最初に覚えているのは、温かい腹の匂いだった。
羊歯の茂みの奥倒木の根が抱え込むようにしてできた窪みに、落ち葉を敷き詰めた巣があった。そこに母がいた。母の腹の下にきょうだいが二頭いた。三頭の中でそれがいちばん小さかった。
殻を割って出てきたとき母は長い鼻先で濡れた身体を舐めてくれた。それから腹の下のいちばん温かいところへ押し込んでくれた。両側からきょうだいの身体が挟んでいた。三つの小さな鼓動と一つの大きな鼓動が、重なって聞こえていた。
それが世界の全部だった。
人間がどこかの施設で作り出した血を、何代も前に引いているらしい。けれど、そんなことはそれの知ったことではなかった。それは山で生まれた。山の土の上で、母の腹の下で、雨の音を聞きながら育った。檻も薬も首輪も知らなかった。
母は狩りを教えてくれた。
風下から近づくこと。足音を消すこと。獲物が逃げる方向を先に読むこと。きょうだいたちはすぐに飽きて、じゃれ合いを始めた。それは飽きなかった。母の後ろ姿を、いつまでも目で追っていた。どうしてそこで止まるのか。どうしてそこで向きを変えるのか。母が何も教えなくても、見ていればだんだん分かるようになった。
分かるのが、楽しかった。
◇
その夜のことは今でも匂いで覚えている。
雨の夜だった。巣の周りの空気が、急に知らない匂いで満ちた。鋭くて、乾いていて、腹の底を冷たくする匂いだった。
母が跳ね起きた。
巣の外の暗闇に目が光っていた。一対。二対。三対。もっと。
中型の肉食の群れだった。一頭ずつは母よりずっと小さい。けれど数が多く群れで動くことを知っていた。一頭が母の正面に回り、残りが横から後ろから、同時に跳びかかった。
母は戦った。
大きな顎で一頭の首を砕き尾で一頭を薙ぎ払った。それでも群れは引かなかった。母の脚に、背中に、喉に、牙が次々に食い込んでいった。
母が一度だけ、こちらを振り返った。
短く低く喉を鳴らした。逃げろ、という音だった。
きょうだいの一頭が巣を飛び出して、群れのほうへ向かっていった。もう一頭は、母の腹の下から動けなかった。それはどちらでもなかった。倒木の根のいちばん奥、自分の身体がぎりぎり入るくらいの隙間に潜り込んだ。
母の音を聞いたからだった。
隙間の奥でそれはずっと震えていた。雨の音と、骨の砕ける音と、聞いたことのない声が、いつまでも続いていた。やがてそれも止み群れの足音が遠ざかっていった。
朝になって隙間から出たとき、巣の周りではもう何も動いていなかった。
それは、母の冷たい腹に鼻先を押しつけた。
温かくなかった。
◇
それから、一頭で生きた。
一頭で狩りをした。一頭で眠った。一頭で雨に打たれ一頭で雪をかぶった。母に教わったことと、母の後ろ姿から覚えたことを、一つずつ自分の身体で確かめていった。
身体は大きくなった。
季節が巡るたびに骨が伸び筋肉が厚くなった。鹿はもう逃げ切れなかった。熊もこちらを見れば道を譲った。それでも、群れの匂いだけは忘れなかった。
ある秋、風の中にあの匂いが混じった。鋭くて、乾いていて、腹の底を冷たくする匂い。
それは何日もかけて匂いを辿った。群れの縄張りを外側からゆっくりと一周した。どこで眠り、どこで水を飲み、どの道を通って狩りに出るのか。全部見ていた。母の後ろ姿を見ていたときと、同じように。
それから、一頭ずつ群れから引き離した。
狩りに出た一頭を沢の窪みへ誘い込んだ。水を飲みに来た一頭を崩れやすい斜面の下で待った。群れが気づいたころには、もう半分が戻ってこなくなっていた。
残りの半分が一度に襲いかかってきた夜は乱戦になった。一頭の牙が首筋を裂いた。別の一頭が脇腹に食らいつきもう一頭が後肢に爪を立てた。それは振りほどいて、尾根へ駆け上がった。群れが追ってくるのは分かっていた。追ってくる道も、分かっていた。
それは雪の庇の上に立っていた。群れが庇の下へ駆け込んできたとき、付け根を前肢で一度だけ叩いた。
朝になって雪の下から出てくるものは何もなかった。
それで、終わりだった。
首筋と脇腹と後肢に傷痕が残った。母の匂いのする巣はもうどこにもなかった。きょうだいの鼓動も戻ってはこなかった。群れが消えても温かいものは何一つ戻ってこなかった。
◇
それからの日々は、静かだった。
敵はいなくなった。この山でそれに向かってくるものはもう何もいない。熊もほかの肉食も、それの匂いを嗅いだだけで遠くへ逃げていった。
味方もいなかった。
鹿の群れに近づいてみたことがある。鹿は鳴き声を上げて、四方へ散っていった。若い肉食の一頭に、遠くから喉を鳴らしてみたこともある。そいつは尾を巻いて、二度と縄張りに入ってこなくなった。
ときどき、空をうるさい虫が飛んでいった。
虫にしては大きくて、硬くて、羽音がひどくやかましい。決まった間隔で縄張りの上をぐるりと回っては帰っていく。最初のうちは、追い払おうとして吠えた。虫は、届かない高さを悠々と飛んでいった。やがて、それは虫を見上げても吠えなくなった。虫のほうも何もしてこなかった。ただ、上から見ていた。
見ているだけでも、何もいないよりは少しだけましだった。夜になると、それは尾根の上で一度だけ大きく鳴いた。
誰かに届けばいいと思って鳴いたのではない。ただ、鳴かずにはいられなかった。声は谷を渡り、向こうの山に当たって返ってきた。返ってきたのは、自分の声だけだった。
毎日が退屈だった。
狩りは簡単すぎた。戦えばすぐに終わった。次に何が起きるのかもう全部分かってしまう。母の後ろ姿を追いかけて、分かるのが楽しかったあのころの気持ちを、どこにも向けられなかった。
それは、ずっと寂しかった。
寂しいという言葉は知らなかった。けれど母の冷たい腹に鼻先を押しつけたあの朝から、身体のどこかに穴が開いたままだった。
◇
秋の終わりにその匂いを嗅いだ。
縄張りの南。それは二つの建物の隙間の暗がりで、仕留めたばかりの草食の肉を食べていた。
風の中に知らない匂いが混じった。肉食の匂いだった。けれど群れとは違う。一頭だけの匂い。それも、ひどく変わった匂いだった。獣の匂いの中に、山にはないものが混じっている。硫黄と、古い布と、人間の暮らしのような何か。
それは食べるのをやめ、暗がりから出ずに匂いのほうを見た。道路の向こうに黒い獣がいた。
小さかった。長さは自分の半分ほどしかない。まだ若い細身の身体だった。
変なことをしていた。肩から袋のようなものを下ろし青くて薄いものと一緒に、道路の脇へ丁寧に重ねている。それから身軽になって匂いを確かめながらこちらへ慎重に進んできた。
獲物の前で荷を下ろす獣。
そんな獣は、見たことがなかった。
黒い獣は草食の死骸に気づくと足を止めた。それ以上は近づかず来た方向へゆっくりと下がり始めた。死骸を見ただけで、仕留めたものが近くにいると読んだのだ。
それは暗がりから出ていった。
低く唸った。この一帯の主が誰なのか、教えてやるつもりだった。たいていの獣は、これだけで尾を巻いて逃げていく。
黒い獣は逃げなかった。かといって、向かってもこなかった。身体の正面をこちらに向けたまま、一歩ずつ下がっていく。こちらが一歩詰めれば、一歩下がる。止まれば、止まる。
背中を見せない。賢い。黒い獣が身体を起こし、牙を見せた。小さな身体のくせに、精一杯低い声で唸ってくる。それは、腹の底から吠え返した。
頭の上でうるさい虫の羽音がした。いつもの虫だった。それは一度だけ見上げて、すぐ黒い獣に目を戻した。黒い獣のほうは虫の音にひどく気を取られていた。こちらから目を離さないまま耳だけを空へ向けている。
こいつは、虫を知らない。隙だ、命に届きうる。
それは跳んだ。
◇
一度目の突進はかわされた。
顎が届く寸前まで黒い獣は動かなかった。早く逃げればこちらに向きを変えられる。それを分かっていて、ぎりぎりまで待ってから横へ跳んだのだ。顎は空を噛んだ。
それは驚いた。
驚いてすぐに覚えた。こいつは最後の瞬間に横へ跳ぶ。なら、まっすぐ走る必要はない。
二度目はわざと遅く走った。身体を斜めに構えどちらへ跳ばれても追えるようにした。黒い獣が右へ重心を寄せれば頭を右へ、左へ寄せれば左へ。
黒い獣が左へ傾いた。頭を左へ振った瞬間、黒い獣は右へ跳んだ。
騙された。
黒い獣は放置された二台の車の隙間に滑り込んでいた。それの身体では通れない幅だった。押し退けることはできる。けれど隙間の向こうで何を待たれているか分からない。それは車を回り込んだ。
黒い獣は建物の裏へ走っていた。人間が使っていた資材の置き場だった。木材とパイプが積まれ、大きな車が放ってある。
狭い場所に誘っている。分かっていて、ついていった。
楽しかったからだ。
木材の山の脇を抜けたとき肩が束の端に触れた。固定の緩んだ木材が崩れ落ち、裂けた一本が肩の上を深く擦っていった。痛かった。それは吠えて身体を振って木材を払い落とした。
この場所はこいつの味方をしている。
それなら中に入らなければいい。資材の山には近づかず外側から回り込んだ。黒い獣が逃げ込みそうな隙間を、先に塞いでいく。
黒い獣もそれに気づいたようだった。逃げ方を変えてきた。一度速く走り、尾を逆に振って急に止まり、別の方向へ跳ぶ。さっきより、ずっと速く向きを変えられるようになっていた。
こいつも覚えている。こちらを見て、自分の身体の使い方を変えている。母の後ろ姿を見ていたときの気持ちが腹の底から湧き上がってきた。
分かるのが、楽しい。
この獣が次に何をするのか。どうしてそこで止まるのか。どうしてそこで向きを変えるのか。見ていればだんだん分かってくる。分かったと思った瞬間に、黒い獣はそれを裏切ってくる。
楽しかった。
身体を回すより先に、黒い獣が脇へ入ってきた。爪が、肩の傷をもう一度裂いた。噛みつきもせず欲張りもせずすぐに離れていく。牙を、一度も使ってこない。
噛めば顎に捕まる。捕まれば終わる。こいつはそれを分かっている。だから傷だけを広げて絶対に捕まらない距離にいる。
こんな獣は初めてだった。この山でそれの身体に傷をつけたものは、あの群れのほかにいなかった。
肩から血が流れていた。踏み込みが少しずつ浅くなっていた。それでも、まだ戦える。押し潰そうと思えば、たぶん押し潰せる。
けれど、ここはこいつの場所だった。崩れる資材も、狭い隙間も、全部こいつの味方をしている。続ければ崩れた木の下敷きになるのは自分のほうかもしれない。
母は勝てない場所では狩りをしなかった。
それは一歩下がった。黒い獣は追ってこなかった。もう一歩下がった。黒い獣は身体を低くしたまま、こちらを見ていた。追えば勝てるかもしれないのに追ってこない。
それは、傷ついた肩をこいつから遠ざけたまま、背中を見せきらずに道路の向こうへ退いた。
負けたのではない。今日はここまでだ。
次はこいつの場所ではない自分の山で遊べばいい。
◇
肩の傷は冬が来るころには白い跡になって塞がった。それは、ときどきあの町へ行った。
黒い獣が荷を下ろしていた道路の脇。崩れた資材の置き場。匂いはもうほとんど残っていなかった。それでも、その場所でしばらく座っていた。
また来ればいい、と思った。また来てまた遊べばいい。あんなに楽しかったのは、母が死んでから初めてだった。
黒い獣は来なかった。
空をうるさい虫が飛んでいった。いつもより低く飛んでいた。肩の白い傷跡のあたりを、しつこく見ているようだった。それは虫を見上げて、少しだけ喉を鳴らした。
お前もあいつを探しているのか。
虫は何も答えずに帰っていった。
◇
冬の雪の深い日だった。
雪の上にあの匂いの足跡を見つけた。
間違いなかった。硫黄と、古い布と、人間の暮らしの匂い。それから、黒い鱗の獣の匂い。足跡は前よりずっと大きくなっていた。
それは跳ね起きるように、足跡を追った。
足跡は途中で向きを変えていた。こちらの足跡を避けるように、斜面を東へ回り込んでいく。
避けている。こちらの匂いが来る側から、遠ざかろうとしている。それなら、逃げる先を先に取ればいい。母に教わったとおりに。それは風上へ回った。尾根を越え黒い獣が出てくるはずの岩場の上で待った。
黒い獣はそこへ出てきた。
その気になれば岩の上から音を立てずに飛び降りて、首を押さえることもできた。けれど、それでは遊びにならない。それは前肢で雪の塊を落とした。
ここにいるぞ。
黒い獣が見上げた。
大きくなっていた。あの秋の夜は自分の半分ほどだった身体が、もうずいぶん近くまで育っている。それは頭から尾の先までを、ゆっくりと眺めた。
それから楽しげに吠えた。
遊ぼうぜ。今度はお前の場所じゃない。
岩から跳び降り雪を蹴り上げた。頭を低くしてまた上げた。尾で雪を叩いた。それから、わざと大きく踏み込んで、牙の届くぎりぎりで止まってやった。
黒い獣の身体が強張った。後肢に力が溜まっていく。顎の奥がうずいている。それには分かった。この獣の身体は飛びかかりたがっている。あの秋の夜よりもずっと強く。
それなのに黒い獣は跳ばなかった。
頭を雪に押しつけるように低くして、目を逸らした。前肢の爪を雪の下の土に深々と突き立てていた。
身体じゅうを震わせて飛びかかりたがる自分の身体を、自分で地面に縫いとめていた。
それは首を傾げた。
分からなかった。
よく見れば首に白い布のようなものがぐるぐると巻かれていた。人間の匂いがひどく濃い。肩の袋には硬くて小さな石のようなものが結びつけられていた。
何より、目が違った。あの秋の夜、こちらの動きを読もうとしていた目が、今はどこも見ていない。疲れきって、怯えて、何かを必死に握りしめているような目だった。
鼻先で肩を小突いてみた。軽く。もう一度、少し強く。黒い獣は雪の上に崩れたまま、起き上がらなかった。
つまらない。
それは鼻を鳴らして背を向けた。
けれど尾根を越えても、分からないことが頭から離れなかった。飛びかかりたいのに、飛びかからない。戦いたいのに、戦わない。自分で自分を地面に押さえつけている。
分からないものは、見ていれば分かる。
母にそう教わった。
◇
その夜それは黒い獣の後をつけた。
黒い獣は岩陰で丸くなっていた。眠れずにいるようだった。何度も身じろぎをして、自分の前肢を抱え込んでいた。
夜が深くなったころ黒い獣が起き上がった。
すぐに気づいた。動き方が違う。
何かを恐れているようなさっきまでの歩き方ではなかった。迷いのないまっすぐな足取り。風下を選び足音を消し、カモシカの通り道へ向かっていく。
母と同じ歩き方だった。自分と、同じ歩き方だった。
黒い獣は一度で仕留めた。喉を裂き、腹を開いて食べた。速くて、無駄がない。あの秋の夜の黒い獣とは、まるで別の獣のようだった。
匂いは同じだった。身体も同じだった。それなのに、中にいるものが違う。
それには、そうとしか思えなかった。
朝が来た。黒い獣は急に動きを止めた。口の周りを血で汚したまま、足元の死骸を見下ろしている。そして、跳ね起きるようにそこから離れた。
怯えていた。自分の狩りに怯えていた。
それは沢の向こう岸の岩の上から黒い獣を見ていた。黒い獣はこちらに気づいて、凍りついた。
黒い獣は沢の水に顔を突っ込み何度も何度も口を洗った。それから、沢のほとりの雪に爪で何かを刻んだ。細い線が四つ。最後の線が右へ曲がっていた。喉の奥で短く二度、誰かを呼ぶような音を鳴らした。返事は来なかった。
それは沢を渡った。
雪の上の四つの線に鼻先を近づけた。黒い獣の匂いがいちばん濃く残っていた。何なのかは分からない。けれど、ここに何か大事なものが置かれていることだけは分かった。踏まないように、横へ回り込んだ。
それから、黒い獣の風の来る側に身体を横たえた。
理由はなかった。ただ、そうしたほうがいい気がした。黒い獣はしばらくこちらを見ていた。それから、額をそっと脇腹に押しつけてきた。
それは動かなかった。
仕方ないと思った。
この獣は身体の中でずっと戦っているのだ。夜は中にいる別のやつが勝つ。昼はこいつが勝つ。それなら、昼のこいつに付き合ってやればいい。
◇
それは黒い獣に山を見せてやった。
人間の匂いのする谷を避け道路から離れた尾根を選んで、先に立って歩いた。黒い獣が足を止めれば、少し先で待った。
鹿を一頭仕留めて黒い獣の前に落としてやった。黒い獣は戸惑っていた。半分を食べて、残りを鼻先で押してやった。
自分で狩らせれば、また夜のやつが出てくるかもしれない。それなら、こちらが獲ってやればいい。
黒い獣はそれを食べた。食べているあいだ、目はちゃんとこちらを見ていた。
雪の庇の張り出した尾根を、黒い獣が渡ろうとしたことがある。それは前に回り込んで道を塞いだ。肩で内側へ押し戻し、庇の縁を前肢で一度だけ叩いた。
雪が崩れた。斜面一面の雪がつられて滑り出し谷を埋めていった。
群れを葬ったときと、同じやり方だった。黒い獣は、しばらく息をしていなかった。
夕方、谷筋で小型の肉食の群れに出くわした。六頭。痩せて、目が濁っていた。黒い獣の首の白い布の匂いを嗅ぎつけて、弱っている獲物だと思ったのだろう。甲高い声を上げて、いっせいに向かってきた。
黒い獣の身体が跳ねかけた。それには分かった。今ここで牙を使えば、こいつはまた夜のやつに持っていかれる。
黒い獣は前肢を雪に突き立てて踏みとどまった。
それは前に出た。
一頭目を尾で薙ぎ払い、二頭目を半歩かわして首を一振りした。残りの四頭が左右に散った。囲むつもりだ。母を殺したのと、同じやり方。
追わなかった。それはゆっくりと下がり、背中を岩壁につけた。正面からしか、かかってこられない場所。
あの秋の夜、黒い獣が資材の置き場でやったことだった。自分が通れて相手が通りにくい場所を選ぶ。一度やられて、覚えた。
焦れた群れが一頭ずつ飛び込んできた。それは一頭ずつ片づけた。息はひとつも乱れなかった。
振り返ると黒い獣がぽかんとした顔でこちらを見ていた。前肢はまだ雪に突き立てたままだった。牙は一度も使っていなかった。
それは鼻を鳴らした。
それでいい。お前は戦わなくていい。お前とやるときは、こんなもんじゃなかっただろう。
◇
夜になると黒い獣は変なことをした。
肩の袋に結ばれた硬い石を前肢の爪で押す。すると石が、ぴ、と鳴く。
それは首をもたげて、石の匂いを嗅いだ。人間の手の匂いがした。喉の奥で唸りかけたとき、石がぶるっと震えた。ひと呼吸おいて、もう一度。
それは、びくりと首を引いた。
黒い獣が、喉の奥で短く二度鳴らした。石の震えと、同じ間隔で。
意味は分からなかった。硬い石に話しかけている。石のほうも、それに答えている。
けれど、その音を鳴らしたあとの黒い獣はほんの少しだけ目の色が戻った。昼のこいつの目だった。
それは、その音を覚えた。
その夜、それは自分の腹の横を黒い獣のために空けてやった。
黒い獣は最初少し離れた岩陰へ行こうとした。それは低く一声だけ鳴いた。黒い獣は振り返り、迷うように立ち止まってから近づいてきた。尾を少しずらしてやると、その隙間に黒い身体を押し込んできた。
冷たい身体だった。
それは、自分の腹を黒い身体に押し当てた。
昔、母がそうしてくれたように。
黒い獣の呼吸がゆっくりになった。眠ったのだ。
それは眠らなかった。一晩じゅう、黒い獣の寝息を聞いていた。夜のやつが起き上がってきたら、すぐに分かるように。
夜のやつは来なかった。
自分の鼓動と黒い獣の鼓動が重なって聞こえていた。
二つの鼓動。
巣の中で聞いていたあの音には、まだ足りなかった。けれど、一つだけよりはずっとよかった。
◇
朝、黒い獣が目を覚ました。ちゃんと昼のこいつの目をしていた。
それは起き上がってわざと身震いした。背中の雪が黒い獣の顔にまともに降りかかった。
黒い獣が、雪をすくって投げ返してきた。それは、楽しげに鳴いた。肩からぶつかっていった。二頭はもつれ合って、雪の斜面を転がった。
黒い獣の身体が本気になりかけた。後肢に力が溜まる。顎の奥が熱くなる。夜のやつの気配が、ふっと覗く。
そのたびにそれはふわりと力を抜いて離れた。
ここまでならこいつはこいつのままでいられる。ここから先は夜のやつが出てくる。転がるたびにその境目を測った。押すけれど、潰さない。噛む真似はしても、牙は立てない。境目のぎりぎり内側でだけ、遊んでやった。
斜面の下で黒い獣が仰向けに転がっていた。息を上げて空を見ていた。
楽しそうな顔だった。
◇
湯の湧く淀みへ黒い獣を連れていった。
初めて会ったときこいつは硫黄の匂いがした。湯の匂いだ。それなら、湯が好きなのだろう。
黒い獣は湯を見て足を止めた。それから湯に入ると、別の獣のようになった。首まで沈んで、目を細めて、雪の降る空を見上げている。
当たりだ、と思った。
それは湯の縁で前肢を浸けてみた。熱かった。引っ込めた。もう一度浸けた。また引っ込めた。こんな熱いものに、どうして入っていられるのか分からなかった。
黒い獣は気持ちよさそうに目を閉じていた。それは思い切って、身体ごと湯へ飛び込んだ。
湯が盛大に溢れた。鼻に湯が入った。くしゅん、とくしゃみが出た。頭を振って、また鼻を突っ込んで、またくしゃみが出た。
黒い獣が、こちらを見ていた。目を丸くしていた。それから喉の奥から、変な音を漏らし始めた。くっ、くっ、くっ、と。肩が小刻みに揺れていた。
笑っているのだと分かった。
少しだけむっとした。
けれど、黒い獣が笑っているのを見ていたら、腹の底の穴が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。
黒い獣は笑ったまま泣き出した。
目から湯とは違うものがぽろぽろとこぼれていた。
意味は分からなかった。分からなかったけれど、それは岩の縁に顎を乗せて、目を閉じた。黒い獣が落ち着くまで、知らない顔で待ってやった。
温かかった。
悪くない、と思った。
◇
縄張りの端の尾根で、それは足を止めた。
古い爪痕のついた杉の幹を、一本ずつ嗅いだ。自分でつけた跡だった。その先の木々には、何の跡もなかった。
ここから先は知らない山だった。匂いも獲物の通り道もどこで眠ればいいかも知らない。知らない山で夜のやつと出会えば、自分にも止められないかもしれない。それに、この先へ行けば、空のうるさい虫ももう見に来ないだろう。
黒い獣は森の中へ一歩踏み出してから振り返った。来ないのか、と訊いているような目だった。それは動かなかった。
黒い獣が喉の奥で短く二度鳴らした。硬い石に向かって、毎晩鳴らしていた音だっ。たそれは喉に力を込めた。
ぐ、ぐる。
うまく鳴らなかった。大きな喉にはまるで似合わない、潰れた不格好な二つの音だった。黒い獣の目が大きく見開かれた。それから目の奥が、湯のときのように濡れていった。それは、自分の出した音が気に入らなかった。鼻を鳴らして、首を振った。
そして首をもたげて、空へ吠えた。
山じゅうに響き渡る声だった。谷を渡り、向こうの山に当たって、何度も何度もこだました。
元気になったら、また来い。
次はお前の中の夜のやつにも負けるな。そのときは、今度こそ逃げ回らずに遊ぼうぜ。
それは背を向けた。
来た道を一歩ずつ引き返した。雪の上の二頭分の足跡の、大きいほうを踏みながら。
振り返らなかった。
振り返ればこいつは立ち止まる。立ち止まればまたここへ戻ってくるかもしれない。
秋の夜は、背中を見せきらずに退いた。こいつに隙を見せないために。
今は、背中をまっすぐに見せた。こいつが、前へ歩いていけるように。
◇
縄張りへ戻る途中、空をうるさい虫が飛んでいった。
それは立ち止まって、虫を見上げた。
虫はいつもより低く飛んで、それの周りをぐるりと一周した。それから、黒い獣が消えていった方角でしばらく留まり、やがて帰っていった。
それは、虫が見えなくなるまで見送っていた。それから、尾根の上で一度だけ大きく鳴いた。
声は谷を渡り向こうの山に当たって返ってきた。返ってきたのは自分の声だけだった。
けれど、もう寂しくはなかった。
あの声はいつか別の声と一緒に返ってくる。すばしっこくて、賢くて、変な石に話しかける、あの黒い獣の声と。
それは雪の上に身体を横たえ、目を閉じた。
腹の横には黒い身体のいた隙間が空いたままだった。
まだ少しだけ温かかった。
断章21 遊び相手 了
戦闘センスだけならおそらくは国内トップ、マジの突然変異はコイツかも