温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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作品のタイトルにかかわる人物がちらっと出る話


短編集⑤ 野湯の客

「本当に、行くんですか」

 

 電話の向こうで、温泉恐竜の名づけとなった動画を撮影した男、野口が言った。

 月刊ダイナソー編集部の小野寺遥は取材ノートを膝の上に開いたまま答えた。

 

「行きます。温泉恐竜の旅を最初から辿る特集なので。名前がついた場所を外すわけにはいかないんです」

 

「あいつは、もういませんよ」

 

「分かってます。いない場所とわかって見に行くんです」

 

 しばらく沈黙があった。それから野口が小さく息を吐く音がした。

 

「……沢沿いの道を、一時間くらい登ってください。岩の間から湯が湧いてるところがあります。地図には載ってません。雪が多いから、スノーシューは必須です」

 

「ありがとうございます」

 

「それと」

 

 野口は少し言いよどんだ。

 

「湯の写真は、撮ってもいいです。でも、場所は書かないでください。あいつの風呂なんで」

 

 遥はノートに「場所は書かない」と書いて、二重線で囲った。

 

◇

 

 一月の山形の山は、思っていたよりずっと白かった。

 

 遥はスノーシューで新雪を踏みしめながら沢沿いの道を登った。

 

 冬の山の取材は、これが初めてではなかった。登山届は麓の宿と編集部の両方に出してある。足元は防水の登山靴に、膝下まで覆うゲイター。ザックの中には予備の靴下が二足と、乾いたタオルと、着替えの手袋。下山開始は午後二時半と決めて、腕時計にアラームをかけてあった。冬の日は、思っているよりずっと早く落ちる。

 

 それから、カメラと三脚と取材ノートと、編集長には内緒の小さなガスバーナーとクッカー。せっかくの山なのだから、湯を沸かしてカップ麺くらい食べたっていい。経費で落ちるかどうかは、帰ってから考えることにした。

 

 息が白かった。冷たい空気が肺の奥まで入ってくる。都内の編集部では、ここ三か月ほとんど外へ出ていなかった。八王子の事件があってからは、温泉恐竜の記事を毎号組んで、締め切りに追われ続けてきた。

 

 空を見上げた。抜けるように青かった。

 

「……来てよかった」

 

 誰もいない山の中で遥は声に出して言った。

 

 一時間と少し登ったところで、湯気が見えた。

 

 岩の間から湧き出した湯が、自然の窪みに溜まっていた。周りの雪がそこだけ丸く解けて、黒い岩肌が覗いている。思っていたより小さな湯だった。人間なら四、五人がやっと入れるくらい。四メートルの恐竜なら、肩まで浸かるのがせいぜいだろう。

 

 湯の縁の平たい岩の上に、何かが置いてあった。

 

 コーラの缶だった。

 

 表面に薄く霜が降りていて、開けられた様子はなかった。野口が置いていったものだと、遥にはすぐに分かった。電話では何も言っていなかったけれど。

 

 遥はカメラを構えて、缶と湯と立ちのぼる湯気を一枚撮った。それからカメラを下ろした。

 

 缶を手に取ると、指先が痛いほど冷たかった。少し迷ってから、遥はそれをザックの外ポケットにしまった。気持ちはここに置いていくが、缶を放置するのははばかられた。

 

(野口さんには、ちゃんと持ち帰りましたって伝えよう)

 

◇

 

 湯の縁の風の当たらない岩陰に、遥は小さな拠点を作った。

 

 折りたたみの椅子を広げ、ガスバーナーに火をつけて雪を溶かす。沸いた湯でカップ麺を作り、残りでココアを入れた。雪山で食べるカップ麺は、どんな高級な料理よりもうまかった。

 

 それから靴と靴下を脱いだ。

 

 湯にそっと足を浸した。

 

 熱すぎずぬるすぎなかった。冷え切った足の指先から、じんわりと熱が上がってくる。くるぶしから脛へ、脛から膝へ。身体の芯まで、ゆっくりと温まっていく。

 浸かるのは十分だけと決めていた。上がったらすぐにタオルで拭いて、乾いた靴下を履く。さすがに雪の上で濡れた足のまま過ごすのが、どれだけ危ないかは知っていた。

 

「……あー」

 

 変な声が出た。

 

 遥は湯の中で足の指を動かしながら、取材ノートを開いた。湯の温度、湧出量の目測、周囲の地形、植生。それから思いつくままに書いた。

 

 ――ここで、あの黒い恐竜は目を細めていた。

 

 ――野口さんの動画の中で、あの恐竜は気まずそうだった。風呂に入っているところを見られて、困っている顔だった。

 

 ――たぶん、ただ温まりたかったのだと思う。

 

 最後の一行を書いて、遥はペンを止めた。

 記者が書く文章ではなかった。鷲尾先生あたりに読まれたら、根拠のない擬人化だと鼻で笑われるだろう。

 

 それでも、消さなかった。

 

◇

 

 物音がしたのは、ココアを飲み終えたころだった。

 沢の上流のほうで、雪を踏む重い足音がした。枝の折れる音。それから低く、喉の奥で鳴らすような声。

 

 遥は湯から足を上げた。タオルで乱暴に足を拭き、乾いた靴下を履いて、紐も結ばずに登山靴に足を突っ込む。そのまま岩陰に身を伏せた。

 

 木々の間から、大きな影が現れた。

 草食恐竜だった。体長は二メートルほどで、まだ若い個体のようだった。

 

 遥は息を殺した。

 草食恐竜は基本的には大人しい。けれど、驚けば暴れる。二メートルの身体といえど、蹴られれば人間はひとたまりもない。取材で何度も現場に出てきた遥は、それをよく知っていた。

 

 恐竜は湯の匂いを嗅ぐように鼻先を上げた。それから湯のほうへ歩いてきた。

 

 歩き方がおかしかった。

 右の後肢をほとんど地面につけていなかった。三本足で跳ねるように、ぎこちなく進んでくる。足を下ろすたびに、喉の奥から細い声が漏れた。

 

 恐竜は湯の縁まで来ると、崩れるように身体を沈めた。湯が溢れて周りの雪を溶かした。恐竜は湯の中で、長い長い息を吐いた。

 遥は岩陰からそっと首を伸ばした。

 湯の中で、恐竜の右の後肢が揺れていた。足首のあたりに何かが食い込んでいた。

 細い金属のワイヤーだった。

 

◇

 

 鹿用のくくり罠だ、と遥は思った。

 

 山の中に仕掛けられた罠を、この恐竜が踏んだのだろう。鹿なら動けなくなるワイヤーも、四メートルの恐竜なら力任せに引きちぎれる。けれど、ちぎれたワイヤーの輪は、足首に残ったままになる。動くたびに締まって、肉に食い込んでいく。

 

 ワイヤーの周りの皮膚は赤く腫れ上がっていた。血がにじみ、湯の中にうっすらと広がっていた。

 

 このままにしておけば、どうなるか。遥には分かっていた。傷は化膿していずれ歩けなくなる。歩けなくなった動物は冬の山では長くもたない。

 遥はザックの中身を思い浮かべた。

 

 救急セット。消毒液。ガーゼ。テーピング。それからワイヤーも切れるペンチのついたマルチツール。どれも、取材で山に入るときには必ず持っていくものだった。

 

(……危険だ、やめとけ。始末書ものだぞ)

 

 頭の中で編集長の声がした。

 

(記者は取材対象に手を出さない。それに相手は野生の恐竜だ)

 

 分かっていた。

 

 遥は腕時計を見た。午後一時を少し過ぎていた。下山開始まで、一時間半。

 それから、恐竜の身体をもう一度よく見た。湯に沈んだまま、ほとんど動かない。息は荒く、まぶたが重そうに下がっている。痛みと疲れで、立ち上がる力も残っていないように見えた。

 

 蹴られるとしたら、後肢だ。尾の付け根の側から回り込めば、脚の届く範囲には入らずに足首に手が届く。万一のときは、背後の岩を盾にして沢の下手へ逃げればいい。

 

 遥は頭の中で近づく道と逃げる道を一度ずつなぞった。

 

 恐竜が湯の中でまた細い声を出した。目を閉じて、痛みに耐えるように首を縮めていた。

 

「……あとで始末書、書きますから」

 

 遥は小さく呟いて、靴紐を固く結び直した。それからザックを開けた。

 

◇

 

 時間をかけて近づいた。

 

 恐竜の視界に入る位置から、ゆっくりと。しゃがんだまま、一歩ずつ。急に動かず、目を合わせすぎず、声は低く、静かに。後肢の蹴りが届く扇形の外側を、なぞるように回り込んでいく。

 

「大丈夫。大丈夫だよ。痛いの、取るだけだからね」

 

 恐竜が目を開けた。こちらを見た。湯の中で、身体がわずかに強張った。

 

 遥はそこで止まった。

 しばらくそのまま待った。湯気の向こうで、恐竜の大きな目が、じっとこちらを見ていた。黒くて、丸くて、思っていたよりずっと穏やかな目だった。

 

 やがて、恐竜はゆっくりと目を閉じた。

 疲れ切っていたのかもしれない。湯の温かさが、警戒心をほどいたのかもしれない。理由は分からなかった。ただ、恐竜はそれきり、湯の縁に顎を預けて動かなくなった。

 

 遥は湯の中の後肢へ手を伸ばした。

 ワイヤーは思っていたよりも深く食い込んでいた。指で探って、輪の継ぎ目を見つけた。マルチツールのペンチを差し込む。手袋越しにも、恐竜の皮膚の熱が伝わってきた。

 

「ちょっとだけ、我慢してね」

 

 握った。

 

 ぱちん、と乾いた音がして、ワイヤーが切れた。

 

 恐竜の身体が、びくりと跳ねた。湯が大きく波打って、遥の脛にかかった。ゲイターが、ほとんどを弾いてくれた。遥は思わず尻もちをついた。

 

 けれど恐竜は暴れなかった。

 首を持ち上げて、自分の後肢を見下ろした。それから遥のほうを見た。何が起きたのか、確かめるような目だった。

 遥は雪の上に座り込んだまま、切れたワイヤーを持ち上げてみせた。

 

「取れたよ」

 

 恐竜はふう、と大きく鼻から息を吐いた。

 

◇

 

 傷口を消毒して、ガーゼを当て、テーピングを何重にも巻いた。二メートルの恐竜の足首に巻くには、手持ちのテープは心もとなかった。傷は深かった。これで治るとは、とても思えなかった。それでも、締めつけているものがなくなっただけでも、何もないよりはましだった。

 

 手当てを終えると、遥は取材ノートの新しいページを開いた。

 

 体長およそ二メートル。草食の若い個体。とさかの右側に、小さな欠け。右後肢の足首に、ワイヤーによる深い裂傷。切ったワイヤーは回収済み。発見時刻、午後一時十五分。場所は湯の位置から沢の上流側。

 

 山を下りたら県の野生恐竜の窓口に連絡するつもりだった。傷の手当てがこれで足りるとは思わない。くくり罠がこの山のどこにどれだけ残っているのかも。

 

 手当てが終わると、恐竜は湯から首を伸ばして、遥のザックの匂いを嗅ぎ始めた。

 

「あ、ちょっと。それ、カメラ入ってるから」

 

 恐竜の鼻先がコーラの缶を入れたのとは反対側の外ポケットに突っ込まれた。中から、りんごが一つ転がり出た。帰りのおやつにと、駅前で買ってきたものだった。

 

 恐竜はりんごの匂いを嗅いで、遥の顔を見た。

 

「……食べていいよ」

 

 遥がりんごを差し出すと、恐竜は平たい口で器用にそれを挟んで、しゃくしゃくと音を立てて食べた。

 

 それからもっとないのか、というように、遥の手のひらを鼻先でつついた。

 

「もうないよ。一個しか買ってないの」

 

 恐竜は少しだけ残念そうに鼻を鳴らした。

 

 遥は思わず声を上げて笑った。

 それからしばらく、二人で湯の縁に並んでいた。恐竜は湯に浸かったまま、遥はガスバーナーで沸かし直した湯で、両手を温めながら。言葉は通じなかった。けれど、同じ湯気の中にいるだけで、不思議と寂しくなかった。

 あの黒い恐竜も、こうやって、ここで温まっていたのだろうか。

 

 遥はそう思った。

 

◇

 

 腕時計のアラームが鳴る少し前、尾根の向こうから声が聞こえた。

 低く、長く、角笛のような声だった。一つ、二つ、三つ。いくつもの声が重なって、山にこだました。

 

 恐竜が首を持ち上げた。

 

 声のほうを、じっと見つめていた。それから喉の奥から、同じような長い声を返した。尾根の向こうから、すぐに返事があった。

 

 群れだった。

 恐竜はゆっくりと湯から上がった。右の後肢を、確かめるように地面へ下ろす。テーピングの巻かれた足首に体重がかかると、喉の奥から小さな声が漏れた。まだ痛むのだ。恐竜は右の後肢をかばうように浮かせ気味にして、三本半の足で、それでもさっきよりは少しだけしっかりと雪を踏みしめた。

 

 恐竜は遥のほうを振り返った。

 黒くて丸い目が、しばらく遥を見ていた。

 

「……行きな」

 

 遥は立ち上がって言った。

 

「家族が待ってるんでしょ」

 

 恐竜は鼻先を一度だけ遥の肩に押しつけた。温かくて、湿っていて、少しだけりんごの匂いがした。

 それから背を向けて、尾根のほうへ歩き出した。

 

 足を引きずりながら、雪の斜面を登っていく大きな背中を、遥は見送った。何度か立ち止まって、右の後肢を浮かせて休んだ。そのたびに、尾根の向こうから仲間の声が呼んだ。そのたびに、また歩き出した。途中で一度だけ、恐竜が立ち止まって振り返った。遥は大きく手を振った。恐竜は短く一声鳴いた。

 

 やがてその背中は、木々の向こうに見えなくなった。

 

 遥はカメラを持ったまま、一枚も撮っていなかったことに気づいた。

 

「……記者失格だな」

 

 苦笑してカメラをザックにしまった。代わりにさっきのノートのページに一行だけ書き足した。群れと合流。右後肢、跛行あり。

 アラームが鳴った。遥はザックを背負い直して、明るいうちに山を下り始めた。

 

◇

 

 麓の宿に戻ると、遥はすぐに県の野生恐竜の相談窓口に電話をかけた。個体の特徴と傷の位置、見つかった場所、それから回収したワイヤーのこと。電話の向こうの担当者は、記録を取りながら、明日にでも現地を確認すると言った。罠の持ち主も調べてみる、と。

 

 それから野口にメッセージを送った。

 

『湯の縁のコーラ、持ち帰りました。写真はちゃんと撮ってあります』

 

 返事はすぐに来た。

 

『すみません。置きっぱなしにしてたの、ずっと気になってたんです。ありがとうございます』

 

 少しして、もう一通。

 

『あいついましたか』

 

 遥は、少し考えてから返信を打った。

 

『いませんでした。でも、別のお客さんが来てました。足を怪我した若い草食恐竜。お湯に浸かって、りんご食べて、群れに帰っていきました』

 

 しばらく返事は来なかった。

 それから短い一文が届いた。

 

『あの湯、いい湯でしょう』

 

◇

 

 翌月の月刊ダイナソーに、遥の記事が載った。

 

 特集「温泉恐竜の足跡を辿る」の第一回。山形の、名前のついた湯。場所は書かなかった。写真は一枚だけだった。湯気の立つ小さな湯と、縁の岩の上に置かれた、霜の降りたコーラの缶。

 

 記事の最後の段落は、こう結ばれていた。

 

 ――この湯で、私は温泉恐竜に会えなかった。けれど、別の客には会った。脚に傷を負い、一人で湯に浸かっていた若い草食恐竜だった。その恐竜は湯から上がると、まだ脚を引きずりながら、群れの声のするほうへ帰っていった。後日、県の担当者から、同じ特徴の個体が群れの中で確認されたと連絡があった。

 

 ――温泉恐竜がなぜ湯を好むのか。専門家の意見は分かれている。けれど、私はあの日、一つだけ確かなことを知った気がする。寒い山の中で、傷を負った生き物は、温かい場所を探して歩く。そして温まったら、待っている誰かのところへ帰っていく。

 

 ――あの黒い恐竜も、きっとそうだったのだと思う。

 

 編集長は、その段落に赤ペンで「擬人化」と書き、それから少し考えてその字に二重線を引いた。

 

 始末書の件は、うやむやになった。

 

短編集⑤ 野湯の客 了

 

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