その花を見つけたのは福島の西の山の、湯の流れ込む沢のほとりだった。
あたり一面が雪に覆われていた。岩も倒木も笹の藪も、すべてが白く塗り潰されている。その中で、沢に注ぐ細い湯の流れの脇だけが黒い土を覗かせていた。どこか上のほうで湧いた湯が、岩の割れ目を伝って流れ落ちてくる。その熱で、ほんの一畳ほどの地面だけが雪に埋もれずに残っていた。
そこに、白い花が一輪咲いていた。
細い茎の先に、小さな花びらが指を広げたように並んでいる。真ん中だけが卵の黄身のような色をしていた。野菊だった。冬のさなかに湯の温もりに騙されて、季節を間違えて咲いてしまったらしい。
男はその前で足を止めた。
足を止めた、というより、止まらずに通り過ぎようとした身体を無理やり引き戻したのだった。
この身体は花に興味がない。食べられないものには目もくれない。花の匂いも、鹿や猪の匂いに比べればないのと同じだった。身体に任せていたら、この白い花は雪の中のただの染みとして、視界の端を流れていっただろう。
男は花を見つめた。
きれいだ、と思った。思うことが、できた。
ひと月あまり前、猪苗代湖を離れてまもない山の中で、同じ花を折ったことがある。岩壁の窪みのそばで倒れていたハンターと、片目の潰れた肉食恐竜。その二つの亡骸のそばに一輪ずつ置いた。お疲れさん、と心の中で言って頭を下げた。あのときの自分は、花を手向けるということを迷いなく知っていた。
今は、それが少し遠かった。
谷底の焚き火のそばで目の見えない老人と別れてから、数日が経っていた。年寄りの長話を聞いていたあいだだけは、自分が自分でいられた気がした。けれどその温かさは、北へ歩くうちに雪の冷たさに少しずつ削られていった。
首の傷はまだ疼いていた。右の前肢には、相変わらず思うように力が入らない。毎晩短く二度震える、鞄の肩紐の黒い箱だけが、自分がまだ一人ではないことを教えてくれていた。
福島に入ってから、身体がうるさくなった。
風の匂いのひとつひとつに、身体が勝手に反応する。鹿の通った跡。狐の小便。遠くの集落の、生ごみと焼いた肉の匂い。気がつくとそちらへ鼻先が向いている。頭で考えるより先に身体が決めて、身体が動き出す。自分はそのあとから、慌てて追いかけているだけだった。
記憶はまだ途切れていない。鹿の死骸の前で目を覚ましたあの朝のような、何もない時間は来ていない。けれど自分がこの身体を動かしているのか、この身体に乗せられて運ばれているだけなのか。その境目が、日に日にぼやけていた。
だから男は、この花を折ることにした。
雪の上に身を低くして、左の前肢をそっと伸ばした。右の前肢では、まだ細かい力の加減ができない。
爪の先で茎の根元を探る。少しでも力を入れすぎれば、茎は潰れ、花びらは散る。この爪は、鹿の腹を裂くための爪だった。肉食恐竜の首の鱗を引き剥がすための爪だった。それを、髪の毛ほどの細さの力で動かさなければならなかった。
三度、失敗した。
一度目は茎を潰しかけた。二度目は爪が滑って、雪を掻いただけだった。三度目は花びらが一枚、はらりと落ちた。
四度目で、茎がぷつりと折れた。
男は白い花を爪の間にそっと挟んだ。花びらは九枚残っていた。
人間らしさというものが何なのか、男にはうまく説明できなかった。けれど少なくとも、この身体だけでは花は折らない。花をきれいだと思って、わざわざ持ち歩こうとするのは、この身体の中にいる自分のほうだった。
この花が、潰れずにここにあるうちは。
この爪で、この花を壊さずに持っていられるうちは。
男は花を挟んだ左の前肢を胸の前に引き寄せた。それから花を潰さないよう前肢をかばいながら、また北へ歩き出した。
◇
福島の市街地の外れに出たのは、それから何日か歩いた先の夕方だった。
近づくつもりはなかった。山の中を進むつもりだった。それなのに気がつくと、身体は川沿いの低い土地へ下りてきていた。
広い河川敷が雪に覆われていた。その向こうに、街の灯りがぼんやりと並んでいる。土手の上を、ときどき車のライトが流れていった。
男は土手の下の、枯れたヨシの陰に身体を伏せていた。
どうして、ここへ来てしまったのか。
分からなかった。分からないまま、鼻が街から流れてくる匂いを勝手に嗅ぎ分けていた。人間の匂い。車の排気。焼き鳥の脂。それから、もっと古い、地面の奥に染みついたような匂い。
血の匂いだった。
二か月前、この街で流れた血の匂い。赤い恐竜の血。七人のハンターのうち、六人の血。そして自分の血。とっくに雨と雪に洗われて、人間の鼻には何も残っていないはずの匂いだった。けれどこの身体の鼻は、それを覚えていた。
身体の奥で、何かがゆっくりと目を覚ました。
あの日の熱だった。赤い恐竜の首に牙を立て、肉を引き裂き、骨を噛み砕いた、あのときの熱。生き延びるための、殺すための熱。それが匂いに呼ばれて、腹の底から這い上がってきた。
(……だめだ)
男はヨシの陰で身体を低くした。
低くした、つもりだった。
気がつくと腹が雪につき、後肢に力が溜まり、尾がまっすぐに伸びていた。逃げるための姿勢ではなかった。隠れるための姿勢でもなかった。
土手の上の道を、何かがゆっくりと動いていた。
三つの影。一つは小さく、二つは大きい。大きいほうの一つがひどく遅い。片方の脚を引きずるようにして、一歩ずつぎこちなく進んでいる。もう一つの大きな影が、その脇を支えている。
遅い。
脚を引きずっている。
弱っている。
頭の中の声が、自分の声ではなくなっていた。言葉ですらなかった。匂いと動きと距離の計算だけが、冷たく正確に、勝手に組み上がっていく。風下。あと四十歩。土手の斜面を駆け上がれば、三歩で届く。いちばん遅いものから。
(……ちがう)
胸の前で、前肢の爪がぎゅっと閉じかけた。
爪の間に何かがあった。柔らかくて細いもの。それが軋んだ。
それが何なのか、男にはもう分からなくなりかけていた。
◇
夕方の河川敷の散歩は、退院してからの日課になっていた。
父親は右脚に硬い装具をつけ、杖を突いて歩いていた。一歩ごとに、足首の奥に鈍い痛みが走る。それでも医者には、毎日少しずつでも歩きなさいと言われていた。歩かなければ、二度と元のようには歩けなくなる、と。
あの日、父親は妻と娘のもとへたどり着けなかった。
規制線を破って走り、路上の消防ホースに足を取られて転んだ。右の足首が折れても、両手の爪を路面に立てて這った。爪が割れて剥がれ、指先から血が筋を引いた。それでも届かなかった。
赤い頭が妻の背中の上へ下がっていくのを、父親は道路に這いつくばったまま見ていた。その横から、黒いものが飛び込んできたのも。
そこから先はよく覚えていない。次に気がついたのは病院のベッドの上だった。足首は二か所で折れていて、手術を二度受けた。剥がれた爪は、ようやく半分ほど生えそろったところだった。
それから二か月が経っていた。
「お父さん、もうちょっとで橋だよ」
少し先を歩いていた娘の結衣が振り返った。赤い毛糸の帽子の下で、頬が寒さで林檎のようになっている。
五歳になったばかりだった。誕生日に買ってもらった自転車は、まだ補助輪がついたまま玄関に置いてある。
「お父さんの脚がなおったら、自転車の練習ね」
「ああ。補助輪が取れるまで付き合うよ」
「ゆっくりでいいのよ」
父親の左腕を支えながら、妻が言った。
「分かってる」
父親は杖を突いて、もう一歩を踏み出した。
そのとき、妻の手が父親の腕を強く握った。
「……あなた」
妻の声が掠れていた。父親は妻の視線の先を追った。
土手の下の、枯れたヨシの陰。夕暮れの薄い光の中に、黒いものが伏せていた。
大きかった。四メートルを超える身体が、雪の上に低く伏せている。黒い鱗。細長い頭。
「……あ」
娘が声を上げた。
「黒い子だ!」
娘の声は弾んでいた。あの日、自分とお母さんの前に立ってくれた黒い恐竜。テレビで何度も見た温泉恐竜。娘はあれからずっと、もう一度会いたいと言い続けていた。
父親も一瞬、胸が熱くなった。妻と娘の命の恩人だった。いつか会えたら、礼を言いたいと思っていた。
けれど次の瞬間、父親の背中を冷たいものが這い上がった。
黒い恐竜の目だった。
金色の目がこちらを向いていた。けれど、こちらを見ているのではなかった。父親の引きずっている右脚を。杖の先を。一歩ごとに傾く身体を。その目は、それだけをじっと見ていた。
父親は、あの日アスファルトに這いつくばったまま見上げた光景を思い出していた。赤い恐竜が、妻と娘の真後ろで頭を下げる直前の姿を。
「……結衣」
父親は声を押し殺した。
「動くな。お母さんのそばにいろ」
「え?」
「いいから」
妻が娘の肩を抱き寄せた。その手が震えていた。妻も気づいていた。あの日、黒い恐竜の背中越しに赤い恐竜を見上げた妻が、気づかないはずがなかった。
黒い恐竜は動かなかった。伏せたまま、金色の目で父親の右脚を見つめ続けていた。喉の奥から低い音が漏れていた。唸りとも呻きともつかない、苦しげな音だった。
あれは、あの日の黒い恐竜だ。父親はそう思った。間違いなく。
けれど今、あそこにいるのは何だ。
◇
「……つらそう」
娘がぽつりと言った。
「え?」
「黒い子、つらそうだよ」
娘は母親の腕の中から、黒い恐竜を見ていた。怖がっている顔ではなかった。泣きそうな顔だった。
「あの日も、あんな声出してた。赤いのと戦ったあと。ずっと、痛そうな声出してた」
そう言うなり、娘は母親の腕をすり抜けた。
あの日、母親の服を握りしめて、どうしても離さなかった小さな手だった。その手が今、自分から母親を離れていった。
「結衣!」
妻の悲鳴が河川敷に響いた。
娘は土手の斜面を駆け下りていった。赤い毛糸の帽子が雪の上で跳ねた。
父親は走ろうとした。右脚が言うことを聞かなかった。装具が軋み、足首の奥で何かが裂けるような痛みが走った。杖が雪に取られ、父親は斜面の途中で膝をついた。
「結衣……っ!」
手を伸ばした。届かなかった。
あの日と同じだった。血だらけの手を伸ばして、どれだけ這っても届かなかった、あの日と。
誰か、と叫びかけて、父親は息を呑んだ。
あの日、その「誰か」として飛び込んできたのは、今、娘が駆け寄っていくあの恐竜だった。
娘は黒い恐竜のすぐ前まで来ていた。
黒い恐竜の頭が、ゆっくりと娘のほうへ向いた。金色の目が娘を見下ろした。口の端から涎が一筋、雪の上に落ちた。
娘は立ち止まらなかった。
両手を伸ばした。
毛糸の手袋を片方ずつ外して、ポケットに押し込んだ。それから小さな素手の両手で、黒い恐竜の顔をそっと挟んだ。
「……大丈夫だよ」
◇
温かかった。
最初に分かったのは、それだけだった。
頬の両側に、小さくて柔らかい、温かいものが触れていた。冷えきった鱗の上に、その温もりがじわりと染み込んでくる。湯の熱とは違った。もっと小さくて頼りないのに、どんな湯よりも深く、鱗の奥まで届いてくる温もりだった。
匂いがした。
子どもの匂いだった。ミルクのような甘い匂いと、毛糸と雪と、少しの汗。
知っている匂いだった。
二か月前、この街で。赤い恐竜の前に立ったとき、背中の後ろで泣いていた小さな身体の匂いだった。
(……あ)
頭の中に言葉が戻ってきた。
ひとつ、またひとつ。雪の上に散らばっていた欠片を、誰かが拾い集めてくれるように。
(……こども)
(……あの日の)
(……あったかい)
男は目の前を見た。
小さな女の子が、自分の顔を両手で挟んでいた。赤い毛糸の帽子をかぶり、頬が林檎のように赤かった。泣きそうな顔で、それでも真っ直ぐに、自分の目を見ていた。
「大丈夫だよ。痛くないよ」
女の子の声が聞こえた。言葉として聞こえた。意味が分かった。
その言葉を、男は知っていた。
あの日、住宅の間の通路を抜ける寸前に聞いた。子どもを身体の下に押し込んだ母親が、最後まで笑ってついていた嘘と同じ言葉だった。
大丈夫。お母さんがいるから。
あの日守られていた子どもが、今それを自分に言っている。
そして男は、自分が今どんな姿勢でいるのかに気づいた。
腹が雪についていた。後肢に力が溜まっていた。尾がまっすぐに伸びていた。
土手の斜面の途中で、杖を落とした人が膝をついていた。右脚に硬い装具をつけている。その後ろで、女の人が両手で口を押さえて立ち尽くしていた。
さっきまで、自分は何を見ていた。
何を数えていた。あと四十歩。三歩で届く。いちばん遅いものから。
三歩。
あの日、自分は三歩足りない距離を跳んだ。この母と子に牙が届く前に、その三歩を捨てて跳んだ。
その同じ身体が今、三歩で届くと数えていた。この子の父親を。
全身の血が一瞬で冷えた。
男は身体を起こそうとした。後肢の力を抜き、尾を下ろし、腹を雪から離そうとした。けれど目の前の小さな手を振りほどくのが怖くて、動けなかった。少しでも大きく動いたら、この身体がこの手をどう扱うのか分からなかった。
男はただ震えていた。
女の子は男の顔を挟んだまま、離さなかった。
「……泣いてるの?」
目の奥が熱いことに、男はそのとき初めて気づいた。
女の子の手がそっと首のほうへ滑った。何重にも巻かれた包帯に、小さな指先が触れた。
「くび、けがしてるんだね」
女の子は包帯の上を撫でるようにさすった。
「テレビで言ってた。八王子で、いたいいたいになったって。……なおった?」
男は答えられなかった。
「なおってないね。まだ、いたいね」
女の子は包帯の上に、ふう、と息を吹きかけた。
「いたいの、いたいの、とんでけー」
◇
どれくらいそうしていたのか、分からない。
やがて女の子の手が、そっと離れた。冷たい風が、手の形のまま頬の鱗を撫でていった。それでも温もりは、まだそこに残っていた。
男はゆっくりと後肢の力を抜いた。尾を下ろした。腹を雪から持ち上げた。ひとつひとつ、自分の身体に言い聞かせるように。
それから自分の前肢を見た。
胸の前で、爪が固く閉じかけていた。男は震える爪を少しずつ開いた。
白い花があった。
茎は途中で少し折れ曲がっていた。花びらが二枚落ちていた。けれど花は、まだそこにあった。潰れてはいなかった。
あの瞬間も、この爪はぎりぎりのところで花を握り潰さなかった。
自分は、まだここにいた。
男はその花を、女の子のほうへ差し出した。爪の先にそっと乗せて。茎を折らないように。残った七枚の花びらを落とさないように。
女の子は花を見た。それから男の顔を見た。
「……くれるの?」
男はゆっくりと頷いた。
女の子は両手で花を受け取った。さっき男の顔を挟んでいた、その小さな手で。
「お花、かわいい」
花を胸の前に抱えて、女の子は笑った。
「ありがとう、黒い子」
それから女の子は、はっとしたようにコートのポケットに手を突っ込んだ。
「あ、まって。まってね」
ポケットから出てきたのは、小さく四つに折り畳まれた画用紙だった。女の子はかじかんだ指で、それを丁寧に広げた。
クレヨンの絵だった。
黒くて大きくて、少しだけ笑っているような顔の恐竜。その前に、手をつないだ小さな女の子と女の人。端のほうに、杖をついたお父さん。四人の頭の上に、大きさのそろわない字でこう書いてあった。
くろいこ ありがとう
「いつ会ってもいいように、ずっとポケットに入れてたの」
女の子は得意そうに胸を張った。
「お花のおかえし。あげる」
男はその絵を、長いあいだ見つめていた。
それから左の前肢の爪の先で、画用紙の端をそっと挟んだ。花を摘んだときと同じように。髪の毛ほどの細さの力で。
鞄の外ポケットにそれを差し込んだ。まっています、と書かれたラミネートのカードのすぐ隣に。
女の子はそれを見て、嬉しそうに笑った。
男は何も言えなかった。言えるはずもなかった。喉の奥で短く二度鳴らした。二号に向けるのと同じ音だった。
女の子はきょとんとして首を傾げた。それから真似をするように、喉の奥で、くっ、くっ、と鳴らそうとした。うまく鳴らなくて、自分で笑った。
土手の斜面から足音が近づいてきた。
女の人が駆け下りてきていた。女の子を後ろから抱きすくめ、そのまま男の前で雪の上に膝をついた。あの日と同じように、娘を自分の胸に抱え込んで。けれど今度は、男に背中を向けなかった。娘を抱きしめたまま、女の人は男を見上げた。
その目に怯えがあった。それから、怯えと同じくらいの、何か別のものがあった。
あの日、赤い恐竜との間に立った自分の背中を、見上げていた目だ。男はそう思った。
土手の上で、杖の人が杖を拾い直して、どうにか立ち上がっていた。右脚を引きずりながら、一歩ずつ斜面を下りてくる。さっき自分の目が、獲物として数えていた脚だった。
男は目を伏せた。
その人は妻と娘のそばまで来ると、杖に体重を預けて男の前に立った。しばらく何も言わなかった。それから杖を突いたまま、深く頭を下げた。
「……あの日は、妻と娘を、ありがとうございました」
男は顔を上げた。
その人の杖を握る指先が見えた。爪が半分ほどしか生えそろっていなかった。
「あの日、私は届かなかった。這うことしかできなかった。……届いてくれたのは、あなたでした」
その声は震えていた。それでも真っ直ぐだった。
「ずっと、言いたかったんです。ありがとう、って」
その人は少しだけ言葉を切った。
「さっきのあなたの目。……あの日の赤いのと、同じに見えました。正直、怖かった。でも」
その人は、娘の手の中の白い花を見た。
「あなたは、止まってくれた。……今も、戦ってるんですね。あの日みたいに」
男は何も答えられなかった。喉の奥が詰まって、鳴らすこともできなかった。
ただ、もう一度だけゆっくりと頭を下げた。いつも頭を下げるときよりも、ずっと深く。
それから鞄の肩紐を直して、背を向けた。
河川敷を川上のほうへ歩き出した。
「黒い子ー!」
背中のほうで女の子の声がした。
「また来てねー! お花、大事にするからー!」
男は振り返らなかった。振り返ったら、もう歩けなくなる気がした。
頬の鱗に、まだ小さな手の温もりが残っていた。それが消えないうちに、少しでも遠くまで歩いておきたかった。
◇
夕暮れの河川敷の向こうへ小さくなっていく黒い背中を、三人はいつまでも見送っていた。
「……行っちゃった」
花を胸に抱えたまま、娘がぽつりと言った。
「うん」
妻が帽子の上から娘の頭を撫でた。
父親は杖に体重を預けたまま、黒い背中が見えなくなった方角を見つめていた。
あの目を忘れることはないだろう、と思った。獲物を見る目。あの日、アスファルトの上から見上げた赤い恐竜と同じ目。
そして娘の手が触れた瞬間、その目の奥から何かが必死に這い上がってきたのも見ていた。溺れかけた人間が、水面に手を伸ばすように。
あの日の自分と同じだ、と父親は思った。届かないと分かっていて、それでも手を伸ばしていた。
あれは戦っているのだ。誰もいない冬の山の中で、たった一頭で、自分の身体と。
「お父さん」
装具をつけた父親の脚に、娘がそっと手を置いた。
「この花、押し花にしていい? ずっと取っとけるように」
父親は娘の手の中の白い花を見た。花びらが七枚だけ残った、茎の少し曲がった季節外れの野菊だった。
「……ああ。いいよ」
父親は杖を握り直した。
「帰ろう。家で、いちばん重い本に挟もう」
三人はゆっくりと土手を上っていった。父親の歩みに合わせて、一歩ずつ。娘はもう先を走らなかった。父親の右側に並んで、花を持っていないほうの手を、杖を握る父親の手に重ねていた。
あの日、どれだけ伸ばしても届かなかった手だった。
その手は温かかった。
第52章 野菊をひとつ 了