温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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あんまり細かいことを考えない短編シリーズ②
三浦健一のその後


短編集② 立ち止まってなんかいられない

 スポーツクラブに通い始めて、五週目に入っていた。

 

 三浦健一は、マシンの前で途方に暮れていた。両腕で取っ手を前へ押し出して、胸の筋肉を鍛えるマシンだった。説明書きのとおりに座り、取っ手を握って押した。びくともしなかった。もう一度押しても、顔が赤くなるだけだった。

 

「それ、重り一番下まで入ってるよ」

 

 頭の上から声がした。

 

 振り返ると、黒いタンクトップの女性が腰に手を当てて立っていた。三十代の半ばくらいだろうか。髪を後ろで一つにまとめ、首にタオルを掛けている。腕にも肩にも、しっかりと筋肉がついていた。

 

「前の人、たぶん上級者。ほら、ピン抜いて、上から三つ目くらいに挿し直して」

 

「あ、はい」

 

 言われたとおりにすると、取っ手は嘘のように軽く前へ出た。

 

「……動いた」

 

「動くでしょ」

 

 女性は腹の底から笑った。ジムの中に響くほどの、遠慮のない笑い声だった。

 

「最初、みんなやるのよそれ。私もやった。顔真っ赤にして、壊れてるんじゃないかって受付に言いに行ったもん」

 

 それが、木島早苗との最初の会話だった。

 

◇

 

 早苗はたいてい、夜の八時ごろに来た。

 

 健一が来るのも、だいたい同じ時間だった。仕事を早めに切り上げてトレッドミルで三十分歩き、マシンを二つ三つ回って、サウナに入って帰る。早苗はフリーウェイトのコーナーで、健一が持ち上げたこともない重さのバーベルを、黙々と上げ下げしていた。

 

 顔を合わせれば会釈をするようになった。会釈が「どうも」になり、「どうも」が「今日、寒いですね」になった。給水機の前で鉢合わせると、少しだけ立ち話をするようになった。

 

「三浦さんって、なんでジム来てんの」

 

 ある晩、早苗が紙コップの水を飲みながら訊いた。

 

「健康診断とか?」

 

「いや、その……写真を撮り直したくて」

 

「写真?」

 

「前に撮った写真で、腹がひどくて。次に撮るときは、もうちょっとましな腹で写りたいなと」

 

 早苗は、ふうん、と言って健一の顔を覗き込んだ。

 

「元カノとの写真?」

 

「違います違います」

 

「じゃあ、何との写真よ」

 

 健一は答えに詰まった。湯気の立つ野湯で、首に腕を回されて困った顔をしている、黒くて大きな恐竜。どう説明しても、頭がおかしいと思われる気がした。

 

「……友達です。だいぶ変わった友達で」

 

「なにそれ」

 

 早苗はまた大きな声で笑った。それ以上は訊いてこなかった。

 訊いてこないのが、健一にはありがたかった。同時に、少しだけ身構えてもいた。

 半年前、健一の話をどこまでも優しく聞いてくれる人がいた。何を言っても笑ってくれて、何を言っても頷いてくれた。それが全部、仕事として作られた顔だったと知ったのは、貯金を差し出す寸前だった。

 

 あれ以来、人に優しくされると反射的に一歩下がってしまう。この人は何が欲しいのだろうと、つい考えてしまう。

 けれど早苗は、優しいというより、ただ雑だった。マシンの使い方を間違えれば笑い、ベンチに忘れたタオルを投げてよこし、たまに「腹、ちょっとへこんだんじゃない?」と遠慮なく健一の腹を指でつついた。

 

 そこには何の計算もなさそうだった。少なくとも、健一にはそう見えた。

 

◇

 

 早苗が自分の話をしたのは、二月に入ったばかりの、ひどく寒い夜だった。

 

 トレーニングを終えて受付の前のベンチで靴紐を結んでいると、隣に早苗がどさりと腰を下ろした。プロテインのシェイカーを振りながら、ぼそりと言った。

 

「私さ、バツイチなのよ」

 

「……はあ」

 

「はあ、って何。もうちょっと驚きなさいよ」

 

「いや、驚いてます。驚いてますけど、どういう顔したらいいのか」

 

 早苗は笑った。

 

「前の旦那がね、ひどかったの。酒でしょ、たばこでしょ、パチンコでしょ。給料日の三日後には財布が空っぽ。夜中に酔っ払って帰ってきて、玄関で寝て。それでいて、外ではいい人なのよ。みんなに、いい旦那さんねえって言われてさ」

 

 早苗はシェイカーの蓋をぱちんと閉めた。

 

「だから振ってやったの。三十二のとき。離婚届に判子押させて、その日のうちに荷物まとめて出てきた。あー、すっきりした! って、駅のホームで叫んだんだから」

 

 そう言って、早苗はまた豪快に笑った。

 けれど、その笑い声の終わりのほうが、ほんの少しだけ細くなった気がした。

 笑い終わったあと、早苗はシェイカーを両手で握ったまま、受付の向こうのガラス窓を見ていた。外では、街灯の下を雪が斜めに流れていた。

 

「……でもさ。一人の部屋に帰ってくると、たまに思うのよ。夜中に玄関で寝てるやつでも、いないよりはましだったのかなって」

 

「…………」

 

「思うだけね。思うだけ。戻る気なんか、これっぽっちもないけど」

 

 早苗は立ち上がった。それから健一を見下ろして、にっと笑った。

 

「ごめん、変な話した。忘れて」

 

 忘れられるはずがなかった。

 

 あの秘湯の夜、健一も同じことを思っていた。騙されたと分かっていても、あの優しい声が全部嘘だったと分かっていても、一人の部屋よりはましだったのかもしれない、と。そう思った自分が、何よりも情けなかった。

 

「木島さん」

 

 健一は思わず呼び止めていた。

 

 早苗が振り返った。

 

「……あの。僕も半年くらい前に、ひどい目に遭いまして」

 

 何を言っているのだろう、と健一は思った。それでも口は止まらなかった。

 

「結婚しようって言ってた相手が、詐欺だったんです。全部嘘で。それでちょっと、どうしようもなくなって。山の中の温泉まで行って、もう帰らないつもりで」

 

 早苗の顔から、笑みが消えた。

 

「でも、帰ってきました。変な友達に、無理やり帰されて」

 

 健一は、靴紐を結び終えた手を膝の上で握った。

 

「だから、その……玄関で寝てるやつよりは、たぶんましな人が、どこかにいると思います。木島さんには」

 

 言い終わってから、顔から火が出そうになった。

 早苗は黙って健一を見ていた。

 それから、ぷっと吹き出した。

 

「なにそれ。励ましてんの?」

 

「……たぶん」

 

「下手くそ」

 

 そう言って笑った早苗の目尻は、少しだけ濡れていた。

 

◇

 

 食事に誘おうと決めてから実際に口に出すまで、九日かかった。

 

 一日目は、言い出す前に早苗が帰ってしまった。二日目は、早苗が来なかった。三日目から五日目までは、言おうとするたびに喉が詰まって、天気の話に化けた。六日目、トイレの鏡の前で練習しているところを、知らない会員に見られた。七日目と八日目は、そのせいで落ち込んで行けなかった。

 九日目の夜、給水機の前で、健一は紙コップを握りつぶしそうになりながら言った。

 

「木島さん、あの、今度ご飯でも」

 

 早苗が紙コップを口に当てたまま、目だけで健一を見た。

 

「……ご飯?」

 

「はい。いつもお世話になってるので、お礼というか。重りのピンとか、タオルとか」

 

「ピンのお礼で、ご飯ってあなた」

 

「……だめですか」

 

 早苗は紙コップの水を飲み干した。それから空のコップをくしゃりと潰して、ゴミ箱へ放り込んだ。

 

「焼肉とか言わないでよ。あんた、ダイエット中でしょ」

 

「じゃ、じゃあ、焼き鳥とか」

 

「焼き鳥も大差ないわよ」

 

「……塩なら」

 

 早苗は声を上げて笑った。

 

「いいよ。行こ、焼き鳥。塩で」

 

 健一は、自分の耳を疑った。

 

「いいんですか」

 

「なんで誘ったほうが驚いてんのよ」

 

 早苗は首のタオルで汗を拭いながら、少しだけ目を逸らした。

 

「その代わり、ビールは一杯だけね。私、飲みすぎる人苦手だから」

 

「僕、そんなに飲みません」

 

「ほんとに?」

 

「……一回だけ、山の中で飲みすぎたことはありますけど」

 

「それ、さっき言ってた温泉の話?」

 

「はい」

 

「じゃあ、そのときの話聞かせてよ。変な友達の話も」

 

 早苗はロッカールームのほうへ歩き出しながら、振り返らずに言った。

 

「土曜の七時。駅の改札でいい?」

 

「は、はい」

 

「遅れたら帰るからね」

 

 ロッカールームの扉が閉まった。

 

 健一は、給水機の前に立ち尽くしていた。手の中の紙コップが、いつの間にかくしゃくしゃになっていた。

 

◇

 

 土曜の夜、健一は六時二十分に駅の改札の前に着いた。

 早苗は六時五十五分に来た。ジムで見るタンクトップではなく、紺色のコートを着て、髪を下ろしていた。それだけで、一瞬誰だか分からなかった。

 

「……何よ、その顔」

 

「いえ。あの、髪」

 

「下ろすわよ、たまには。私だって」

 

 早苗はそっぽを向いた。耳が少しだけ赤かった。寒さのせいだと、健一は思うことにした。

 

 焼き鳥屋は、駅から五分のカウンターだけの小さな店だった。二人並んで座り、生ビールを一杯ずつ頼んだ。塩のねぎまと塩のつくねと塩のせせりを頼んで、早苗に「ちゃんと全部塩にするのね、律儀」と笑われた。

 

 健一は、あの秘湯の夜の話をした。

 

 全部ではなかった。死ぬつもりだったことは、少しぼかした。けれど、湯気の立つ野湯に黒くて大きなものが先に浸かっていたこと。そいつが酔っ払いの愚痴を最後まで黙って聞いていたこと。凍えかけた自分を抱えて山を下り、交番の扉を叩いて、何も言わずに去っていったこと。三万円の酒だけ、ちゃっかり持っていったこと。

 

 話し終えたとき、早苗はつくねの串を持ったまま固まっていた。

 

「……それ、温泉恐竜じゃない」

 

「はい」

 

「あの、ニュースの?」

 

「はい」

 

「変な友達って、恐竜のこと?」

 

「……はい」

 

 早苗は串を皿に置いた。それからカウンターに突っ伏して、肩を震わせ始めた。

 

 泣いているのかと思ったら、笑っていた。店の大将が振り返るほどの声で、早苗は笑い続けた。

 

「写真! 写真って、恐竜との写真!? 腹がひどいって、恐竜の隣で!?」

 

「……見ます?」

 

 健一はスマートフォンを取り出して、「命の恩人(非公開)」のフォルダを開いた。誰にも見せたことのない一枚だった。

 

 画面を覗き込んだ早苗は、今度こそカウンターを叩いて笑った。

 

「恐竜のほうが困った顔してる!」

 

「してますよね」

 

「あんた、首に腕回してんじゃない! 恐竜の! すごい、こんな困った顔の恐竜、初めて見た。漫画ならでっかい汗がついてるわよ」

 

 ひとしきり笑ったあと、早苗は目尻の涙を指で拭った。それから、もう一度画面の中の健一の顔を見た。

 

「……でもさ。いい顔してるね、このときのあんた」

 

「それより腹が出てます」

 

「腹じゃなくて、顔よ顔」

 

 早苗はスマートフォンを健一の手に返した。

 

「次に撮るとき、もうちょっと腹へこんでたら、もっといい写真になるわね」

 

「……頑張ります」

 

「頑張んなさい。私が見てるから」

 

 健一はジョッキを持ち上げかけて、手が止まった。

 私が見てるから。

 早苗は何でもないような顔で、せせりを口に運んでいた。

 

◇

 

 店を出ると、雪がちらついていた。

 

 改札の前まで、二人で並んで歩いた。早苗はコートのポケットに両手を突っ込んだまま、白い息を吐いていた。

 

 改札の前で、早苗が立ち止まった。

 

「さっき、私の分も払ったでしょ。トイレ行ってる間に」

 

「お礼なので」

 

「次は割り勘ね」

 

 健一は、すぐには意味が分からなかった。

 

「……次、ですか」

 

「割り勘のほうが、また誘いやすいでしょ。お互い」

 

 早苗は、様になるウインクをぱちりと一つして、改札の向こうへ歩き出した。

 

 数歩進んだところで、振り返った。

 

「月曜、ジム来る?」

 

「行きます」

 

「じゃ、また月曜ね。サボったら、次から腹の出たウェアで来ること」

 

 改札の向こうで、紺色のコートが人混みに紛れていった。健一は、しばらくその場から動けなかった。

 頬が熱かった。ビール一杯のせいではない気がした。

 スマートフォンを取り出して、あのフォルダを開いた。湯気の中で困った顔をしている、黒い恐竜。

 

「……なあ」

 

 健一は、画面に向かって小さく呟いた。

 

「腹ひっこませるより難しいもんが、あったわ」

 

 画面の中の恐竜は、相変わらず困った顔をしていた。

 健一は少しだけ笑って、スマートフォンをポケットにしまった。

 月曜は、トレッドミルを四十分にしようと思った。

 

短編集② 立ち止まってなんかいられない 了

 




細かいことはいいんだよ短編は書きやすくてよい。
あとはどんなネタがいいかな
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