊原さん)
そう思えることが、今は何より心強かった。
◇
午後四時を回ると、八王子の空は早くも暗くなり始めていた。
薬局の裏の路地には規制線が張られ、投光器の白い光が壁に飛び散った血とブルーシートで覆われた二頭目の死骸を冷たく照らしていた。鑑識の制服を着た警察官たちが、その周囲を黙々と歩き回っている。
路地の入口に停められた救急車の中で、妹は毛布にくるまって座っていた。
怪我は思っていたより軽かった。肩と腕に擦り傷と打撲があり、コートの肩口も大きく裂けていたが、その下の皮膚には浅い爪痕が一筋残っているだけだった。白いセーターを赤く染めていた血の大半も、彼女自身のものではなかった。
自転車置き場の陰に倒れていた老婆は先に警察官たちに助け出され、別の救急車で運ばれていった。腰を打っていたものの意識ははっきりしており、搬送される直前まで「あの子は、あの子は」と妹のことを気にしていたという。
「少しだけ、お話を聞かせてもらえますか」
救急車の後部扉の前で若い警察官が手帳を開いた。その横には御門が立っている。コートの下から覗く白衣の裾には、路地で付着した血が乾いてこびりついていた。
妹は毛布の中で小さく頷いた。
話は途切れ途切れだった。母の薬を取りに来たこと。シャッターが裂けたこと。おばあちゃんを連れて裏口から逃げたこと。そして灰色の恐竜が跳びかかってきたこと。
「小さい子が……」
妹はそこで言葉を詰まらせた。
「小さい恐竜が私の前に飛び込んできて、爪を代わりに受けてくれて……。あの子、薬局の中でも最初に灰色のやつに噛みついてくれたんです。あの子がいなかったら、私……」
それ以上は続かなかった。妹は毛布の端を強く握りしめ、俯いたまま何度か息を整えようとした。
「あの小さい子、どうなりましたか。生きてますか」
御門は少しだけ迷ってから答えた。
「黒い恐竜が抱いて連れていきました。そのときはまだ息があったように見えました」
妹は毛布に顔を埋めた。
警察官はそれ以上何も訊かなかった。手帳を閉じたところで肩の無線に呼ばれ、御門に目礼すると規制線のほうへ走っていった。救急隊員も運転席で病院と連絡を取っており、後部扉の前に残ったのは御門だけだった。
御門が扉に手をかけたところで、妹が顔を上げた。
「あの……」
膝の上には紺色の鞄があった。肩紐が千切れ、布地も大きく裂けている。救急隊員が預かろうとしても、妹はそれだけは手放さなかった。
「これ……」
妹は鞄の表を御門のほうへ向けた。
爪で刻まれた歪んだ四文字が、投光器の光を受けて浮かび上がっていた。
「あの黒い恐竜が書いていったんです。私の目の前で」
「……はい」
「どうして……」
妹の声が震えた。
「どうして、ただいま、なんでしょう」
御門は答えられなかった。妹は鞄に刻まれた四文字を指でなぞり、しばらくその傷を見つめていた。
「うちの兄、四か月前から行方が分からないんです。八月にふらっと出かけたきり、帰ってこなくて」
御門の喉の奥で何かが小さく鳴った。
「……関係ないって分かってます。そんなはずないって。でも、ただいまって……」
妹は唇を噛み、何かを振り払うように首を横に振った。
「すみません。変なこと言って」
「いいえ」
御門は救急車の後部扉に手をかけたまま、少しのあいだ言葉を探していた。
「変なことではありません」
それから声を落とした。
「その鞄のこと、しばらくほかの人には見せないでいただけますか。……理由は今は言えません。でも、いつか必ずお話しします」
妹は御門の顔を見た。何かを確かめるように長いあいだ見つめてから、鞄を胸に抱き直して小さく頷いた。
扉が閉まる直前、妹は警察官から返してもらったばかりのスマートフォンを握りしめていた。画面にはひびが入っていたが、どうにか通話はできるらしい。震える指で一つの番号を押していた。
「……お父さん」
扉の向こうからくぐもった声が聞こえた。
「うん。……大丈夫。生きてる。今から病院。怪我はたいしたことない。ほんとに。……うん。薬もある。警察の人が拾ってくれた」
少し間があった。電話の向こうで父が何か言っているのが分かったが、言葉までは聞こえなかった。ただ、それに答える妹の声が少しずつ崩れていった。
「……うん。……ごめん。遅くなって、ごめんね」
それからしゃくり上げる息の合間に、こう言った。
「……もう大丈夫、家に帰れるよ」
御門にはその言葉の意味が分からなかった。分かったのは扉の向こうの声が、そこで初めて子供のように声を上げて泣き出したということだけだった。
救急車が赤色灯を回しながら、ゆっくりと動き出した。
◇
規制線の外れにあるシャッターの下りたベーカリーの軒先で、三人はようやく腰を落ち着けた。
岳はコンクリートの段差に座り込み、両膝に肘をついていた。立っているあいだは何ともなかったのに、座った途端に脚が自分のものではなくなった。太腿が細かく痙攣している。一時間以上も市街地を走り回り、割り込み、叫び続けた身体が、もう走らなくていいのだとようやく気づいたらしかった。
榊原は壁に背中を預けて缶コーヒーを開けた。規制線の外から近所の住人が差し入れてくれたものだった。プルタブを起こす指がうまく動かず、二度ほど空振りしてからようやく開けることができた。
御門は二人の傍らに立ち、スマートフォンの画面を見つめていた。そこには救急車の中で許可を取って撮らせてもらった、あの鞄の写真が表示されている。
東京から駆けつけた三人のハンターは警察の聴取に呼ばれていった。別れ際、一人が岳の背中を黙って叩いていったが、誰も何も言わなかった。言葉にすると何かがこぼれてしまいそうだった。
頭上のスピーカーがひび割れた音を立てた。
『八王子市からお知らせします。市内で確認されていた中型の肉食恐竜二頭は駆除されました。もう一頭の大型の恐竜は、市の西部の山林方向へ移動したことが確認されています。屋内退避の指示は安全の確認が終わるまで引き続き継続します。現在、けが人の救助が続いています。緊急車両の通行の妨げにならないよう、ご協力を――』
同じ放送が少し遅れて遠くのスピーカーからも響いてきた。いくつもの声がわずかにずれて重なりながら、暮れていく街の上に広がっていった。
駆除されました。
昼過ぎに最初の警報が鳴ってから、ずっとその一言を待っていた気がした。岳は頭の中で何度も繰り返してみたが、実感は少しも湧かなかった。ただ終わったのだという感覚だけが、身体の芯からじわじわと滲み出してくるようだった。
『こちら三枝。皆さん、生きてます?』
岳の肩の無線から場違いに明るい声がした。いや、明るくしようとしている声だった。
「生きてるよ。こちとらそれに関しちゃ人後に落ちねぇ自信はある」
榊原が答えた。
『……よかった』
無線の向こうで三枝が一度だけ鼻をすすった。それからいつもの早口に戻った。
『報告します。八王子の恐竜による死者、ゼロです。警察と消防で照合して、現時点で確認された死亡者はいません。……怪我人はまだ数えてる途中です。搬送されたのが今分かってるだけで八十人を超えてます。重傷の人も何人か。ほとんどは逃げるときに転んだとか、人に押されたとか、車の事故です』
「……そうか」
榊原は缶コーヒーを一口飲み、長く息を吐いた。
「今日死んだやつぁいなかったか」
誰も喜ばなかった。喜べなかった。
救急車はまだ街中を走り回っていた。病院の廊下では今も、転んで頭を打った老人や人波に踏まれた子供が診察の順番を待っているはずだった。割れた窓も潰れた車も、根こそぎ倒れた欅もそのままだった。
それでも八王子の死者はゼロだった。
「そんでもよ、昨日あきる野で一人死んでる」
榊原が缶を見下ろしたまま言った。
「四十代の会社員だ。仕事の帰りだった。あの二頭のどっちかにやられた。長野じゃ八人だ。犬の散歩をしてた人も、畑に出てた年寄りもいた」
缶を握る手に力がこもった。
「その同じ二頭が今日は一人も殺せなかった。この街の一番人が出てる日にな。クリスマスイブの昼間にだ。……一人もだ」
声が最後だけわずかに掠れた。
岳は顔を上げられなかった。
照準の中にいた逃げ遅れた人たちの顔が次々に浮かんだ。転んで散らばったみかんに手を伸ばしていた老婆。ボンネットの上の牙を見てハンドルに突っ伏した青年。怯えた小学生の小さな指。
どれか一つでも何かが違っていたら。あと一秒、割り込むのが遅れていたら。
岳は膝の上で組んだ指に力を込めた。そうしないと震えがまた腕まで上がってきそうだった。
撃たなかったから誰も死ななかった。頭では分かっていた。それでも引き金を引けなかった一時間の重さは、まだ手のひらの中に残っていた。きっとしばらくは消えないのだろうと思った。
『岳さん』
三枝の声が少しだけ柔らかくなった。
『駐車場の一発のとき、指揮所のみんな、モニターの前で大騒ぎしてました。……私もしてました』
「……やめてください、そういうの」
岳は両手で顔を覆った。手のひらの内側が熱く滲んだ。榊原は何も言わずに目を逸らしてくれた。
規制線の向こう、アーケードの入口には明かりが一つだけ灯っていた。ケーキ屋だった。シャッターが半分だけ上げられ、その隙間から白い光が通りへ漏れている。店の前には「本日十四時よりお渡し」と書かれた黒板が昼間のまま出しっぱなしになっていた。
ガラス扉の内側に白い調理服の老人が立ち、誰もいない通りをじっと見ていた。
規制線が解けるのはおそらく夜遅くになる。それでもあの人は待つのだろうと岳は思った。
「……先生」
岳は顔から手を離し、御門を見上げた。
「さっきのあれ。言葉が分かるなら、ってやつ。本気ですか」
御門はスマートフォンの画面から目を上げなかった。
「本気かどうかで言えば本気です。根拠があるかどうかで言えば、ありません」
「先生らしくないな」
榊原が言った。
「いつもの先生なら『断定はしません』で終わりだろう」
「断定はしていません」
御門はようやく顔を上げた。
「ただ今日は、断定できないことを理由に何もしないでいるのが、どうしても嫌だったんです」
榊原は何も言い返さなかった。
「……ここだけの話にしてくれるなら、話します」
「俺たちがここだけじゃない話をしたことがあったか」
御門は少しだけ笑った。それから画面の写真を二人に向けた。
「ただいまって、誰が誰に言う言葉ですか」
「家に帰ってきたやつが、家で待ってる家族に言う」
岳が答えた。
「そうです。見ず知らずの相手にただいまとは言いません。少なくとも普通は」
「でも、あいつは恐竜ですよ」
「ええ。恐竜が人間の言葉を覚えることは、ありえなくはありません。人間の生活圏の近くで育った個体が、看板の文字や人の声を形として記憶する可能性はゼロではない。私はずっとそう考えてきました。そう考えるのが一番まともだったからです」
御門は画面の四文字を指でなぞった。
「けれどあの恐竜は、あの路地にまっすぐ飛び込んでいった。あの女性の前であれほど我を忘れた。そして去り際に、わざわざあの人の鞄にこの四文字を書いていった」
「あの子、兄貴が行方不明だって言ってたな」
榊原が低く言った。救急車の扉の前でのやり取りは二人にも聞こえていたのだ。
「八月からって言ってました」
岳が言った。
「温泉恐竜がはっきり映像に残ったのは、八月の終わりの青森が最初です。温泉恐竜という名前がついたのはそのあとの山形。どちらも八月より後のことです」
御門が言った。
「それより前にどこで何をしていたのかは、誰も知りません」
しばらく誰も口を開かなかった。投光器の唸るような音だけが路地の奥から聞こえていた。
「……馬鹿な話、していいですか」
岳が言った。
「どうぞ。今日は馬鹿な話をするための時間です」
「あいつ、この街の人間だったんじゃないですか」
言ってから岳は自分で顔をしかめた。
「いや、分かってます。ありえない。漫画かよって話です。でもそう考えると、全部筋が通るんですよ。自販機でコーラを買えたのも、交番の扉をノックできたのも、カメラに向かって頭を下げたのも、人間を襲わないのも。……ここに帰ってきたのも」
「人間の中身が恐竜に入ってるってのか」
「中身なのか記憶なのか、分かりませんけど」
榊原は缶コーヒーを握ったまま黙っていた。否定はしなかった。
「……先生はどう思ってるんだ」
榊原が御門を見た。
御門は長いあいだ黙っていた。やがてかぶりを振り、渋々といった様子で口を開いた。
「仮説としては最悪です。検証のしようがない。再現性もない。メカニズムの説明もできない。学会で発表したら私は二度と研究者として扱ってもらえなくなるでしょう。小説家か脚本家にでも鞍替えしろと笑われるでしょうね」
「でも、先生」
「はい。それでも今日、私があの路地で叫んだとき、話しかけていた相手は恐竜ではありませんでした」
御門は自分の手のひらを見下ろした。
「誰かに話しかけていたんです。言葉が通じる、誰かに」
◇
「あれはどうなんだ」
榊原が赤い染みの透けるブルーシートのほうへ顎をしゃくった。
「あれが人間のやることか」
路地の奥で二頭目の死骸はもう原形を留めていなかった。鑑識の警察官たちでさえ、ブルーシートをめくるたびに顔を背けていた。
「俺は長いこと恐竜を撃ってきた。肉食同士の喧嘩も何度も見た。だが、あんなのは見たことがない。あれは喰うための殺し方じゃない。壊すための殺し方だ」
「……人間だから、ああなったんじゃないですか」
岳が静かに言った。
榊原が岳を見た。
「目の前で家族が殺されかけたら、俺だってたぶんああなりますよ」
岳は自分の両手を見下ろした。まだかすかに震えていた。
「あんな身体を持ってたら、止まれる自信なんかない」
榊原は何か言いかけてやめた。缶コーヒーを最後まで飲み干し、しばらく黙っていた。
「……あの女性の怯えた目、見たか。あの黒いのも見てたな」
「ええ、見てましたね」
だから逃げたのだ。三人ともそれは分かっていた。
銃口を向けられても振り返らなかった。撃つなら撃てと言わんばかりに背中を晒し、そのまま走り去っていった。
あれは銃から逃げたのではなかった。
きっと妹のあの目から逃げたのだ。
◇
「柳沢峠でしたっけ」
岳が言った。
「なんであそこなんです」
御門は答えた。
「国道は通っていますが、冬場は交通量が少なく、周囲は山林で人家もほとんどありません。それでいて道路状況を確認するためのカメラが県の管理で設置されています。あの恐竜が人目につかずに近づけて、こちらは来たことを確かめられる場所です」
「来たら言葉が分かるってことになる」
「はい。少なくとも私の呼びかけを理解し、指定された場所へ来る能力があることは確かめられます。それ自体が重要な検証になります」
御門は少しだけ目を伏せた。
「それに、あの小さな個体です。あの傷では自然には治りません。獣医の処置が要ります。大型の恐竜を診られる獣医に一人だけ心当たりがあります。貸しがいくつかあるので、断られても頼み込めばねじ込めます。……もしあの黒い恐竜が本当に私たちの考えているような存在なら、あの子を助けるために来ると思います」
「それでも来なかったら?」
「そのときは私の仮説が間違っていたか、あの小さな個体が間に合わなかったか、あるいは何らかの理由で来られなかったか。いずれにしても、その結果だけで結論を出すことはできません」
榊原は空き缶を足元に置いて立ち上がった。
「一人で行く気か」
「こっそり獣医も連れては行きますが、記録には残さないので、実質はそのつもりです」
「却下だ」
榊原は上着の袖についた血を乱暴に払った。
「あいつが何者だろうと四メートルの肉食恐竜だぞ。しかも今日あれだけ暴れたばかりだ。素人だけで行かせて何かあったら、俺が三枝にぶっ飛ばされる」
『聞こえてますよ』
無線から三枝の声がした。
『でも、その通りです』
「俺も行きます」
岳が言った。
「ドラゴンバスターがついてきたら、向こうが逃げるんじゃないか」
榊原が横目で言った。
「その呼び方、やめてください」
岳はほんの少しだけ笑った。今日初めての笑顔だった。
「撃つために行くんじゃないですよ。……あいつ、俺の前で一回も俺を襲わなかった。銃口を向けたのに。だから今度はちゃんと顔を見て、話がしたいんです。話が通じるなら」
御門は二人の顔を交互に見た。それから深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらん。それより上にはどう報告する」
榊原の声が少しだけ低くなった。
「今日の映像はもう出回ってる。テレビにもネットにもだ。黒いのがあの子の鞄に何か書いたところまで撮られてたら、面倒なことになるぞ。言葉が分かる肉食恐竜なんて話が広まったら、捕まえて売り飛ばそうって連中も、駆除しろって連中も一斉に動き出す」
『そこはたぶん大丈夫です』
三枝が言った。
『路地の上のドローン、さっき全部見直しました。あの瞬間は建物の陰と電線でほとんど映ってません。黒いのが屈んで何かを引っかいて走っていく。それだけです。鞄の文字まではどこにも』
「野次馬のスマホは」
『路地の中にいたのは薬局から逃げた人たちと警察、それから皆さんだけです。今のところ、それらしい動画は上がってません。……今のところは、ですけど』
「先生が路地で叫んだほうはどうする。あそこにいたのは俺たちだけじゃないぞ」
榊原が御門を見た。
「研究者が錯乱して恐竜に何か喚いていた。それで済むなら、それで構いません」
御門は表情を変えずに言った。
「実際、半分はその通りですから」
岳は思わず吹き出しかけ、咳でごまかした。
「上には、黒い個体は負傷した小型個体を連れて西の山林へ逃走、追跡は困難と報告します。鞄の文字については正式な記録を残したうえで、現段階では話のわかる上層部だけに限定して共有しておきます。少なくとも柳沢峠で私自身が確かめるまでは」
「研究者としてはどうなんだ、それ」
「最悪です」
御門はきっぱりと言った。
「でも今日の私は研究者として最悪のことばかりしています。今さら一つくらい増えても変わりません」
そこで一度言葉を切り、御門は二人をまっすぐ見た。
「私は研究者として、恐竜好きとしてのすべてを賭けました。もう後には引けません。奈落に落ちるか、真実へたどり着くか。どちらにしても、自分の目で確かめるつもりです」
榊原が鼻を鳴らした。笑ったのだと岳には分かったが、その笑いはすぐに消えた。
「……それで済めばいいがな」
榊原は足元の空き缶をつま先で軽く転がした。
「あの暴れ方は街中の人間が見てる。明日の朝には都の対策本部で検証の会議だ。黒いのをどうするかって話に必ずなる。同族をあそこまで引き裂いた四メートルの肉食恐竜を、山に放っておけって言える役人はいない。それにそのうちに山へ入ろうって馬鹿が出るぞ。腕試しのつもりのやつも、名前を売りたいやつもいる。ハンターだけじゃない。動画を撮りたいだけの素人もだ」
「……たとえ明日、世界が滅ぼうとも、それでも私は林檎の木を植える」
御門は呟いた。
「私の原点です。崖っぷちと思っても、そこに立ってみればまだ道はあるはずです。先人たちが諦めを踏破してこそ、今の日々がある。それを受け継いだ身として、ここで立ち止まる選択肢はありません」
御門はほんの少しだけ唇を引き結んだ。
「ここからは早さが文字通り命をつなぐ、綱渡りになるはず、今夜のうちに動きます」
「今夜? 後処理は山積みだぞ、それでも行くのか」
「無論です、本部への報告を済ませたらすぐに。あの子の傷は朝まで持つかどうか分かりません。それに誰かが先に山であの恐竜を見つけて、銃を向けたら……」
御門はそこで言葉を切った。
「さっきの背中を見たでしょう。撃たれてもあの恐竜は、たぶんもう抵抗しません。いえ、出来ません。闘うための気力が保たない。だから第三者の介入が入る前にコンタクトを行います」
誰も何も言わなかった。
建物の隙間へ消えていったあの黒い背中。銃口に晒したままの血濡れで無防備な背中を、三人とも思い出していた。
「……俺たちの報告書もある」
しばらくして榊原が言った。
「市街地での発砲許可は出てた。それでも街の中で撃った以上、一発でも書類は山ほどでる。射角、距離、背後の確認、そのとき誰がどこにいたか。岳、お前のぶんもだ。今夜は寝られんと思え」
「峠に行くのに、ですか」
「峠に行く前に片づけるんだよ。後ろ指をさされる隙を一つでも残して行けるか」
岳は黙って頷いた。
終わったと思った仕事の向こうに、もう次の仕事が待っていた。それでも不思議と嫌な気はしなかった。
◇
岳は立ち上がって西の空を見た。
丘陵の稜線が夕闇の中に黒く沈みかけていた。あの向こうのどこかを今、黒い恐竜が血を流しながら小さな身体を抱いて歩いている。
帰ってきた街から、また出ていくために。
「……ただいま、か」
岳は小さく呟いた。
言った相手に「おかえり」と返してもらえなかった、ただいま。
それがどれほど重い言葉なのか、岳には想像することしかできなかった。
どこかの家の窓にクリスマスツリーの電飾が灯っていた。屋内退避の指示が続く中、それでも誰かが今夜のために明かりをつけたのだ。今日がクリスマスイブだったことを岳はようやく思い出した。
遠くではまだ救急車のサイレンが鳴っていた。十二月二十四日の夜が、八王子の街に静かに降りてこようとしていた。
第44章 たとえ明日世界が滅ぼうとも 了
八王子事件本編はここまで。
次回更新は11/1からの予定です。
ノリと勢いとエモで書いるので、設定や時系列が自分の脳内にしか無く、次章の主人公の動きや掲載する順番が合ってるか分からなくなってきました。
本文は書き終えてるので確認してから投稿しようかなと。
あと、本編の不明点とか説明が必要そうなものがあれば、短編で説明エピソード作るので、感想で投げておいてください。これは補足が必要だなとか、この視点はおもろいと思ったらネタにします。