峠を下りきったころには、すっかり夜になっていた。
月は出ていなかった。厚い雪雲が空を覆い、山の中は墨を流したように暗い。遠くの稜線も、夜空に溶けて見えなかった。
それでも男の目には木々の輪郭や雪面の起伏がぼんやりと映っていた。枝の下にできた小さな窪みも、風に削られた斜面も、わずかな明暗の違いで見分けられる。人間だったころには決して見えなかった、闇の中の景色だった。
この目も本当は自分のものではないのかもしれない。
歩き始めてから男はずっとそんなことを考えていた。御門の話が頭を離れなかった。同じ言葉が何度も浮かんでは消えていく。
取引を見られた。だからその人を殴った。強い光があって全員が気を失った。気がついたときには檻が壊れ、幼体はいなくなっていた。殴られた人はもう動いていなかった。
その一つ一つが長いあいだ欠けていた記憶の隙間に、収まっていくようだった。
頭の後ろに受けた重い衝撃。急に近づいてきた地面と、鼻先を満たした夏の土の匂い。そして目の奥に焼きついたあの青白い光。
八王子の路地で灰褐色を引き裂いたあと、ふいに浮かんできた記憶の切れ端だった。あのときは夢だと思った。疲れ切った頭が見せた意味のない幻か、恐竜の身体に残っていた別の何かの記憶だろう、と。
けれど御門の話と重なりすぎていた。
(……俺はそこで殴られたのか)
殴られて、動かなくなって、埋められて。
そこまで考えて男は雪の上で足を止めた。吐いた息が白く広がり、すぐに風に流されていく。
その先を考えたくなかった。
殴られて動かなくなった人間が自分だったのなら、その人間は今も林道の脇に埋められている。降り積もった雪の下で、春まで誰にも見つけてもらえないまま。
なら、今ここで雪を踏んでいる自分は何なのだろう。
男は前肢を持ち上げ黒い鱗に覆われた指を見つめた。太い爪の先に、雪がこびりついている。首から肩にかけては、あの獣医が巻いてくれた分厚い包帯。傷はまだ痛み、無理に動かせば、身体の奥まで鈍い疼きが走った。
この身体は檻の中にいた幼体のものだ。業者たちが取引しようとしていた、海外から運ばれてきた肉食恐竜の子供。それが育って、今の姿になった。もう、疑いようがなかった。
では、この身体の中でものを考えている自分は何なのか。
(……俺の名は)
頭の中で名前を呼びかけて、男はその言葉を飲み込んだ。
まだだ。まだその名前を自分のものだと決めてはいけない。
いえできく。
御門にはそう書いて伝えたのだ。自分の目で確かめるまでは、どれほど懐かしい名前でも、確かなものとして扱うわけにはいかなかった。
男は前肢を下ろし、また雪の斜面を歩き始めた。
◇
日付が変わったころ男は尾根の上で足を止めた。
風を避けられる岩陰を見つけると、鞄の肩紐に結ばれた黒い箱を引き寄せた。
――それから、毎晩一度だけ青を押してください。
峠で聞いた御門の声を思い出しながら、男は左の前肢を伸ばし青いボタンを押した。
黒い箱が小さく電子音を鳴らした。
それから、何も起きなかった。枝に触れる雪のかすかな音と、尾根を渡る風の音だけが聞こえていた。
届かなかったのだろうか。山の中だから、仕方がないのかもしれない。そう思って前肢を引っ込めかけたとき黒い箱が震えた。
短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。
男は動きを止めた。
カードにはぶるっとふるえたら、こちらからのしつもんですと書いてあった。けれど、今の震えは問いかけとは違う気がした。長く続くのではなく、短いものが二回だけ。
その間隔を男は知っていた。
二号の鳴き方だった。
待っているときも戻ってきたときも夜中に知らない物音がしたときも、あの小さな恐竜は、短く二度鳴いた。ここにいる、と知らせるように。そこにいるか、と確かめるように。
(……受け取った、ってことか)
どこかで御門が画面の前に座って、この信号を待っていたのだろう。そして届いたことをこうして返してくれたのだ。
なぜ二号と同じ間隔なのかは分からなかった。御門があの鳴き声を覚えていたのか。ただの偶然なのか。確かめる方法はない。けれど、男にはどちらでもよかった。
黒い箱はもう震えていなかった。
それでも男は前肢を離さず、冷たい箱を見つめ続けた。
喉の奥が熱くなった。
雪に閉ざされた山の中で、自分の小さな信号を受け取って、返事をくれる人がいる。あの研究者は今夜も、自分がまだここにいることを確かめてくれたのだ。
男は黒い箱を肩紐に戻した。
少なくとも今夜は、一人ではなかった。
◇
二日目の朝、男は雪の積もった林の中に立っていた。
それ自体はおかしなことではなかった。山の中で夜を明かすのにも、目覚めたら雪に囲まれているのにももう慣れていた。
おかしいのはどうやってそこへ来たのか、覚えていないことだった。
気がついたときには、もう立っていた。
空は明るく木々の間から白い朝の光が差し込んでいる。枝に積もった雪がときおり音もなく落ちて、風のない林に細かな雪煙を広げていた。
足元の雪だけが赤かった。
男はゆっくりと視線を下ろした。
大きな雄鹿が倒れていた。立派な角を持った、成熟した個体だった。喉に深い傷があり、腹の一部が食い荒らされている。周りの雪には血が飛び散り、まだ凍りきっていない赤い筋が、身体の下から伸びていた。
男は思わず、口の周りを舌で舐めた。
鉄の味がした。
牙の間に肉の繊維が挟まっている。前肢の爪にも、赤いものがこびりついていた。腹の底には、食べたあとの重さが残っている。
自分がやったのだと、考えるまでもなく分かった。ここには、ほかに誰もいない。鹿を追い喉に牙を立て、腹を裂いて肉を食べたのは、間違いなくこの身体だった。
けれど、そのどれ一つとして、覚えていなかった。
(……覚えてない)
男は鹿を見下ろしたまま、夜の記憶を探った。
最後に覚えているのは、夜明け前だった。尾根を越えて沢沿いの斜面を下り、首の傷が痛み始めたので、少し休もうと思った。倒木の陰に身体を丸め、風が当たらないように尾を寄せた。そこまでは覚えている。
その先が、なかった。
眠ったのだろう。眠っているあいだに、何かが起きたのだろう。そう考えれば、説明はつくはずだった。
男は振り返った。
雪の上に自分の足跡が続いていた。大きな三本指の跡が、林の奥へ途切れずに並んでいる。目で追うと、足跡は斜面を登り遠くの尾根の向こうへ消えていた。
休んだ倒木からはどう見ても二キロ以上離れていた。
途中に、雪が大きく抉れた場所があった。そこから足跡の間隔が広がり、別の足跡が混じっている。蹄の跡だった。雪を蹴って逃げる鹿を、自分の足跡が追っていた。
男は足跡を辿りながら、そこで起きたことを頭の中で組み立てた。
この身体は眠っているあいだに起き上がった。二キロ以上も山を歩いて鹿を見つけ、追いかけ、仕留め、食べた。
自分が何も知らないうちに。
背中を冷たいものが這い上がった。
八王子の路地とは違う。あのときは怒りに呑まれ、世界が赤く染まった。それでも、骨を砕く感触も、口の中の血の味も、壁に叩きつけた衝撃も、覚えていた。我を忘れていても、自分は確かにそこにいた。
今度は違った。
追ったことも、狩ったことも、食べたことも、何一つ残っていない。自分が眠っているあいだに誰かがこの身体を借りて、勝手に動かしていたようだった。
その誰かに男は見当がついていた。
檻の中にいたあの幼体。自分がこの身体で目覚めるより前から、ここにいたはずの、一頭の肉食恐竜。
男は雪の上に崩れるように座り込んだ。
日の高さからすると最後の記憶から、少なくとも三時間は経っている。そのあいだ身体は動き続けていたのに、自分には何も残っていない。
三時間。眠っていた、と言えばそれまでだ。人間だったころだって、眠っているあいだの記憶などなかった。けれど、目を覚ましたら知らない場所に立っていて、口の中に獲物の血が残っていたことなど、一度もなかった。
自分がいなくてもこの身体は生きていける。
それが何より恐ろしかった。
(俺はいつまで俺でいられる? この断絶がまた起きれば……)
次はいつ起きるのだろう。
今回は三時間だった。次は半日かもしれない。その次は、丸一日かもしれない。そうやって自分の知らない時間が少しずつ増えて、やがて目覚めることさえなくなったら。
この身体はそれでも生きていくだろう。
山を歩き獲物を探し、腹が減れば狩りをする。眠くなれば安全な場所で休み、朝になればまた動き出す。檻の中の幼体がそのまま育った、一頭の肉食恐竜として。
そこに自分がいなくても何も困らない。
男は前肢で頭を抱えた。包帯の巻かれた首がずきりと痛み、思わず身体が強張る。
その痛みに少しだけほっとした。
痛いと感じているのは、自分だ。今こうして怖がり、記憶を探り、これからどうすればいいのか考えているのも、自分だった。
(……まだだ)
男は目を閉じ、胸の奥で繰り返した。
(俺はまだ、ここにいる。負けるもんか)
その言葉だけは、誰にも奪われたくなかった。
◇
しばらくして、男は立ち上がった。
鹿を見下ろすと食べ残しの肉はまだかなりの量があった。いつもなら、残りは山のほかの動物たちに譲ってきた。今日も、そうするつもりだった。
けれどその前に確かめておきたいことがあった。
男は目を閉じ自分の記憶を一つずつ辿っていった。
八王子の家の住所。駅から歩いて十五分ほどの住宅街。坂の途中に建つ二階建てで、玄関の脇には、父が手入れしている植木鉢が並んでいる。
父の顔。眼鏡をかけていて、休みの日には庭の植木をいじっている。枝を切りすぎだと母に文句を言われても翌週にはまた鋏を持ち出していた。
母の顔。笑うと目尻に皺が寄る。料理の味付けは、少しだけ濃い。何度、薄味にしてくれと言っても、次の食卓に並ぶ料理は大して変わらなかった。
それから妹の顔。
路地で恐怖に見開かれていた目ではなく、もっと前の記憶を探した。夕飯の席で、どうでもいいことで言い争っていたときの顔。温泉にでも行きたいとぼやいた自分に、「勝手に行けば」と笑った顔。子供のころ、転んで膝を擦りむいて、泣きながら自分の背中にしがみついてきた顔。
覚えていた。
家族の顔も声も、まだはっきりと思い出せる。
そこで男は小さな引っかかりに気づいた。
家の前の坂の名前が出てこなかった。
毎日歩いていた坂だった。小学生のころ、妹と自転車で駆け下りて、二人とも転んで膝を擦りむいた。あの日は母にひどく叱られた。坂の途中の古い電柱も、角の家の生垣も、今でも思い浮かべられる。
なのに、名前だけが出てこない。
男は必死に記憶を探った。学校へ通うたびに目にしていた標識。友人と待ち合わせたときの会話。
数秒後、ようやく名前が浮かんだ。
忘れていたわけではなかった。思い出せなくなっていただけだ。
それでもその数秒の怖さは、鹿の死骸を見つけたときに劣らなかった。
人間だったころならこんな物忘れは気にもしなかっただろう。疲れているのか、寝不足か。その程度で済ませていたはずだ。
今は違う。
名前がたった一つ出てこないだけで、自分が少しずつ削られていくように思えてしまう。
(……急がないと、俺がもたない)
男は北の空を見上げた。
この身体の中で、何かが変わり始めている。八王子で赤い世界に呑まれたときからなのか、もっと前からなのか。それは分からない。
ただ、今朝のことを偶然だと思えるほど、楽観はできなかった。
青森へ行かなければならない。
自分が誰なのか。あの夜、何が起きたのか。その答えがあるかもしれない場所へ、記憶が確かなうちに、たどり着かなければならなかった。
◇
それから男はほとんど休まずに歩き続けた。
山梨の山を抜け、秩父の深い谷を越えた。人の気配がする場所は大きく迂回し、道路を横切るのは夜まで待った。集落の灯りが見えるたびに進む向きを変え、遠回りになっても、人と鉢合わせしない道を選んだ。
川はできるだけ避けた。どうしても渡るときは浅瀬を探し、首の包帯を濡らさないよう、頭を高く上げて進んだ。相模川の冷たさをもう一度味わうわけにはいかない。濡れた身体で雪の中を歩けば、それだけで体力が削られる。今の自分には無駄にできる体力など残っていなかった。
何より怖かったのは眠ることだった。
目を閉じたらまた自分の知らない時間が始まるかもしれない。次に目覚めたら、知らない場所に立っていて、口の中に血の味が残っているかもしれない。あるいは、もう二度と目覚めないかもしれない。
それでも、眠らなければ身体が持たなかった。
だから男は、眠る前に必ず同じことをするようになった。
鞄から観光地図を取り出し、雪の上に広げる。今いる場所に、爪で小さな印をつける。それから地図の端の八王子のあたりを見つめて、家の場所を頭の中で確かめる。
地図を取り出すたびに、鞄の底で硬いものが小さく音を立てた。
酒瓶だった。
栃木の秘湯で出会った会社員から救助費用として拝借した、あの高級そうな酒。気がつけば咥えたまま山へ戻ってきてしまった。今では観光地図や黒い箱と並んで、数少ない持ち物の一つになっている。
少しだけ栓を開けたことがあった。
山の中でどうしても眠れなかった夜だ。爪の先で苦労して栓を抜き、ほんの少しだけ口に含んだ。喉が焼けるように熱くなり、腹の底にじんわりと温かさが広がった。人間だったころに飲んだ、どの酒よりもうまかった気がした。
けれど、それきり栓を閉めた。
あの会社員が人生最後のつもりで持ってきた酒だった。それを自分が一晩で空にしてしまうのは、何か違う気がした。
いつか誰かが飲むときのために取っておこう。
そんな日がこの身体に来るのかどうかも分からないまま、男は瓶を鞄の底に戻していた。
地図を畳むと、心の中で家族を一人ずつ呼んだ。
父さん。母さん。それから、妹の名前。
自分の名前だけはどうしても思い出せず、呼べなかった。
それは、青森で自分の目で真実を確かめて家族から名前を呼ばれて初めて自分のもとに帰ってくる。
最後に黒い箱の青いボタンを押す。
しばらく待つと、箱が短く二度震えた。その震えを前肢で受け止めてから、男はようやく身体を丸めて目を閉じた。
朝、目が覚めると真っ先に地図を確かめた。爪の印と今いる場所を見比べる。周りの木々も岩の形も、眠る前の記憶と同じだった。
同じ場所だった。
二日目の夜も、三日目の夜も、目を覚ました場所は変わらなかった。眠っているあいだに歩き回った跡もなく、口の中に知らない血の味が残っていることもなかった。
自分のまま眠り、自分のまま目を覚ました。
ただそれだけのことに、男は毎朝雪の上で深く息を吐いた。
けれど、その安堵は長く続かなかった。眠る前になると必ず、明日の朝も同じように目覚められるだろうか、という不安が戻ってきた。
あの鹿の朝が一度きりのことだったのか。それとも、何かの始まりなのか。
答えはまだ出なかった。
◇
歩きながら男はいろいろなことを考えた。
最初に浮かぶのは、いつも妹のことだった。
あの路地で、自分を見ていた目。恐怖に見開かれ、涙を一筋こぼしていた目。助けたことを分かってくれたとしても、目の前で見せてしまった光景が消えるわけではない。妹があのとき何を感じたのか。それは、男自身が一番よく分かっていた。
あの目のまま、終わりたくなかった。
次に会うときは、ちゃんと自分として会いたかった。怪物としてでも、人間の記憶を持っただけの獣としてでもなく。あの家でずっと一緒に暮らしてきた、兄として。
そのためには、自分が誰なのかを、自分で確かめなければならなかった。
二号のことも考えた。
あの獣医の病院の温かい部屋で、今ごろ眠っているだろうか。輸液の管をつけられ傷には新しい包帯が巻かれているかもしれない。あの小さな身体で、どれほどの痛みに耐えているのだろう。
目を覚ましたとき自分がいないことに気づくだろうか。
いつものように尾の先を小さく揺らしながら、帰りを待っているだろうか。
(……待ってろよ)
峠でトラックの消えた道に向かって鳴らした声を、男は胸の中でもう一度繰り返した。
それから御門のことを考えた。
雪の上に膝をつき、目の高さを合わせてくれた研究者。名前を言いかけて赤いボタンで止められても、怒らなかった。家に帰るまで何も言わないと約束し、青森へ行くことを認めてくれた。
鞄の外ポケットから、ラミネートのカードが覗いている。
まっています、の一行。
あの研究者は毎晩、画面の前で青い信号を待っている。届けば、短く二度震わせて返してくれる。
もし、ある夜、その信号が届かなかったら。
あの人はどんな顔をするだろう。
男は雪を踏みしめ歩く速さを少しだけ上げた。
(はじまりの場所に着いたら、きっと何かが変わるはずだ)
青森にたどり着き、自分の過去を確かめる。そして、もう一度、八王子へ帰る。
家族に会うために。自分が誰なのかを知るために。待っていると言ってくれた人たちのところへ、戻るために。
その三つを男は凍える胸の中に、灯りのように抱えて歩いた。どれか一つでも失えば、自分が雪の中でほどけてしまう気がした。
◇
三日目の夜は、ひどく冷えた。
男は群馬と栃木の境の深い山を進んでいた。雪は場所によって膝の上まで積もり、一歩ごとに重い身体が沈む。首の傷は寒さで疼き、右の前肢にはまだ思うように力が入らない。休まず歩いてきた疲れが、今になって身体のあちこちに出始めていた。
尾根を越えようとしたとき、風に乗って、かすかな匂いが流れてきた。
男は足を止め鼻先を上げた。
煙だった。
薪の燃える乾いた匂いが、冷たい山の空気に混じっている。それだけなら、山小屋か林業の人の焚き火だと思っただろう。けれど、その煙には、もう一つ、どこか懐かしい香ばしさがあった。
焙じ茶の匂いだった。
冬の夜家の台所から漂ってきた匂いに、よく似ていた。
男は匂いのするほうへ目を凝らした。
尾根を下った先、雪の浅い谷底に、小さな橙色の光が揺れていた。張り出した岩の陰に身を寄せるように焚き火が熾され、その傍らに、人影が一つあった。
厚い防寒着を着た誰かが、背中を丸めて、両手で何かを包むように持っている。ときおり顔を近づけては湯気を吹き、また火に手をかざしていた。
こんな季節に。こんな山奥で。たった一人で。
男は斜面の途中で立ち止まった。
近づくべきではないと、分かっていた。この姿を見れば、相手は悲鳴を上げるかもしれない。銃を持っているかもしれない。八王子であれほどの騒ぎを起こしたばかりだ。なおさら、人との接触は避けなければならなかった。
それでも、その火から目を離せなかった。
雪に閉ざされた谷の底で、橙色の炎だけが、小さく揺れている。その傍らで誰かが湯気の立つ茶をすすり寒さに肩をすくめながら火の番をしている。
人間だったころなら、何でもない光景だった。冬の夜、暖かい部屋に帰って、温かいものを手に一息つく。そんな時間がかつては当たり前にあった。
男は八王子の家を思い出した。
玄関の灯り。台所から聞こえる食器の音。居間でついているテレビと、その前で誰かが笑う声。
あの家には今も明かりが灯っているだろうか。
妹は無事に帰れただろうか。父と母はあの日のことを、何と聞かされているのだろう。
炎の傍らの人影がふいに顔を上げた。
男はとっさに身を低くした。けれど、相手がこちらに気づいた様子はなかった。山の暗がりをしばらく眺めてから、また手元の湯呑みに目を落とした。
ほっとしたはずなのに胸の奥に妙な寂しさが残った。
今の自分にはあの火のそばまで歩いていって、寒いですね、と声をかけることさえできない。
男はそれ以上近づかず、木々の陰から小さな炎を見守り続けた。
雪の中に一つだけ灯るその光が、今はどうしようもなく懐かしかった。
第49章 どこにも自分がいない時 了