「偶然にすぎません」
鷲尾誠一郎は、スタジオの照明の下できっぱりと言い切った。
十二月二十六日、昼の情報番組だった。画面の右上には「八王子恐竜事件 黒い恐竜の正体は」というテロップが出ている。司会者の後ろの大型モニターでは、丘陵から市街地へ下りてくる黒い背中のドローン映像が、もう何十回目かも分からないほど繰り返し流れていた。
「先生、それはつまり、あの黒い恐竜が人を守ったように見えるのは」
「見えるだけです」
鷲尾は眼鏡の位置を指で直した。東和大学の名誉教授で、専門は動物の比較行動学。テレビに呼ばれるようになって十年になる。呼ばれる理由は、自分でも分かっていた。世の中が浮かれているときに、冷や水をかける役が要るのだ。
「福島の件も八王子の件も、肉食恐竜同士の縄張り争いで説明がつきます。たまたまその場に人間がいただけです。人間の側が、自分に都合のいい物語を読み込んでいる」
「でも、頭を下げる映像がありますよね。青森の男の子に」
「首を下げる動作は、威嚇の解除や、単に周りの匂いを嗅ぐときにも見られます。会釈だと思うのは、見る側が人間だからです」
「那須では、自動販売機でコーラを買っています」
鷲尾は、ふん、と鼻を鳴らした。
「カラスだって、小銭を自動販売機に入れるよう訓練できます。実際にそういう実験もある。ボタンを押せば甘いものが出てくる。それを覚えるのに、人間の心は要りません」
隣のタレントが「カラスと一緒にされちゃうんだ」と笑い、スタジオに小さな笑いが広がった。鷲尾は笑わなかった。
「それに、ここが一番大事なところですが」
鷲尾はカメラのほうへ少しだけ身を乗り出した。
「仮にあの個体が本当に人間の行動を理解しているとしたら、それは安心材料ではありません。むしろ逆です。体長四メートルを超える肉食動物が、人間のやり方を学習している。自動販売機の仕組みも、人間がどこに集まるかも覚えていく。高い知能は、危険と同じ意味です」
司会者が神妙な顔で頷いた。
「では先生は、駆除すべきだというお考えですか」
鷲尾は、ほんの一瞬だけ口を閉じた。
「……それは、早計です」
「早計、ですか」
「まずきちんと捕獲して、調べるべきだと言っているんです。調べもせずに撃つのは、研究者の立場からすれば損失です。それだけです」
それだけです、ともう一度言ってから、鷲尾は手元の水を一口飲んだ。
番組はCMに入った。
◇
帰りのタクシーの中で、鷲尾はスマートフォンを開いた。
検索窓に「黒い恐竜」と打ちかけて手を止め、「八王子 恐竜 その後」と打ち直した。どちらでも同じことなのは、自分でも分かっていた。
ニュースサイトの見出しが並ぶ。黒い恐竜、山林方向へ移動か。行方は依然不明。負傷の程度は。
負傷の程度は、という見出しを開いた。
中身はほとんどなかった。首のあたりに大きな傷を負っていたという証言と、小さな個体を抱えていたという証言。それだけだった。写真は一枚もない。
「お客さん、テレビの先生でしょう」
運転手が、ルームミラー越しに話しかけてきた。
「さっきの番組、待合で見てましたよ。カラスと一緒、ってやつ」
「……ええ」
「俺はね、あいつ、いいやつだと思うんですよ」
運転手はハンドルを切りながら言った。
「うちの娘が福島の大学にいましてね。あの事件のとき、すぐ近くにいたんです。テレビで見るよりもっとすごかったって。あの黒いのがいなかったら、もっと死んでたって」
「縄張り争いです」
「でも、助かったんですよ。娘の友達も」
鷲尾は答えなかった。窓の外を、年の瀬の街が流れていった。
しばらくして、運転手がまた口を開いた。
「首、大丈夫なんですかね。あいつ」
「……頸部の咬傷は、深さによります」
口が勝手に動いていた。
「肩口から首にかけてなら、前肢を動かす筋や腱に近い。中型の肉食種の歯は細くて長いので、見た目より深く入ります。それに口の中は雑菌だらけです。放っておけば化膿する。冬の山でまともに食べられなければ、体力も落ちる。小さい個体を抱えているなら、なおさら狩りは難しい。そうなると」
そこまで言って、鷲尾は口をつぐんだ。
ルームミラーの中で、運転手がにやにやしていた。
「先生、詳しいですね」
「専門ですから」
「心配してるんでしょ」
「していません」
鷲尾は窓の外へ顔を向けた。
降りるとき、運転手は釣り銭と一緒に言った。
「見つかるといいですね、あいつ」
「……偶然見つかれば、ですね」
自分でも、何の返事になっているのか分からなかった。
◇
「あなた、またそれ見てるの」
夜の十時過ぎだった。書斎の扉から、妻の和子が顔を出した。
鷲尾はパソコンの画面を素早く切り替えた。表計算ソフトの、何も書かれていないシートが現れた。
「論文の整理だ」
「白紙じゃない」
「これから書く」
和子はため息をついて書斎へ入ってきた。机の上を見下ろす。開きっぱなしの獣医学の専門書には、大型爬虫類の創傷管理の章に付箋が三枚貼ってある。その横に、福島事件の写真を印刷した紙。黒い恐竜が赤い恐竜に向かっていく、ぶれた一枚だった。
「テレビで偶然だって言ってた人の机には、見えないわねえ」
「偶然だよ」
「はいはい」
和子は、湯気の立つ湯呑みを机の端に置いた。
「さっき、教え子の獣医さんに電話してたでしょう。廊下まで聞こえてたわよ。四メートル級の肉食種に、麻酔なしで抗生剤を打つ方法はあるか、って」
「仮定の質問だ」
「向こうは何て」
「正気の沙汰じゃない、と言われた」
和子は声を立てて笑った。
「それで、あなたは何て返したの」
「……だから仮定の話だと言っただろう、と」
鷲尾は湯呑みを取って一口すすった。熱かった。
画面をもう一度切り替えた。八王子の住宅街の、ドローン映像の静止画だった。拡大すると、黒い背中のすぐ後ろに小さな影が写っている。体長一メートルほどの、小型の草食種。黒い恐竜から少しも離れずに、必死についていく小さな脚。
「この小さいのはな」
鷲尾は、画面の小さな影を指でつついた。
「草食種だ。本来なら、肉食の大型からは真っ先に逃げる。それがずっと後ろをついて歩いている。ずっとだ」
「懐いてるのね」
「刷り込みか、保護を求める行動だ。説明はつく」
「説明がつくと、何なの」
鷲尾は少し黙った。
「説明がつくことと、それが本当に起きていることは違う話だ。……と、御門くんなら言うだろうな」
「御門さん? あの、よくテレビとかに出てる若い先生?」
「あれはロマンチストすぎる」
鷲尾は湯呑みを置いた。
「研究者が対象に肩入れしてどうする。あの子は、あの黒いのの話をするとき声が半音上がる。危なっかしくて見ていられん」
「あなたも半音上がってるわよ」
「上がっていない」
「上がってます」
和子は空になった湯呑みを取り上げた。それから、書斎を出る前に振り返った。
「ねえ。あなたが若いころ、動物園のコモドドラゴンが病気になったとき、三日三晩泊まり込んだの覚えてる?」
「四十年も前の話だ」
「あのときも偶然だって言ってたわよ。たまたま近くにいたから、って」
扉が閉まった。
鷲尾は、閉じた扉をしばらく見ていた。それから、パソコンに向き直った。
画面の端の、検索履歴の一覧が目に入った。黒い恐竜 首 傷。小型草食種 爪 裂傷 治療。冬山 大型肉食 体温維持。恐竜 抗生剤 経口 肉に混ぜる。
鷲尾は、その一覧を黙って全部消した。
消してから、最後の一つだけ、もう一度打ち直した。
恐竜 抗生剤 経口 肉に混ぜる 量。
◇
年が明けて最初の出演は、一月の第一週だった。
「先生、年末の番組では、黒い恐竜についてかなり厳しいご意見でしたね」
司会者が、少し意地の悪い笑顔で言った。後ろのモニターには、SNSの投稿がいくつか映し出されている。「カラス扱いはひどい」「先生、温泉恐竜に恨みでもあるの」。年末の放送のあと、鷲尾の名前で検索すると、そういう投稿がずらりと並んだ。
「意見は変わっていません」
鷲尾は眼鏡を直した。
「あの個体の行動の多くは、動物行動学の範囲で説明がつきます。人間の心を持っているなどと、軽々しく言うべきではない。高い学習能力を持つ大型肉食種である以上、危険性も十分にあります」
「では、もしあの黒い恐竜が見つかったら、どう対応すべきでしょう」
「まず獣医です」
鷲尾は即答した。
司会者が目を瞬いた。
「……獣医、ですか」
「首に深い傷を負っている。小さい個体も怪我をしている。冬の山で、何週間も手当てなしにいられるわけがない。見つけたら、まず治療です。抗生剤は肉に混ぜれば飲ませられる。量の目安も、もう出してあります。調べるにしても、生きていなければ調べようがない。話はそれからです」
鷲尾は一息にそう言って、水を飲んだ。
スタジオが妙に静かになった。隣のタレントが、口元を押さえて肩を震わせていた。
「……何か」
「いえ。先生、今ちょっと、声が高かったなと思って」
「高くありません」
司会者は、笑いをこらえきれない顔で次の話題へ移った。その日の夕方、鷲尾の名前はSNSの話題の一覧に上がっていた。
添えられていた言葉は「ツンデレ教授」だった。
書斎でそれを見つけたとき、廊下で和子が吹き出す声がした。
「偶然だ」
誰に言うともなく言って、鷲尾は黙ってスマートフォンを伏せた。
それから、もう一度だけ開いて、検索窓に打ち込んだ。
黒い恐竜 目撃 最新。
短編集① 偶然にすぎません 了