ぼちぼち本編再開します
去年の十二月、妹は終電を逃した。
大学の先輩の送別会が新宿であり、二次会のカラオケを出たときには八王子まで帰れる電車はもう残っていなかった。駅の表示板を見上げて、しばらく意味を考える。酒が入っていたせいもある。「最終」の二文字の横に並んでいるのは、どれも途中の駅までしか行かない電車だった。
タクシーで帰るには遠すぎる。親に電話をすれば、父が車を出すと言うに決まっている。日付が変わった時間から片道一時間近くかけて迎えに来させるのも嫌で、結局妹は中野まで行ける電車に乗った。兄が一人暮らしをしている駅だったからだ。
ホームへ降りてから連絡を入れた。スマートフォンの電池は八パーセントしか残っていない。
『終電なくなった。中野にいる』
返事は二分後に来た。
『まだ会社。三十分で行く。明るいところにいろ』
それだけだった。面倒くさいとも、何やってんだとも書いていない。そういうことは会ってから言うのが兄だった。
◇
三十分は思っていたより長かった。
改札を出て、北口の広場にあるベンチへ座った。十二月の夜で、吐く息が白い。人通りはまだあったが、ほとんどが駅から出てくるなり目的地へ向かい、足早に通り過ぎていく。
隣に知らない男性が座ったのは、五分ほど経ったころだった。
酒の匂いがした。最初は独り言だと思った。寒いね、とか、終電なくなっちゃったの、とか。返事をしないでいると、声が少しずつ近くなった。
「どこまで帰るの?」
妹は答えなかった。
「送ってあげようか。一人なの? ラインやってる? どこ住み? どしたん、話きこか? ちょっとだけだから」
テンプレなナンパセリフのオンパレードに、こんなやつ現実にいるのかと思いつつ立ち上がった。
走りはしなかった。走ったら追ってくるような気がしたからだ。早足で広場を横切り、通りの向かいにあるコンビニへ入る。自動ドアが閉まる直前に振り返ると、相手はベンチから腰を浮かせてこちらを見ていた。
店の中は明るかった。
レジには若い店員が一人いる。妹は雑誌の棚ではなく、レジから見える位置にある飲み物の棚の前へ移動した。心臓がまだ速い。大したことではない、と自分に言い聞かせる。声をかけられただけだ。触られたわけでも、追いかけられたわけでもない。
それから、やることを順番に片づけた。
充電器を買い、店員に断ってイートインの席にあるコンセントを借りた。電池が二十パーセントまで戻ったところで深夜バスの時刻を調べる。八王子駅まで行く便はなかったが、途中まで行けるものはある。駅前には朝まで開いている店もあった。
兄が来なくても、どうにかなる。
どうにかなるように、してしまった。
ガラスの向こうの広場をときどき確かめた。さっきのベンチには、もう誰も座っていない。どこへ行ったのかは分からなかった。
いなくなったことより、どこにいるのか分からないことのほうが少し嫌だった。
時計を見る。
連絡してから四十五分が過ぎていた。
◇
兄は走ってきた。
自動ドアが開き、冷たい空気と一緒に入ってきた顔は、十二月だというのに額に汗をかいていた。ネクタイは緩み、仕事用の鞄を脇に抱えている。店内を見回し、イートインの席にいる妹を見つけると、張っていた肩が一度大きく下がった。
妹はその顔を見た瞬間、ずっと力が入っていた背中がほどけるのを感じた。
だから、口から出たのはこれだった。
「遅い」
「……これでも駅から走ったんだけど」
「三十分って言った」
「電車が止まってたんだよ。誰かが線路に物を落としたとかで」
兄は息を整えながら、妹の前に置かれた充電器とスマートフォン、開いたままの深夜バスの時刻表を見た。
「何だ。もう自分で片づけてるじゃん」
「誰かさんが遅いから」
「じゃあ俺、来なくてよかった?」
「それは違う」
兄は少し笑った。
どうにかできることと、来てほしくないことは別だった。妹自身もうまく説明できなかったが、兄はそれ以上聞かなかった。
帰り際、兄はレジの店員に頭を下げた。
「すみません、妹が長居して。ありがとうございました」
店員のほうが驚いて、「いえ」と頭を下げ返している。妹は急に恥ずかしくなって、兄の袖を引いた。
「いちいち謝らなくていいって」
「席借りたんだろ」
「買い物したし」
「それとこれとは別」
兄は冷蔵の棚からコーラを一本取り、少し迷ってから温かいお茶をもう一本取った。何がいいかは聞かれなかった。
「私もコーラがよかった」
「お前、さすがに寒いだろ。温かいの飲め」
「お兄ちゃんはコーラなのに」
「俺は走って暑いから」
文句を言おうとして、やめた。
渡されたペットボトルが、手の中で思っていたより温かかったからだ。
◇
店を出て、広場を横切った。
妹は歩きながら、さっき座っていたベンチを見た。誰もいない。その向こうの暗がりにも、人影は見えなかった。それでも身体は無意識に兄のほうへ寄り、広場から遠い側を歩いていた。
兄は何も聞かなかった。
ただ、二、三歩進んだところで位置を入れ替えた。
黙って妹の外側へ回り、広場に近いほう、暗いほうを歩く。そのまま何事もなかったようにコーラの蓋を開け、一口飲んだ。
気づいたのかどうかは分からない。妹も言わなかった。
知らない人に声をかけられて怖かった、と口に出したら、大したことではなかったはずのものが本当に大したことになってしまう気がした。それに、言えば兄はきっと、もっと早く来られなくてごめん、と言う。そういう顔をさせたいわけではなかった。
だから代わりに別のことを言った。
「お兄ちゃんの部屋、汚い?」
「泊めてもらう側の質問じゃないだろ」
◇
兄のアパートは駅から歩いて十分ほどのところにあった。
鍵を開け、兄は誰もいない部屋に向かって言った。
「ただいま」
「幽霊でもいるの?」
「せめて同居人を疑えよ。癖だよ、ただの」
靴を脱ぎながら答える。
「言わないと、帰ってきた感じがしないんだよ」
妹は少し笑ってから部屋へ入った。
思っていたほど汚くはなかった。物は多いが、床はきちんと見えている。机の上には旅行雑誌が開いたまま置かれ、温泉宿の写真に何枚か付箋が貼られていた。
「温泉行くの?」
「行きたいんだよ。休みが取れたら」
兄は上着を脱ぎながら答えた。
「千人入れるでかい風呂があるところがあるらしい」
「千人と入りたいの?」
「千人は入ってこないだろ。たぶん」
「じゃあ何で千人入れる必要あるの」
「知らないよ。でかい風呂って、それだけでちょっと入りたくなるだろ」
「ならない」
「そうか」
兄は少し残念そうだった。
妹はタオルを借りようとして、壁際の棚の扉に手をかけた。その瞬間、兄が動いた。
仕事帰りで、駅から走ってきて、疲れ切っているはずの人間とは思えない速さだった。妹の手と棚の間へ身体ごと割り込んでくる。
「そこは開けなくていい」
「タオル貸して」
「タオルは洗面所。そこは、開けなくて、いい」
「……何が入ってるの」
「何も入ってない」
「何も入ってない棚を、そんな顔で守る?」
「いいから洗面所行け」
妹は笑いながら洗面所へ向かった。それ以上は追及しなかった。兄にも、言わないことがあっていい。
その夜は兄のベッドを借りた。兄は床に寝る場所を作り、「面倒くさいな」と言いながら、妹の枕元に水の入ったコップを置いた。
「何が面倒くさいの」
「自分以外の世話」
「遅刻したくせに」
「まだ言う?」
「三十分って言った」
「根に持つなあ」
兄が呆れたように笑った。
それを見てから、妹は目を閉じた。
◇
翌朝、母から電話があった。
兄が出た。寝癖のついた頭のまま、スマートフォンを耳へ当てている。
「はい。うん、うちに泊めた。大丈夫。ちゃんと送っていくから」
妹はベッドの中からその背中を見ていた。
「うん。ごめん。心配かけた。……はい、すみません」
兄は電話をしながら頭を下げていた。
相手は母で、しかも電話なのだから、見えるはずがない。それでも「すみません」と言うたびに、律儀に首が動く。
「見えてないよ」
妹が言うと、兄はスマートフォンを耳に当てたまま振り返った。何が、とでも言いたげな顔だった。自分では気づいていないらしい。
「何でもない」
妹は布団へ戻った。
◇
兄がいなくなってから、妹はあの夜のことを何度か思い出した。
終電を逃したことも、知らない人に声をかけられたことも、今となっては細かいところまで覚えているわけではない。それでも、コンビニの自動ドアが開いたときの冷たい空気と、走ってきた兄の額に浮かんでいた汗だけは、妙にはっきり残っていた。
兄が来るまでの四十五分、自分は一人でもどうにかできた。
充電器を買った。帰る方法を調べた。明るい店の中にいて、店員から見える場所を選んだ。兄が来なかったとしても、朝まで安全に過ごす方法くらいは見つけられたと思う。
それでも、自動ドアの向こうに兄の顔が見えた瞬間、安心した。だからお礼を言っておけばよかったとは、なぜかあまり思わない。怖かったと言えばよかった、とも思わない。
もう一度同じことがあっても、自分はきっと同じ顔をして、同じことを言う。
遅い、と。
だから早く、言わせてほしかった。
断章17 遅いよお兄ちゃん 了
準備していたエピソードと、過去のエピソードに相違が無かったため、修正不要となりました。
なので、投稿再開は一日前倒しして10/31(土)の12時からといたします。
「さて、ここからはクライマックスに向けて、ハードな展開が待っているかも。このお話を最後まで見届けてね」