少し時間を遡る。
青森の山中で撮影された黒い恐竜の動画が広まり始めてから、三週間ほどが経ったころだった。
「というわけで、今日は青森まで来ています。見てください、この湯気。画面越しでも温泉の匂いがしてきそうでしょ」
スマートフォンへ向かって話しながら、配信者は酸ヶ湯温泉の周辺をゆっくり歩いていた。
旅行とアウトドアを中心に動画を投稿している人物で、登録者数は大手と呼べるほどではないものの、地方の温泉や観光地を実際に訪れ、周辺の店や景色まで紹介する丁寧な動画には固定の視聴者がついていた。今回は数日前から青森県内を回っており、酸ヶ湯温泉は本人も楽しみにしていた場所だった。
配信画面のコメント欄には、湯の感想や周辺の観光情報に混じって、先ほどから同じ話題が何度も流れている。
『そういや青森の人助け恐竜ってこの辺じゃない?』
『黒いやつ』
『親子助けた恐竜の動画見た?』
『場所そんな遠くないはず』
配信者は歩きながらコメントを読み、最初は軽く笑っていた。
「人助け恐竜って、あれでしょ。子供が肉を渡したら頭を下げたっていう」
『それ』
『めっちゃ賢いやつ』
『探してきて』
「無茶言うなよ。野生の肉食恐竜だぞ」
そう返しながらも、完全に興味がないわけではなかった。
青森の山中で親子が肉食恐竜に襲われ、そこへ別の黒い個体が現れたという動画は、配信者自身も移動中に見ている。映像が不鮮明なこともあり、ネット上では「親子を助けた」「単なる縄張り争いだった」「肉を渡されたあと頭を下げたように見える」など意見が分かれていた。行政からも不用意に探さないよう注意が出ているため、まともに考えれば追いかけるような対象ではない。
ところがコメント欄には、別の情報まで流れ始めた。
『この辺、山奥に野湯あるぞ』
『秘湯っていうかほぼ野湯』
『昔行ったことある。かなり山入るけど』
「野湯?」
配信者の反応が変わった。
恐竜を探すためだけに山へ入るのは、さすがに動画の企画として危険すぎる。しかし温泉配信の延長で、近くにあるという秘湯を探すのであれば話は別だった。その途中で例の黒い恐竜の痕跡でも見つかれば、視聴者としても面白いだろう。
「じゃあ、明るいうちだけな。秘湯探しがメイン。恐竜はいたとしても遠くから見る。それ以上は絶対近づかない」
『絶対フラグ』
『帰ってこいよ』
『役所の注意守れ』
「分かってるって。俺だって食われるために青森まで来たわけじゃないから」
配信者は笑いながら答えた。
このときのコメント欄には、まだ温泉の話題と恐竜を見たいという冗談が入り交じっていた。
◇
翌日の午後、配信は山の中から再開された。
配信者は登山用の靴と防寒着を身につけ、熊よけの鈴や携帯食、水、予備バッテリーを入れたリュックを背負っていた。恐竜が生息する地域を一人で歩く装備として十分とは言えないが、少なくとも普段着で山へ入るほど無謀ではない。
「今のところ恐竜ゼロ。秘湯もゼロ。あるのは木だけです」
カメラを一周させると、画面いっぱいに深い森が映った。
酸ヶ湯温泉周辺からかなり歩いている。最初は踏み跡らしいものが残っていたものの、途中から道は曖昧になり、地図とスマートフォンの位置情報を何度も確認しながら進むことになった。例の黒い恐竜らしい足跡も見つからず、コメント欄では早くも「普通の登山配信になってる」と笑われている。
「だから言っただろ。そんな都合よく出てこないんだって」
『温泉は?』
「それも見つからない」
『何しに来た』
「俺が聞きたいよ」
軽口を叩きながら進んでいた配信者だったが、やがて足を止めた。
森の様子が、それまでとは違っていた。
木々そのものは立っている。しかし、ある一帯だけ下草が不自然なほど疎らになり、円を描くように茶色く枯れていた。その中に立つ数本の木は、雷を受けた木に似て、樹皮が幹に沿って縦方向へ長く裂けている。根元の土や露出した石にも、そこだけ色が違って見える部分があった。
「……何だ、これ」
配信者はカメラをゆっくり動かした。
『落雷?』
『何本も?』
『下の草も変じゃね』
『近づかないほうがよくない?』
配信者も最初に考えたのは落雷だった。
ただ、一か所の木へ雷が落ちた跡にしては範囲が妙だった。裂けた木は一本だけではなく、下草の枯れ方も火が燃え広がったようには見えない。周囲には緑が残っているのに、その部分だけが境界を引いたように変色している。
「雷でも落ちたのかな。それにしては、ちょっと変だな……」
しゃがんで地面を撮影する。土や石の一部にも変色が見られたが、焦げ臭さはなく、山火事の跡らしい灰も見当たらない。
コメント欄の流れが少し速くなった。
『これニュースになってないの?』
『帰れ帰れ』
『なんか怖い』
『恐竜よりこっちの方がやばそう』
配信者も先ほどまでの軽い調子ではなくなっていた。
「これは温泉探してる場合じゃないかもな。場所だけ記録して、戻ったほうがよさそう」
そう言って引き返そうとしたとき、少し離れた藪の中に不自然なものが見えた。
「ん?」
倒れた枝を避けて近づく。
土の上に、白く細長い樹脂製の帯が落ちていた。輪になる部分が途中で切れ、泥に半分埋まっている。
「結束バンド……?」
配信者は拾わず、その場でカメラを向けた。
少し離れた場所には、もう一本ある。さらに地面をよく見ると、植物の生え方が周囲と違う二本の筋が残っていた。古くて輪郭はかなり崩れているが、幅と間隔からすれば車のタイヤが通った跡にも見える。
『誰か来てた?』
『作業員じゃね』
『なんでこんな山奥に』
『さっき工事跡じゃないって言ってなかった?』
「分からない。昔ここで何か作業してたのかもしれないし」
配信者はタイヤ跡らしきものをカメラで追った。
しかし数メートル先では落ち葉と植物に覆われ、どこから来てどこへ続いているのかまでは分からない。切れた結束バンドも、それだけなら林業や調査作業で使われたものかもしれず、ここで何があったのかを判断できる材料にはならなかった。
「触らないでおこう。場所だけ残しとく」
スマートフォンで現在地を記録し、周囲の地形も映しておく。秘湯探しとは完全に違う方向へ話が進み始めていることに、配信者自身も気づいていた。
「今日はここまでにする。温泉はまた今度だな」
『それがいい』
『珍しく判断がまとも』
「珍しくは余計だ」
配信者はようやく少し笑った。
そのとき、離れた藪が揺れた。
笑みが消える。
「……何かいるな」
声を低くしてカメラを向ける。
草の間から、小さな頭が現れた。
体長は大型犬ほどで、丸みのある胴体から長い尾が伸びている。口先は肉食恐竜ほど鋭くなく、植物から昆虫、小動物まで幅広く食べる小型の雑食種だった。人里の周辺でも見かけることがあり、単独なら健康な成人男性が姿を見た瞬間に逃げなければならないほど危険な種類ではない。
配信者も知っていたらしく、わずかに肩の力を抜いた。
「なんだ。びっくりした」
『かわいい』
『近づくなよ』
『餌やるな』
「やらないって。向こうが離れるまで待つ」
配信者は距離を保ったまま、ゆっくり後ろへ下がった。
小型恐竜は逃げなかった。
首を低くしたまま、こちらを見ている。
「……ん?」
右側の藪が動いた。
二頭目が出てきた。
続いて、左側から三頭目。
配信者の表情が変わった。
小型の雑食恐竜が群れで行動すること自体は珍しくない。しかし、餌を探しているようには見えなかった。互いに鳴き交わすこともなく、三頭とも身体を低くしたまま、配信者の動きだけを追っている。
「ちょっと待て」
最初の一頭が歯を見せた。
配信者が一歩下がると、恐竜は一歩前へ出た。
「おいおい……俺、何もしてないぞ」
コメント欄から冗談が消えていく。
『走るな』
『ゆっくり離れろ』
『刺激するな』
『後ろにもいる』
最後のコメントを見て、配信者は画面ではなく周囲を見た。
背後の藪が動いていた。
四頭目が姿を見せ、その奥でも枝が揺れている。
「……戻る」
配信者は声を落とした。
「配信は切らない。何かあったら場所が分かるようにする」
来た道へ向かって、ゆっくり歩き始める。
小型恐竜たちはついてきた。
一定の距離を保つのではなく、少しずつ間隔を詰めている。配信者が歩調を速めれば向こうも速くなり、立ち止まれば相手も止まった。
「なんだよ、こいつら……」
最初の一頭が、突然走った。
「うわっ!」
配信者は反射的に身体をひねった。小型恐竜が脚へ飛びつこうとして空振りし、地面を滑る。その瞬間、それまで周囲を囲んでいた個体まで一斉に動いた。
配信者は走り出した。
◇
そこから先の配信は、まともな映像になっていなかった。
画面が上下に激しく揺れ、木と地面と空が交互に映る。配信者の荒い呼吸と枝を踏み折る音、その後ろから複数の甲高い鳴き声が追ってくる。
「なんで追ってくるんだよ!」
返事の代わりに、すぐ後ろで鳴き声がした。
配信者は振り返らない。
斜面を駆け下り、木の間を抜ける。途中で何度も足を滑らせ、そのたびに手を地面へつきながら立ち上がった。
『警察電話した』
『位置情報送った』
『林道に出ろ』
『地図の道近いぞ』
『止まるな』
コメントを見る余裕はなかった。
小型恐竜たちは諦めずについてきた。配信者が一度、落ちていた太い枝を拾って振り回すと、先頭の個体は素早く身をかわしたものの、群れは散らない。それどころか別の個体が横から距離を詰め、枝の届かない角度へ回ろうとしていた。
「来るな! 何なんだよ、お前ら!」
普段なら人間ほど大きな相手をここまで執拗に追い回す種類ではない。それを知っているからこそ、配信者には目の前で起きていることが理解できなかった。
走りながら、配信者は一度だけスマートフォンの画面へ視線を落とした。山へ入る前に確認した地図では、この斜面を下った先に細い林道が通っている。舗装されているかどうかも分からない道だったが、先ほど見つけた古いタイヤ跡がそこへつながっているのなら、少なくとも車両が入れる場所までは逃げられる。
「林道……下だよな……!」
『そのまま下』
『もう少し』
『道見えてる』
木々の隙間から、人工物が見えた。
道路だった。
「見えた……!」
配信者の声が裏返った。
幅は狭く、中央付近まで草が伸びている。それでも山の斜面よりは走りやすく、運がよければ車が通る可能性もある。何より、救助側へ現在地を伝えるための明確な目印になる。
配信者は残った力を振り絞った。
あと百メートルもない。
斜面を下り、低い藪を抜ければ林道へ出られる。
その直前だった。
背後から何かがぶつかった。
「うあっ!」
画面が大きく回転し、地面へ落ちた。
スマートフォンは配信者の手から離れ、枯れ葉の上で止まった。カメラには土と草、その向こうにある木々しか映っていない。配信者自身も恐竜たちも画角から外れていた。
配信者はすぐに起き上がろうとしているらしく、落ち葉を掻く音がした。
「待て、待て……来るな!」
甲高い鳴き声が重なった。
何かを蹴る音がして、枝が折れる。
「来るな! 誰か――」
映像の外で激しい物音が続いた。
配信を見ていた者たちには、そこで何が起きているのか見えなかった。
聞こえるのは配信者の声と、何頭もの小型恐竜が発する鳴き声だけだった。
コメント欄が凄まじい速さで流れていく。警察へ通報したという書き込み、救急へ連絡したという報告、配信で映った場所から現在地を特定しようとする視聴者。名前を呼び続けるコメントと、「もうすぐ助けが来る」という言葉が何度も画面を上へ消えていった。
配信者の声は、しばらく続いていた。
最初は叫び、次に助けを求め、それから言葉にならなくなった。
やがて、それも聞こえなくなった。
それでも配信は切れなかった。
枯れ葉の上へ落ちたスマートフォンが、風に揺れる草と木々を映し続けている。画面の外から聞こえていた小型恐竜の鳴き声も、しばらくすると遠ざかっていった。
静かになってから数分後、遠くで車の走る音がした。
林道は、すぐそこにあった。