山へ入って三日目の朝、老人は持ってきた茶葉が足りなくなっていることに気づいた。
前の晩、寒さに負けて焙じ茶を三杯も煮出したのがいけなかった。
湯を沸かす道具はある。水も少し下ったところに沢があるから困らない。食料にしても、もともと長居するつもりで用意したものではないから、残りを数えたところで大した意味はなかった。それなのに茶だけは、もう一杯分残しておけばよかったと、つまらない後悔をしている。
「……何しに来たんだか」
独り言は思ったよりよく響いた。
老人は八十を少し過ぎていた。かつては登録ハンターとして山を歩き、危険な恐竜の追跡や駆除、集落まわりの警戒を仕事にしていた。若いころには獣害対策の仕事もしていて、相手が恐竜に変わっても、足跡を読み、風向きを確かめ、動物の癖を覚えるという基本は変わらなかった。山の中では、目で見るより先に気づかなければならないものがある。そう教わり、そう教え、実際にそれで何度も命を拾った。
どうやらこの身体は目よりもその他の感覚が鋭いらしく、実際に新月の夜、闇のなかで肉食恐竜を屠ったこともある。
その目が、今の老人にはなかった。
最初は細かい字が読みにくくなった。やがて夕暮れの山道で足元を見誤るようになった。医者に通い治療も受けたが、歳から来る病は少しずつ視力を奪っていった。片方の目がほとんど見えなくなったころには、もう現場を離れていた。もう片方を失ったのは、それから何年か経ってからだった。
最後の仕事を終えた日、班の若い連中が送別会を開いてくれた。酒を注がれ、昔話をせがまれ、ずいぶん立派な花束まで渡された。老人には何をそんなに騒ぐのか分からなかった。歳を取って仕事ができなくなった。それだけのことだ。若いとは言えないが、その時に惜しんでくれた後輩は今では日本国内ではトップのハンターとも言われておるらしいじゃないか。
もっとも、仕事を辞めてからの暮らしにはどうにも馴染めなかった。
家族はいなかった。若いころ結婚を考えた相手はいた。けれど仕事の都合で約束を破ってばかりいるうちに、いつしか連絡を取らなくなった。子供もいない。親兄弟はとうに亡くなり、昔の仲間も少しずつ減っていった。
世話を焼いてくれる人がいなかったわけではない。元の班の連中は折に触れて訪ねてきたし、役所の支援を受ければ暮らしそのものは続けられた。それでも朝起きてから夜寝るまで、何を楽しみにすればいいのか分からなかった。
だから山へ来た。長く歩いた山で、最後くらい静かに過ごしてもいいだろうと思ったのだ。
ところがいざ来てみると、死に場所というのは思っていたほど居心地がよくなかった。夜は寒い。地面は硬い。沢の水は冷たく、持ってきた乾パンは年寄りの歯には少々手強い。昨夜など風向きが変わって寝床の岩陰に雪が吹き込み、真夜中に荷物を抱えて場所を移る羽目になった。いくら谷底で雪が浅いとはいえ、師走の山で野宿をする年寄りなど正気の沙汰ではない。昔の自分が見たら、首根っこを掴んで山から引きずり下ろしているところだ。
「家の布団は、よかったなあ」
火の具合を確かめながら老人は呟いた。長く山を歩いてきたくせに、最後の最後に恋しくなるのが布団と茶とは情けない。もっとも、今さら誰に格好をつける必要もなかった。
◇
その日の昼過ぎ、老人は妙な足音を聞いた。
最初は沢の向こうで石が転がったように聞こえた。それから雪を踏む音が続き、重いものが地面に体重をかける鈍い振動が伝わってきた。鹿ではない。猪でもない。
老人は湯呑みを持ったまま顔を上げた。
四つ足にしては足音の間隔がおかしい。大きな後ろ脚で身体を支え、前脚は歩くのに使っていない。ときおり長いものが枝に触れる音がする。尾だろう。かなり、でかい。
「……ほう」
老人は少しだけ嬉しくなった。目が見えなくなっても、身体に染みついた仕事の癖は抜けないものらしい。
足音は近づいてきて、途中で一度止まった。こちらに気づいたのだろう。老人は火に小枝を一本足した。
「四メートル……いや、もう少しあるか。若いな。まだ身体ができあがりきってねえ」
足音が一歩だけ動いた。
老人は首を傾げた。
「それと、お前さん、右の前を庇ってるな。踏み込みが左に寄ってる。……怪我してるのか」
足音がぴたりと止まった。
「図星か。ははは。目が見えなくなってから、耳ばっかり良くなってな。近所のガキどもには、地獄耳の爺さんって呼ばれてる」
もちろん正確な大きさが分かるわけではない。足音の重さと歩幅、身体の運び方から当たりをつけているだけだ。成熟した大型種なら、もっと重くゆったり歩くものが多い。目の前にいるらしい奴は、身体の割に動きが軽かった。
恐竜が短く息を吐いた。
老人は笑った。
「悪いな。勝手に歳を当てられたら、俺だって腹が立つ」
返事はなかった。足音も動かない。
「食うなら食え。逃げる足は、もうねえからな。……ただし、そこの火に尻尾を突っ込むなよ。こっちまで燃える」
老人は湯呑みを口へ運んだ。
恐竜は襲ってこなかった。代わりに地面に何かを置く音がした。布の擦れる音が続き、硬いもの同士が小さく触れ合う。何をしているのかと耳を澄ませていると、聞き覚えのある音がした。
カシュッ。
老人は湯呑みを止めた。
「……おい」
缶のプルタブを開ける音だった。
「今の、缶か?」
返事の代わりに、何かを飲み込む音が聞こえた。
「待て待て。お前さん、何を飲んでる」
喉の奥で低い音がした。
「いや、訊いても答えられんか」
老人はしばらく考えて、やがて膝を叩いた。
「そういや、聞いたことがあるぞ。黒くてでかい恐竜が、温泉に入るって話だ。福島じゃ、人を助けたとも言ってたな」
老人の家にはラジオがあった。目が見えなくなってからは、それが世間とつながる数少ない窓だった。恐竜のニュースは今でも気にして聞いている。黒い大型の個体が温泉に入ったと聞いたときは、誰かの冗談だと思った。そのうち福島で人を助けたという報道まで流れてきた。栃木では酔っ払いを交番まで運んだらしい。自販機でコーラを買ったという話に至っては、ラジオの前で茶を噴いた。
つい何日か前には八王子の話も流れていた。街に入り込んだ中型の肉食恐竜を、ハンターたちと前後して仕留めた。死人は一人も出なかった。そのかわり、路地でひどい暴れ方をしたという証言もある。黒い恐竜は首に深い傷を負って山へ消えた。
元ハンターとしては、どれもそう簡単に信じられる話ではなかった。けれど見た人間は何人もいるらしい。
首に深い傷。
右の前を庇う足音。
「……お前さんか?」
恐竜がまた缶を傾ける音がした。
「ははあ。答えねえってことは、そうなのかもしれんな」
老人は笑った。
「こりゃあ、妙な客が来たもんだ」
それから少し考えて、湯呑みを地面に置いた。
「まあ、座れよ。そこらに石があるだろ。……いや、お前さんが座れるような石はねえか」
重い身体が地面に沈む音がした。
老人は驚いた。
「本当に座ったのか?」
恐竜は何も答えなかった。
「……こりゃあ、ますます妙だ」
◇
誰かと話すのは久しぶりだった。
もちろん相手は恐竜だ。言葉が通じている保証はないし、こっちの話に興味があるとも限らない。けれど少なくとも、立ち去る気配はなかった。ときおり息を鳴らしたり、地面の上で向きを変えたりしている。
「お前さん、腹は減ってないのか。乾パンならあるぞ。もっとも、肉食恐竜に食わせるもんじゃねえな」
老人は袋を探り、残っていた乾パンを一枚取り出した。
「俺だって、好きで食ってるわけじゃねえ。軽くて日持ちするから持ってきたんだが、これがまた硬い。若いころは平気だったんだがな」
すぐ近くで小さな物音がした。恐竜が動いたらしい。
「何だ、気になるのか?」
差し出した乾パンに何かが近づいた。鼻先だろう。指先に温かい息がかかった。けれど乾パンは取られなかった。
「……食わんのか。そうだろうな」
老人は乾パンを自分の口に入れ、しばらく噛んだ。
「昔はな、こういう山に来ると、仕事ばっかりだった。人が襲われた、畑に恐竜が出た、家畜が食われた。休みの日でも、電話が鳴りゃ出かけていったもんだ」
口の中の乾パンを茶で流し込む。
「嫌いな仕事じゃなかった。給料はそれなりだったし、身体を動かすのも性に合ってた。何より、俺みたいな人間でも、役に立つことがあったからな」
老人は膝の上で手を組んだ。
「初めて人から礼を言われたときは、嬉しかったなあ」
昔、山あいの集落で肉食恐竜が家畜を襲う事件が続いたことがあった。夜になると牛舎のまわりを歩き回り、犬を殺し、やがて家のそばにまで現れるようになった。住民は怖がって外へ出られず、子供たちも学校へ行けなくなった。老人は当時の班の仲間と三日間張り込み、四日目の明け方にその個体を仕留めた。
「でな、帰ろうとしたら婆さんが出てきて、俺の手を握って離さんのだ。ありがとう、ありがとうって、何度もな。ああ、仕事をしたんだなと思ったよ」
老人は懐かしそうに笑った。
「ところが、その恐竜を調べたら、腹の中がほとんど空っぽだった。山に餌が少なかったんだろうな。あいつだって、腹が減ってたんだ。だからって、牛を食わせてやるわけにはいかんが」
火の中で薪が小さく弾けた。
「そのあとも、似たような仕事を何度もやった。人を襲った奴。襲いそうな奴。たまたま人の住むところへ迷い込んだ奴。追い払って済むこともあれば、撃たなきゃならんこともあった」
老人は一度言葉を切った。
「……いや。撃たなきゃならんと、思ってた、か」
少し離れたところで、尾が雪を擦る音がした。
「何だ。お前さんも何か言いたいのか?」
返事はない。
「まあ、俺も今さら、全部が正しかったとは言わんよ。若いころは特にな。恐竜が出たと聞きゃ銃を持って飛んでいって、撃ってから考えるようなこともあった。今なら、追い払えたと思う奴もいる」
老人は膝をさすった。
「けどな。逆もあるんだ」
声から、さっきまでの軽さが少し消えた。
「撃たずに済ませようとして、人が死んだこともある」
老人がまだ現場に出ていたころ、若いハンターが一人いた。別の班の所属だったが、合同の訓練で何度も面倒を見た相手だった。腕はよかった。けれど経験が浅く、危険な個体が相手でも、最後まで追い払いで済ませようとする癖があった。老人はその考えが嫌いではなかった。むしろ、できるならそうしたほうがいいと思っていた。
ある日、その若いハンターは山へ戻りかけていた肉食恐竜を追い払い、集落から遠ざけることに成功した。けれどその個体は数日後、別の場所で人を襲った。駆けつけた若いハンターは避難の誘導をしている最中に襲われ、命を落とした。
「俺が教えたんだよ。撃たなくて済むなら、撃つなってな」
老人は火の音を聞いていた。
「だからって、あいつが死んだのが俺のせいかと言われりゃ、分からん。そもそも、あの日あそこで撃てたかどうかも怪しい。恐竜は、山へ帰るところだったからな」
老人は苦笑した。
「死んだ奴の話ってのは、どうにも難しい。何を言ったって、あとからなら立派なことが言える」
湯呑みに手を伸ばしたが、中身はほとんど残っていなかった。
「……ああ。茶がない」
湯呑みを振って、最後の一口を飲んだ。
「お前さんには分からんだろうが、年寄りになると、こういうことのほうが腹立たしいんだ。昔の話なんぞ、いくら考えたって、どうにもならんのにな」
恐竜は相変わらずそこにいた。
◇
話しているうちに、老人は何度か妙なことに気づいた。
恐竜が同じ方向へ顔を向けているらしい。もちろん目には見えない。ただ息の音の向きが変わり、ときおり地面についた前脚が動く。老人の正面から少し離れたところへ移って、また戻ってくる。
最初は落ち着きのない奴なのだろうと思った。
けれどしばらくすると、遠くの藪で何かが動く音がした。
老人は耳を澄ませた。枯れ枝が折れる。重い足音ではない。もう少し軽い。それでも小さな獣ではなさそうだった。
「……ほかにも、いるのか?」
恐竜の喉から低い音が漏れた。
老人は焚き火に顔を向けた。
「困ったな。お前さんが一頭いるだけでも十分だってのに、今日は客が多い」
冗談めかして言ったが、背筋が少しだけ冷たくなった。山で働いていたころの感覚が戻ってくる。姿の見えない相手ほど厄介なものはない。種類も数も分からず、こっちは銃も持っていない。今さら逃げられるとも思わない。それでも危ないものが近づいてくれば、身体は勝手に強張る。
重い足音が二歩、三歩と動き、藪と老人のあいだあたりで止まった。
「お前さんも、あっちが気になるのか」
返事はない。
「そりゃそうか。山で生きてりゃ、何がいるか分からんからな」
老人は少し笑った。
「俺なんぞ、若いころから山が怖かったよ。仕事で何度も入ってたくせにな。暗くなりゃ怖いし、知らん足跡を見つけりゃ嫌な気分になる。でかい恐竜の気配がすりゃ、今でも身体が縮む」
足音は動かなかった。
「お前さんはどうなんだろうな。人間が怖いか? 銃を持った連中に追われたことくらい、あるだろう」
何気なく訊いた。
「怖いなら近づかなきゃいいんだが、そうもいかんことがあるんだよな」
そこでふと、あの若いハンターを思い出した。
初めて危険な個体の駆除に出る前、あいつは何度も装備を確かめ、銃の安全装置に触っていた。緊張しているのが丸分かりだったので、老人は「怖いなら残れ」と言った。若いハンターは首を振った。
「怖いですけど、行きます。俺の仕事ですから」
あのとき自分は何と答えたのだったか。たしか、余計なことを言わずに装備を確かめろと叱った気がする。
「……まあ、怖いものがあっても、行かなきゃならんときはあるわな」
老人は自分の膝を軽く叩いた。
「お前さんは若いんだろ。まだ身体も大きくなる。怖いことがあったって、逃げたって、また別の日に行きゃいい。俺みたいに歳を取ると、その別の日ってのが、なかなか来なくてな」
恐竜が低く息を鳴らした。
「いや、年寄りの説教だ。聞き流せ」
そのとき、藪の奥で何かが走り去る音がした。枝が続けざまに折れ、足音が遠ざかっていく。老人はしばらく耳を澄ませていた。
「……行ったか」
近くの恐竜がようやく身体を動かした。重い足音が戻ってくる。
「何だったんだろうな」
老人は笑った。
「まあ、お前さんがいるところに近づく奴も、そうそういないか」
恐竜はまた老人のそばに座ったらしい。その重みが地面を通して伝わってきた。
◇
午後の日差しが傾き始めたころ、老人は残りの薪を火にくべた。これが最後だった。
「お前さん、まだいるのか」
すぐそばで、喉の奥から短い音がした。
「よく付き合うなあ。こんな年寄りの話、面白くもなかろうに」
老人は膝を伸ばした。
「昔は、よく喋ったんだ。若い連中に仕事を教えなきゃならんかったからな。足跡の読み方、銃の扱い、風の見方、恐竜が逃げるときの癖まで、口うるさく言ってた」
少し笑った。
「それが、仕事を辞めた途端、喋る相手がいなくなった。たまに誰か来ても、具合はどうだ、飯は食ってるか、困ったことはないかって、そればっかりだ」
世話を焼いてくれる人を悪く言うつもりはなかった。むしろありがたいと思っている。けれど昔の話をしようとしても、相手が気を遣っているのが分かると、どうにも続きを話しづらくなった。
「お前さんはいいな。途中で口を挟まん」
老人は声を立てて笑った。
「いや、挟めんのか。悪い悪い」
そのとき、すぐそばで妙な音がした。
ぶるっ、と何かが小刻みに震える音だった。ひと呼吸おいて、もう一度。それから、ぶるるるる、と今度は長く。
老人は口を開けたまま固まった。
「……おい。今の、何だ」
恐竜が身じろぎする気配がした。布の擦れる音。少しもたつくような間があり、ぴっと小さな電子音が鳴る。
震えが止まった。
老人はしばらく黙っていた。
「……携帯か?」
返事はなかった。
「お前さん、携帯を持ってるのか。恐竜が?」
老人は杖の先で地面をこつこつと叩いた。
「誰からだ。……いや、いい。訊いても答えられんだろう。けどな、今のは、誰かがお前さんを呼んだ音だろう。長く震えるのは、呼び出しだ。それに、お前さんは、ちゃんと何か押して返事をした」
老人は膝を叩いて笑い出した。
「こりゃあ傑作だ。俺の携帯なんか、班の若い連中が勝手に登録した番号が三つ入ってるだけだぞ。それも、ここ何か月かは、一度も鳴らしてねえ」
笑いながら、ふと黙った。
ここ何か月か、自分からは一度も鳴らしていない。向こうから鳴っても出なかった。出れば、具合はどうだ、飯は食ってるかと訊かれる。それがどうにも億劫だった。
「……お前さんは、出るんだな。呼ばれたら」
恐竜は何も言わなかった。
「待ってる奴が、いるのか」
喉の奥で短く音がした。
「そうか」
老人はゆっくりと頷いた。
「そりゃあ、出なきゃいかんわな」
恐竜が何かを地面に置いた。布の擦れる音がして、ごとり、と重たいものが土に当たる。今度は缶の軽い音ではなかった。中に液体の入った、ずしりとしたものの音だった。また何か飲むのかと思ったが、栓を開ける音はしなかった。
「そういや、お前さん、どこへ行くんだ?」
返事はない。
「北か、南か。まあ、どっちでもいいがな」
老人は手を伸ばし、焚き火のそばに置いた杖を探った。
「俺は昔、山へ入るときは必ず帰り道を考えろ、って教わった。追いかけることばっかり考えてると、帰るころには道が分からなくなる。そういう奴は、案外多かったよ」
杖の先を指で確かめる。
「俺も一度、やらかしたことがある。若いころにな。獲物の足跡を追ってたら日が暮れちまって、班の連中にえらく怒られた」
老人は苦笑した。
「帰る場所があるうちは、ちゃんと帰らにゃいかん。……なんてな。今の俺が言っても、説得力はないか」
そう言ったあと、少し長く黙った。火が小さくなっていた。
山へ来る前に閉めた、自分の家の扉を思い出していた。戸締まりを確かめ、ガスの元栓を閉め、冷蔵庫の中を片づけた。玄関に立てかけた杖を持ち、いつもの靴を履いた。近所の人に会わないよう朝早くに出た。誰にも行き先を告げなかった。
元の班の連中から電話がかかってきたら、きっと心配するだろう。いつもなら適当に理由をつけてやり過ごせるが、今度はそうもいかない。
そこまで考えて、老人は何だか急に面倒になった。
「……まったく」
恐竜が息を吐いた。
「いや、お前さんじゃない。俺の話だ」
老人は杖を握り直した。
「俺はな、ここへ死にに来たんだよ」
口にしてみると、妙に間の抜けた言葉だった。
「歳を取って、目も見えん。仕事もできん。家族もおらん。もう十分生きたろうと思ってな」
恐竜は動かなかった。
「ところが来てみりゃ、寒いし、茶は足りんし、乾パンは硬い。おまけに妙な恐竜が来て、俺の話を聞いてる」
老人は少し笑った。
「こんなことになるなら、茶葉をもう少し持ってくりゃよかった」
しばらくして、すぐそばで大きな身体が動いた。
老人は思わず背筋を伸ばした。
足音が近づいてくる。一歩、もう一歩。地面が揺れ、温かい息が肩のあたりにかかった。声をかけようとしたそのとき、硬くて大きなものが背中に触れた。
「……おい?」
杖を握りしめたが、痛みはなかった。硬い鱗に覆われた頭が、背中にそっと押しつけられている。獣の匂いに混じって、ふわりと消毒液の匂いがした。
力を入れれば、年寄りの一人くらい簡単に倒せるだろう。それなのに恐竜は、ほとんど体重をかけていなかった。
「……なんだ」
老人はしばらく動けなかった。頬の近くに温かい息がかかる。
「お前さん……」
ゆっくりと手を伸ばした。指先がざらついた鱗に触れた。
大きな頭だった。人の頭とはまるで違う形をしている。鼻面は長く、硬い鱗が重なり合い、触れる場所によって温かさが違った。指はそのまま首のほうへ滑っていって、布に触れた。
分厚く何重にも巻かれた布だった。鱗ではない。人の手で巻かれた包帯だった。
「……包帯か、これ」
老人は指を止めた。
「誰が巻いた。恐竜を診る医者なんぞ、聞いたことが……いや、いるにはいるか。けどな、こんなでかい肉食に、正面から包帯を巻くような命知らずは、俺の知る限り一人もいねえぞ」
指先で包帯の結び目をなぞった。きつすぎず、緩すぎず。何度も巻き直した跡があった。
「……ずいぶん、丁寧に巻いてある」
老人は少しだけ指を動かしてから、手を引っ込めた。
「……悪いな。勝手に触っちまった」
恐竜は怒らなかった。もう一度だけ、背中に頭を押しつけた。
老人は笑った。
「慰めてくれるのか」
返事はない。
「俺みたいな、年寄りを?」
大きな頭が離れ、足音が数歩遠ざかった。
老人は顔を上げた。
「おい、もう行くのか」
足音が止まった。
「……いや、引き留める気はねえよ。お前さんにも、用事があるんだろう」
老人は手探りで杖を立てた。
「達者でな。あんまり人間の近くへ行くんじゃねえぞ。お前さんみたいなのを見りゃ、怖がる奴は多い。俺だって目が見えてたら、銃を探したかもしれん」
恐竜は何も答えなかった。
「まあ、今は持ってねえがな」
老人は笑った。
重い足音がゆっくりと遠ざかっていく。途中で一度止まり、何かを確かめるように息を鳴らす音がした。それからまた歩き出し、やがて木々の奥へ消えていった。
老人はしばらく、その方向へ顔を向けていた。
「……行儀のいい奴だったな」
焚き火の中で、最後の薪が崩れた。
◇
夕方になって、老人は立ち上がった。
膝が痛む。腰も痛い。長く座りすぎて足が痺れ、杖を頼りに何度か身体を揺すって、ようやくまっすぐ立てた。
「……情けねえなあ、座頭市とも呼ばれた男がよ」
足元を確かめ、焚き火に水をかけた。何度も手をかざして熱が残っていないのを確かめ、灰を土で覆う。山火事を出さないための癖は、仕事を辞めても身体に残っていた。
荷物をまとめようとしたとき、指先が硬く冷たいものに触れた。
「……何だ?」
自分の荷物にこんなものはなかったはずだ。手探りで拾い上げると、ずしりと重い。つるりとしたガラスの瓶だった。細い首と、肩の張った胴。首には紙の札のようなものが紐で結わえてある。振ってみると、中で液体がたぷんと重たく鳴った。あまり減っていないらしい。
「おいおい……」
少し迷ってから、老人は栓をひねった。
鼻を近づける。果物のような香りがふわりと立ちのぼった。米の甘い匂い。そのずっと奥に、すっと冷たい芯のようなものがある。
覚えのある匂いだった。いや、覚えのある匂いの、ずっと上等なやつだった。
一口含んだ。
口の中で柔らかいものがほどけた。角がなく、甘く、喉を落ちていくときだけほんの少し熱い。飲み下したあとも、香りがいつまでも鼻の奥に残っていた。
「……酒じゃねえか」
瓶を持ったまま、老人はしばらく動かなかった。
それも、とびきりの酒だった。送別会で若い連中が注いでくれた酒よりも、若いころあの婆さんの家で振る舞われた祝いの酒よりも、ずっといい。年金暮らしの年寄りが一生のうちに一度口にできるかどうか、という味がした。
「茶が足りんと言ったのに、酒を置いていきやがった」
老人は声を立てて笑った。
あの恐竜はいつからこれを持っていたのだろう。どこで手に入れたのか。少しだけ減っているのは、自分で口をつけたからなのか。言葉が分かっていたのか。それとも、たまたま持っていたものを置いていっただけなのか。
確かめようにも、もう足音は聞こえなかった。
「……まったく、妙な奴だ」
老人はもう一口だけ飲んだ。それから栓をしっかり閉め、瓶を荷物の真ん中にしまった。山の中で一人で空けてしまうには惜しい酒だった。
帰ったら元の班の連中に電話してやろう、と思った。今度はこっちから。ここ何か月か一度も鳴らしていない、あの携帯で。
山で黒い恐竜に会ったこと。そいつが缶を開けて何かを飲んでいたこと。年寄りの長話を最後まで聞いたうえ、帰り際には背中に大きな頭を押しつけていったこと。そして、とびきりの酒を置いていったこと。
きっと笑われるだろう。それでも構わなかった。
最近の恐竜は缶で飲み物を飲むらしいぞ、と教えてやろう。どうやら上等な酒まで持ち歩くらしい、と付け加えてやるのだ。それから、残りはあいつらと一緒に飲めばいい。
老人は杖を突き、山道を下り始めた。
「……やれやれ。恐竜を狩って生きてきた俺の、最後の飲み友達が、恐竜とはな」
杖の先が雪の下の石を探り当てる。一歩。また一歩。来たときより、ずっと足取りが軽かった。
「まったく――長生きはするもんだ」
第51章 長生きはするもんだ 了