本編に関わらない短編ならなおさら気軽に出せるので、なんとなく投下。
ちょうちょがひらひらと飛んでいった。
黄色くて、小さくて、こはるの手のひらくらいの大きさだった。草の上をふわっと飛んで、木の幹に止まって、またふわっと飛んでいく。
「まってー」
こはるはちょうちょを追いかけた。
五歳になったばかりだった。今日は、お父さんとお母さんと三人で、町のはずれの小さな山へ来ていた。山といっても、てっぺんまで子供の足で三十分もかからない。休みの日には、近所の家族がお弁当を持って登りにくるような、低くてやさしい山だった。
ちょうちょがくぬぎの木の向こうへ消えた。
こはるは木の向こうをのぞいた。
ちょうちょはもういなかった。
それからうしろを振り返った。
お父さんもお母さんもいなかった。
◇
その少し前、同じ山の反対側の斜面で、小さな恐竜が一頭、草のあいだに座り込んでいた。
生まれて、まだ半年ほどの幼体だった。背中の丸い、小型の草食恐竜。立ち上がっても、人間の子供の腰くらいの高さしかない。
さっきまで、群れと一緒にいた。母親のすぐ後ろを歩いて、母親が食べる草と同じ草を食べていた。それから甘い匂いのする赤い実を見つけて、一つ、二つと食べているうちに、顔を上げたら、誰もいなくなっていた。
幼体は小さく鳴いた。
返事は、なかった。
もう一度鳴いた。風が、木の葉をさらさらと揺らしただけだった。
幼体は草のあいだにうずくまった。
◇
「おとうさーん」
こはるはくぬぎの木の下で呼んだ。
「おかあさーん」
声は、木のあいだに吸いこまれていった。
こはるは泣きそうになった。けれど、泣かなかった。
迷子になったら、動かないでその場で待つこと。お母さんと、山に来る前に約束したのだった。動き回ると、お父さんとお母さんが見つけにくくなるから。
こはるはくぬぎの木の根っこに座った。
リュックサックを、ぎゅっと抱えた。中には、水筒と、ビスケットの袋と、ハンカチが入っている。
(だいじょうぶ。まってたら、くる)
こはるは自分に言い聞かせた。
そのとき、すぐそばの草が、がさがさと揺れた。
◇
草の中から、顔が出てきた。
まるい目だった。黒くて、つやつやしていた。それから小さな鼻先と、小さな口。顔のまわりは、うすい茶色のうろこに覆われていた。
こはるは息をのんだ。
恐竜だった。
テレビで見たことがあった。幼稚園の図鑑にも載っていた。でも、こんなに近くで見るのは初めてだった。
恐竜もこはるを見ていた。
まるい目を、ぱちぱちさせていた。それから首をかしげた。
こはるも首をかしげた。
恐竜がもう少しだけ首をかしげた。
こはるももう少しだけ首をかしげた。
「……ちっちゃいね」
こはるが言うと、恐竜は小さく鳴いた。
ぴい、と。
こはるは思わず笑った。
「ぴいって言った」
恐竜は草の中から全部出てきた。こはると同じくらいの大きさだった。背中がまるくて、しっぽが短くて、足が四本。歩くたびに、おしりが少しだけ左右に揺れた。
恐竜はこはるのリュックサックに鼻先を近づけた。くんくんと、匂いを嗅いだ。
「おなか、すいてるの?」
こはるはリュックサックからビスケットの袋を出した。一枚取り出して、手のひらに乗せた。
恐竜はビスケットの匂いを嗅いだ。それから少しだけ顔をしかめるようにして、首を振った。
「いらないの?」
恐竜はもう一度首を振った。
それからくるりと振り返って、草むらの奥へ歩いていった。三歩進んで、振り返った。こはるを見て、ぴい、と鳴いた。
「……ついてきてって、言ってる?」
こはるは迷った。動かないで待つ、と約束した。
でも、恐竜はすぐそこで待っていた。草むらの向こうに、こはるのいるくぬぎの木が、ちゃんと見えている。
(ちょっとだけ。木が見えるとこまで)
こはるはリュックサックを背負って立ち上がった。
◇
草むらの奥に、低い木が一本あった。
つるが巻きついていて、そのつるの先に、うすむらさき色の実がいくつもぶら下がっていた。ころんとした楕円形で、いくつかは、ぱっくりと口を開けている。中に、白いものが見えた。
「あ」
こはるはその実を知っていた。
去年の秋、おじいちゃんの家の裏山で、おじいちゃんが教えてくれた。
――これはな、アケビっていうんだ。口が開いたら食べごろだ。中の白いところが甘い。黒い種は、ぺってするんだぞ。
恐竜がアケビの木の下で、ぴい、と鳴いた。それから背伸びをして、一番低いところの実に鼻先を伸ばした。
届かなかった。
もう一度背伸びをした。
届かなかった。
恐竜はこはるのほうを振り返った。
「……とってほしいの?」
こはるは木の下へ行った。背伸びをすると、一番低いところの実に、ぎりぎり手が届いた。ぱっくり口を開けた実を一つ、そっともいだ。
恐竜の前に置いた。
恐竜は実の中の白いところに顔を突っ込んで、むしゃむしゃと食べ始めた。しっぽの先が、ぱたぱたと揺れていた。
こはるももう一つ実をもいだ。
おじいちゃんに教わったとおりに、白いところだけを口に入れた。
甘かった。とろっとして、やさしい甘さだった。黒い種を、ぺっと吐き出した。
恐竜もぺっと種を吐き出した。
こはるは声を上げて笑った。
「まねした!」
恐竜はまるい目でこはるを見て、ぴい、と鳴いた。
◇
二人で、アケビを四つ食べた。
それからこはるはビスケットを一枚食べた。恐竜はやっぱりビスケットは食べなかった。代わりに、木の根元に生えている、やわらかそうな葉っぱを食べていた。
お腹がいっぱいになると、二人でくぬぎの木の下に戻った。
こはるは根っこに座った。恐竜はこはるの隣に、ぺたりと座り込んだ。まるい背中が、こはるの腕にくっついた。
あったかかった。
「ねえ」
こはるは恐竜の背中を、そっとなでた。うろこは、思っていたよりすべすべしていた。
「きみも、まいご?」
恐竜は何も言わなかった。ただ、こはるの腕に、もう少しだけ身体を押しつけた。
「わたしもね、まいごなの。ちょうちょ追いかけてたら、おとうさんもおかあさんも、いなくなっちゃった」
恐竜が小さく鳴いた。
「でもね、だいじょうぶなんだよ。まってたら、ぜったい来てくれるの。おかあさんが、言ってたもん」
こはるは恐竜の背中をなで続けた。
「だから、いっしょにまってよ。ね」
木の葉のあいだから、秋の日差しがちらちらと落ちていた。風が吹くと、どんぐりが一つ、ころんと落ちてきた。恐竜がそれを鼻先でつついた。こはるが拾って、恐竜の前に置いた。恐竜はどんぐりの匂いを嗅いで、首を振った。
こはるはだんだん眠くなってきた。
恐竜もまるい目を、とろんとさせていた。
二人はくぬぎの木の根っこで、くっついたまま、うとうとし始めた。
◇
遠くで、声がした。
低くて、長い声だった。笛みたいな、やさしい声。
恐竜がぱっと目を開けた。
首を伸ばして、声のするほうを見た。山の斜面の、ずっと上のほうだった。
もう一度声がした。
恐竜が立ち上がった。それから大きく口を開けて、鳴いた。
ぴいいい、と。
こはるが聞いた中で、一番大きな声だった。
斜面の上で、草が揺れた。
大きな影が、木のあいだから顔を出した。恐竜と同じ形の、でもずっと大きな恐竜だった。背中がまるくて、しっぽが短い。まるい目で、こちらをじっと見ていた。
「……おかあさん?」
こはるが言うと、小さな恐竜はこはるのほうを振り返った。
まるい目が、こはるを見ていた。
「よかったね」
こはるは言った。
「おかあさん、来てくれたね」
小さな恐竜はこはるの膝に、一度だけ鼻先を押しつけた。
それから斜面を駆け上がっていった。おしりを左右に揺らしながら、何度も転びそうになりながら。大きな恐竜のところまで行くと、その足のあいだに、すっぽりと潜り込んだ。
大きな恐竜が小さな恐竜の頭を、鼻先でそっとなでた。
それからこはるのほうを見た。
こはるは手を振った。
大きな恐竜はしばらくこはるを見ていた。それから小さな恐竜を連れて、木のあいだへ帰っていった。
最後に一度だけ、小さな声が聞こえた。
ぴい、と。
◇
「こはるー!」
それからほんの少しして、別の声が聞こえた。
こはるは跳び上がった。
「おとうさん!」
「こはる! どこだ!」
「ここー! くぬぎの木のとこー!」
草むらをかき分けて、お父さんが飛び出してきた。その後ろから、お母さんも走ってきた。二人とも、息を切らしていた。お母さんの目は、真っ赤だった。
お父さんがこはるを抱き上げた。ぎゅっと、苦しいくらいに。
「よかった……よかった……」
「おとうさん、くるしい」
「ごめん。ごめんな。でも、もうちょっとだけ」
お母さんがこはるの頭をなでた。手が、震えていた。
「ちゃんと、待っててくれたのね」
「うん。うごかないで、まってた」
こはるは少しだけ考えてから、付け足した。
「ちょっとだけ、アケビのとこまで行ったけど」
「アケビ?」
「恐竜さんと、アケビたべたの」
お父さんとお母さんが、顔を見合わせた。
「……恐竜さん?」
「うん。ちっちゃい恐竜さん。まいごだったの。ぴいって鳴くの。ビスケットはたべなかった。それでね、おかあさん恐竜が、むかえにきたの」
お父さんは困ったように笑った。お母さんもちょっとだけ笑った。
「そっか。よかったね。恐竜さんも、お母さんに会えて」
「うん」
こはるはお父さんの肩越しに、山の上のほうを見た。
木のあいだには、もう何もいなかった。
◇
帰り道、お母さんがくぬぎの木の根元で立ち止まった。
「……ねえ」
お母さんが地面を指さした。
こはるが座っていた根っこの横の、やわらかい土の上だった。
こはるの小さな靴の跡が、いくつも残っていた。
そのすぐ隣に、もう一つ、小さな足跡が並んでいた。指が三本の、まるい足跡だった。
お父さんはしばらくその足跡を見つめていた。
「……本当だったのか」
こはるはお父さんの腕の中で、得意げに胸を張った。
「だから、言ったでしょ」
足跡の少し先に、アケビの黒い種が、いくつか落ちていた。
こはるが吐き出した種と、恐竜が吐き出した種が、仲良く並んでいた。
短編③ まいごのふたり 了
肉食恐竜は観測されてない雑木林くらいのイメージ