エンジンの音が聞こえたのは、日が山の端から完全に顔を出したころだった。
男は雪の上に座り込んだまま、顔を上げた。
峠の下のカーブを曲がって、二台の車がゆっくりと登ってくる。一台目は四輪駆動の大きな乗用車、二台目は荷台に幌をかけた小型のトラックだった。どちらもタイヤにチェーンを巻いていて、雪を噛む金属の音が、静まり返った峠に響いた。
車は、男から二十メートルほど離れたところで止まった。
誰も降りてこなかった。エンジンの音だけが、長く続いた。やがてそれが止み、一台目の助手席の扉が開いた。
降りてきたのは、白衣の上に厚手のコートを羽織った若い女性だった。八王子の路地の奥で、名を名乗って叫んでいた研究者。御門優子だった。
御門は雪の上に立ったまま、こちらを見ていた。その後ろから、二人のハンターが降りてくる。八王子の商店街で灰褐色を追っていた、若いハンターと年配のハンターだった。二人とも肩にライフルを掛けていたが、銃口は下を向いたままだった。
男は動かなかった。いや、動けなかった。夜通し歩き続けた身体は、立ち上がることさえ億劫だった。首の傷が、脈を打つたびに疼いた。
御門が一歩、踏み出した。
若いハンターが何か言いかけたが、御門は手を上げてそれを制した。一歩、また一歩。雪を踏む音が近づいてくる。
五メートルほど手前で、御門は足を止めた。
男の胸の中で、二号がかすかに身じろぎした。
「……来てくれたんですね」
御門の声は震えていた。寒さのせいなのか、それ以外の何かのせいなのか、男には分からなかった。
「遅くなってごめんなさい。夜の雪で、道が塞がっていて。……待っていてくれたんですね」
御門の視線が、男の胸元に落ちた。
「その子を、診せてもらえますか」
男は御門の顔を見た。
それからゆっくりと二号を胸から離し、雪の上にそっと下ろした。血で固まった小さな身体は、ほとんど動かなかった。けれど胸はまだ上下していた。
男は前肢を離し、一歩後ろへ下がった。
一晩じゅう抱えていた重さが消えて、胸のあたりが、急に寒くなった。
御門が振り返って叫んだ。
「日下部先生!」
◇
二台目のトラックから、がっしりとした体格の男が、大きな金属のケースを提げて飛び降りた。
白髪まじりの短髪。獣医らしかった。雪を蹴散らして駆け寄ってくると、四メートルを超える肉食恐竜など目に入らないかのように、二号のそばに膝をついた。
「……ひでえな」
二号の脇腹を一目見て、獣医は低く唸った。
「爪で三本。深い。出血がひどい。体温も落ちてる。……よくここまで保ったもんだ」
獣医の手が驚くほど素早く動いた。ケースを開けて器具を取り出し、二号の小さな前肢に細い針を刺す。透明な管の先には液体の入った袋がつながっていた。
「輸液全開で入れる。おい、保温シート持ってこい。車のヒーターは最強にしとけ」
助手と思われる青年が銀色のシートを抱えて走ってきた。獣医はそれで二号をくるみ、そっと抱え上げた。
「車の中で応急処置をする。そのあと、俺の病院まで運ぶ」
立ち上がりかけて、獣医は初めて男のほうを見た。
「……お前さんが、ここまで運んできたのか」
男は答えなかった。答える方法がなかった。
獣医の目が男の胸と前肢をたどった。黒い鱗が二号の血でまだらに赤く染まっている。それから、その目は男の首の傷で止まった。
「あと一時間遅かったら、この子は保たなかった」
それだけ言って、獣医は男を見上げた。
「よく、間に合わせたな」
二号を抱えた獣医がトラックへ駆けていく。男はその背中を目で追い、小さな銀色の包みが荷台の幌の中へ消えるのを、最後まで見ていた。
身体から何かが抜けていった。
張りつめていたものが一度にほどけて、巨体が雪の上へ横倒しに崩れ落ちた。
「……っ!」
御門の声がした。駆け寄ってくる足音を聞きながら、男は雪に頬をつけたまま、目を閉じた。
間に合った。
それだけで、もう十分だった。
◇
次に目を開けたとき、男の上には大きな防水シートが張られていた。
峠の駐車場の端に作られた、即席の屋根だった。四隅に鉄の柱を立て、その上にシートを渡しただけのものだったが、雪は防げた。周りには灯油のストーブがいくつも並び、その熱が、冷えきった鱗にじんわりと染み込んでくる。
首のあたりに、何かが触れていた。
首を動かそうとすると、すぐそばから低い声がした。
「動くな。今、縫ってる。動いたら針がずれる」
あの獣医だった。
男は動きを止めた。首の傷の周りが妙に痺れていて、痛みはほとんどない。麻酔を打たれたのだと、遅れて気づいた。眠らされたのではない。傷の周りだけを、痺れさせているのだ。
「小さいほうは、どうにか持ち直した」
手を止めずに、獣医は言った。
「輸液と止血でひとまず命はつないだ。今、うちの助手に病院まで運ばせてる。向こうに着いたら、ちゃんと縫う。……あと何日かは、目を離せんがな」
男の喉が小さく鳴った。
「お前さんのほうも、他人の心配をしてる場合じゃないぞ」
獣医の指が、首から肩へ走る傷をゆっくりとなぞった。
「牙がここまで入ってる。前肢を動かす腱の、すぐ横だ。あと何ミリかずれてたら切れてた。切れてたら、右の前肢は二度と上がらなかった」
男は自分の右の前肢を見た。
この前肢で二号を抱えて夜通し歩いてきた。雪の斜面で倒れたときも、この前肢で二号を雪から守った。もし腱が切れていたら、ここまで運んでくることはできなかったかもしれない。
「傷の周りの肉もだいぶやられてる。しばらくは重いものを持つな。走るのもなるべく控えろ。……って、恐竜に言ってどうするんだ、俺は」
獣医は自分に呆れたように鼻を鳴らした。それでも針を運ぶ手は止まらなかった。
◇
縫合が終わったのは昼を少し過ぎたころだった。
獣医は首の傷に分厚い布を当て、何重にも包帯を巻いた。肉食恐竜に包帯を巻く人間など、世界中を探してもこの人くらいだろう。男はぼんやりと、そう思った。
獣医が離れると入れ替わりに御門が近づいてきた。
手には手のひらほどの黒い箱を持っていた。分厚いゴムに覆われた表面に、大きな丸いボタンが二つ。赤と青。それからラミネート加工されたカードが一枚。
御門は男の目の前の雪の上にそれらを並べた。手を伸ばせば届くが、無理に近づかなくてもいい距離だった。
それから雪の上に膝をつき男と目の高さを合わせた。コートの裾が雪に濡れて色を変えた。
「改めて、自己紹介をさせてください」
御門は背筋を伸ばした。
「御門優子です。政府の恐竜対策の部署で、人工恐竜の行動を研究しています。……あなたのことをずっと見てきました。青森の、最初の映像から」
男は黙ってその顔を見ていた。
「後ろの二人はハンターの榊原さんと岳さんです。さっきの獣医さんは日下部先生。……誰もあなたに銃を向けるために来たのではありません」
少し離れたところで、年配のハンターがライフルのケースを車の荷台に立てかけ、腕を組んで立っていた。若いハンターはその隣でストーブに手をかざしている。二人ともこちらを見ていた。
「これは、通信用の機械です」
御門は雪の上の黒い箱を指さした。
「あなたの居場所を、こちらに知らせる発信機です。それからこのボタン。青を押すと、無事だという信号がこちらに届きます。赤を押すと、助けて、という信号です」
御門はカードを男のほうへ押し出した。
大きなひらがなでこう書いてあった。
あお = ぶじです。はい。
あか = たすけてください。いいえ。
ぶるっとふるえたら、こちらからのしつもんです。
その一番下に手書きの一行が書き足されていた。
まっています。
男はその一行から目を離せなかった。
「もし、よかったら」
御門の声がわずかに小さくなった。
「一つだけ試させてもらえますか。あなたが本当に、私の言葉を分かっているのかどうか。……失礼なことをしているのは、分かっています」
男はカードから目を上げた。
御門の目がまっすぐに男を見ていた。研究者の目だった。けれど、それだけではなかった。路地の奥で叫んでいたときと、同じ目だった。
「昨日、あの路地で、あなたがしたこと」
御門は一度、唇を引き結んだ。
「あなたは、あのときの自分を怖いと思っていますか」
男は動かなかった。
長い間があった。ストーブの燃える音だけが聞こえていた。
男はゆっくりと左の前肢を伸ばした。右の前肢はまだ痺れていてうまく動かない。
爪の先で青いボタンを押した。
黒い箱が小さく電子音を鳴らした。
御門の肩がびくりと震えた。
ストーブに手をかざしたまま、若いハンターが固まっていた。年配のハンターが、組んでいた腕をゆっくりとほどいた。
「……ありがとうございます」
御門の声は掠れていた。
「責めたくて聞いたのではありません。あなたが、自分でもあのときのことを怖いと思っているのなら。……それはたぶんとても大事なことだと思うんです」
男は何も答えなかった。ボタンから離した爪の先が、かすかに震えていた。
◇
「もう一つ、お話ししなければならないことがあります」
御門は膝の上で両手を組んだ。
「青森で事件がありました。今年の八月。お盆の夜です」
男の身体が強張った。
「酸ヶ湯の近くの林道で、違法な恐竜の取引が行われていました。海外から運ばれてきたある肉食種の幼体の取引です。……それに関わった業者の一人が先日、別の事件で逮捕されて、供述を始めました」
御門は言葉を選ぶように間を置いた。
「その業者によれば、取引の最中に、近くを通りかかった人がいたそうです。取引を見られたのでその人を殴った。……そのあと強い光があって業者たちは全員気を失った。気がついたときには檻が壊れていて、幼体はいなくなっていた。殴られた人は、もう動いていなかったそうです」
男の耳の奥で何かが鳴っていた。
頭の後ろに受けた、重い衝撃。近づいてくる地面。夏の土の匂い。
知らないはずの記憶だった。それなのに、御門の言葉の一つ一つが、身体のどこかにぴたりと嵌まっていく。
「業者たちはその人を林道の脇に埋めて逃げた、と話しています。ただ、どこに埋めたのかは正確に覚えていない。夜で、混乱していて、すぐにその場を離れたから、と。……青森の警察が捜索を始めようとしています。けれど今の季節の八甲田は雪が深すぎて、春まではまともに探せないそうです」
御門はそこで一度息を吸った。
「その人はまだ見つかっていません。誰なのかも正式には分かっていません。……ただ」
御門は男の目をまっすぐに見た。
「八王子に八月から行方の分からない人がいます。昨日あの路地のそばで、その人の妹さんが話してくれました。八月にふらっと出かけたきり、帰ってこないのだと」
男の胸の奥で何かがきしんだ。男は息をするのを忘れていた。
「その人の名前は――」
男の左の前肢が動いた。
赤いボタンを押していた。
さっきとは違う、短く鋭い電子音が鳴った。御門の言葉が、止まった。
◇
男は赤いボタンを押したまま、爪を離さなかった。
御門は何も言わなかった。赤いボタンの上の爪を見つめ、それから、ゆっくりと口を閉じた。
「……聞きたくありませんか」
男は首をほんの少しだけ横に振った。
聞きたくないのではなかった。
怖かった。
その名前を誰かの口から聞いてしまったら。それがお前の名前だと言われてしまったら。自分はそれを信じるのだろうか。そもそも、信じられるのだろうか。
八王子の路地で灰褐色を引き裂いていたのは、誰だったのか。今も分からない。自分は人間なのか。それとも、人間の記憶を持っただけの獣なのか。青森の山で目覚めてから、ずっと、自分は自分だと思ってきた。その足場が、昨日あの路地で音を立てて崩れた。
崩れた足場の上で名前を渡されても、それが自分のものになるとは思えなかった。
他人から聞いた名前は、ただの言葉だ。
自分の目で見なければならない。これまでの旅をたどり、自身のこれまでを見直して。そしてあの林道で、何があったのか。そこに、何が残っているのか。自分の目で見て自分の爪で触れてそれが自分のものだと確かめなければならない。
そうしなければ、自分の名前を受け取ることなどできなかった。
男は赤いボタンから爪を離した。
それから目の前の雪に爪を下ろした。
御門が息を呑んだ。
男はゆっくりと、雪に線を引いていった。右の前肢は動かない。慣れない左の爪で、一画ずつ刻んでいく。八王子で鞄に書いたときよりも、ずっと歪んでいた。線は震えていた。
い。
え。
で。
一つ間を空けて。
き。
く。
男は爪を雪から離した。
いえで きく
御門は雪の上の文字を見つめたまま動かなかった。
後ろで若いハンターが小さく何か呟いた。年配のハンターは何も言わず、帽子のつばを下げた。
「……家で、聞く」
御門が声に出して読んだ。それからもう一度男の目を見た。
「家に帰ってから、聞く。そういうことですか」
男は青いボタンを押した。
「その前に、何かしなければならないことがある?」
青。
「……独りで、青森へ行くつもりですか」
男の爪が一瞬だけ止まった。
それから青を押した。
◇
御門はすぐには何も言わなかった。
やがて雪の上の文字から目を上げ男を見た。
「……分かりました」
静かな声だった。
「名前は言いません。あなたが家に帰るまで。あなたが自分から、聞きたいと思うまで」
男は御門を見た。
「その代わりお願いがあります」
御門は黒い箱を両手で持ち上げた。
「これを持っていってください。あなたの鞄の肩紐に。首輪はつけません。あなたの持ち物として、持っていってほしいんです」
男は自分の肩から下がっているスポーツバッグを見た。青森の山の中で拾ってから四か月、一度も手放したことのない鞄だった。
「青森までは遠いです。あなたは怪我をしています。冬の山です。何が起きるか分かりません。……どうしようもなくなったら、赤を押してください。どこにいても私たちが行きます」
御門は言葉を切った。
「それから毎晩一度だけ青を押してください。それだけでいいです。あなたがまだ無事でいることを、教えてください」
男は黒い箱をじっと見ていた。
それからゆっくりと身体を傾けスポーツバッグの肩紐を御門のほうへ向けた。
御門の目が潤んだ。
震える手で御門は黒い箱を肩紐に結びつけた。外れないよう何度も結び目を確かめ、ボタンが男の左の前肢に届くよう向きを直した。最後にラミネートのカードを鞄の外ポケットに差し込んだ。
まっていますの一行がポケットの口から覗いていた。
「……あの子は私たちが責任を持って預かります」
立ち上がりながら御門は言った。
「必ず元気にします。あなたが帰ってくるまでに」
男はトラックが下っていった道を見た。
二号はもうここにはいなかった。
山形の山で出会ってから三か月あまり。いつも少し後ろを、小さな足音がついてきた。待っていれば駆け寄ってきた。夜中に知らない音がすれば、鼻先に顎を乗せてきた。そして最後には妹の前に飛び込んで、爪を全部その身体で受け止めた。
その小さな足音がもう聞こえない。
男の喉が短く鳴った。
一度。ひと呼吸おいて、もう一度。
御門が驚いたように男を見た。
男はトラックの消えた道に向かって、もう一度だけ同じ音を鳴らした。少し低すぎて、少し長すぎる、下手くそな二号の音だった。
(……待ってろよ)
返事はなかった。
雪の上に残ったタイヤの跡だけが、峠の下へ続いていた。
◇
日が傾き始めたころ、男は立ち上がった。
首の包帯がずしりと重い。右の前肢には、まだ痺れが残っていた。それでも、二本の後肢で雪の上に立つことはできた。
御門たちは何も言わなかった。引き止めもせず、離れたところから、男が立ち上がるのを見守っていた。
男は峠の北に連なる雪の山を見上げた。
あの向こうに、青森がある。自分が目を覚ました場所。自分がたぶん、終わった場所。
そこに何があるのか。行けば分かる。分かってしまう。怖くないと言えば嘘だった。
それでも自分の足で行かなければならなかった。崩れた足場を、もう一度見つけるために。
ちゃんと家に帰って、自分の名前を聞くために。
男は一度だけ振り返った。
雪の中に御門と獣医が立っていた。その後ろに二人のハンター。誰も何も言わず、こちらを見ていた。
男はゆっくりと頭を下げた。これまで人と向き合うたびに、そうしてきたように。
御門が深く頭を下げ返した。獣医は軽く手を挙げ、年配のハンターは帽子を取り、若いハンターは背筋を伸ばした。
男は背を向け雪の山へ歩き出した。
鞄の肩紐で黒い箱が小さく揺れていた。
第47章 いえで きく 了
ということで、独りぼっちの北上編開始です。
流石に日程は飛ばすので青森から八王子までよりは、ずっと早く話が進みます。