「本当に、行くんですか」
電話の向こうで、温泉恐竜の名づけとなった動画を撮影した男、野口が言った。
月刊ダイナソー編集部の小野寺遥は取材ノートを膝の上に開いたまま答えた。
「行きます。温泉恐竜の旅を最初から辿る特集なので。名前がついた場所を外すわけにはいかないんです」
「あいつは、もういませんよ」
「分かってます。いない場所とわかって見に行くんです」
しばらく沈黙があった。それから野口が小さく息を吐く音がした。
「……沢沿いの道を、一時間くらい登ってください。岩の間から湯が湧いてるところがあります。地図には載ってません。雪が多いから、スノーシューは必須です」
「ありがとうございます」
「それと」
野口は少し言いよどんだ。
「湯の写真は、撮ってもいいです。でも、場所は書かないでください。あいつの風呂なんで」
遥はノートに「場所は書かない」と書いて、二重線で囲った。
◇
一月の山形の山は、思っていたよりずっと白かった。
遥はスノーシューで新雪を踏みしめながら沢沿いの道を登った。
冬の山の取材は、これが初めてではなかった。登山届は麓の宿と編集部の両方に出してある。足元は防水の登山靴に、膝下まで覆うゲイター。ザックの中には予備の靴下が二足と、乾いたタオルと、着替えの手袋。下山開始は午後二時半と決めて、腕時計にアラームをかけてあった。冬の日は、思っているよりずっと早く落ちる。
それから、カメラと三脚と取材ノートと、編集長には内緒の小さなガスバーナーとクッカー。せっかくの山なのだから、湯を沸かしてカップ麺くらい食べたっていい。経費で落ちるかどうかは、帰ってから考えることにした。
息が白かった。冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。都内の編集部では、ここ三か月ほとんど外へ出ていなかった。八王子の事件があってからは、温泉恐竜の記事を毎号組んで、締め切りに追われ続けてきた。
空を見上げた。抜けるように青かった。
「……来てよかった」
誰もいない山の中で遥は声に出して言った。
一時間と少し登ったところで、湯気が見えた。
岩の間から湧き出した湯が、自然の窪みに溜まっていた。周りの雪がそこだけ丸く解けて、黒い岩肌が覗いている。思っていたより小さな湯だった。人間なら四、五人がやっと入れるくらい。四メートルの恐竜なら、肩まで浸かるのがせいぜいだろう。
湯の縁の平たい岩の上に、何かが置いてあった。
コーラの缶だった。
表面に薄く霜が降りていて、開けられた様子はなかった。野口が置いていったものだと、遥にはすぐに分かった。電話では何も言っていなかったけれど。
遥はカメラを構えて、缶と湯と立ちのぼる湯気を一枚撮った。それからカメラを下ろした。
缶を手に取ると、指先が痛いほど冷たかった。少し迷ってから、遥はそれをザックの外ポケットにしまった。気持ちはここに置いていくが、缶を放置するのははばかられた。
(野口さんには、ちゃんと持ち帰りましたって伝えよう)
◇
湯の縁の風の当たらない岩陰に、遥は小さな拠点を作った。
折りたたみの椅子を広げ、ガスバーナーに火をつけて雪を溶かす。沸いた湯でカップ麺を作り、残りでココアを入れた。雪山で食べるカップ麺は、どんな高級な料理よりもうまかった。
それから靴と靴下を脱いだ。
湯にそっと足を浸した。
熱すぎずぬるすぎなかった。冷え切った足の指先から、じんわりと熱が上がってくる。くるぶしから脛へ、脛から膝へ。身体の芯まで、ゆっくりと温まっていく。
浸かるのは十分だけと決めていた。上がったらすぐにタオルで拭いて、乾いた靴下を履く。さすがに雪の上で濡れた足のまま過ごすのが、どれだけ危ないかは知っていた。
「……あー」
変な声が出た。
遥は湯の中で足の指を動かしながら、取材ノートを開いた。湯の温度、湧出量の目測、周囲の地形、植生。それから思いつくままに書いた。
――ここで、あの黒い恐竜は目を細めていた。
――野口さんの動画の中で、あの恐竜は気まずそうだった。風呂に入っているところを見られて、困っている顔だった。
――たぶん、ただ温まりたかったのだと思う。
最後の一行を書いて、遥はペンを止めた。
記者が書く文章ではなかった。鷲尾先生あたりに読まれたら、根拠のない擬人化だと鼻で笑われるだろう。
それでも、消さなかった。
◇
物音がしたのは、ココアを飲み終えたころだった。
沢の上流のほうで、雪を踏む重い足音がした。枝の折れる音。それから低く、喉の奥で鳴らすような声。
遥は湯から足を上げた。タオルで乱暴に足を拭き、乾いた靴下を履いて、紐も結ばずに登山靴に足を突っ込む。そのまま岩陰に身を伏せた。
木々の間から、大きな影が現れた。
草食恐竜だった。体長は二メートルほどで、まだ若い個体のようだった。
遥は息を殺した。
草食恐竜は基本的には大人しい。けれど、驚けば暴れる。二メートルの身体といえど、蹴られれば人間はひとたまりもない。取材で何度も現場に出てきた遥は、それをよく知っていた。
恐竜は湯の匂いを嗅ぐように鼻先を上げた。それから湯のほうへ歩いてきた。
歩き方がおかしかった。
右の後肢をほとんど地面につけていなかった。三本足で跳ねるように、ぎこちなく進んでくる。足を下ろすたびに、喉の奥から細い声が漏れた。
恐竜は湯の縁まで来ると、崩れるように身体を沈めた。湯が溢れて周りの雪を溶かした。恐竜は湯の中で、長い長い息を吐いた。
遥は岩陰からそっと首を伸ばした。
湯の中で、恐竜の右の後肢が揺れていた。足首のあたりに何かが食い込んでいた。
細い金属のワイヤーだった。
◇
鹿用のくくり罠だ、と遥は思った。
山の中に仕掛けられた罠を、この恐竜が踏んだのだろう。鹿なら動けなくなるワイヤーも、四メートルの恐竜なら力任せに引きちぎれる。けれど、ちぎれたワイヤーの輪は、足首に残ったままになる。動くたびに締まって、肉に食い込んでいく。
ワイヤーの周りの皮膚は赤く腫れ上がっていた。血がにじみ、湯の中にうっすらと広がっていた。
このままにしておけば、どうなるか。遥には分かっていた。傷は化膿していずれ歩けなくなる。歩けなくなった動物は冬の山では長くもたない。
遥はザックの中身を思い浮かべた。
救急セット。消毒液。ガーゼ。テーピング。それからワイヤーも切れるペンチのついたマルチツール。どれも、取材で山に入るときには必ず持っていくものだった。
(……危険だ、やめとけ。始末書ものだぞ)
頭の中で編集長の声がした。
(記者は取材対象に手を出さない。それに相手は野生の恐竜だ)
分かっていた。
遥は腕時計を見た。午後一時を少し過ぎていた。下山開始まで、一時間半。
それから、恐竜の身体をもう一度よく見た。湯に沈んだまま、ほとんど動かない。息は荒く、まぶたが重そうに下がっている。痛みと疲れで、立ち上がる力も残っていないように見えた。
蹴られるとしたら、後肢だ。尾の付け根の側から回り込めば、脚の届く範囲には入らずに足首に手が届く。万一のときは、背後の岩を盾にして沢の下手へ逃げればいい。
遥は頭の中で近づく道と逃げる道を一度ずつなぞった。
恐竜が湯の中でまた細い声を出した。目を閉じて、痛みに耐えるように首を縮めていた。
「……あとで始末書、書きますから」
遥は小さく呟いて、靴紐を固く結び直した。それからザックを開けた。
◇
時間をかけて近づいた。
恐竜の視界に入る位置から、ゆっくりと。しゃがんだまま、一歩ずつ。急に動かず、目を合わせすぎず、声は低く、静かに。後肢の蹴りが届く扇形の外側を、なぞるように回り込んでいく。
「大丈夫。大丈夫だよ。痛いの、取るだけだからね」
恐竜が目を開けた。こちらを見た。湯の中で、身体がわずかに強張った。
遥はそこで止まった。
しばらくそのまま待った。湯気の向こうで、恐竜の大きな目が、じっとこちらを見ていた。黒くて、丸くて、思っていたよりずっと穏やかな目だった。
やがて、恐竜はゆっくりと目を閉じた。
疲れ切っていたのかもしれない。湯の温かさが、警戒心をほどいたのかもしれない。理由は分からなかった。ただ、恐竜はそれきり、湯の縁に顎を預けて動かなくなった。
遥は湯の中の後肢へ手を伸ばした。
ワイヤーは思っていたよりも深く食い込んでいた。指で探って、輪の継ぎ目を見つけた。マルチツールのペンチを差し込む。手袋越しにも、恐竜の皮膚の熱が伝わってきた。
「ちょっとだけ、我慢してね」
握った。
ぱちん、と乾いた音がして、ワイヤーが切れた。
恐竜の身体が、びくりと跳ねた。湯が大きく波打って、遥の脛にかかった。ゲイターが、ほとんどを弾いてくれた。遥は思わず尻もちをついた。
けれど恐竜は暴れなかった。
首を持ち上げて、自分の後肢を見下ろした。それから遥のほうを見た。何が起きたのか、確かめるような目だった。
遥は雪の上に座り込んだまま、切れたワイヤーを持ち上げてみせた。
「取れたよ」
恐竜はふう、と大きく鼻から息を吐いた。
◇
傷口を消毒して、ガーゼを当て、テーピングを何重にも巻いた。二メートルの恐竜の足首に巻くには、手持ちのテープは心もとなかった。傷は深かった。これで治るとは、とても思えなかった。それでも、締めつけているものがなくなっただけでも、何もないよりはましだった。
手当てを終えると、遥は取材ノートの新しいページを開いた。
体長およそ二メートル。草食の若い個体。とさかの右側に、小さな欠け。右後肢の足首に、ワイヤーによる深い裂傷。切ったワイヤーは回収済み。発見時刻、午後一時十五分。場所は湯の位置から沢の上流側。
山を下りたら県の野生恐竜の窓口に連絡するつもりだった。傷の手当てがこれで足りるとは思わない。くくり罠がこの山のどこにどれだけ残っているのかも。
手当てが終わると、恐竜は湯から首を伸ばして、遥のザックの匂いを嗅ぎ始めた。
「あ、ちょっと。それ、カメラ入ってるから」
恐竜の鼻先がコーラの缶を入れたのとは反対側の外ポケットに突っ込まれた。中から、りんごが一つ転がり出た。帰りのおやつにと、駅前で買ってきたものだった。
恐竜はりんごの匂いを嗅いで、遥の顔を見た。
「……食べていいよ」
遥がりんごを差し出すと、恐竜は平たい口で器用にそれを挟んで、しゃくしゃくと音を立てて食べた。
それからもっとないのか、というように、遥の手のひらを鼻先でつついた。
「もうないよ。一個しか買ってないの」
恐竜は少しだけ残念そうに鼻を鳴らした。
遥は思わず声を上げて笑った。
それからしばらく、二人で湯の縁に並んでいた。恐竜は湯に浸かったまま、遥はガスバーナーで沸かし直した湯で、両手を温めながら。言葉は通じなかった。けれど、同じ湯気の中にいるだけで、不思議と寂しくなかった。
あの黒い恐竜も、こうやって、ここで温まっていたのだろうか。
遥はそう思った。
◇
腕時計のアラームが鳴る少し前、尾根の向こうから声が聞こえた。
低く、長く、角笛のような声だった。一つ、二つ、三つ。いくつもの声が重なって、山にこだました。
恐竜が首を持ち上げた。
声のほうを、じっと見つめていた。それから喉の奥から、同じような長い声を返した。尾根の向こうから、すぐに返事があった。
群れだった。
恐竜はゆっくりと湯から上がった。右の後肢を、確かめるように地面へ下ろす。テーピングの巻かれた足首に体重がかかると、喉の奥から小さな声が漏れた。まだ痛むのだ。恐竜は右の後肢をかばうように浮かせ気味にして、三本半の足で、それでもさっきよりは少しだけしっかりと雪を踏みしめた。
恐竜は遥のほうを振り返った。
黒くて丸い目が、しばらく遥を見ていた。
「……行きな」
遥は立ち上がって言った。
「家族が待ってるんでしょ」
恐竜は鼻先を一度だけ遥の肩に押しつけた。温かくて、湿っていて、少しだけりんごの匂いがした。
それから背を向けて、尾根のほうへ歩き出した。
足を引きずりながら、雪の斜面を登っていく大きな背中を、遥は見送った。何度か立ち止まって、右の後肢を浮かせて休んだ。そのたびに、尾根の向こうから仲間の声が呼んだ。そのたびに、また歩き出した。途中で一度だけ、恐竜が立ち止まって振り返った。遥は大きく手を振った。恐竜は短く一声鳴いた。
やがてその背中は、木々の向こうに見えなくなった。
遥はカメラを持ったまま、一枚も撮っていなかったことに気づいた。
「……記者失格だな」
苦笑してカメラをザックにしまった。代わりにさっきのノートのページに一行だけ書き足した。群れと合流。右後肢、跛行あり。
アラームが鳴った。遥はザックを背負い直して、明るいうちに山を下り始めた。
◇
麓の宿に戻ると、遥はすぐに県の野生恐竜の相談窓口に電話をかけた。個体の特徴と傷の位置、見つかった場所、それから回収したワイヤーのこと。電話の向こうの担当者は、記録を取りながら、明日にでも現地を確認すると言った。罠の持ち主も調べてみる、と。
それから野口にメッセージを送った。
『湯の縁のコーラ、持ち帰りました。写真はちゃんと撮ってあります』
返事はすぐに来た。
『すみません。置きっぱなしにしてたの、ずっと気になってたんです。ありがとうございます』
少しして、もう一通。
『あいついましたか』
遥は、少し考えてから返信を打った。
『いませんでした。でも、別のお客さんが来てました。足を怪我した若い草食恐竜。お湯に浸かって、りんご食べて、群れに帰っていきました』
しばらく返事は来なかった。
それから短い一文が届いた。
『あの湯、いい湯でしょう』
◇
翌月の月刊ダイナソーに、遥の記事が載った。
特集「温泉恐竜の足跡を辿る」の第一回。山形の、名前のついた湯。場所は書かなかった。写真は一枚だけだった。湯気の立つ小さな湯と、縁の岩の上に置かれた、霜の降りたコーラの缶。
記事の最後の段落は、こう結ばれていた。
――この湯で、私は温泉恐竜に会えなかった。けれど、別の客には会った。脚に傷を負い、一人で湯に浸かっていた若い草食恐竜だった。その恐竜は湯から上がると、まだ脚を引きずりながら、群れの声のするほうへ帰っていった。後日、県の担当者から、同じ特徴の個体が群れの中で確認されたと連絡があった。
――温泉恐竜がなぜ湯を好むのか。専門家の意見は分かれている。けれど、私はあの日、一つだけ確かなことを知った気がする。寒い山の中で、傷を負った生き物は、温かい場所を探して歩く。そして温まったら、待っている誰かのところへ帰っていく。
――あの黒い恐竜も、きっとそうだったのだと思う。
編集長は、その段落に赤ペンで「擬人化」と書き、それから少し考えてその字に二重線を引いた。
始末書の件は、うやむやになった。
短編集⑤ 野湯の客 了