誰もいない町を離れてから二日ほど進んだところで、男は休息を取っていた林の中から、遠くを走る車の音を聞いていた。
無人の町で確認した標識のおかげで、自分が着実に南へ進んでいることは分かっている。しかし、ここから先をどう進むかとなると、標識だけでは情報が足りなかった。海沿いを進めば平坦な土地が多い代わりに人間の生活圏も増える。かといって西へ入りすぎれば山地を越えなければならず、川や道路の位置が分からないまま山へ入るのも危険だった。
(地図が欲しいな)
スマートフォンが使えれば話は簡単だった。現在地も目的地も、そこまでの距離も経路も画面へ表示される。それどころかコンビニや飲食店、水場になりそうな施設まで探せたのだから、改めて考えると恐ろしいほど便利な道具だった。
もっとも、今の自分が端末を拾ったところで長く使えるとは思えない。充電する手段が必要になるうえ、この爪でタッチパネルを操作できるかも怪しかった。硬貨一枚を扱うだけでも苦労した経験を思えば、二本の指で画面を拡大するような操作など期待しないほうがいい。
その点、紙なら電池も通信も必要ない。雨には弱いが、防水シートとバッグがある今なら濡らさずに運ぶ方法も考えられる。何より、自分には日本語が読める。
男は記憶を探り、無料の地図が置かれていそうな場所をいくつか思い浮かべた。観光案内所、道の駅、ホテル、駅。そうした場所には観光客向けのパンフレットや周辺地図が置かれていることがある。商品を盗むつもりはないが、もともと持ち帰ってもらうための無料配布物なら、一部をもらっても問題にはならないだろう。
あとは、そういう場所をどう見つけるかだった。
◇
その日の夕方、男は山の斜面から一本の線路を見つけた。
線路そのものを歩けば駅へたどり着ける可能性は高いが、保守作業員や監視設備に見つかる危険がある。そこで暗くなるまで待ち、一定の距離を保ちながら林の中を線路と並行して進んだ。やがて建物が増え、その向こうにロータリーらしい広い空間と小さな駅舎が見えてくる。
災害警戒区域の外縁に近い場所らしく、駅は営業を停止していた。駅前には車も人もなく、ロータリーの舗装の隙間から雑草が伸びている。男はそれでもすぐには近づかず、林の中からしばらく周囲を観察した。人間の匂いがないこと、車のエンジン音がしないこと、上空にドローンがいないことを確かめ、さらに大型の動物が潜んでいないか耳と鼻を使って調べてから、ようやく駅前へ足を踏み出した。
駅など、以前なら何とも思わなかった場所だった。改札を通り、ホームへ行き、来た電車に乗る。それだけの施設だったはずなのに、暗い駅舎と線路を見ていると妙に懐かしい。
(電車に乗れたら楽なんだけどな)
青森から八王子まで、自分の脚で移動する必要さえなくなる。適当な車両へ乗り込み、座席の代わりに通路へでも伏せていれば、そのうち東京へ着くのだ。
(恐竜一頭、大人一枚で)
そんな客が券売機の前に現れたら、駅員は切符を売るより先に通報するだろう。くだらない想像をしながら一部が破損した入口へ回ると、施錠されていない箇所から駅舎へ入ることができた。
電気は落ちていたが、今の目なら暗闇でも歩くことに支障はない。床には細かなゴミが散らばり、壁には古い時刻表や案内表示が残っている。売店らしい場所には近づかず、観光案内のラックだけを探していると、ほどなく待合スペースの端に目的のものを見つけた。
そこから先は、恐竜としての身体能力がほとんど役に立たない戦いだった。
パンフレットを一枚だけ抜き取るという、人間なら意識すらしない作業が恐ろしく難しい。爪を立てれば紙を破り、口で咥えれば唾液で濡れる。前肢の側面を使って少しずつ紙をずらし、ようやく一枚引き出してみれば観光施設の案内で、次は飲食店の紹介だった。大きく掲載された焼き肉の写真には少し心を引かれたが、営業していたとしても自分が店へ入れるわけではないため、名残惜しくラックへ戻す。
何枚か同じ作業を繰り返したところで、男の動きが止まった。
表紙には「東北広域観光マップ」と書かれている。広げてみると、青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島の主要都市と道路、鉄道が一枚の紙にまとめられていた。細かな農道や山道まで載った道路地図ではないものの、今の男が知りたかった地域全体の位置関係を把握するには十分だった。
床へ広げた地図の両端を前肢で押さえ、まず現在地を探す。駅名と周辺の道路を照らし合わせていくと、自分がいるのは宮城県の内陸寄り、まだ東側の平地と山地の境目に近い場所らしい。青森からここまで歩いてきた距離が一枚の紙の上へ収まり、その先には山形、福島、さらに地図の外側には関東がある。
(遠いな)
かなり進んだつもりだったが、地図の上ではまだ東北の途中だった。それでも距離を知ったことで落胆するより、八王子までの道筋が初めて具体的な形を持った。山の中で目覚めたころには、ただ南にある家を目指すしかなかったが、今は自分が宮城まで来ていて、その先にどの県があるのかを一枚の紙の上で確認できる。
男は現在地から南へ視線を動かし、それから西へ折れた。宮城から山形へ抜けるには山地を越えなければならないが、地図には主要道路と鉄道が山を横切っている場所がいくつか示されている。もちろん自分が道路や線路をそのまま使えるわけではない。それでも、人間が山を越えるために選んだ場所なら、周辺にも通過しやすい谷筋がある可能性は高かった。
山形へ出れば、人の密集する太平洋側からいったん離れられる。そこから南へ進むか、さらに別の経路を選ぶかは、次の地図を手に入れてから考えればいい。
(よし。まず山形へ抜けよう)
初めて、八王子までの旅に「次の目的地」ができた。
男は地図の上で、宮城と山形を隔てる山地を越えている道路を何度も確認した。都市名だけでなく、途中の川や大きな分岐、線路との位置関係まで可能な範囲で覚えておく。地図を持っていても、夜の山中で何度も広げられるとは限らないため、少なくとも山へ入るまでの経路は頭へ入れておきたかった。
問題は、手に入れた地図を持ち運ばなければならないことだった。広げるところまでは何とかなったものの、爪では折り目を正確につまめない。前肢で片側を押さえながら口で端を引けば斜めになり、それを直そうとすると別の場所がずれる。恐竜を仕留められる牙も、獲物へ追いつける脚も、紙を元通りに畳む作業には何の役にも立たず、男はかなりの時間をかけてようやくバッグへ収まる程度まで折り畳んだ。
(手ってすごかったんだな……)
最近はそんなことばかり実感している気がした。
ところが古いショルダーバッグへ地図を入れようとしたところで、別の問題が見つかった。二本のペットボトルに加えて地図まで収めると、バッグにはほとんど余裕がない。身体の成長に対してストラップもきつくなっており、歩く程度なら使えても、走ったときには前肢の動きを邪魔するようになっていた。
今の男は、鼻先から尾の先までなら三メートル近くまで成長している。目覚めたばかりのころには一メートルにも満たなかったことを考えれば、短期間で別の生き物のように大きくなった。その身体に、町で拾った人間用の小さなバッグを無理に合わせ続けるのにも限界が来ていた。
ならば、荷物を運ぶ方法も更新する必要がある。
◇
駅を出た男は、少し離れた場所で見かけた災害廃棄物の集積所へ向かった。
壊れた家具や木材、プラスチック製品、錆びた金属、破損した看板などがまとめられ、明らかに廃棄を前提として置かれている。薬品らしい匂いのする場所や、割れたガラス、突き出た釘を避けながら廃材の間を探していくと、泥のついた布製品の中に大きめのスポーツバッグがあった。
本体には染みがあり、ファスナーも少し錆びている。それでも生地は破れておらず、肩掛け用の長いストラップも残っていた。中身が空で危険な匂いもしないことを確認すると、男はそれを近くの水場まで運び、外側だけでなく内部も何度か洗った。
乾かしたあとで二本のペットボトルと地図、それまで拾った小銭を移してみると、まだかなり余裕が残る。古いショルダーバッグも捨てずに畳んで中へ入れた。新しいバッグが破れた場合の予備にもなるし、少ない荷物だけを持って動きたい場面が来るかもしれない。
ただし、人間用のスポーツバッグを恐竜が背負うことなど、作った側も想定していない。ストラップを肩口へ通せば本体が横腹へ当たり、走ると激しく揺れる。短くすれば身体へ密着しすぎて前肢を動かしにくくなり、背中へ回しすぎれば四足姿勢へ移ったときに位置がずれた。
男は何度も掛ける位置を変え、歩き、軽く走り、四足姿勢と二足姿勢を切り替えながら試した。最終的には肩から斜めに掛け、バッグ本体を胴の側面からやや背中寄りへ置く形が最も安定した。全力疾走には向かず、戦闘になれば明らかに邪魔になるため、危険を感じたときには身体を抜くだけで落とせる程度にストラップを緩くしておく。
地図も水も大切だが、命より優先するものではない。そこを間違えれば、山形へも八王子へもたどり着けなくなる。
その夜は近くの古い倉庫で休み、翌日の夕方、水場で二本のペットボトルを満たしてから西へ向かった。目指すのは、地図で確認した山形方面へ抜ける山地である。新しいバッグには地図と古いショルダーバッグを収め、防水シートも必要なときに外せるよう緩く固定した。
初めて具体的な目的地を持って進む旅は、それまでとは少し違って感じられた。八王子はまだあまりにも遠いが、今はまず山形へ行けばいい。山を越え、そこで次の道を考える。一度に数百キロ先まで見通す必要がなくなっただけでも、足取りはずいぶん軽くなった。
旅はしばらく順調に進んだ。少なくとも、風に混じって濃い獣臭と血の匂いを感じ取るまでは。
◇
その夜、男は山形方面へ向かう古い道路の近くを移動していた。
最初に気づいたのは、肉食動物特有の匂いだった。これまでにも小型の肉食恐竜とは何度も遭遇しているが、今回の匂いは明らかに濃く、そこへ新しい血の臭気まで混ざっている。建物と風の流れに邪魔されて正確な距離までは分からないものの、少なくとも遠くはなかった。
男はすぐ道路脇へ入り、スポーツバッグを身体から外した。防水シートも外してその上へ重ねる。逃げることになれば荷物ごと諦めるつもりだったが、安全に戻れるなら地図だけでも回収したかった。
身軽になってから匂いを確かめ、道路沿いを慎重に進む。壊れた建物の角から先を覗くと、放置された乗用車と倒れた標識、その向こうに暗い交差点が見えた。動くものは見当たらないが、道路脇には草食恐竜の死骸が横たわっている。
身体のかなりの部分を食べられているものの、血はまだ乾ききっていない。これほど大きな獲物を仕留めた捕食者なら、食べ残したまま遠くへ移動したとは考えにくかった。男はそれ以上近づかず、来た方向へゆっくり後退し始めた。
そのとき、建物の向こうから低い唸り声が聞こえた。
考えるより先に全身の筋肉が緊張する。音のした方向へ視線を向けると、二つの建物の間にある暗闇から巨大な頭部が現れ、続いて肩、胴、太い後肢、長い尾が道路へ出てきた。
全長は六メートルほどある。三メートル近くまで育った今の男と比べても、長さだけでほぼ倍あり、重量差はそれ以上だろう。ティラノサウルスほど巨大ではないが、発達した後肢に対して頭部は重く、開いた口に並ぶ歯を見れば、まともに噛みつかれた場合の結果を想像するのは難しくなかった。
さらに気になったのは、身体に残る傷だった。首筋にも脇腹にも後肢にも古い傷痕があり、最近この地域へ迷い込んだ若い個体には見えない。何度も争いを経験し、それでも生き残ってきた個体なのだろう。
大型肉食恐竜はこちらへ頭を向けた。すでに互いの存在を認識している以上、今から動きを止めて擬態しても意味はない。男はすぐ逃げ出すこともせず、数十メートルの距離を保ったまま相手の反応を見た。
体格も重量も、顎の大きさも向こうが上だった。だからこそ、勝てるかどうかを試す理由はない。男は身体の正面を相手へ向けたまま少しずつ後退したが、大型肉食恐竜も一歩ずつ距離を詰めてくる。こちらが止まれば向こうも止まり、再び下がればまた近づいてきた。
(追い払うつもりか)
縄張りへ入った競争相手として見ているのか、獲物と判断したのかまでは分からない。ただ、背中を向けて逃げれば追ってくる可能性は高そうだった。
男は周囲の地形を確認した。道路は十分に広く、左右には建物が並び、放置された車両も数台ある。少し先には壊れたフェンスと側溝があり、その向こうには空き地が広がっていた。荷物を置いてきた場所はここから数十メートル後方、道路脇の暗がりにある。逃げるだけなら捨てればいいが、相手を振り切れなければ荷物どころの話ではない。
まずは戦闘そのものを避けるため、男は身体をやや高く起こし、口を開いて牙を見せた。喉の奥から低い唸り声を出すと、身体が大きくなったぶん、以前よりずっと重い音が夜の道路へ響く。大型肉食恐竜は一度立ち止まったものの、直後に返ってきた咆哮は腹の底まで振動が届くほど強烈だった。
(……ですよね)
威嚇だけで道を譲ってくれる相手ではないらしい。
その緊張の中へ、場違いな機械音が混じった。
一定の高さを保ちながら近づいてくる音に覚えがあり、男は大型肉食恐竜から視線を外さないまま耳だけを上空へ向けた。無人の町でも見かけた監視用のドローンだった。
最初は災害区域全体を巡回しているものだと思っていた。公園で狩りの痕跡を残したあとには、自分の存在を察知して追跡している可能性も考えた。しかし大型肉食恐竜が機械音へ顔を上げたとき、その反応を見て別の可能性が浮かぶ。
相手は驚いていなかった。警戒して逃げることもなく、聞き慣れた音を確認するように一度上空へ顔を向けただけで、すぐ男へ注意を戻している。
無人の町で見た立入規制の表示には、人工恐竜の流入についても警告があった。この大型個体が以前から周辺で活動し、行政に監視されているのだとすれば、何度もドローンを見ていても不思議ではない。
そして今、その監視カメラの視界には、自分も入っている。
公園では建物や車を使って姿を隠せたが、今回は道路上で大型肉食恐竜と向き合っているため、身体の形や大きさまで撮られている可能性が高い。さらに数十メートル後方には、さきほど外したスポーツバッグと青い防水シートが置かれている。撮影範囲に入っているかまでは分からないが、もし恐竜の活動範囲のすぐそばに人間用の鞄と青いシートが置かれているところまで確認されれば、それだけでも十分に不自然だった。
男は荷物を諦めることを決めた。地図は惜しいが、また探せばいい。水もバッグも代わりは見つけられる。大型肉食恐竜から距離を作り、そのまま林へ逃げ込めるなら、ここへ戻る必要はない。
ところが、その判断を待つ理由など相手にはなかった。
大型肉食恐竜が頭を低くし、太い後肢へ力を込める。尾がわずかに持ち上がった時点で突進を察した男は、正面から少し身体を外し、左右どちらへも動けるよう重心を落とした。
次の瞬間、巨体が地面を蹴った。
見た目から想像していたより、はるかに速い。数十メートルあった距離が一気に縮まり、地面を打つ足音とともに巨大な頭部が迫ってくる。男は反射的に早く動きたくなるのを抑え、相手がこちらの進路変更へ対応しにくい距離まで待ってから横へ跳んだ。
直前まで首があった場所を巨大な顎が通り過ぎる。男は着地すると同時に身体を反転させたが、追撃はしなかった。相手も数歩先で速度を落として向き直り、再びこちらを正面へ捉える。
一度目を避けられたからといって、同じことを繰り返せるとは限らない。大型肉食恐竜はすぐには飛び込まず、男が先ほど跳んだ方向を確認するように頭をわずかに動かしてから、今度は身体を真正面ではなく少し斜めに向けた。速度を出し切るより、こちらの回避へ合わせて進路を変えやすい姿勢を取っているように見える。
(……学習した?)
そう考えた直後、大型肉食恐竜は間を置かずに二度目の突進へ移った。
最初ほどの速度ではない。その代わり、男が横へ動こうとした瞬間、大きな頭部も同じ方向へ追従した。一度目のように最後まで直進するつもりはなく、こちらの回避を見てから噛みつくつもりなのだと分かる。
上空ではドローンが旋回し、後方には地図の入ったバッグが残されている。そして目の前の捕食者は、たった一度の攻防からこちらの動きを学んでいた。
男は横へ跳びかけた脚を止め、迫ってくる巨体を見据えた。
同じ手は、もう通じない。