立川の臨時対策本部は、日付が変わろうとする時間になっても慌ただしかった。廊下を無線機を手にした職員が行き交い、会議室からは翌日の対応を話し合う声が漏れてくる。八王子の事件から一日。被害の集計、避難指示の解除、各地に残る恐竜の捜索。片づけなければならない仕事は山のように残っていた。
その庁舎の一番奥、物置同然の小部屋に御門優子はいた。
積み上げられた段ボール箱の隙間に折り畳みの机が一つ。その上で三枝のノートパソコンが淡い光を放っている。画面には山梨県北部の地図が映り、山の中の一点で小さな赤い印が点滅していた。
御門はパイプ椅子に座ったまま、もう二時間近くその画面を見つめていた。
「先生、コーヒーです」
三枝が紙コップを机の端に置いた。廊下の自動販売機で買ってきた缶を移したらしく、細い湯気が立ちのぼっている。
「……ありがとうございます」
画面から目を離さずに御門は答えた。紙コップには手を伸ばさなかった。
赤い点は山梨の北の山中で、三十分以上動いていない。
「休んでるんですよ、たぶん。あの傷で、夕方からずっと歩き通しなんですから。むしろ休んでもらわないと困ります」
「分かっています」
「先生も少し休んだほうがいいですよ。昨日だって、ほとんど寝てないでしょう」
「それも分かっています」
三枝は何か言いかけたが、御門の横顔を見て口を閉じた。代わりに隣のパイプ椅子を引き寄せ、黙って腰を下ろした。
八王子で見た光景が頭から離れなかった。
血に濡れた黒い鱗。小さな恐竜を腕に抱え、狭い路地を去っていった背中。そして柳沢峠の雪の上に、爪で刻まれた言葉。
いえで きく
あの個体は青森へ向かうと答えた。
少なくとも御門には、そう伝えようとしているように思えた。
研究者としてなら、いくらでも反論できる。文字を書く行動が人間と同じ意味を持つとは限らない。質問への応答も偶然の積み重ねかもしれない。まして人間の意識が恐竜の身体に宿っているなどという仮説は、今の生物学では説明のしようがなかった。
それでも御門は、あの個体を信じることにした。
いや。信じてみたいと、思ってしまったのだ。
机の上の時計が零時を回り、日付が十二月二十六日に変わった。廊下の向こうで誰かが電話口で謝っていたが、その声もどこか遠かった。
午前零時三分。
画面の隅の通知欄が光った。
――信号受信。種別:青。
御門の肩が跳ねた。
隣で三枝が小さく息を吐いた。
「……来ましたね」
「来ました」
返した声は少しだけ掠れていた。
受信記録には時刻と位置が表示されている。装置は正常に動いていて、誰かが青いボタンを押したことを示していた。
それだけだった。
無事なのか。傷は痛まないのか。今どんな場所にいるのか。訊きたいことはいくらでもあった。けれどこの装置に、それを伝える力はない。
御門は画面の下の送信ボタンに指を置いた。
何を返すかは、ずっと考えていた。届いたと知らせるだけなら一度震わせれば足りる。けれど、それでは何かが足りない気がしていた。
短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。
御門は振動の設定を打ち込み、送信した。
「……それ、何かの合図ですか」
三枝が訊いた。
「日下部先生の病院で、あの小さな子が目を覚ましたときに鳴いた音です」
画面を見つめたまま御門は答えた。
「夕方、様子を見に行ったら、ちょうど麻酔から覚めたところだったんです。傷はまだ痛むはずなのに、起き上がろうとして何度も鳴いていました。短く二回。少し間を空けて、また二回。誰かを呼んでいるみたいに」
思い出すと胸の奥がわずかに締めつけられた。
あの小さな恐竜は、治療室の扉が開くたびに首を持ち上げた。黒い個体が来るのを待っているのだろうか。そう思っても、確かめる方法はなかった。
「あの子が黒い恐竜を呼ぶときの音なんだと思うんです。だから、せめて同じ音を返してあげたくて」
三枝はしばらく黙っていた。
「……届くといいですね」
「はい」
御門はようやく紙コップに手を伸ばした。コーヒーはすっかり冷めていた。けれど今は、その冷たさも気にならなかった。
画面の赤い点は、もう動かなかった。
冷めたコーヒーを一口飲んで、御門は椅子の背にもたれた。
◇
翌朝、移動記録を確かめていた三枝がおかしな動きを見つけた。
「先生、これを見てもらえますか」
画面には昨夜からの位置が一本の線になって表示されていた。夜明け前、赤い点は沢沿いの斜面で止まり、そこから三時間近くほとんど動いていない。
ところがそのあと、急に線が伸びていた。
尾根を越え、林の中を蛇行しながら二キロ以上。途中で何度も鋭く向きを変え、一定の間隔で記録される点と点の距離も大きく開いていた。
「この区間だけ、速さが全然違うんです。昨日までは時速二キロから三キロくらいで、ほぼ一定でした。怪我をしているから慎重に歩いていたんだと思います」
三枝は画面の一点を拡大した。
「それが、ここだけ一気に時速三十キロ近く出ています。しかも、まっすぐじゃない。右へ左へ何度も向きを変えて、最後に急に止まってるんです」
「……追跡の動きですね」
御門は低く言った。
「獲物を追っているのでしょう。鹿か何かを」
「ですよね。狩りなら別におかしくないとは思うんですけど。なんだか気持ち悪くて」
三枝は首を傾げた。
「三時間じっとしていたあと、いきなり全力疾走ですよ。寝起きに突然、狩りを始めたみたいな。そのあとも一時間近く同じ場所に留まってます。食べていたなら説明はつきますけど」
御門はその線から目を離せなかった。
黒い個体が狩りをすること自体は、何も不思議ではない。どれほど人間に近い振る舞いを見せても、その身体は肉食恐竜のものだ。あれだけの身体を動かすには、野生の動物を食べなければ生きていけない。
それでも一つ、引っかかることがあった。
八王子の路地で、あの個体が灰褐色を引き裂いたときのことだ。
相手が動かなくなっても攻撃をやめなかった。周りの声にも反応しなかった。目撃した人たちは口を揃えて、「何も聞こえていないみたいだった」と話している。
そして柳沢峠。名前を言いかけた御門を赤いボタンで止める前、あの個体は自分の爪をじっと見下ろしていた。
灰褐色の血がこびりついた爪を。自分のものではない何かを見るような目で。
「……今夜の青を待ちましょう」
御門はそれだけ言った。
推測ならいくらでもできる。けれどここで憶測を重ねても、あの個体の身に何が起きたのかは分からない。
その夜、青い信号が届いたのは午前二時を過ぎてからだった。
前の晩より二時間ほど遅かった。
その二時間、御門は一度も椅子から立たなかった。
◇
十二月二十八日の昼過ぎ、三枝がまた画面の前で首を傾げた。
「先生。また止まっています」
赤い点は群馬と栃木の境の谷底で止まっていた。もう二時間以上、ほとんど位置が変わっていない。
「昼間にこんなに長く止まるのは初めてですよね。夜なら、休んでいるんだと思えるんですけど」
御門は地図を拡大した。周りは深い山林で、近くを沢が流れている。人家はなく、林道からもかなり離れていた。
「……例の、三時間動かなかった日と似ていませんか」
三枝の声がわずかに低くなった。
御門も同じことを考えていた。あの日は長く止まったあとに急な移動が始まった。今回はまだ動き出す様子はない。けれど何かが起きている可能性は捨てきれなかった。
しばらく考えてから、御門は送信画面を開いた。
「問い合わせを送ります」
「いいんですか、昼間に。下手に鳴らして、何かの邪魔になったら」
「何かあったなら、赤を押してくれるはずです。何もないなら青を。……どちらも返ってこなかったら、そのときは別の方法を考えます」
御門はまず、いつもの二回を打ち込んだ。短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。こちらが誰なのかを知らせるために。
それから続けて、振動を長く設定した。
こちらからの質問を意味する合図だった。振動で質問の中身までは伝えられない。けれど今この状況で訊くことは、一つしかなかった。
無事ですか。
送信を終えると、二人は画面の前で待った。
一分が過ぎた。二分が過ぎた。三枝は何度も時計を見ては、そのたびに地図へ目を戻した。御門は送信記録に異常がないのを確かめてから、膝の上で両手を組んだ。
三分を過ぎたころ、通知欄が光った。
――信号受信。種別:青。
三枝が崩れ落ちるように椅子の背にもたれた。
「……びっくりさせないでくださいよ、もう」
御門も胸の奥で息を吐いた。けれど目は画面に貼りついたままだった。
谷底の沢のそばで二時間。
あの個体は何をしていたのだろう。傷を休めていたのか。食事をしていたのか。それとも何か別の理由で、その場所を離れられなかったのか。
ふと、誰かと会っていたのではないかという考えが浮かんだ。
御門は自分でそれを打ち消そうとした。年末の寒波の中、あんな山奥にわざわざ入る人間などまずいない。仮に登山者や猟師がいたとしても、あの巨大な肉食恐竜のそばに二時間も留まるとは思えなかった。
それでも、気になるものは気になった。
その日の夕方、赤い点はようやく北へ動き出した。それまでより少し速い足取りで山を越え、翌日からは長い休みをほとんど挟まずに進み続けた。
栃木の北を抜け、福島へ。画面の上を伸びていく線は、何かに急かされているようだった。
◇
十二月二十九日の昼過ぎ、御門は八王子の病院を訪ねた。
妹はもう退院していたが、家族と話すために病院の一室を借りてもらっていた。部屋には父と母と妹の三人が揃っている。母はまだ顔色が優れなかったが、背筋を伸ばして椅子に座っていた。
テーブルの上には紺色の鞄が置かれていた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」
御門は深く頭を下げた。
「政府の恐竜対策の部署で研究をしております、御門と申します」
「……研究者さん」
父が低い声で言った。
「八王子の路地に来ていた人ですよね。娘から聞きました。あの恐竜に向かって、何か叫んでいたって」
「はい」
「あの恐竜は今、どこにいるんですか」
御門はすぐには答えられなかった。
公式には、黒い個体は山林へ逃げ、その後の行方は分からないことになっている。装置のことも位置のことも、知っているのは御門と三枝を含むごく限られた人間だけだった。
ここで話せば、もう引き返せない。
御門はテーブルの上の鞄を見た。裂けた布地に、今も歪んだ四文字が残っていた。
「……これからお話しすることは、しばらくここだけの話にしていただけますか」
三人は顔を見合わせた。父は妻と娘の表情を確かめてから、ゆっくりと頷いた。
御門は柳沢峠でのことを話し始めた。
あの黒い恐竜が小さな個体を抱えて、雪の中で待っていたこと。人間の言葉が分かっているような反応を見せ、青と赤のボタンで質問に答えたこと。首には深い傷があり、腱のすぐそばまで達していたこと。小さな個体を獣医に預けたあとも、自分から人を襲おうとはしなかったこと。
妹は鞄に両手を置いたまま、身じろぎもせずに聞いていた。
「それから、お兄さんのお名前のことです」
言葉を選びながら御門は続けた。
「私は皆さんから伺ったお兄さんのことを、あの恐竜に話そうとしました。名前を伝えようとしたんです。……そうしたら、あの恐竜は赤いボタンを押して、私を止めました」
鞄の上で妹の手が震えた。
「そのあと、雪の上に爪で文字を書いたんです」
御門はスマートフォンを取り出し、峠で撮った写真を三人に見せた。
白い雪の上に、大きな爪で刻まれた歪んだ文字が並んでいた。
いえで きく
母が口元を押さえた。
「……家で、聞く」
父が声に出して読んだ。その声は途中で掠れ、最後の一文字までに少し時間がかかった。
「あの恐竜は今、青森へ向かっています」
御門は一語ずつ確かめるように言った。
「自分が何者なのかを、自分の目で確かめるために。……私には、そう見えました。青森に何があるのか、詳しいことはまだ私にも分かりません。でもあの恐竜は、それを確かめないと家に帰れないと思っている。自分の名前を受け取れないと、思っているんじゃないでしょうか」
部屋が静まり返った。
父は写真を見つめたまま動かず、妹は鞄の持ち手を強く握っていた。母だけが何度か口を開きかけては、言葉にならないまま俯いた。
やがて母が口元から手を離した。
「……じゃあ」
声は震えていた。けれどその目は、まっすぐに御門を見ていた。
「家で待ってなきゃいけないわね。あの子が、ちゃんと聞けるように。……私たちが、ちゃんと言えるように」
父が母の手を握った。妹は鞄を胸に抱きしめ、声を押し殺して泣いていた。
御門は何一つ、確かな約束ができなかった。あの恐竜が本当に行方不明の息子さんなのかも、青森から無事に帰ってこられるのかも分からない。
それでも、待っていてほしいという願いだけは伝えたかった。
話を終えて帰ろうとしたとき、妹が御門を呼び止めた。
「あの」
「はい」
「毎晩、青いのが届くんですよね。届いたら、短く二回震わせて返すって」
「はい。今のところ毎晩届いています」
妹は少し迷ってから言った。
「……私たちにも、それ、押させてもらえませんか。一回だけでいいんです。返事のボタン。お兄ちゃんに届けたいんです」
御門は妹の顔を見た。
「……届かなくても、いいから」
その一言で、御門は自分が返事に迷っていた理由が分かった。
相手が本当に彼女の兄なのか、まだ分からない。期待させることが残酷な結果につながるかもしれない。けれど彼女が欲しいのは、確かな答えではなかった。
今どこかを歩いているかもしれない兄に、自分たちも待っていると伝えたいのだ。
御門は頷いた。
「……分かりました。大晦日の夜に、お宅へ伺います」
◇
十二月三十一日、午後十一時四十分。
八王子の家のこたつの上に、三枝のノートパソコンが置かれていた。
御門と三枝は居間の隅に正座していた。最初は玄関先で失礼するつもりだった。けれど母に「こんな寒い日に何言ってるの、上がって」と、半ば強引に引っ張り込まれたのだ。
こたつの上にはみかんの籠と年越しそばのどんぶりが並んでいた。三枝は二杯目を断りきれず、結局汁まで飲み干した。食器を片づけようとすると座っているよう言われ、恐縮した顔で御門の隣に戻ってきた。
父と母と妹はこたつに入って、パソコンの画面を見つめていた。赤い点は宮城の山の中で止まっている。
テレビでは紅白歌合戦が終わり、番組が静かな映像に切り替わっていた。いつもの大晦日なら、家族であれこれ言い合いながら見ていたのだろう。今夜は誰もテレビを見ていなかった。
「……いつも、何時ごろなんですか」
妹が小さな声で訊いた。
「日によって違います。早い日は日付が変わる前。遅い日は明け方近くになることもあります」
そう答えてから、御門は言い添えた。
「……でも今まで一晩も、欠かしたことはありません」
妹は小さく頷き、また画面に目を戻した。
父は何度も時計を見ていた。母はこたつの中で娘の手を握り、ときどきその手をさすっていた。誰も急かしてはいなかった。けれど部屋の中には、何かを待つ者たちだけが分け合う、張りつめた静けさがあった。
テレビに雪の積もった寺の鐘楼が映し出された。
除夜の鐘が鳴り始めた。一つ。二つ。重い音が響いて、一年が暮れていく。
父はこたつの天板の上で両手を組んだ。母は膝の上でハンカチを握りしめ、妹は画面に顔を近づけたまま、ほとんどまばたきもしなかった。
鐘が十数回鳴ったころ、画面の隅の通知欄が光った。
――信号受信。種別:青。
妹が息を呑んだ。
母はハンカチを口元に押し当て、父は身じろぎもせずに画面を見つめていた。
御門は受信時刻と位置を確かめた。いつもと同じ青い信号だった。特別な言葉が届いたわけでも、姿が見えるわけでもない。それでも今この瞬間、宮城の山の中で誰かがボタンを押したことだけは確かだった。
「……どうぞ」
御門はそっと画面を三人のほうへ向けた。
「送信はこのボタンです。短く一回押して、ひと呼吸おいて、もう一回。それで向こうの装置が二度震えます」
父が妹を見た。妹は首を横に振り、母のほうを見た。母も同じように首を振った。
「お父さんが押して」
妹が言った。
「お父さん、ずっと言いたかったでしょ」
父はしばらく何も言わなかった。
こたつの上には湯呑みが一つ置かれていた。母が何も言わずに出してきたものだった。家族が揃って食事をするとき、いつもそこにあった息子の湯呑みだという。
今夜は誰もそれに茶を注がなかった。
父はその湯呑みを一度見てから、ゆっくりと右手を伸ばした。
人差し指が送信ボタンの上で止まった。
震えていた。
父は小さく息を吸い、ボタンを一度押した。指を離し、ひと呼吸おいて、もう一度。
画面に送信完了の文字が出た。
それだけだった。山の向こうから返事が来るわけでも、誰かの声が聞こえるわけでもない。送信記録には、二回の振動が正常に送られたことが表示されているだけだった。
それでも父はボタンから指を離したまま、動かなかった。
やがて眼鏡を外し、手のひらで目元を覆った。
「……泣いてない」
誰も何も言っていなかった。
「泣いてないからな」
妹が黙って父の背中に額を押しつけた。母は父の手を両手で包み、そのまま離さなかった。
テレビの中で除夜の鐘が鳴り続けていた。
御門は居間の隅で正座したまま俯いていた。隣で三枝がそっと鼻をすすった。何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
宮城の山の中で、今ごろ黒い箱が短く二度震えたはずだった。
あの恐竜には、それが誰の指から送られたものなのか分からない。いつもの御門だと思っているかもしれない。二号の鳴き声を思い出しているかもしれない。
けれど今夜の二回には、確かに父の思いがこもっていた。
いつかあの恐竜が家に帰り、すべてを確かめる日が来たら。
大晦日の夜、あの二回を押したのはお父さんだったんだよ、と。誰かが教えてあげられたらいい。
御門は心の底からそう願った。
鐘の音がまた一つ、冷たい夜に響いた。
◇
一月二日。
対策本部の小部屋にいた御門のスマートフォンに、岳から電話がかかってきた。
『先生、一つ気になる話があって』
岳の声はいつもより低かった。新年の挨拶を手短に済ませると、すぐに本題に入った。
『奥多摩の林業の人から、うちの組合に相談が来たんです。年末に山の林道の脇で、でかい足跡を見たって。雪のあとで輪郭はぼやけてたらしいんですけど……人の背丈くらいの長さがあったそうです』
御門の背筋が冷たくなった。
「写真はありますか」
『撮ってないそうです。怖くなって、すぐ車に戻ったって。次の日に見に行ったら、もう新しい雪で埋まってたそうです』
「場所は」
『奥多摩の北のほうです。……都の水源林のあたりだと聞いてます』
電話を耳に当てたまま、御門は壁の地図を見上げた。
未登録の大型個体。
その足跡は群馬の北部で、北へ向かって途絶えたと報告されていた。陸上自衛隊の特殊部隊が北側の山域で捜索を続けていて、少なくとも今のところ、南へ戻ったという情報はない。
奥多摩は群馬から見て南にある。
もし同じ個体なら、捜索部隊の想定とは逆の方向へ動いたことになる。
『見間違いかもしれません』
岳が言った。
『雪の日の足跡なんて、溶けて広がったら何でも大きく見えますから。動物の足跡が重なっただけってこともあります。……でも一応、先生には言っておこうと思って』
「ありがとうございます。場所がもう少し詳しく分かったら教えてください」
『分かりました。こっちでも確かめてみます』
電話を切ったあとも、御門は地図の前から動けなかった。
奥多摩の山には、いくつもの谷と尾根が入り組んでいる。人の入らない場所も多い。大型の肉食恐竜が潜んでいたとしても、簡単には見つからないだろう。
けれど気になったのは、足跡の大きさだけではなかった。
北へ向かっていたはずの個体が、なぜ南へ戻ったのか。獲物を追っただけなのか。人間の捜索を避けたのか。そもそも本当に同じ個体なのか。確かなことは何もなかった。
御門は地図に顔を近づけた。
奥多摩の東には多摩湖があり、その南には八王子の市街地が広がっている。
あの黒い恐竜の家がある街だった。
そして、いつか青森から帰ってくるなら、あの恐竜はこのあたりを通るかもしれなかった。
御門はスマートフォンを握り直した。
まだ何も起きていない。足跡を見たという話が一つあっただけだ。危ないと決めつけることはできない。
それでも胸の奥に生まれた小さな不安は、消えなかった。
◇
その夜も青い信号は届いた。
午前一時十二分。赤い点は岩手の山の中にあり、数時間前からほとんど動いていなかった。
御門はいつものように受信時刻を確かめ、送信ボタンを押した。短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。二回の振動が送られたのを見届けてから、椅子の背に身体を預けた。
画面の隅に小さな付箋が貼られていた。
いつの間にか三枝が書いていったものだった。
青森まで、あと何日?
その下に、三枝らしい丸い字でもう一行。
先生も、ちゃんと寝てください。
御門は少しだけ笑った。
毎晩信号を待ち続ける自分を、三枝も心配してくれている。画面の向こうの黒い恐竜を待っているのは、自分だけではない。改めてそう思えた。
御門は机の引き出しからペンを取り出した。
付箋の一番下に、自分の字で一行だけ書き足した。
まっています。
ペンを置き、画面の中の小さな赤い点を見つめる。
岩手の山の中では、今ごろ雪が降っているのだろうか。
あの個体はちゃんと眠れているだろうか。首の傷は少しでも良くなっただろうか。明日の朝も、自分の足で立ち上がれるだろうか。
御門には何も分からなかった。分かるのは、今夜も青い信号が届いたということだけだった。今はそれでいい。明日の夜も、また届いてくれれば。
御門はノートパソコンを閉じず、部屋の明かりだけを落とした。
暗くなった部屋の中で、小さな赤い点が静かに点滅していた。
第50章 まっています 了