宮城の山に入って二日目の朝、男は雪の上に残された足跡の前で立ち止まった。
大きかった。自分の足跡より、ひと回り大きい。太い指が深く雪に食い込み、一歩ごとの間隔が長い。重いものが迷いのない歩幅で歩いていった跡だった。縁はまだ崩れておらず、つけられてからそれほど時間は経っていない。
風が変わり、匂いが流れてきた。知っている匂いだった。
頭より先に身体が覚えていた。鱗の下の筋肉が勝手に張り詰め、尾が持ち上がり、喉の奥で低い音が鳴りかける。この秋、この山の麓の人の消えた町で向き合った相手の匂いだった。
あいつは、ほかの肉食恐竜とはまるで違っていた。むやみに突っ込んでこない。こちらの動きを一度見れば覚え、二度目には同じ手を食わなかった。こちらが逃げ込んだ狭い場所には入らず、外から回り込んで逃げ道を塞ごうとした。獣の賢さというより、喧嘩慣れした人間を相手にしているようだった。
崩れた資材の下をくぐり、爪で肩の傷を広げ、噛みつかれないことだけを考えて駆け回った。長い駆け引きの末に、先に退いたのはあいつのほうだった。肩から血を流しながら、こちらに背を見せきらないまま、道路の向こうへ消えていった。
あの夜、男は妙に晴れやかな気持ちだった。後肢は重く、喉は渇き、身体じゅうが痛かった。それでも生きている、と思えた。この身体で、自分は確かに生きている。あのときは、自分が自分であることを疑いもしなかった。
男は足跡から顔を背けた。
(……会いたくない)
今の自分は、あの秋の自分とは違う。山梨を出てから一度、記憶が抜けた。目を覚ましたら口の中に血の味があって、足元に鹿が倒れていた。身体が自分を置いて動いたのだ。そんな状態であいつと向き合ったら、身体はきっと喜んで飛びかかる。止まれる自信はどこにもなかった。
男は足跡の向きから外れるように、斜面を東へ回り込んだ。
◇
逃げ切れなかった。
昼過ぎ、尾根の上の岩場に出たところで、頭上から雪の塊が落ちてきた。見上げると、岩の上にあいつが立っていた。
気づかなかった。匂いはずっと風下から来ていると思っていた。それなのに、あいつは風上の岩の上にいた。男が足跡を避けて東へ回り込むことを読み、先回りして、自分の匂いが届かない側から近づいてきたのだ。あの夜と同じだった。こちらの逃げ道を先に塞いでくる。
その気になれば、岩の上から音もなく飛び降りて男の首を押さえることもできた。あいつはそうしなかった。わざわざ雪を落として、ここにいるぞと知らせてきた。
冬の陽を背負った大きな影が、こちらを見下ろしている。首筋には、あの夜にもあった古い傷痕。そして肩口に、白い傷跡が一本斜めに走っていた。崩れた木材が裂き、男の爪が広げた傷だった。
あいつは男の頭から尾の先までを、ゆっくりと眺めた。あの夜より一回りも二回りも大きくなった身体を、確かめるように。
それから口を開け、短く吠えた。怒りの声ではなかった。腹の底から楽しげに突き上げてくるような声だった。
覚えていたのだ、と男は思った。たった一晩向き合っただけの相手を、あいつはちゃんと覚えていた。胸の奥が一瞬だけ熱くなった。
あいつは岩の上から一跳びで雪の斜面へ降りてきた。男の正面、十歩ほど手前で止まり、前肢で雪を蹴り上げる。頭を低くして、また上げる。尾を大きく一振りして男のすぐ脇の雪を叩き、舞い上がった雪が男の顔にかかった。
来いよ、と言っていた。大きくなったじゃないか。あの夜の続きをやろうぜ。今度は逃げ回るなよ。
(……やめろ)
身体が熱くなり始めていた。後肢に力が溜まっていく。あの夜は一度も使わなかった牙が、顎の奥で疼いていた。肩口の傷跡の少し上。首の付け根。どこへ牙を立てればいいのか、身体はもう知っていた。
(やめろ。来るな)
男は一歩後ずさった。
あいつが首を傾げた。もう一度雪を蹴り上げ、今度はわざと大きく踏み込んできて、男の鼻先、牙の届くぎりぎりの距離でぴたりと止まった。生温かい息が顔にかかった。血と鉄の匂いの混じった息だった。
身体の中の熱が跳ねた。
男は頭を地面に押しつけるように低くした。牙を剥くためではなく、目を逸らすために。前肢で雪を掴み、全身を硬くして、ただ震えていた。
来るな。頼むから来るな。お前が覚えていてくれたのは、あの秋の俺だ。その俺は、もう半分くらいしか残っていない。お前と戦ったら、残りの半分もきっと持っていかれる。
あいつは男を見下ろしていた。それから鼻先で男の肩を小突いた。軽く。もう一度、少し強く。男の身体が雪の上に崩れても、男は起き上がらなかった。顔を伏せたまま、喉の奥で震える息を吐いていた。
あいつは鼻を鳴らした。つまらなそうな、拍子抜けしたような、何か腑に落ちないような音だった。それから男に背を向け、雪を蹴散らしながら尾根の向こうへ去っていった。
その足音が聞こえなくなるまで、男は顔を上げられなかった。
情けなかった。あれほど誇らしく思えた秋の夜の自分が、今は雪に額を押しつけて震えている。あいつはきっとがっかりしただろう。そう思うと、喉の奥がひりついた。
◇
その夜も眠れなかった。
岩陰に身体を押し込み、目を閉じても、意識は沈んでいかない。昼間の熱が、まだ身体の奥でくすぶっていた。あの首の付け根へ、牙を立てたがっていた。男はそれを押さえ込むように、自分の前肢を抱え込んで丸くなった。
気がつくと朝だった。
知らない沢のほとりにいた。口の中に血の味がした。足元にカモシカが倒れていて、喉が裂かれ、腹の中身が雪の上に引きずり出されていた。
二度目だった。
男は跳ね起きるようにして死骸から離れた。そこで気づいた。沢の向こう岸の岩の上に、あいつがいた。
腹這いになって顎を岩の縁に乗せ、こちらをじっと見ていた。いつからそこにいたのかは分からない。ただ、その目を見て悟った。見ていたのだ。夜のあいだずっと。自分の身体が自分を置いて獲物を追い、倒し、食べるところを。
あいつの目には、昨日の楽しげな色はなかった。戸惑っているような、何かを確かめようとしているような目だった。
秋の夜、一度も牙を使わずに逃げ回った獣。昼間、戦いを拒んで震えていた獣。そして夜、迷いなくカモシカの喉を裂いた獣。それが同じ一頭だということを、うまく飲み込めずにいるようだった。
見られた、と男は思った。
いちばん見られたくないところを見られた。子どものころ、隠していたものを親に見つけられたときのような、身体の芯が縮み上がる恥ずかしさだった。相手は獣で、何を見たのかも分かっていないかもしれない。それでも恥ずかしかった。
男は沢へ顔を突っ込んだ。凍るような水で、口の周りの血を洗った。何度も、何度も。牙の間に挟まった肉の筋を、前肢の爪で掻き出した。歯茎が切れて自分の血が混じっても、やめなかった。それでも鉄の味は消えなかった。
それから、沢のほとりの雪に爪を立てた。
た だ い ま
最後の線が右へ曲がった。男はそれを確かめると、喉の奥で短く二度鳴らした。山梨の峠で預けてきた二号を呼ぶ音だった。返事が来ないことは分かっていた。それでも、鳴らさずにはいられなかった。
返事はやはりなかった。沢の水音だけが谷に響いていた。
気配がして、男は顔を上げた。あいつが沢を渡ってきていた。水を蹴立てもせず、静かに。男のすぐ前まで来ると、雪の上の四文字に鼻先を近づけ、じっと匂いを嗅いでいた。それから男の顔を見た。
あいつに字は読めない。何が書いてあるのか、分かるはずもない。それでも、その四文字の上に何か大事なものが置かれていることだけは、分かっているようだった。それを踏まないように、あいつはそっと横へ回り込んだ。
そして、男の隣に腹を下ろした。
風上の側だった。大きな身体が、吹きつけてくる冷たい風を遮った。あいつはそれきり何もしなかった。吠えもせず、小突きもせず、ただそこに伏せて沢の流れを眺めていた。
男は動けなかった。隣から体温が伝わってきた。重く、ゆっくりとした呼吸の音が聞こえた。
あいつは、男が何者なのか問わなかった。人間なのか恐竜なのか。昨日の臆病者なのか、昨夜の殺し屋なのか。どれでもいいというふうに、ただ隣にいた。
喉の奥が詰まった。目の奥が熱くなって、沢の流れが滲んだ。山梨を出てから、夜を一緒に越してくれたものは誰もいなかった。自分から誰も隣にいさせなかった。それなのに、この秋に命のやり取りをした相手が、何も聞かずに風を遮ってくれている。
男はあいつの脇腹にそっと額を押しつけた。あいつは身じろぎ一つしなかった。
◇
それから、あいつはついてきた。
ついてきた、というのは正確ではないかもしれない。たいていは、あいつのほうが前を歩いた。男が北へ向かおうとすると、鼻を鳴らして先に立ち、男が選ぼうとした道とは少し違う尾根を進んだ。ついていくと、人の住む谷や車の通る道路から、うまく離れた道筋になっていた。この山を、あいつは隅々まで知っていた。
男が足を止めて息をつくと、あいつも止まった。振り返りはしない。少し先で立ち止まり、男が歩き出すのを黙って待っていた。
昼に一度、あいつは姿を消し、鹿を一頭くわえて戻ってきた。男の前にどさりと落とし、男が戸惑っていると、自分で腹を裂いて半分を食べ、残りを鼻先で男のほうへ押しやった。
男はその肉を食べた。自分が狩ったものではない肉だった。だから、どこから来たのかを知っている肉だった。食べているあいだ、自分がここにいることをはっきり覚えていられた。それだけのことが、ひどくありがたかった。
午後、男がまっすぐ尾根の縁を進もうとしたときだった。あいつが前に回り込んで道を塞いだ。低く唸り、肩で男を斜面の内側へ押し戻す。男が戸惑っていると、あいつは前肢の先で尾根の縁の雪を、とん、と一度だけ叩いた。
雪が崩れた。
男が歩こうとしていた足元は、地面ではなかった。風に吹き寄せられた雪が、崖の上に庇のように張り出していただけだった。崩れた塊は斜面を転がり落ち、谷底で白い煙を上げた。そのあとから斜面一面の雪がずるりと滑り出し、低い地鳴りを残して谷を埋めていった。
男はしばらく息ができなかった。あいつは何事もなかったような顔で、内側の硬く締まった雪の上を歩き出した。この山で冬を越すということがどういうことなのか、あいつは身体の隅々まで知っていた。
夕方には、谷筋で小型の肉食恐竜の群れに出くわした。
六頭いた。痩せて目が濁っていた。二頭に気づいても逃げるどころか、甲高い声を上げていっせいに向かってきた。怖れというものを、どこかに置き忘れてきたような動きだった。
男の身体が跳ねかけた。後肢に力が溜まり、喉の奥が熱くなる。駄目だ、と思った。今ここで牙を使ったら、昨夜と同じことになる。六頭を噛み砕いて、そのまま自分がどこにいるのか分からなくなる。男は前肢を雪に突き立てて、その場に踏みとどまった。
あいつが男の前に出た。
速かった。大きな身体が雪の上を滑るように動いた。先頭の一頭を尾で薙ぎ払い、飛びかかってきた二頭目を半歩だけ身体をずらしてかわす。かわしざまに首を一振りすると、それだけで二頭目は雪の中に転がって動かなくなった。
残りの四頭が左右に散って回り込もうとしても、あいつは追わなかった。ゆっくりと後ろへ下がり、背中を切り立った岩壁につけた。正面からしかかかってこられない場所だった。
あの夜、男が資材置き場でやったことと同じだった。自分が通れて、相手が通りにくい場所を選ぶ。一度見ただけのやり方を、あいつは自分のものにしていた。
焦れた群れが一頭ずつ飛び込んでくる。あいつはそれを、一頭ずつ落ち着いて片づけていった。無駄な動きが一つもなく、息ひとつ乱れていなかった。
最後の一頭が雪の上で痙攣して動かなくなると、あいつは男のほうを振り返った。男は前肢を雪に突き立てたまま、まだ震えていた。牙は一度も使っていなかった。
あいつは男の顔を見ていた。それから鼻を鳴らした。昨日のつまらなそうな音とは違っていた。それでいい、と言われたような気がした。お前は戦わなくていい。
あの夜、自分は体格の差を狭い場所でごまかし、傷を広げて、どうにか追い払ったつもりでいた。あいつが本当はどれほどの力を持っていたのか。男はそのとき初めて知った気がした。そして今、その力を自分のために使ってくれている。
◇
男はあいつの腹の横で眠った。
あいつが先にそこに丸くなっていた。男が少し離れた岩陰に向かおうとすると、低く一声だけ鳴いた。呼ばれたのだと分かった。近づくと、あいつは尾を少しずらして隙間を空けた。
身体を寄せる前に、男は鞄の肩紐に結ばれた黒い箱へ、左の前肢を伸ばした。
毎晩の決まりごとだった。峠を出てから、一晩も欠かしていない。どれだけ疲れていても、記憶が抜けた朝のあとでも、眠る前にこれだけは必ずやった。爪の先で青いボタンを押す。小さな電子音が、雪の沢に、ぴ、と響いた。
あいつが首をもたげた。
聞き慣れない音だったのだろう。鼻先を寄せて、黒い箱の匂いをしつこく嗅いだ。人間の手の匂いが、まだ残っていたのかもしれない。喉の奥で低く唸りかけた。
そのとき、箱が短く一度震えた。ひと呼吸おいて、もう一度。
あいつがびくりと首を引いた。鼻先に皺を寄せて箱を睨み、それから不思議そうに首を傾げて、男の顔と箱とを見比べた。
男は喉の奥で短く二度鳴らした。箱の震えと同じ間隔で。返事をするように。
あいつは男の顔を見ていた。この黒い獣は、硬い小さな石のようなものに話しかけて、石もそれに答えている。そう思ったのかどうかは分からない。やがて鼻から長く白い息を吐いて、興味を失ったように、また尾を少しずらした。
身体を寄せると、あいつの腹は驚くほど温かかった。
目を閉じると、意識がゆっくりと沈んでいった。明日の朝のことを怖がらずに眠れたのは、山梨を出てから初めてだった。暗い水の底へ、静かに降りていくような眠りだった。
夢を見た。
八王子の家の玄関だった。三和土に、自分の靴が揃えて置いてあった。奥の台所から、鍋の蓋がことことと鳴る音と、甘辛い醤油の匂いがした。誰の姿も見えない。けれど、そこに誰かがいて、自分が帰ってくるのを待っていることだけは分かった。怖い夢ではなかった。ただ温かかった。
途中で一度だけ目が覚めたとき、自分はちゃんと同じ場所にいた。隣で、あいつの呼吸がゆっくりと続いていた。男はもう一度目を閉じた。朝まで、一度も記憶は途切れなかった。
目を覚ますと、雪が降っていた。あいつの背中に白く雪が積もっていた。男の背中にも、同じように積もっていた。
人間の言葉も名前も、ここにはなかった。おはようと言ってくれる人もいない。それでも、目を開けたとき隣に誰かがいる。それだけで、自分の輪郭が少しはっきりする気がした。
あいつは、男が誰なのかを知らない。人間の名前も、家族のことも、八王子のことも。知っているのは、この秋、自分の傷を広げて最後まで捕まらなかった黒い獣のことだけだ。それで十分だった。あいつの中で、自分は「あの秋の相手」として、ちゃんと一つの形をしている。そのことが、名前と同じくらい温かかった。
あいつが起き上がり、身震いをした。背中の雪が、男の顔にまともに降りかかった。男が雪を振り払って見ると、あいつは知らん顔で伸びをしていた。わざとだ、と男は思った。
気がつくと、男は前肢で雪をすくって、あいつの顔に投げつけていた。
あいつが目を丸くした。それから頭を低くして、喉の奥で短く楽しげに鳴いた。昨日、岩の上で聞いたのと同じ声だった。次の瞬間、あいつは肩から男にぶつかってきて、二頭はもつれ合って雪の斜面を転がった。
身体の奥の熱が、ふっと目を覚ましかけた。男は一瞬身を固くした。けれど熱は、それ以上上がってこなかった。あいつの力の入れ方が絶妙だった。押すけれど、潰さない。噛む真似はしても、牙は立てない。男の身体が本気になりかけるたびに、ふわりと力を抜いて離れ、そしてまた雪を蹴りかけてくる。
遊ばれているのだ、と男は気づいた。男がどこまでなら自分を見失わずにいられるのか。この大きな獣はその境目を正確に見切って、その内側でだけ遊んでくれている。
男は雪まみれになって、斜面の下で仰向けに転がった。息が上がっていた。空が高かった。灰色の雲の切れ間から、薄い青がのぞいていた。
胸の奥が軽かった。
山梨を出てから、ずっと胸の上に重い石が乗っていた。眠れない夜も、記憶の抜けた朝も、その石は重くなっていくばかりだった。それが今、ほんの少しだけどこかへずれていた。
男は雪の上で母の顔を思い浮かべた。くっきりと浮かんだ。笑ったときの目尻のしわも、怒ったときに少しだけ尖る口元も。父の低い声も、妹の、遅いよ、という声も。昨日まで思い出すたびに胸が締めつけられた顔たちが、今はただ懐かしかった。
会いたい、と思った。怖い、ではなく、会いたい、と。そう思えたのは、ずいぶん久しぶりだった。
◇
対策本部の奥の小部屋に宮城県の監視映像が届いたのは、その日の午後だった。
「宮城県の、登録個体の定期監視ドローンです」
段ボール箱の隙間に置いたノートパソコンの前で、佐倉が言った。
「月に一度、県内の登録済み大型個体の縄張りを上空から確かめていて、その映像をうちにも回してもらってるんです。今日がたまたま、その日で。……宮城と岩手の県境に近い、山の中の沢筋です」
佐倉が映像を止め、一枚の画を映した。雪の降りしきる沢の淀みから、白い湯気が立ちのぼっていた。その湯気の中に、二つの大きな黒い影があった。
「……二頭、いますね」
隣の三枝が椅子から身を乗り出した。
「肉食の大型が二頭、並んでる。どういうことですか、これ」
御門は画面に顔を近づけた。片方は見間違えようがなかった。鞄の肩紐に結んだ発信機の、小さな光が映り込んでいる。もう片方はそれよりひと回り大きく、肩口に白い傷跡が一本斜めに走っていた。
「この子……」
御門は手元の端末で、宮城県の登録台帳を呼び出した。
宮城県登録、大型肉食種、第七号。成体。推定全長、六メートル前後。首筋と脇腹と後肢に古い傷痕。縄張りは県北西部の山地から、岩手との県境の手前まで。人里への出没歴はほとんどない。この数年、県の担当者がドローンで見守ってきた、行儀のいい個体だった。
台帳の最後に、この秋の日付で一つだけ記録が足されていた。縄張りの南の無人区域で、未登録の黒い肉食個体と交戦。第七号が肩を負傷し、自ら退く。黒い個体の負傷は軽微。
その夜のドローン映像には、肩から血を流しながら道路の向こうへ退いていく第七号の後ろ姿が写っていた。
「この秋、宮城で彼と戦った個体です。……肩の傷跡は、あの夜のものですね。場所が同じです」
「また、やり合ってるんですか」
三枝が訊いた。
「いいえ」
御門は画を拡大した。二頭は湯気の立つ淀みの中に、並んで身体を沈めていた。片方は岩の縁に顎を乗せて目を閉じ、もう片方は首まで湯に浸かって、降ってくる雪を見上げていた。どちらの姿勢にも、警戒の色はなかった。
「……温泉、ですね」
佐倉が気の抜けたような声を出した。
「肉食恐竜が、二頭で温泉に浸かってる」
三枝は画像を見つめていた。それから、ふっと鼻から息を漏らした。
「県の人、これ見て腰抜かしますよ」
「鞄の光は分かりますか」
「この画質なら、たぶん気づかないと思います。雪と湯気でほとんど白いですし。……でも念のため、県には『黒い個体との再接触、敵対行動なし』とだけ返しておきます」
三枝は地図の画面を開いた。
「赤い線、ここ二日ほどきれいにまっすぐなんです。青を押す前に立ち止まる、いつもの間もちゃんとあります。夜の狩りの動きも、昨夜は出ていません」
御門は、雪を見上げている黒い横顔を見つめた。
「……一人じゃ、ないんですね」
声が少し震えた。
「あの子は、彼が何者なのか知りません。名前を呼んでくれるわけでもない。でも、少なくとも隣にいる。……今の彼には、それが何よりの薬なのかもしれません」
佐倉が、地図の上の赤い線の先を指でたどった。
「この先は岩手です。台帳だと、第七号の縄張りは県境の手前までですよね。どこまで、ついていくんでしょう」
御門は答えなかった。画像の中で、湯気が雪の中へ静かに溶けていた。
その夜、三枝と佐倉が帰ったあとも、御門は一人小部屋に残っていた。
机の上に、印刷した一枚の画像が置いてあった。湯気の中の、二つの黒い影。御門はそれを両手で持ったまま、動かなかった。
柳沢峠の雪の中で、彼が去っていったときのことを思い出していた。首に包帯を巻いた黒い身体が、一度だけ振り返って頭を下げ、それきり雪の山の向こうへ消えていった。あの背中を、御門はただ見送ることしかできなかった。鞄の肩紐に発信機を結んで、赤い線を見守ると約束して、それで何かをしているつもりになっていた。
扉が小さく開いた。二号だった。
日下部の病院では、夜通し誰かがそばにいられない。それで二日前、この施設の飼育棟へ移されてきたのだ。脇腹にはまだ包帯が巻かれていて、歩くたびに少しだけ身体を傾けた。それでも夜になると、なぜか飼育棟を抜け出して、御門のいる小部屋を探し当ててくる。
今夜も爪の音を立てずに入ってきて、御門の椅子の足元に丸くなった。御門が画像を下げて見せると、二号は首を伸ばし、黒い影の片方の匂いを嗅ぐような仕草をしてから、小さく鳴いた。
――ぴ、ぴ。
「……そうですね。元気そうです」
御門は、もう一頭の大きな影を見つめた。肩口に白い傷跡のある影。台帳の上の、第七号という番号のほかには名前もない。この秋には、彼の命を奪いかけた相手だった。
その影に向かって、御門はほとんど声にならない声で言った。
「……お願いします」
自分が何をしているのかは分かっていた。研究者が、野生の肉食恐竜の写真に頼みごとをしている。誰かに見られたら笑われるだろう。それでも言葉は止まらなかった。
「あと少しだけ。あと少しでいいんです。そばに、いてあげてください。彼が夜に眠れるように。朝、自分がどこにいるのか分かるように。……私たちは、そこまで行けないから」
御門は画像を胸に押し当て、目を閉じた。手を組むような形になっていた。祈るつもりはなかった。神様を信じているわけでもなかった。ただ、ほかに何もできなかった。
頬を伝ったものが画像の端に落ちて、湯気の白に小さな染みを作った。
画面の隅で、赤い線の先が県境のほうへゆっくりと近づいていた。御門は地図の上で、そこから岩手との境までの距離を指でなぞった。あと一日。長くて、二日。
「……もう少しだけ」
足元で、二号がもう一度小さく鳴いた。
◇
その湯を見つけたのは、あいつだった。
昼過ぎ、谷を下っていくと、風の中にかすかに卵の腐ったような匂いが混じり始めた。あいつはその匂いのほうへ、迷いなく歩いていった。沢のほとりの岩の間から湯気が立ちのぼり、雪に囲まれた淀みが白く濁った湯を湛えていた。
男は思わず足を止めた。あいつが振り返り、男の顔を見て、湯を見て、また男を見た。
どこで知ったのだろう、と男は思った。秋のあの夜のあと、どこかで湯に浸かる自分の姿を見ていたのか。分からなかった。ただ、あいつはこの湯を見せるためにここまで連れてきたのだという気がした。
男は湯の縁に前肢をかけ、ゆっくりと身体を沈めた。
熱かった。凍えきった鱗の一枚一枚の下へ、熱が染み込んでいく。噛みしめていた顎が勝手にゆるんだ。肺の底から長い息が漏れた。
(……ああ)
あいつは湯の縁で様子を見ていた。前肢の先を湯に浸けては引っ込め、また浸けては引っ込める。熱いものに慣れていないらしかった。男が首まで沈んで目を閉じているのを見て、ようやく意を決したように、大きな身体を一気に湯へ投げ込んだ。
盛大に湯が溢れた。波が男の顔にかかり、男はむせた。あいつは湯の中で目を白黒させ、鼻から湯を吸い込んで、派手にくしゃみをした。もう一度。頭を振って、また湯に鼻を突っ込んで、またくしゃみをした。
男の喉の奥から、変な音が漏れた。何の音か、自分でも分からなかった。少しして、それが笑い声なのだと気づいた。恐竜の喉で笑うと、こういう音になるのだった。山梨を出てから、いや、もっとずっと前から、こんな音を出したことはなかった。
笑いはなかなか止まらなかった。止まらないうちに、いつの間にか別のものに変わっていた。喉の奥が震え、目の奥が熱くなり、湯気でぼやけた視界がもっとぼやけた。笑っているのか泣いているのか、自分でも分からなかった。分からなくていいと思った。
あいつは不機嫌そうに男を睨んだ。それから湯の中で向きを変え、岩の縁に顎を乗せて目を閉じた。もう、くしゃみはしなかった。男が落ち着くまで、知らない顔で待っていてくれた。
雪が降り始めた。大粒の雪が湯気の中へ落ちてきては、湯に触れる前に消えていく。男は首まで湯に浸かったまま、それを見上げていた。隣で、あいつの呼吸が湯の表面を小さく揺らしていた。
ここには人間の目がなかった。人間でいなければ、と自分を縛るものがなかった。恐竜でいるな、と自分を叱るものもなかった。湯は、人間の身体も恐竜の身体も、同じように温めた。隣の獣は、自分がどちらであっても構わずにそこにいた。
どちらでもいいのだ、と男は思った。今だけは、どちらでもいい。人間でも、恐竜でも。ただ熱い湯の中で雪を見上げている、一つの生き物でいればいい。
(……いい湯だな)
心の中でそう言った。言葉はちゃんと出てきた。あいつは目を閉じたまま、喉の奥で低く長く、ゆるい音を鳴らした。同じことを言っているように聞こえた。
湯の中で、身体の痛みが一つずつほどけていった。八王子の夜から治りきらない首から肩の傷も、山を越えるたびに軋んでいた後肢の関節も、熱に包まれて遠くなっていく。眠れない夜に鳴り続けていた鼓動の音も、身体の奥でくすぶっていた熱も、ここにはなかった。代わりに、いろいろなものが勝手に浮かんできた。
子どものころ、父に連れられて行った近所の銭湯。湯船が熱すぎて、肩まで浸かれずに泣いたこと。風呂上がりに父が買ってくれた、瓶の牛乳の冷たさ。冬の夜、家の風呂で妹と湯の掛け合いをして、母に叱られたこと。台所から漂ってきた、甘辛い醤油の匂い。
どれもくっきりとしていた。手を伸ばせば、そのまま触れられそうなくらいに。
大丈夫だ、と男は思った。まだ全部ある。ちゃんと、ここにある。
ふと、このままここにいられたら、と思った。
この山で、あいつと一緒に冬を越す。獲物を分け合い、腹を寄せて眠り、雪の日には湯に浸かる。誰にも追われず、誰にも見られず、名前も家も、何もいらない。そうしていれば、きっといつまでも楽でいられる。
男はその考えを、湯の中でしばらく抱えていた。それから、そっと手放した。
玄関の、揃えて置かれた靴。鍋の蓋が鳴る音。ここに残るということは、あの玄関に二度と帰らないということだった。
この湯を出たら、また北へ歩かなければならない。その先で何が待っているのかは分からない。けれど今だけは、それを考えなくてよかった。隣に、大きな獣の呼吸がある。上から、雪が降ってくる。湯が熱い。それだけで、この世界はまだ自分がいてもいい場所なのだと思えた。
◇
翌日の昼過ぎ、二頭は尾根を越えた先の、深い森の縁に出た。
あいつが足を止めた。男が振り返ると、あいつは近くの大きな杉の幹に鼻先を寄せ、匂いを確かめていた。それから隣の木。その隣の木。幹の低いところに古い爪痕が刻まれていた。あいつ自身がつけたものだった。その先の木々には、もう何の跡もなかった。
ここまでなのだ、と男は悟った。この尾根から向こうは、あいつの山ではない。匂いも、獲物の通り道も、どこで眠ればいいかも、あいつは知らない。それに、ここから先は岩手だった。
あいつは男の顔を見た。それから来た道を振り返った。雪の上に、二頭分の足跡が並んで続いていた。大きいのと、少し小さいのと。ところどころで重なり合い、ところどころで寄り添って、南の山の向こうまで伸びていた。
男は一歩、森の中へ踏み出した。それから振り返った。あいつは尾根の上に立って、こちらを見ていた。ついてくる気配はなかった。
男は喉の奥で、短く二度鳴らした。
あいつには、二号の返し方は分からない。ぴ、ぴ、とは返ってこない。それは分かっていた。それでも、ありがとうと伝えるのに、男にはほかの音がなかった。
あいつは黙っていた。それから首を少し傾げ、喉の奥をぎこちなく震わせた。
――ぐ、ぐる。
短く二度、のつもりだったのだろう。大きな喉にはまるで似合わない音だった。二号の声とは似ても似つかない、不格好で潰れた二つの音。それでも、この三日間、男が何度も鳴らしてきたあの音を、あいつはちゃんと聞いていた。
一度見たものは覚える。秋の夜、男を何度も追い詰めた、あの賢さだった。それが今、こんなことに使われている。
男はその場に立ち尽くした。視界がぐらりと滲んだ。
あいつは自分の出した音が気に入らなかったのか、鼻を鳴らして首を振った。それから後肢を踏ん張り、胸を反らし、首を高く空へ突き上げた。
吠えた。
腹の底を震わせる、大きな長い声だった。尾根を渡り、谷を越え、遠くの山肌に当たって跳ね返り、何重にもこだまして冬の空へ昇っていった。木々の枝から雪が落ち、森の奥で鳥の群れが一斉に飛び立った。
秋の夜に聞いた咆哮とは違っていた。怒りも挑発もなかった。
行け、と言っていた。負けるな、と言っていた。次に会うときは、今度こそ逃げ回らずに決着をつけよう。だから、それまでしっかり生きていろ。男には、そう聞こえた。
こだまがゆっくりと消えていった。
あいつは男に背を向けた。来た道を一歩ずつ引き返していく。雪の上の二頭分の足跡の、大きいほうの跡を踏みながら。
一度も振り返らなかった。秋の夜は、最後まで男に背を見せきらずに退いていった。その背中を、今はまっすぐに見せている。振り返らないのがあいつなりの別れ方なのだと、男には分かった。
大きな背中が尾根の向こうへ沈み、やがて見えなくなった。
男はその場から動けなかった。
風が変わった。さっきまで風上に立っていた大きな身体が、もうなかった。冷たい風が、まともに男の脇腹へ吹きつけてきた。三日のあいだ、ずっと遮られていた風だった。こんなに冷たかったのかと、男は初めて知った。
男は森のほうへ向き直った。足元の雪には、まだ誰の跡もついていなかった。ここから先は、一頭分の足跡しか残らない。
男は歩き出した。
その夜、男はまた眠れなかった。
岩陰で、いつものように青いボタンを押した。黒い箱が短く一度震え、ひと呼吸おいて、もう一度震えた。
男は返事をしようと、喉の奥で二度鳴らした。
その音は、少しだけ潰れていた。
男は暗がりの中で目を閉じた。あいつの腹の温かさを思い出そうとした。思い出せた。重い呼吸の音も、くしゃみも、不格好な二つの音も、空を震わせた最後の声も、ちゃんと思い出せた。
それが、いつまで思い出せるのか。それだけが分からなかった。
第53章 二頭分の足跡 了
この為に80話待ちました。
21時に恐竜視点の話を投稿予定
こっそり短編の異世界転生ファンタジーものも投稿しているからよければ読んでみて。
頭空っぽにして読めるやつ。