なんで過去の話の設定と確認が必要だったか、理由はおいおいわかるかと思います。
午後九時。立川の臨時対策本部の一角に、机が三つ寄せ集められていた。
その上に、見慣れない機械が並んでいた。
「これが、衛星通信型の位置発信機です」
三枝が手のひらほどの黒い箱を持ち上げた。分厚いゴムの外装に覆われていて、角が丸く削られている。
「本来は、山岳救助で利用するやつです。電池は省電力モードで三週間。山の中でも、空が見えてれば位置が飛んできます」
「頑丈さは」
榊原が訊いた。
「車に轢かれても壊れなかった、ってメーカーは言ってます。恐竜に踏まれたらどうなるかは分かりません」
「踏まないだろ、あいつは」
榊原はそう言ってから、自分の言葉に少し驚いたような顔をした。
御門はその箱を手に取って、何度も裏返した。それから、机の上に置いてあった別の部品を引き寄せた。三枝が夕方から倉庫を回って集めてきたものだった。
「問題は、ここからです」
御門は箱の表面を指さした。小さなボタンが一つついている。
「救難信号のボタンです。押せば、こちらに知らせが来ます。でもこのままでは、あの爪では押せません。小さすぎるし、硬すぎる」
「じゃあ、どうする」
「大きくします」
御門は机の上に、赤と青の、直径五センチほどの丸い部品を二つ並べた。工事現場の重機についている、非常停止用のボタンだった。
「赤を押せば救難信号。青を押せば無事の信号。二つを、この発信機につなげます」
「二つも要るのか」
「要ります」
御門は迷わずに言った。
「一つだけなら、押したか押さないかしか分かりません。でも二つあれば、答えを選べます」
榊原と岳が顔を見合わせた。
「こっちから、何か訊けるってことですか」
岳が言った。
「はい。この発信機は、こちらから信号を送ることもできます。受け取ると、短く振動して音が鳴る。たとえばこちらから、無事ですか、と訊く。向こうが青を押せば、はい。赤を押せば、助けが要る」
「……それ、向こうがこっちの質問を分かってなきゃ、成り立たないだろ」
御門は静かに頷いた。
「成り立たなければ、ただの位置発信機です。それでも無駄にはなりません。成り立てば」
御門はそこで言葉を切った。
「成り立てば、私たちは、あの恐竜と初めて会話ができることになります」
しばらく誰も何も言わなかった。
「……使い方、どうやって伝えるんです」
岳が訊いた。
御門は、机の端に置いてあったラミネート加工のカードを二枚取り上げた。三枝のプリンターで、ついさっき刷ったものだった。
一枚目には、大きな文字でこう書いてあった。
あお = ぶじです。はい。
あか = たすけてください。いいえ。
ぶるっとふるえたら、こちらからの、しつもんです。
二枚目は、同じ内容を漢字を交えて書いたものだった。
「ひらがなと漢字の両方を用意しました。どちらが読めるのか分からないので」
「……鞄の字は、ひらがなでしたね」
岳が言った。
「ええ。でも自販機で、迷わずにコーラのボタンを押していました。あの自販機の表示は、カタカナと漢字です」
岳はカードをしばらく眺めていた。
「先生、これ相手が人間だったら、すごく失礼な文面じゃないですか。小学生向けみたいで」
御門は少しだけ目を伏せた。
「そうかもしれません。……でも相手が何者でも、伝わらないよりは、失礼なほうがいい」
◇
「そんで、その通信機兼発信機はどこにつける」
榊原が言った。
「首輪にするか。それとも、脚あたりが一般的な四足動物へのアプローチとしてはよくあるが」
「首輪はやめましょう」
御門は即座に言った。
「あの恐竜が、私たちの考えているような存在なら、首輪は侮辱になります。飼われている動物の印ですから」
「じゃあ、どこに」
御門はスマートフォンを開いて、一枚の写真を見せた。那須の自動販売機の前で撮られた、有名な映像の切り抜きだった。黒い恐竜の肩から、大きなスポーツバッグが下がっている。
「彼は、ずっとこの鞄を持ち歩いています。中身が何なのかは分かりませんが、四か月近く一度も手放していない。地図など旅に必要なものが入っているのではないかと、私は考えています」
「その鞄の肩紐に付けると」
「はい。肩紐に外れないように固定する。ボタンは前肢の届く位置に。自分の持ち物として、身につけてもらう」
三枝が小さく息を吐いた。
「……先生、もう完全に、人として扱ってますね」
「扱っていません」
御門はそう答えてから、少しだけ黙った。
「……扱いたい、とは思っていますが」
◇
午後十時を過ぎたころ、対策本部の扉が開いた。
入ってきたのは、白髪まじりの短髪の、がっしりとした体格の人物だった。分厚いダウンジャケットの下に作業着を着込んでいる。両手に大きな金属製のケースを二つ提げていた。
「日下部先生」
御門が立ち上がって頭を下げた。
「急にお呼び立てして、すみません」
「すみませんで済むか。クリスマスイブの夜に、孫とケーキ食ってるところを呼び出されたんだぞ」
日下部はケースを床に下ろしながら、ぶっきらぼうに言った。
大型動物専門の獣医だった。牛や馬だけでなく、もう二十年以上、人工恐竜の治療にも携わってきたという。御門がどうしてもと頼み込んで、来てもらったのだった。
「話は電話で聞いた。体長一メートルの小型草食種。爪で脇腹から背中を三本。出血多量。受傷から、もう六時間以上か」
「はい」
「正直に言うぞ」
日下部は御門の顔をまっすぐに見た。
「その傷で、治療なしに六時間。小型種の体力を考えたら、峠に着くころには死んでてもおかしくない」
御門は何も言わなかった。
「それでも行くんだな」
「行きます」
「……だろうな。あんたはそういうやつだ。あんた以外からの依頼なら断ってたぞ、ったく。これでこの前の借りはチャラだぞ」
日下部はケースの一つを開けた。中には縫合用の器具と輸液のバッグと、何本もの薬瓶が、ぎっしりと詰まっていた。
「麻酔は、小型草食種用に体重を見て調整する。輸液は多めに持っていく。現地で処置できなきゃ、車の中で応急処置をして、そのまま俺の病院まで運ぶ。それでいいな」
「お願いします」
「それから」
日下部はもう一つのケースに手を置いた。
「こっちは、黒いほうのだ」
御門が顔を上げた。
「首から肩を牙でやられてたって聞いた。あの映像を見る限り、相当深い。四メートル級の肉食種に、麻酔なしで近づいて傷を診るなんて、正気の沙汰じゃないが」
日下部はそこで初めて、少しだけ口元を緩めた。
「……あんたが話が通じるかもしれないって言うなら、一度くらい、正気じゃないことをしてみてもいい」
この筋金入りの変人が、恐竜と関わる生業を捨てる覚悟で挑む博打だ。
命をかける理由なんて、それだけで十分だった。
◇
出発は午前四時と決まった。
御門は地図の上で、何度も距離を測り直した。八王子から柳沢峠まで、山を伝っていけば直線でも五十キロを超える。四メートルの身体でも、首に深い傷を負い、小さな個体を抱えたままでは、夜のうちに着けるはずがない。早くても夜が明けてからになる。
「今から行っても、雪の峠で凍えて待つだけだ」
日下部がケースの中の薬瓶を数えながら言った。
「俺の病院から、追加の輸液と抗生剤を取ってくる。向こうに着いてから足りませんじゃ、話にならん。三時間くれ。……それと、あんたらはその間に少しでも寝ろ。徹夜明けの頭で、四メートルの肉食恐竜の前に立つ気か」
榊原は書きかけの報告書の束を見下ろして、黙って頷いた。
夜明け前に峠に着いて、待つ。それが一番確かな方法のはずだった。
午後十一時を過ぎたころ、三枝が道路情報の画面から顔を上げた。
「……先生。山沿いは、これから朝にかけて大雪の予報です。国道四一一号は、雪が降り出したら塩山側も丹波山側も通行止めになる見込みで。除雪が入るのは、早くても朝六時だそうです」
御門の手が止まった。
「チェーンを巻いても、除雪車の後ろについていくしかありません。峠に着くのは、たぶん日が出てから」
「……向こうのほうが、先に着くかもしれない、ということですね」
誰も答えなかった。
首に深い傷を負った四メートルの恐竜が、死にかけた小さな命を抱いて、誰もいない雪の峠で、来るかどうかも分からない人間を待っている。その光景を、全員が同じように思い浮かべていた。
「カメラは、私が見てます」
三枝が静かに言った。
「着いたら、すぐに知らせます。……だから皆さんは、少しでも寝てください」
車は二台。一台目に岳と榊原と御門。二台目に日下部と、病院から連れてきた若い助手と、処置用の機材。三枝は本部に残って、発信機の信号と柳沢峠の道路カメラの映像を見張る。
「銃は持っていくぞ」
榊原がライフルのケースを車に積み込みながら言った。
「榊原さん」
「勘違いするな。あいつに向けるためじゃない」
榊原はケースの留め金を確かめた。
「冬の山だ。何が出てくるか分からん。それに、例の未登録の大型が、本当に北にいるとも限らん。……あいつがあの小さいのを抱えて、傷だらけで峠に来たときに、ほかの何かに襲われたら、誰が守る」
岳は何も言わずに、自分のライフルのケースも積み込んだ。
御門は机の上の発信機を、もう一度手に取った。赤と青の大きなボタンが、蛍光灯の光を受けて光っていた。ラミネートのカードがその横に重ねてある。
ひらがなの一枚目の一番下に、御門はさっき、自分の手で一行を書き足していた。
まっています。
それだけだった。
◇
同じころ、八王子市内の病院の、四人部屋の一番奥のベッドで、妹は天井を見ていた。
腕と肩に包帯が巻かれている。痛み止めが効いていて、傷はあまり痛まなかった。眠れなかった。目を閉じると、黄色い目と、赤く染まった黒い身体が、交互に浮かんできた。
カーテンの向こうで足音がした。
屋内退避の指示が解けたのは、午後九時を過ぎてからだった。それでも道路はまだどこも渋滞していて、規制線もあちこちに残っていた。病院から連絡を受けた両親が、家からここへたどり着くまでに二時間近くかかったのだという。
カーテンが開いて、父が立っていた。その後ろに母がいた。
母はマスクをして、毛布のようなストールを肩に巻いていた。顔はまだ熱で赤かった。それでも自分の足で立っていた。
「お母さん、熱は大丈夫?」
「下がったわよ。少しはね。倒れるほどじゃないわ」
母はそう言って、ベッドの脇に駆け寄った。それから何も言わずに、妹の身体を抱きしめた。包帯の巻かれた腕に気をつけるように、そっと。けれど離さないように、強く。
熱っぽい体温がパジャマ越しに伝わってきた。
「よかった……よかった……無事で」
母の声が耳元で震えていた。
妹は母の背中に、包帯の腕を回した。あの路地で、ずっとこうしてほしかったのだと、今になって気づいた。涙が勝手に溢れてきた。
父はベッドの足元に立ったまま、動かなかった。
両手を握りしめて、じっと娘と妻を見ていた。その肩が小刻みに震えていた。
「……お父さん」
妹が母の肩越しに父を見た。
「泣いてる」
「泣いてない」
「泣いてるじゃん」
「……泣いてない」
父は顔を背けた。その頬を、一筋、光るものが伝っていった。
◇
しばらくして、母はベッドの脇の椅子に腰を下ろした。父が廊下の自販機で買ってきた温かいお茶を、三人分サイドテーブルに並べた。
サイドテーブルの上には、もう一つ置いてあるものがあった。
紺色の鞄だった。肩紐が千切れ、布地が大きく裂けている。看護師が何度も預かろうとしたのに、妹がどうしても手元に置いておきたいと言って譲らなかったものだった。
父がそれに気づいた。
鞄の表の、歪んだ四つの文字に。
「……何だ、これ」
妹は少しだけ迷った。
しばらく、ほかの人には見せないでほしい。あの研究者はそう言った。けれどこの二人は、ほかの人ではなかった。
妹は鞄を手に取って、両親のほうへ向けた。
「あの黒い恐竜が、書いていったの。私の目の前で。爪で」
母がストールの端を握りしめた。父は黙って文字を見つめていた。
た、だ、い、ま。
「……お母さん、お父さん」
妹は鞄を膝の上に置いた。
「変なこと言っていい?」
両親は何も言わなかった。言わなくても、娘が何を言おうとしているのか分かっているような顔だった。
「あの恐竜ね、私のこと、見てたの。灰色のやつを倒して、ぼろぼろになって、こっちを向いたとき。私、すごく怖くて。食べられると思って、震えてて。そしたら、あの恐竜、すごく……すごく、傷ついたみたいな目をしたの」
妹は鞄の文字を指でなぞった。
「あの目、知ってるの。昔、私がお兄ちゃんと喧嘩して、大っ嫌いって言ったときと、同じ目だった」
病室の空気が静かになった。
「それに……お兄ちゃん、いなくなる前に、私に言ってたの。仕事で疲れたし、温泉にでも行きたいって」
母が小さく息を呑んだ。
「温泉恐竜、なんて呼ばれてるじゃない。あの恐竜。山形で、温泉に浸かってるところを撮られたからなんだって。そのあとも、栃木でも、福島でも、温泉に入ってるところ、何回も撮られてて」
「……あいつ」
父が低い声で言った。
「温泉なんて、ほとんど行ったこともなかったのにな」
母がストールで口元を押さえた。肩が震えていた。
「ありえないって、分かってる」
妹は自分に言い聞かせるように言った。
「人間が恐竜になるなんて、ありえない。でも……でも、ただいまって、書いたんだよ。私の鞄に。わざわざ。あんなにぼろぼろになって、小さい子を抱いて、逃げる前に。ただいまって」
父は長いあいだ、何も言わなかった。
それからベッドの脇に膝をついて、鞄の文字にそっと指を触れた。
「……前に、言ったよな」
父の声がかすれていた。
「帰ってきたら、まず、四か月どこにいたのか説明させるって」
「……うん」
「それから、説教だって」
「……うん」
「説明なんか、いらん」
父は鞄の上で拳を握りしめた。
「説教も、いらん。……帰ってきてたんだな。あいつ。ここまで。家の、すぐそばまで」
その声が途中で崩れた。
母が父の背中に手を置いた。それから、もう片方の手を鞄の上に重ねた。四つの文字の上で、二つの手が震えていた。
「……おかえりって、言えなかったわね」
母がぽつりと言った。
「せっかく、ただいまって言ってくれたのに。誰も、おかえりって言ってあげられなかった」
妹は唇を噛んだ。
あの路地で、自分は怖がっていた。ただいまを書いている兄の前で、震えて、泣いて、遠ざかろうとしていた。兄はそれを全部見ていた。
「……ごめん」
妹の目から涙がこぼれた。
「私、怖がっちゃった。お兄ちゃんだったのに。私、お兄ちゃんのこと、すごく怖がっちゃった……」
「いいのよ」
母が妹の頭を、自分の胸に引き寄せた。熱っぽい手のひらが髪を撫でた。
「怖くて当たり前よ。あなたは何も悪くない」
「でも……」
「今度は、言ってあげればいいの」
母の声は震えていた。けれどその腕には、少しの迷いもなかった。
「今度、あの子が帰ってきたら。どんな姿でも。三人で、ちゃんと、おかえりって言ってあげればいいの」
父が顔を上げた。目が真っ赤だった。
「……ああ」
父は何度も何度も頷いた。
「言ってやる。今度は、ちゃんと言ってやる」
病室の窓の外で、雪が降り始めていた。
十二月二十四日の夜が、もうすぐ終わろうとしていた。どこか遠くの山の中を、黒い恐竜が小さな命を抱いて、血を流しながら歩き続けているはずだった。
三人は紺色の鞄を囲んだまま、いつまでもその窓の外を見ていた。
雪はいつまでも降りやまなかった。
第45章 おかえりの準備 了
こんな発信器が存在するかは知らないけど、あるということでひとつよろしく。
18時と21時にも投稿予定です。