三浦健一のその後
スポーツクラブに通い始めて、五週目に入っていた。
三浦健一は、マシンの前で途方に暮れていた。両腕で取っ手を前へ押し出して、胸の筋肉を鍛えるマシンだった。説明書きのとおりに座り、取っ手を握って押した。びくともしなかった。もう一度押しても、顔が赤くなるだけだった。
「それ、重り一番下まで入ってるよ」
頭の上から声がした。
振り返ると、黒いタンクトップの女性が腰に手を当てて立っていた。三十代の半ばくらいだろうか。髪を後ろで一つにまとめ、首にタオルを掛けている。腕にも肩にも、しっかりと筋肉がついていた。
「前の人、たぶん上級者。ほら、ピン抜いて、上から三つ目くらいに挿し直して」
「あ、はい」
言われたとおりにすると、取っ手は嘘のように軽く前へ出た。
「……動いた」
「動くでしょ」
女性は腹の底から笑った。ジムの中に響くほどの、遠慮のない笑い声だった。
「最初、みんなやるのよそれ。私もやった。顔真っ赤にして、壊れてるんじゃないかって受付に言いに行ったもん」
それが、木島早苗との最初の会話だった。
◇
早苗はたいてい、夜の八時ごろに来た。
健一が来るのも、だいたい同じ時間だった。仕事を早めに切り上げてトレッドミルで三十分歩き、マシンを二つ三つ回って、サウナに入って帰る。早苗はフリーウェイトのコーナーで、健一が持ち上げたこともない重さのバーベルを、黙々と上げ下げしていた。
顔を合わせれば会釈をするようになった。会釈が「どうも」になり、「どうも」が「今日、寒いですね」になった。給水機の前で鉢合わせると、少しだけ立ち話をするようになった。
「三浦さんって、なんでジム来てんの」
ある晩、早苗が紙コップの水を飲みながら訊いた。
「健康診断とか?」
「いや、その……写真を撮り直したくて」
「写真?」
「前に撮った写真で、腹がひどくて。次に撮るときは、もうちょっとましな腹で写りたいなと」
早苗は、ふうん、と言って健一の顔を覗き込んだ。
「元カノとの写真?」
「違います違います」
「じゃあ、何との写真よ」
健一は答えに詰まった。湯気の立つ野湯で、首に腕を回されて困った顔をしている、黒くて大きな恐竜。どう説明しても、頭がおかしいと思われる気がした。
「……友達です。だいぶ変わった友達で」
「なにそれ」
早苗はまた大きな声で笑った。それ以上は訊いてこなかった。
訊いてこないのが、健一にはありがたかった。同時に、少しだけ身構えてもいた。
半年前、健一の話をどこまでも優しく聞いてくれる人がいた。何を言っても笑ってくれて、何を言っても頷いてくれた。それが全部、仕事として作られた顔だったと知ったのは、貯金を差し出す寸前だった。
あれ以来、人に優しくされると反射的に一歩下がってしまう。この人は何が欲しいのだろうと、つい考えてしまう。
けれど早苗は、優しいというより、ただ雑だった。マシンの使い方を間違えれば笑い、ベンチに忘れたタオルを投げてよこし、たまに「腹、ちょっとへこんだんじゃない?」と遠慮なく健一の腹を指でつついた。
そこには何の計算もなさそうだった。少なくとも、健一にはそう見えた。
◇
早苗が自分の話をしたのは、二月に入ったばかりの、ひどく寒い夜だった。
トレーニングを終えて受付の前のベンチで靴紐を結んでいると、隣に早苗がどさりと腰を下ろした。プロテインのシェイカーを振りながら、ぼそりと言った。
「私さ、バツイチなのよ」
「……はあ」
「はあ、って何。もうちょっと驚きなさいよ」
「いや、驚いてます。驚いてますけど、どういう顔したらいいのか」
早苗は笑った。
「前の旦那がね、ひどかったの。酒でしょ、たばこでしょ、パチンコでしょ。給料日の三日後には財布が空っぽ。夜中に酔っ払って帰ってきて、玄関で寝て。それでいて、外ではいい人なのよ。みんなに、いい旦那さんねえって言われてさ」
早苗はシェイカーの蓋をぱちんと閉めた。
「だから振ってやったの。三十二のとき。離婚届に判子押させて、その日のうちに荷物まとめて出てきた。あー、すっきりした! って、駅のホームで叫んだんだから」
そう言って、早苗はまた豪快に笑った。
けれど、その笑い声の終わりのほうが、ほんの少しだけ細くなった気がした。
笑い終わったあと、早苗はシェイカーを両手で握ったまま、受付の向こうのガラス窓を見ていた。外では、街灯の下を雪が斜めに流れていた。
「……でもさ。一人の部屋に帰ってくると、たまに思うのよ。夜中に玄関で寝てるやつでも、いないよりはましだったのかなって」
「…………」
「思うだけね。思うだけ。戻る気なんか、これっぽっちもないけど」
早苗は立ち上がった。それから健一を見下ろして、にっと笑った。
「ごめん、変な話した。忘れて」
忘れられるはずがなかった。
あの秘湯の夜、健一も同じことを思っていた。騙されたと分かっていても、あの優しい声が全部嘘だったと分かっていても、一人の部屋よりはましだったのかもしれない、と。そう思った自分が、何よりも情けなかった。
「木島さん」
健一は思わず呼び止めていた。
早苗が振り返った。
「……あの。僕も半年くらい前に、ひどい目に遭いまして」
何を言っているのだろう、と健一は思った。それでも口は止まらなかった。
「結婚しようって言ってた相手が、詐欺だったんです。全部嘘で。それでちょっと、どうしようもなくなって。山の中の温泉まで行って、もう帰らないつもりで」
早苗の顔から、笑みが消えた。
「でも、帰ってきました。変な友達に、無理やり帰されて」
健一は、靴紐を結び終えた手を膝の上で握った。
「だから、その……玄関で寝てるやつよりは、たぶんましな人が、どこかにいると思います。木島さんには」
言い終わってから、顔から火が出そうになった。
早苗は黙って健一を見ていた。
それから、ぷっと吹き出した。
「なにそれ。励ましてんの?」
「……たぶん」
「下手くそ」
そう言って笑った早苗の目尻は、少しだけ濡れていた。
◇
食事に誘おうと決めてから実際に口に出すまで、九日かかった。
一日目は、言い出す前に早苗が帰ってしまった。二日目は、早苗が来なかった。三日目から五日目までは、言おうとするたびに喉が詰まって、天気の話に化けた。六日目、トイレの鏡の前で練習しているところを、知らない会員に見られた。七日目と八日目は、そのせいで落ち込んで行けなかった。
九日目の夜、給水機の前で、健一は紙コップを握りつぶしそうになりながら言った。
「木島さん、あの、今度ご飯でも」
早苗が紙コップを口に当てたまま、目だけで健一を見た。
「……ご飯?」
「はい。いつもお世話になってるので、お礼というか。重りのピンとか、タオルとか」
「ピンのお礼で、ご飯ってあなた」
「……だめですか」
早苗は紙コップの水を飲み干した。それから空のコップをくしゃりと潰して、ゴミ箱へ放り込んだ。
「焼肉とか言わないでよ。あんた、ダイエット中でしょ」
「じゃ、じゃあ、焼き鳥とか」
「焼き鳥も大差ないわよ」
「……塩なら」
早苗は声を上げて笑った。
「いいよ。行こ、焼き鳥。塩で」
健一は、自分の耳を疑った。
「いいんですか」
「なんで誘ったほうが驚いてんのよ」
早苗は首のタオルで汗を拭いながら、少しだけ目を逸らした。
「その代わり、ビールは一杯だけね。私、飲みすぎる人苦手だから」
「僕、そんなに飲みません」
「ほんとに?」
「……一回だけ、山の中で飲みすぎたことはありますけど」
「それ、さっき言ってた温泉の話?」
「はい」
「じゃあ、そのときの話聞かせてよ。変な友達の話も」
早苗はロッカールームのほうへ歩き出しながら、振り返らずに言った。
「土曜の七時。駅の改札でいい?」
「は、はい」
「遅れたら帰るからね」
ロッカールームの扉が閉まった。
健一は、給水機の前に立ち尽くしていた。手の中の紙コップが、いつの間にかくしゃくしゃになっていた。
◇
土曜の夜、健一は六時二十分に駅の改札の前に着いた。
早苗は六時五十五分に来た。ジムで見るタンクトップではなく、紺色のコートを着て、髪を下ろしていた。それだけで、一瞬誰だか分からなかった。
「……何よ、その顔」
「いえ。あの、髪」
「下ろすわよ、たまには。私だって」
早苗はそっぽを向いた。耳が少しだけ赤かった。寒さのせいだと、健一は思うことにした。
焼き鳥屋は、駅から五分のカウンターだけの小さな店だった。二人並んで座り、生ビールを一杯ずつ頼んだ。塩のねぎまと塩のつくねと塩のせせりを頼んで、早苗に「ちゃんと全部塩にするのね、律儀」と笑われた。
健一は、あの秘湯の夜の話をした。
全部ではなかった。死ぬつもりだったことは、少しぼかした。けれど、湯気の立つ野湯に黒くて大きなものが先に浸かっていたこと。そいつが酔っ払いの愚痴を最後まで黙って聞いていたこと。凍えかけた自分を抱えて山を下り、交番の扉を叩いて、何も言わずに去っていったこと。三万円の酒だけ、ちゃっかり持っていったこと。
話し終えたとき、早苗はつくねの串を持ったまま固まっていた。
「……それ、温泉恐竜じゃない」
「はい」
「あの、ニュースの?」
「はい」
「変な友達って、恐竜のこと?」
「……はい」
早苗は串を皿に置いた。それからカウンターに突っ伏して、肩を震わせ始めた。
泣いているのかと思ったら、笑っていた。店の大将が振り返るほどの声で、早苗は笑い続けた。
「写真! 写真って、恐竜との写真!? 腹がひどいって、恐竜の隣で!?」
「……見ます?」
健一はスマートフォンを取り出して、「命の恩人(非公開)」のフォルダを開いた。誰にも見せたことのない一枚だった。
画面を覗き込んだ早苗は、今度こそカウンターを叩いて笑った。
「恐竜のほうが困った顔してる!」
「してますよね」
「あんた、首に腕回してんじゃない! 恐竜の! すごい、こんな困った顔の恐竜、初めて見た。漫画ならでっかい汗がついてるわよ」
ひとしきり笑ったあと、早苗は目尻の涙を指で拭った。それから、もう一度画面の中の健一の顔を見た。
「……でもさ。いい顔してるね、このときのあんた」
「それより腹が出てます」
「腹じゃなくて、顔よ顔」
早苗はスマートフォンを健一の手に返した。
「次に撮るとき、もうちょっと腹へこんでたら、もっといい写真になるわね」
「……頑張ります」
「頑張んなさい。私が見てるから」
健一はジョッキを持ち上げかけて、手が止まった。
私が見てるから。
早苗は何でもないような顔で、せせりを口に運んでいた。
◇
店を出ると、雪がちらついていた。
改札の前まで、二人で並んで歩いた。早苗はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、白い息を吐いていた。
改札の前で、早苗が立ち止まった。
「さっき、私の分も払ったでしょ。トイレ行ってる間に」
「お礼なので」
「次は割り勘ね」
健一は、すぐには意味が分からなかった。
「……次、ですか」
「割り勘のほうが、また誘いやすいでしょ。お互い」
早苗は、様になるウインクをぱちりと一つして、改札の向こうへ歩き出した。
数歩進んだところで、振り返った。
「月曜、ジム来る?」
「行きます」
「じゃ、また月曜ね。サボったら、次から腹の出たウェアで来ること」
改札の向こうで、紺色のコートが人混みに紛れていった。健一は、しばらくその場から動けなかった。
頬が熱かった。ビール一杯のせいではない気がした。
スマートフォンを取り出して、あのフォルダを開いた。湯気の中で困った顔をしている、黒い恐竜。
「……なあ」
健一は、画面に向かって小さく呟いた。
「腹ひっこませるより難しいもんが、あったわ」
画面の中の恐竜は、相変わらず困った顔をしていた。
健一は少しだけ笑って、スマートフォンをポケットにしまった。
月曜は、トレッドミルを四十分にしようと思った。
短編集② 立ち止まってなんかいられない 了
細かいことはいいんだよ短編は書きやすくてよい。
あとはどんなネタがいいかな