十二月二十九日の夜だった。
立川の待機所の休憩室で、榊原はスマートフォンを耳から離して、しばらく画面を見つめていた。
「どうしたんすか」
向かいのソファで、岳がカップ麺の蓋を剥がしながら聞いた。
「昔の知り合いの後輩からだ」
榊原はスマートフォンを机に置いた。
「ある爺さんが、一人で山へ入ったきり、三日連絡がつかなかったらしい。周りが捜索願を出すかどうかって話になってたところに、昨日の夕方、ひょっこり帰ってきた」
「よかったじゃないすか」
「それがな」
榊原は眉間を揉んだ。
「その爺さんが、帰るなり、何か月ぶりに自分から電話してきたそうだ。山で黒い恐竜に会った。缶を開けて何か飲んでた。年寄りの長話を最後まで聞いて、帰り際に背中に頭を押しつけていった。それから、とびきりの酒を置いていった」
岳の手が止まった。
部屋の隅の机で資料を広げていた御門が、顔を上げた。
「……その方、どちらの山ですか」
「群馬と栃木の県境だそうだ。会ったのは、昨日の昼だと」
御門はノートパソコンの画面を素早く切り替えた。山梨で取りつけた発信機の記録だった。地図の上に、細い線が北へ向かって伸びている。御門は指で日付をたどった。
「昨日、十二月二十八日。正午から午後四時過ぎまで、群馬と栃木の県境の谷で、ほとんど動いていません」
発信機の受信は、今も御門のパソコンにしかつながっていなかった。本部のシステムには、まだ登録していない。この線を見ている人間は、ほんの数人しかいなかった。
休憩室が静かになった。
「酒って、もしかして」
岳が言った。
「栃木の交番のやつっすか。三万円の」
「たぶんな」
榊原は小さく息を吐いた。
「あいつ、あの酒をずっと持ち歩いてたんだな」
◇
「で、その爺さんって誰なんすか」
岳がカップ麺をすすりながら聞いた。
「榊原さんが昔の知り合いって言うの、珍しいっすよね」
榊原はしばらく黙っていた。それから、冷めかけた缶コーヒーを一口飲んだ。
「座頭市って、聞いたことあるか」
「時代劇の?」
「そっちじゃない。ハンターの通り名だ。俺らの世代なら、知らない奴はいない」
榊原は缶を置いた。
「暗闇をものともしない人だった。夜の山でも、霧の中でも、まるで見えてるみたいに動く。勘が異常に鋭いんだ。足音と風と匂いで、相手がどこにいて、次にどう動くかが分かる」
「そんな人、いるんすか」
「いた。有名な話がある」
榊原は窓の外の暗がりに目をやった。
「新月の夜に、中型の肉食恐竜三頭に囲まれたことがある。群れで狩りをする種類だ。ライトは最初の一撃で壊された。普通なら、そこで終わりだ」
「……で」
「三頭とも、その場で死んでた。爺さんのほうは、かすり傷一つなかった。朝になって仲間が見つけたとき、焚き火の跡の前で、一人で茶を飲んでたそうだ」
岳はカップ麺を持ったまま固まっていた。
「盛ってないっすか、それ」
「俺も最初はそう思った」
榊原は少しだけ笑った。
「自分の目で見るまではな」
◇
榊原がまだ二十代の半ばだったころの話だった。
北関東の山で、大型の肉食恐竜が人里に下りるようになった。家畜が食われ、林道で車が襲われ、とうとう人が一人死んだ。県は討伐を決めた。周辺の県からハンターがかき集められ、五つの班、三十人の部隊が組まれた。
榊原はその中で一番の若手だった。
「切り込み役が、あの爺さんだった。当時でもう五十を過ぎてたはずだ」
榊原は指で机を軽く叩いた。
「相手は体長十メートル近い。正面から撃っても、皮が厚くて急所まで届かない。だから作戦は、誰かが懐に入って足を止める。止まったところを、残りの全員で仕留める。その懐に入る役だ」
「懐って……」
「文字どおりだ」
榊原は両手を机の上に広げた。
「でかいのが突っ込んできた。三十人が一斉に散った。爺さんだけが、逆に前へ出た。走ってくる恐竜に向かって、まっすぐ」
岳が息を呑んだ。
「で、股の下をくぐった」
「は?」
「踏み下ろされる後ろ脚の間を、滑り込むみたいに抜けたんだ。抜けながら、右と左の太腿の内側を一発ずつ撃った。両足の動脈だ。一秒もかかってない」
榊原は手を下ろした。
「恐竜は二十歩も走らないうちに膝をついた。あとは、俺たちが撃つだけだった」
休憩室の中で、エアコンの音だけがしていた。
「……人間業じゃないっすね」
「ああ。人間業じゃなかった」
榊原は缶コーヒーを手の中で回した。
「俺はあのとき、あそこにいた三十人の中で一番若くて、一番自分の腕に自信があった。いつか切り込みで名前を上げてやると思ってた。それが、あれを見て、全部吹っ飛んだ」
「……諦めたんすか」
「諦めた」
榊原はあっさりと言った。
「攻めで、あの人は越えられない。一生やっても無理だと分かった。だから別の道を探した。前に出る奴がいるなら、後ろで全員を生かす奴もいる。群れを見て、指揮を取って、誰も死なせない。そっちなら、俺にもできるかもしれないと思った」
岳はしばらく何も言わなかった。
「……それで、守護神」
「誰がつけたか知らんがな」
榊原は鼻を鳴らした。
「あの人がいなかったら、俺は今ごろどこかで突っ込みすぎて死んでたよ。たぶん」
◇
「ちなみに榊原さん」
岳が真顔で言った。
「その股くぐり、俺でもできますかね」
「やるな」
「いや、マチェットなら、こう、すり抜けながら」
「やるなと言ってる」
「でも八王子で跳びかかりはいなせたし」
「股と跳びかかりは別物だ。踏まれたら終わりだぞ。お前の母ちゃんに何て説明すればいい」
岳は口を尖らせた。
御門がノートパソコンから顔を上げた。
「一つ、伺ってもいいですか」
「何だ」
「それだけの方なら、恐竜を殺した数も相当だったはずです。記録には残っているんでしょうか」
「残ってる」
榊原は頷いた。
「数だけなら、歴代でも屈指だ。危険な個体を仕留めた記録は、たぶん今でも誰にも破られてない」
榊原は少し言葉を探した。
「でもな、殺すのが好きな人じゃなかった。追い払えるものは追い払った。山へ帰る奴は撃たなかった。撃ったあとは必ず手を合わせてた。仕留めた恐竜の腹を開いて、何を食ってたか調べるのも、あの人が一番熱心だった。腹が減って下りてきた奴だと分かると、一晩中黙って酒を飲んでた」
御門は何も言わずに聞いていた。
「腕だけなら、殺し屋になってもおかしくなかった。そうならなかったのは、あの人の中でちゃんと釣り合いが取れてたからだと思う。あれだけ殺せる人が、殺さずに済む道を誰より探してた」
「強いことと、殺したがることは別、ということですね」
「……そういうことだ」
◇
「目が見えなくなったのは、十年くらい前だったか」
榊原は窓の外を見ながら言った。
「歳から来る病気だと聞いた。暗闇の座頭市が、本当に光を失った。皮肉な話だろう」
「……そうですね」
「それでも一人で暮らしてた。家の中のことも、近所の買い物も。普通なら介助が要るところを、ほとんど自分でやってたらしい。耳と勘が、そのまま残ってたからだ。目が見えてたころから、目に頼ってなかった人だからな」
榊原は缶を置いた。
「近所のガキには、地獄耳の爺さんって呼ばれてるそうだ」
岳が小さく吹き出した。
「でもな」
榊原の声が少しだけ低くなった。
「さっきの電話の後輩が言ってた。爺さん、ここ何か月か誰とも話してなかったらしい。電話にも出ない。訪ねていっても、具合はどうだって聞かれるのが嫌そうだった。それが年の暮れに、誰にも言わずに山へ入った」
御門が顔を上げた。
「目の見えない八十過ぎの年寄りが、師走の山で何日も野宿だ。何をしに行ったのかは、言わなくても分かる」
休憩室が静かになった。
「それが、帰ってきた。自分から電話をかけてきて、恐竜と飲んだって笑ってたそうだ。残りの酒は、昔の仲間と飲むんだとさ」
榊原は天井を見上げた。
「……あいつが、連れて帰ってきたんだな」
誰も何も言わなかった。
御門はノートパソコンの画面に目を戻した。地図の上の細い線は、群馬と栃木の県境の谷から、さらに北へ伸びていた。その先端は今、福島との県境に近い山の中で、ゆっくりと点滅していた。
◇
「榊原さん、その爺さんに会いに行かないんすか」
しばらくして、岳が聞いた。
「行く」
榊原は即答した。
「ただ、今じゃない。あいつの件が片づいてからだ」
「片づくって」
「青森から無事に帰ってきて、八王子の家に入るまで。それまでは、ここを離れられん」
榊原は立ち上がって、窓の外の暗がりを見た。
「全部終わったら、久しぶりに酒でも持っていく。あの人の好きな、辛口のやつをな。それで、あいつの話をしてやる。山で会った黒いのが、どこから来て、どこへ帰っていったのか」
「教えちゃっていいんすか」
「あの人は誰にも言わん。言う相手もおらんしな」
榊原は少しだけ笑った。
「それに、たぶん、もう半分くらいは勘づいてる」
◇
その夜、榊原は自宅に戻ってから、スマートフォンで新潟の酒蔵の通販のページを開いた。
辛口の純米を一本。届くのは、年明けの六日と書いてあった。
注文のボタンを押す前に、少しだけ手が止まった。
六日に届いても、すぐには持っていけない。あいつがどこまで行って、いつ戻ってくるのかは、誰にも分からない。青森で何を見つけるのかも、無事に帰ってこられるのかも。
それでも、榊原はボタンを押した。
先に酒を買っておけば、その日が来ると決まるような気がした。山で何十年も仕事をしてきた人間の、験担ぎのようなものだった。
画面を閉じて、榊原は窓の外を見た。
立川の夜空は、雲に覆われていた。北のほうの山では、今夜も雪が降っているのだろう。
暗闇の座頭市を山から連れて帰った黒い恐竜は、まだ、暗い雪の山の中を、一人で北へ歩いていた。
断章20 暗闇の座頭市 了
主人公がぽっと出のキャラと絡んで、あとから補足すると二度うまみが産まれる。
それと別のエピソードでこのキャラを出すと、あの時の! となってちょっとうれしい。
という流れが好きなので、今更ですがこのやり方は意識して頻繁にやってます。
重要な話で知らないキャラが出てきて活躍していくより、少しでも前振りがあったほうがうけいれやすいでしょ?