朝起きると、庭が白くなっていた。
夜のうちに降った雪が、植木鉢の縁にも物干し竿にも、こんもりと積もっている。老婆は縁側の窓を少しだけ開けて、冷たい空気を吸い込んだ。昨日の夕方まであれほど鳴り続けていたサイレンの音は、もう聞こえなかった。
昼前に玄関のチャイムが鳴った。
「ばあばー!」
扉を開けた途端、小さな身体が腰にしがみついてきた。二年ぶりの孫だった。背がずいぶん伸びていた。その後ろで、娘が泣き出しそうな顔で立っていた。
「お母さん、大丈夫だったの。昨日、ニュース見て、電話も全然つながらなくて」
「大丈夫よ。ほら、ぴんぴんしてる」
老婆は膝の擦り傷を隠すように、スカートの裾を直した。
こたつに入ると、孫はすぐにきょろきょろと周りを見回した。
「ばあば、みかんは?」
老婆は少しだけ困った顔をした。袋いっぱいに買ったみかんは、昨日、商店街の入口に全部散らばってしまった。拾いに戻ることなど、できるはずもなかった。
それから思い出した。
彼女は壁にかけてあったコートのポケットに手を入れた。指先に丸くて冷たいものが触れた。
「はい。これしかないんだけどね」
こたつの天板の上に、みかんを一つ置いた。
皮に小さな傷がついていた。少しへこんで、形もいびつだった。昨日ばあばが転んだときも、ドラッグストアの奥で震えていたときも、ずっとポケットの中にあったみかんだった。
孫はそれを両手で持ち上げて、しげしげと眺めた。
「一個だけ?」
「一個だけ。ごめんね」
「いいよ。半分こしよ」
孫は小さな指で、一生懸命に皮をむき始めた。むいた皮が、こたつの上にぽろぽろと落ちていく。老婆はじっとその指先を見ていた。
見ているうちに視界がにじんだ。娘が隣で、黙って老婆の背中に手を置いた。
「はい、ばあばの分」
差し出された半分のみかんを、彼女は両手で受け取った。
甘かった。これまでのどのみかんより、甘かった。
◇
病室の窓から朝日が差し込んでいた。
ベッドの上で、祖母は点滴の管を腕につけたまま、上半身を起こしていた。顔色は昨日よりずっとよかった。昨夜遅くにようやく病院にたどり着いて、そのまま緊急で透析を受けたのだ。医者には、あと半日遅れていたら危なかったと言われた。
青年はベッドの脇のパイプ椅子で、一晩を明かしていた。首が痛かった。目の下にくっきりと隈ができていた。
「……あんた」
祖母が口を開いた。
「昨日、車の上にあれが乗ってきたとき。ちゃんと言われた通りに、顔上げないで伏せてた。偉かったよ」
「……偉くなんか、ないよ」
青年は膝の上で拳を握った。
「俺、パニックになって、アクセル踏んで。あれ、たぶん俺のせいで寄ってきたんだ。俺があんな音立てなきゃ。ばあちゃん、死ぬとこだったんだぞ。俺のせいで」
「でも、死ななかった」
祖母は点滴のついていないほうの手を伸ばして、青年の拳の上に重ねた。昨日、車の中でそうしたのと同じ手だった。皺だらけで、少し冷たくて、それでも少しも震えていなかった。
「あんたが迎えに来てくれなかったら、ばあちゃん、家で一人でどうなってたか分からないんだよ。あんな日に、誰が送ってくれるの。あんたしか、いなかったんだよ」
青年の拳が震えた。
「病院まで連れてきてくれて、ありがとう」
その一言で、何かが切れた。
昨日、車の中で牙を見たときも。救急車がいつまでも来なかったときも。病院の廊下で医者の話を聞いていたときも。一度も涙は出なかった。泣いている場合ではなかった。
青年は祖母の手を握りしめて、声を上げて泣いた。
祖母は空いているほうの手で、孫の頭をゆっくりと撫でていた。
「……顔上げても、いいよ。もう」
◇
玄関の鍵が回る音で、少女は目を覚ました。
リビングのソファで、毛布にくるまったまま眠ってしまっていたのだ。テレビはつけっぱなしだった。時計を見ると、朝の七時を過ぎていた。
玄関の扉が開く音。靴を脱ぐ音。重たい足音が廊下を近づいてくる。
少女は跳ね起きた。
リビングの扉が開いて、父が立っていた。
制服の上着は泥だらけで、袖が少し裂けていた。帽子はなくなっていた。白髪まじりの髪がくしゃくしゃに乱れていた。目の下がどす黒く窪んでいた。一晩中、立ちっぱなしだったのだろう。
父はソファの上の娘を見て、少し驚いたような顔をした。
「……起きてたのか」
少女は何も言えなかった。
昨日ベランダで、ずっと見ていた。スマートフォンの画面越しに。人を路地へ押し込む父を。電柱の陰で小さな子供を抱えていた父を。帽子が飛んで、思っていたより白髪が多かった父を。
今度は、ちゃんと言うから。
昨日そう決めたのだった。ベランダの柵にしがみついて、泣きながら。
「……お」
声が喉に引っかかった。
中学に入ってから、父の顔をまっすぐ見たことがなかった。話しかけられても、別に、とか、うん、とかしか言わなかった。いってらっしゃいも、おかえりも、もう何年も言っていなかった。どうやって言えばいいのか分からなくなっていた。
父は黙って上着を脱ぎ始めていた。娘が何も言わないのは、いつものことだと思っているのだ。
少女は毛布を握りしめた。
「……おかえり」
小さな声だった。
父の手が止まった。
上着を半分脱ぎかけたまま、父はゆっくりと振り返った。娘の顔を見た。信じられないものを見るような目だった。
「……今、なんて」
「おかえりって、言ったの」
少女は顔を真っ赤にして、毛布を頭までかぶった。
「何回も言わせないでよ」
しばらく何の音もしなかった。
それから毛布越しに、大きな手が少女の頭の上に載せられた。ぎこちなく、何度か頭を撫でられた。
「……ただいま」
父の声は、少しだけ震えていた。
◇
ケーキ屋の扉には、朝からひっきりなしに客が来た。
「すみません、昨日の予約の……」
「遅くなってすみません、取りに来られなくて」
「まだ、ありますか。昨日の分」
店主はそのたびに、冷蔵ケースから白い箱を取り出した。名前を確かめて、箱を手渡して、頭を下げた。
「ご無事で、何よりです」
それ以外の言葉は出てこなかった。
昨日は生クリームが傷んでいないか、一晩中、何度も冷蔵ケースを開けて確かめた。妻にはもう寝なさいと言われた。寝られるはずがなかった。
毎年来てくれる家族が来た。頭に包帯を巻いた父親が、照れくさそうに笑っていた。
今年初めて予約してくれた若い夫婦が来た。奥さんのお腹が大きくなっていた。昨日は避難所の体育館で一晩過ごしたのだと言っていた。
昼を過ぎ、夕方になり、冷蔵ケースの中の箱は一つ、また一つと減っていった。
八十四個。
六十個。
三十個。
十個。
日が暮れるころには、冷蔵ケースの中には白い箱が一つだけ残っていた。
箱に貼られた紙には、名前と、子供の字で書き添えられた一言があった。
サンタさんのやつ。
店主は冷蔵ケースの前に立って、その箱を見つめていた。
閉店の時間は、とうに過ぎていた。妻が厨房の奥から店主の背中を見ていた。何も言わなかった。
七時を過ぎたころ、扉のベルが鳴った。
入ってきたのは、会社員らしい父親と、小学校低学年くらいの子供だった。父親の右腕には、肘から手首まで白い包帯が巻かれていた。コートの袖が通らないらしく、肩に引っかけているだけだった。
「すみません、こんな時間に……」
父親が頭を下げた。
「昨日、取りに来られなくて。家に帰ろうとして、途中で転んで、このざまで。今日も一日、病院で……」
子供が父親の袖を引いた。
「パパ、サンタさんのやつ、ある?」
店主は黙って冷蔵ケースを開けた。最後の一つの箱を、両手で取り出した。
「ありますよ」
店主は箱を、子供の目の高さまで下ろした。
「ちゃんと、取っておきました」
子供が箱の上の紙を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「ぼくの字!」
「そう。君の字だ。だから、君のケーキだ」
父親が、包帯を巻いていないほうの手で財布を出そうとした。店主は首を横に振った。
「お代は、昨日いただいたことにしておきます」
「いえ、そんな……」
「いいんです」
店主は子供に箱を手渡した。小さな腕が、大事そうにそれを抱えた。
「……取りに来てくれて、ありがとう」
父親は何か言いかけて、言葉に詰まった。それから深く、深く頭を下げた。
二人が出ていったあと、店主は空になった冷蔵ケースの前に、しばらく立っていた。
厨房の奥から妻が出てきて、隣に並んだ。
「全部、取りに来てくれたわね」
「……ああ」
店主は、ガラスに映った自分の顔がひどく情けなく歪んでいるのに気づいて、慌てて背を向けた。
◇
昼過ぎに玄関のチャイムが鳴った。
瀬川は二階の部屋でそれを聞いた。どうせ宅配か何かだろうと思って、無視した。昨日のことで、まだ全身が筋肉痛だった。七年分、何も持ち上げてこなかった腕が悲鳴を上げていた。
階段の下から母親の声がした。
「ひろゆき。ひろゆき、ちょっと下りてきなさい」
嫌な予感がした。
「……何」
「お客さん。あんたに」
瀬川は椅子の上で固まった。
客。自分に。七年間、一度もなかったことだった。
「いないって言って」
「言えるわけないでしょう。昨日の、おじいちゃんとおばあちゃんよ」
瀬川はしばらく動けなかった。それから、のろのろと立ち上がって部屋の扉を開けた。階段を一段ずつ下りていく。玄関が近づくにつれて、心臓の音がうるさくなった。
玄関の上がり框の向こうに、老夫婦が立っていた。
昨日、家の前で倒れていた二人だった。老婆はまだ少し足を引きずっていたが、自分の足で立っていた。老人は杖を手首に引っかけたまま、両手で、風呂敷に包んだ大きな何かを抱えていた。
「あら、お兄ちゃん」
老婆が瀬川の顔を見て、ぱっと笑った。
「昨日は、本当にありがとうねえ」
「……あ、いや」
声が裏返った。
「これ、つまらないもんだけど」
老人が風呂敷包みを差し出した。ずっしりと重かった。結び目の隙間から、温かい湯気と、醤油と出汁の匂いが立ちのぼっていた。
「煮物。ばあさんが、朝から作ったんだ。お兄ちゃん、細いから、たくさん食べなさいって」
「あ……ありがと、ござ……」
最後まで言えなかった。
受け取った風呂敷包みが、両手の中で温かかった。
老婆はそれからしばらく、母親と玄関先で話し込んでいた。昨日のこと。近所のこと。孫のこと。瀬川はその間ずっと、風呂敷包みを抱えたまま上がり框の上に突っ立っていた。逃げ出したかった。けれど、なぜか足が動かなかった。
「また、来てもいいかねえ」
帰り際に老婆が言った。
「うちの人、将棋が好きなんだけど、相手がいなくてねえ。お兄ちゃん、将棋、できる?」
「……ネットでなら」
「あら、すごいじゃない」
老婆は本気で感心したような顔をした。
老夫婦が帰っていったあと、母親は瀬川の手から風呂敷包みを受け取った。それから何も言わずに、台所へ消えていった。
その背中が、ほんの少しだけ弾んでいるように見えた。
台所から、鍋を火にかける音がした。それから、母親の鼻をすするような音が小さく聞こえた。
瀬川は聞こえなかったふりをして、二階へ上がった。
◇
【八王子】昨日の実況スレの>>1、その後どうなった?【茶淹れニキ】
001:名無しの観測者
昨日、八王子終了wwwって煽ってたスレの>>1
途中から家の前のじいさんばあさん拾ってお茶淹れてた奴
あいつどうなったか気になって眠れなかった
002:名無しの観測者
茶淹れニキな
まとめサイトにも載ってたぞ
「世界崩壊を祈ってた引きこもり、なぜか老夫婦を救出してしまう」
003:名無しの観測者
タイトルひどすぎて草
004:名無しの観測者
昨日のスレ、最初から読み返したけど泣いた
煽ってるところから急に「拾った」になるの、何回見ても笑う
005:名無しの八王子市民
本人だけど
006:名無しの観測者
!?
007:名無しの観測者
本物か?
008:名無しの八王子市民
じいさんとばあさんが、煮物持ってきた
玄関まで出させられた
死ぬかと思った
009:名無しの観測者
wwwww
010:名無しの観測者
お礼参りされてて草
いい意味で
011:名無しの八王子市民
あと将棋の相手しろって言われた
来週また来るらしい
012:名無しの観測者
>>11
社会復帰ルートに強制合流しとるw
013:名無しの観測者
昨日「七年部屋から出てねえ人間に失うもんなんかねえ」って書いてた奴が
今日は煮物と将棋の予定ができてるの、世界って分かんねえな
014:名無しの八王子市民
>>13
うるせえ
015:名無しの八王子市民
煮物、うまかった
016:名無しの観測者
>>15
よかったな
017:名無しの観測者
>>15
こういうのでいいんだよ、こういうので
018:名無しの観測者
茶淹れニキ、メリークリスマス
019:名無しの八王子市民
>>18
……メリークリスマス
020:名無しの観測者
素直になってて草
◇
夜になって、八王子の街にまた雪が降り始めた。
商店街のアーケードの下では、へこんだシャッターの前に、誰かが小さな花束を置いていった。路地の入口の規制線は、もう外されていた。駅前の大きなクリスマスツリーには、一日遅れでまた明かりが灯っていた。
街はまだ元には戻っていない。壊れた生け垣も、折れた欅も、割れた窓も、そのままだった。怪我をした人は、まだ病院のベッドの上にいる。誰もが昨日のことを、まだうまく言葉にできずにいる。
それでも、十二月二十五日は来た。
昨日を生き延びた人たちが、それぞれの家で、それぞれの明日を迎えていた。
その街のどこかの病院の一室で、紺色の鞄を囲んだ家族が、まだ帰ってこない誰かのことを待っていた。
断章 それぞれの十二月二十五日 了