丘陵の尾根に出たところで、男はようやく足を止めた。
振り返ると八王子の街が見えた。夕闇の底に無数の灯りが滲んでいる。その間を、赤色灯がいくつもゆっくりと動いていた。救急車だろうか。警察だろうか。どの灯りもあの通りの近くに集まっているように見えた。
あの通りのどこかにあの路地がある。
男は目を逸らした。
胸の中で二号が小さく身じろぎした。
血はまだ止まっていなかった。抱き上げたときから、男の前肢と胸の鱗は二号の血でずっと濡れている。脇腹から背中にかけて走る三本の爪痕は深かった。小さな身体が息をするたびに、そこからじわりと新しい血が滲み出してくる。
男自身の首の傷もまだ熱く脈打っていた。けれど、構っている余裕はなかった。
二号の身体が冷たくなり始めていた。
(……まずい)
人間だったころの知識が頭の奥から浮かび上がってきた。どこで覚えたのかも思い出せない、切れ切れの知識だった。
血を失えば身体は熱を作れなくなる。熱を作れない身体は、外の寒さにあっという間に負ける。冷えた身体はさらに力を失い、もっと冷えていく。
そうやって坂道を転がり落ちるように命は削れていく。
十二月の山だった。日が落ちれば気温は氷点下まで下がる。風の中に雪の匂いが混じり始めていた。
このままでは、朝まで持たない。
男は二号を自分の腹と前肢の間に深く抱え込んだ。風の来る側へ背中を向ける。四メートルを超える身体の、一番温かい場所。そこに小さな身体を押し当てて、せめて体温を分けようとした。
二号の喉がかすかに鳴った。
ぴ、と。
一度だけだった。
◇
山梨の柳沢峠。
あの研究者の声が耳の奥に残っていた。路地の奥から、叫ぶように投げかけられた声。
――私は恐竜の研究者です。御門といいます。
――あなたに、もし、言葉が分かるなら。
――その子を、助けられるかもしれない。
信じていいのか分からなかった。
罠かもしれない。峠に行けばハンターたちが銃を構えて待っているのかもしれない。麻酔銃で眠らされ檻に入れられ、どこかの研究所へ運ばれるのかもしれない。今日、自分はあの路地であれだけのことをしたのだ。駆除されても文句は言えなかった。
けれど。
男は胸の中の小さな身体を見下ろした。
二号を助けられるのは自分ではない。自分には傷を縫う手がない。薬もない。温かい部屋もない。この爪にできるのは壊すことだけだ。今日、それを思い知った。
助けられるかもしれない人間が来いと言っている。
それなら行くしかなかった。
男は尾根の上で地図を思い浮かべた。スポーツバッグの中の観光地図は何度も見返して、ほとんど頭に入っている。八王子から西へ。山をつないで相模川を越え、県境を越え、大月の北を抜けて、甲州市の山の中へ。柳沢峠は、その先にあった。
遠かった。人間の足なら二日はかかる。車でも一時間半はかかる道のりだ。この身体なら、明日の朝までにはきっとたどり着ける。
たどり着かなければならなかった。
ほかに目指す場所も、助けを求める先も男には分からなかった。
目の前のこの一本の道のほかに、縋れるものは何もなかった。
男は歩き出した。
◇
夜の山は静かだった。
その静けさの中で頭の中だけがうるさかった。
灰褐色の首を顎で噛み砕いた感触が、牙の根元に残っている。骨の砕ける音が何度も何度も耳の奥で鳴り直した。壁に叩きつけた衝撃。前肢で引き裂いた肉の感触。口の中に満ちた、鉄の味。
あのとき自分は何を考えていたのだろう。
思い出せなかった。何も考えていなかったのだ。赤く染まった世界の中で、ただ目の前のものを壊し続けていた。相手がとっくに動かなくなっていることにさえ、気づかなかった。
あれは自分だったのか。
それともこの身体の中にいる、何か別のものだったのか。
(……俺は、まだ、俺なのか)
分からなかった。
青森の山の中で目覚めてから四か月。自分は人間だとずっと思ってきた。恐竜の身体の中に、人間の自分がいるのだと。だから人を襲わない。だから人を助ける。だから、家に帰る。
けれど、あの路地で灰褐色を引き裂いていたのは人間ではなかった。
妹の目が浮かんだ。
段ボールに背中を押しつけ少しでも遠ざかろうとしていた。かちかちと鳴る歯。頬を伝う、一筋の涙。
兄を見る目ではなかった。怪物を見る目だった。
男は足を止めた。
胸が締めつけられた。首の傷よりも、ずっと深いところが痛んだ。
当たり前だ。妹は何も知らない。目の前にいたのは、同じ肉食恐竜を無残に引き裂いたばかりの、血まみれの怪物だったのだ。怖がらないほうがおかしい。
分かっている。分かっていても、あの目が頭から離れなかった。
それでも、ただいま、と書いた。
あの鞄に。妹の目の前で。
恐竜が爪で引っかいた、歪んだ四文字。伝わるはずがない。気味が悪いと思われるだけかもしれない。それでも、書かずにはいられなかった。
四か月かけて、家のすぐそばまで帰ってきたのだ。玄関の扉を開けることもできないまま、また出ていく。だから、せめて一言だけ。
ただいま。
帰ってきたよ。
ちゃんと、ここまで、帰ってきたんだよ。
(……帰ってきたのに、な)
男はまた歩き出した。
◇
相模川を越えるとき、男は橋を使わなかった。
橋には灯りがあった。車が通っていた。人の目があった。
代わりに川幅の狭くなる場所を探して、暗い川面を見下ろしながら尾根伝いに何キロも遡った。
遡るほど峠からは遠ざかる。分かっていても、ほかに道はなかった。
ようやく見つけた浅瀬で、男は二号を胸の前に高く抱え上げた。
水に足を入れた。
冷たいという言葉では足りなかった。刺すようなという言葉でも足りなかった。浸かった瞬間、後肢の感覚が根元から抜け落ちていくようだった。鱗の隙間から骨の芯まで、冷たさが一気に流れ込んでくる。
膝の下までの深さだった。それだけで、身体中の熱が足元から吸い出されていくのが分かった。
(これ、全身で浸かったら)
考えたくもなかった。
水は空気よりずっと速く熱を奪う。人間だったころ何かで読んだ。冬の海に落ちれば泳げる人間でも数分で動けなくなる。
この身体でも同じだ。いや、首の傷で血を失っている今はもっと速い。
そして胸の中の二号は。
男は二号をさらに高く抱え上げた。水しぶき一つかからないように。濡らしたら終わりだ。冷えかけた小さな身体を一度濡らしたら、もうどうやっても温め直せない。
足の下で川底の石がぬるりと滑った。男は爪を立ててどうにか踏みとどまった。
対岸までの十数メートルが、ひどく長かった。
岸に上がったとき、後肢は自分のものではないようだった。がくがくと震えて、うまく踏ん張れない。男は岩陰に身体を丸め二号を腹の下に抱え込んだまま、しばらく動けなかった。
二号の身体は濡れていなかった。
それだけが救いだった。
◇
日付が変わるころ雪が降り始めた。
最初はちらちらと舞うだけだった。それが一時間もしないうちに本降りになった。木々の枝を白く染め、地面を覆い、やがて男の背中の鱗の上にも降り積もった。
男は歩き続けた。
首の傷が熱を持っていた。一歩踏み出すたびに、鈍い痛みが脈打つように広がる。灰褐色の牙は思っていたより深く入っていたのだ。
時々、視界が暗くなった。足がもつれた。木の幹に肩をぶつけてかろうじて倒れずに済んだことが何度もあった。
息が切れる。血が足りないせいか、いくら吸っても、身体に酸素が巡っていかない。地上で息をしながら、溺れかけている。そう気づいたとき、堤防に打ち上げられて死を待つ魚の姿が脳裏をよぎった。
尾根の切れ目から、遠くに街の灯りがひとかたまり見えた。地図を思い浮かべる。あれはたぶん上野原だ。
まだ、半分も来ていなかった。
男は灯りから目を引き剥がして前を向いた。
大月の北の山を越えるころ硫黄の匂いがした。
谷のどこかに湯が湧いているのだ。
男の足が止まった。
身体の奥がざわついた。いつものざわつきだった。湯に入りたい。この冷えきった身体を、温かい湯に沈めたい。首の傷も凍えた後肢も全部湯の中で溶かしてしまいたい。
二号も温めてやれる。
そう思った。
思ってから首を横に振った。
(駄目だ)
湯に入れば身体は温まる。けれど温まった身体は、血の巡りがよくなる。二号の傷は、まだ塞がっていない。ようやく弱まってきた出血がまた溢れ出すかもしれない。
それに湯から上がった瞬間。
濡れた身体でこの雪の中に出ればどうなるか。さっきの川で思い知ったばかりだった。
温泉は救いにはならない。
今夜は毒だった。
男は硫黄の匂いに背を向けた。
身体の奥のざわつきが抗議するように強くなった。それを無理やり押さえつけた。いつもなら、匂いを嗅いだだけで足が勝手に向いてしまうのに。今夜だけは、従うわけにはいかなかった。
(……行かないぞ。今日は、行かない)
胸の中の二号が、また、かすかに鳴いた。
ぴ、と。
それから、もう一度。
ぴ。
弱々しく、間延びした、ほとんど息のような音だった。けれどいつもの鳴き方だった。
ここにいる、と。まだ生きていると、叫んでいた。
男の喉が熱くなった。
(……ああ。分かってる。俺も、ここにいる)
男は喉を鳴らした。短く一度。ひと呼吸おいてもう一度。少し低すぎて少し長すぎる、下手くそな二号の真似だった。
二号の身体がほんの少しだけ、男の胸に押しつけられた。
◇
夜明け前が一番寒かった。
雪は小降りになっていた。その代わり、風が強まった。尾根を越えるたびに、横殴りの雪が顔を叩く。男は二号を抱えた前肢を胸にぴったりと押しつけたまま、背中で風を受けて歩いた。
もう、頭の中はうるさくなかった。
何も考えられなくなっていた。灰褐色のことも妹の目のことも自分が何者なのかということも。ただ一歩前に足を出す。もう一歩。胸の中の重さを落とさないように。冷やさないように。
時々、家族の顔が浮かんだ。
父の顔。母の顔。妹の顔。こたつの上のみかん。くだらないテレビ。玄関の扉を開けたときの、夕飯の匂い。
浮かんでは雪の中に消えていった。
一度、本当に倒れた。
足がもつれ、雪の斜面に横倒しに倒れ込んだ。前肢だけは胸から離さなかった。二号を雪から守るように自分の身体の上に抱え込んだまま倒れた。
起き上がれなかった。
首の傷からまた温かいものが流れ出していた。それが雪の上で、すぐに冷たくなっていくのが分かった。
(ここで、寝たら)
寝たら、もう起きられない。自分も、二号も。
分かっていた。分かっていても瞼が重かった。雪が柔らかかった。少しだけ。ほんの少しだけ、目を閉じても――。
胸の上で二号が動いた。
小さな頭が男の顎の下に潜り込んでくる。鼻先が喉元に押しつけられた。冷たい鼻先だった。その奥からかすかな息が男の鱗に当たっていた。
生きている。
この小さな身体は、まだ、生きようとしている。
男は目を開けた。
雪の中で後肢を突っ張る。首の傷が裂けるような痛みが走った。構わなかった。前肢で二号を抱えたまま、後肢だけで雪を蹴った。一度。二度。三度目で、身体が持ち上がった。
男は立ち上がった。
二号を胸に抱え直した。
そしてまた歩き出した。
◇
空が白み始めたころ、雪は止んでいた。
山の向こうから薄い光が差し込んでくる。枝に積もった雪がその光を受けて、淡く輝いていた。
その光の中に道路が見えた。
山の斜面を縫うように、曲がりくねって登っていく二車線の道。路面は夜の雪で真っ白に覆われ、轍は一本もなかった。
道路の脇に看板が立っていた。雪がこびりついて文字は半分しか見えない。それでも、読めた。
柳沢峠。
男は道路へ降りていった。
峠の頂上の、少し開けた場所に、金属の柱が一本立っていた。柱の先には小さな箱のようなものが取りつけられていて、そのレンズが道路を見下ろしている。
道路のカメラだった。
男はその前で足を止めた。
膝が勝手に折れた。巨体が雪の上に崩れるように座り込む。首の傷からまた血が滲み、白い雪の上に、赤い点がいくつも落ちた。
男は胸の中の二号を見下ろした。
目を閉じていた。
男は息を止めてその胸を見つめた。
一拍。二拍。
小さな胸がかすかに上下した。
男は顔を上げカメラのレンズをまっすぐに見た。
それからゆっくりと頭を下げた。これまで人と向き合うたびに、そうしてきたように。
(……来たぞ)
レンズの向こうに誰がいるのかは、分からなかった。誰かが見ていてくれるのかどうかも。
(言われた通り、来た。……だから)
男は二号をカメラのほうへそっと差し出すように抱え直した。
(こいつを、助けてくれ)
朝の光を受けて雪がきらきらと瞬いていた。
峠にはまだ誰もいなかった。
第46章 こぼれゆく命 了