宮城を抜けて岩手に入ったあたりから、夜が長くなった。
日が短くなったという意味ではない。眠れなくなったのだ。岩陰に身体を押し込み、目を閉じても、意識はいつまでも沈んでいかない。冷えた岩の匂いと自分の鼓動の音だけが、耳の奥で鳴り続けている。そのくせ、気がつくと朝になっている。眠っていたのか起きていたのか、その境目が分からなかった。
腹の横が寒かった。県境の尾根で別れてから、風を遮ってくれるものはもう何もなかった。
今朝もそうだった。
目を開けると、雪の積もった斜面にいた。夜に身体を押し込んだはずの岩陰ではない。見覚えのない杉林の中で、足元の雪が広い範囲にわたって踏み荒らされていた。口の中に鉄の味がした。
男はゆっくりと首を回した。少し離れた雪の上に、鹿が倒れていた。腹が裂け、中身の半分がなくなっている。見開かれたままの黒い目に、薄く霜が降りていた。湯気はもう立っていなかった。前肢を見ると、爪の間に赤黒いものがぎっしりと詰まっていた。
(……いつ)
覚えていなかった。鹿を見つけた記憶がない。追った記憶も、倒した記憶も、食べた記憶もない。最後に覚えているのは岩陰で目を閉じたところで、そこからこの斜面で目を開けるまでが、刃物で切り取ったように抜け落ちていた。
腹は満ちていた。
身体は何もかも分かっているようだった。どこで鹿を嗅ぎつけ、どう回り込み、どこへ牙を立てたのか。前肢の筋肉にも顎の付け根にも、その名残が心地よい疲れになって残っている。知らないのは自分だけだった。
そして、満ち足りた腹の温かさを、どこかで気持ちがいいと感じている自分がいた。
それが何よりも恐ろしかった。
男は鹿から目を逸らした。
これで三度目だった。
◇
岩手の山に入ったころから、言葉が抜け始めた。
最初に気づいたのは夜明けだった。岩陰から顔を出すと、一面が白く覆われていた。男はそれを見て、いつものように心の中で何か言おうとした。
(……)
言葉が出てこなかった。
白くて、冷たくて、空から降ってきて、地面に積もるもの。知っている。人間だったころから何十年も見てきたし、子どものころにはその上を転げ回った。それなのに、その名前が頭の中のどこを探しても見つからなかった。いつもの棚に手を伸ばしたら、そこだけぽっかりと空いていた。そんな感じだった。
男は白いものを見つめ続けた。しばらくして、ふっと言葉が戻ってきた。
(……雪、だ)
ほっとするより先に、背筋が冷たくなった。
それから、そういうことが少しずつ増えていった。木の名前。川の名前。食べ物の名前。一度出てこなくなった言葉は、たいてい少しすると戻ってきた。
けれど、戻ってこないものもあった。
昨日、母の作る煮物の味を思い出そうとした。
台所に立つ母の背中。鍋の蓋がことことと鳴る音。甘辛い醤油の匂いが玄関まで漂ってきて、靴を脱ぐ前から今夜の献立が分かった。人参と、里芋と、それから。
それから、何が入っていたのか。茶色くて、柔らかくて、噛むと汁がじゅわっと出てくるもの。妹と取り合いになって、母に「まだあるから」と笑われたもの。何百回も食べた。
名前が出てこなかった。今朝になっても、まだ出てこなかった。
(……かあさんの、煮物の)
男は雪の上に座り込んだ。
煮物の具の、たった一つの名前だった。けれどそれは母の台所の一部で、あの食卓の一部で、帰りたい家のひとかけらだった。それが何の音も立てずに、自分の中から剥がれ落ちていった。いつ落ちたのかさえ分からなかった。
家族の顔を思い浮かべた。母の顔。父の顔。妹の顔。ちゃんと浮かんだ。けれど輪郭が、ほんの少しぼやけている気がした。昨日より、少しだけ。母が笑うとき、目尻のしわはどんなふうに寄っていたか。父の声は、どのくらい低かったか。
気のせいだと思いたかった。
代わりに、くっきりとしてくるものがあった。鹿の匂い。猪の足音。風下と風上。雪の下に眠っている小さな獣の、かすかな体温。考える前に身体が分かっている。母の顔が薄れていくのと同じ速さで、獲物の匂いが濃くなっていく。
身体が、自分より先に世界を知り始めていた。
◇
それから何日かした明け方、男は道路脇の雪の中に伏せている自分に気づいた。どうやってここへ来たのか、覚えていなかった。
目の前を狭い山道が通っていた。その向こうに、小さな集落の明かりが三つ四つ灯っている。朝の支度を始めた家の明かりだった。黄色い回転灯を回しながら、大きな機械が道路の上をゆっくりと近づいてくる。除雪の車だった。
身体が低くなっていた。腹を雪につけ、後肢に力を溜め、尾をまっすぐに伸ばしている。前肢の爪が雪の下の土を掴んでいる。
待ち伏せの姿勢だった。
(……なに、して)
身体を止めようとした。止まらなかった。命令を出しているはずなのに、それがどこにも届いていなかった。
除雪車が近づいてくる。運転席の窓の向こうに、年配の運転手の姿が見えた。眠そうな顔でハンドルを握り、片手で大きなあくびを隠している。ダッシュボードの上には魔法瓶。ミラーの根元で、毛糸で編んだ小さなお守りが揺れていた。孫が作ったものだろうか、と男は思った。
思ったはずだった。その考えは身体の奥から上がってきた熱に、あっけなく押し流された。
動くものがいる。大きくて遅い。音を立てている。中に柔らかいものが入っている。
頭の中の言葉がばらばらになり始めた。
(……ちがう……あれは……ひと……)
(ひと、は……)
(……)
次の言葉が出てこなかった。
人は、何だったか。人を、どうしてはいけないのだったか。とても大事な理由があったはずだった。福島の母と娘の顔も、八王子の妹の鞄も、その理由のどこかにつながっていたはずだった。
それが、握りしめた指の間から砂がこぼれるように抜け落ちていく。こぼれていくのは分かるのに、指を閉じる力がもうどこにもなかった。
代わりに熱だけが身体じゅうに満ちていった。
除雪車がすぐ前まで来た。大きなサイドミラーが、明け方の光を跳ね返した。
鏡の中に何かが映っていた。
黒い、大きな肉食恐竜だった。雪の中に低く伏せ、口の端から涎を垂らし、牙を剥き、金色の目で運転席を見上げていた。
知らない顔だった。それが何なのか、一瞬分からなかった。それから分かった。
(……あれ、が、おれ)
八王子の夜より、もっと悪かった。あのときは、まだ自分がどこかにいることが分かっていた。今はどこにいるのかさえ分からない。自分というものが、そもそもまだこの身体のどこかにいるのかどうか。
鏡の中の恐竜の後肢に、力がこもった。
跳ぶ。
そう分かった瞬間、男は自分の左の前肢に、自分の牙を立てた。
思いきり噛んだ。鱗が裂け、肉に牙が沈んだ。焼けるような痛みが頭のてっぺんまで突き抜け、目の前が白く弾けた。その痛みの中で、男は自分がどこにいるのかを思い出した。
痛いのは、俺だ。噛んでいるのも、俺だ。
運転手がミラーの中の光景に気づいた。悲鳴を上げ、アクセルを踏み込む。巨大な機械が雪を撒き散らしながら、男の前を走り抜けていった。毛糸のお守りが激しく揺れているのが見えた。
男は自分の前肢を咥えたまま、雪の上で震えていた。口の中に、また鉄の味が広がっていた。今度は獲物の血ではなかった。自分の血の味だった。
喉の奥から細い音が漏れていた。泣いているのだと気づくまで、しばらくかかった。
◇
その日の夕方、対策本部の奥の小部屋で、三枝が地図を拡大した。
「見てください」
山梨から宮城までの赤い線は、ほぼまっすぐだった。ときどき止まり、ときどき回り道をしながらも、全体としては迷いなく北を向いている。
それが、岩手に入ったあたりから乱れていた。同じ場所を何度も行き来し、何時間も止まったかと思えば、突然数キロを一気に動く。東へ逸れ、西へ逸れ、ある夜には大きな円を描いて、ほとんど元の場所へ戻っていた。行き先を忘れた人の足取りによく似ていた。
「発信機の加速度のデータもあります」
佐倉が別の画面を開いた。細かい波形が並んでいる。
「峠を出た直後は、移動の途中に短い停止が何度も入っていました。一秒から数秒。立ち止まって、何かを確かめるような動きです。……それが、ここ数日でほとんど消えています」
「迷っている時間、ですね」
御門が言った。
「はい。代わりに増えているのが、これです。長い静止と、爆発的な加速。待ち伏せと追跡。野生の大型肉食の狩りの動きそのものです」
御門は、画面の中で消えていった小さな停止の跡を見つめた。立ち止まって、振り返って、考える数秒。彼がまだ人間の速さで世界を見ていたことの、たった一つの証だった。それが一日ごとに削り取られていく。
机の上のスマートフォンが鳴った。三枝がスピーカーに切り替えた。
『俺だ』
榊原の声だった。
『岩手の組合から回ってきた。今朝、除雪の運転手が黒い大型を見た。道路脇の雪の中から、待ち伏せの格好でこっちを見上げてたそうだ』
御門の顔から血の気が引いた。
「……何か、されたんですか」
『何もされてねえ。ミラー越しに見たんだと。跳びかかってくると思ったら、そいつが自分の前脚に噛みついた。血だらけになって、自分の脚を咥えたまま震えてたってよ』
小部屋が静かになった。
『運転手はこう言ってる。テレビで見る温泉恐竜と、目が違った。でも、最後は泣いてるみたいだった、とな』
佐倉が恐る恐る口を開いた。
「先生。これは、凶暴化なんでしょうか」
「違います」
御門はすぐに答えた。それから言い直した。
「……違う、と思いたいです。でも別の形で、同じところへ向かっている可能性はあります」
御門は壁のホワイトボードに丸を描いた。
「人間の脳は、自分というものを一つの模型として持っています。自分の身体はこういう形で、こう動いて、こう感じる。手を伸ばせば、伸ばした感覚が返ってくる。それが予想どおりだから、これは自分の手だと思える」
丸の外側にもう一つ丸を描いて、「身体」と書いた。
「彼の場合、人間の模型が恐竜の身体に入っています。何もかもが毎秒食い違う。身体は変えられないから、脳は模型のほうを書き換えていく。書き換えが進めば、恐竜の身体は上手に動かせるようになる。その代わり、人間の模型は少しずつ薄くなっていく」
「破滅的忘却、ですね」
佐倉がぽつりと言った。
「覚えたことのあるAIに、まったく違う種類のデータを大量に流し込むと、前に覚えていたことをごっそり忘れることがあるんです。しかも彼の場合、人間のデータはもう一つも新しく入ってこない。恐竜の身体の信号は、毎秒休みなく入ってくる」
御門は小さく頷いた。
「厄介なのは、そのずれを本人が測れないことです。自分がどれだけ変わったかを測る物差しも、この模型の中にある。模型が書き換われば、物差しも一緒に書き換わる。……溶けていくときは、たぶん苦しくないんです。むしろ楽になる。それが、いちばん怖い」
三枝が膝の上で手を握った。
「じゃあ、普通の人は、どうして自分のままでいられるんですか」
「外側に、鏡があるからです」
御門は丸のさらに外に、点をいくつも打った。
「家族が、おはようと言う。同僚が名前を呼ぶ。友達が、変わってないなと笑う。毎日、外から自分の輪郭を照らし合わせてもらっている。自分というものは、自分の頭の中だけでは完結しないんです」
御門は、点の一つをマーカーの先で叩いた。
「一緒にいた小さい子は峠に置いてきた。私たちとも離れた。第七号とも、県境で別れました。コミュニケーションを取ってくれる相手は、誰もいない。冬の山の中で、たった一頭で、恐竜の身体の信号だけを浴び続けている。……答え合わせをしてくれる相手が、どこにもいないんです」
スピーカーの向こうで、榊原が低く言った。
『名前を教えてりゃ、違ったのか。峠であんたが言いかけたとき、俺も見てた』
「分かりません」
御門は机の引き出しから、表紙に何も書かれていない薄いファイルを出して、その上に手を置いた。
「名前は、心の札のようなものだと思っています。ここから内側は自分で、ここから外側は自分じゃない。その線を引くための目印。それがないと、身体から上がってくる衝動が自分のものなのかどうか、見分けられない」
「なら、なんで」
「でも、赤ん坊は名前を文字で覚えるわけじゃないんです。同じ声で何万回も呼ばれて、抱き上げられて、そのたびに振り向いて、少しずつ自分のことだと分かっていく。名前は意味より先に、声として身体に入ってくる」
御門はファイルから手を離した。
「この中にあるのは、ただの文字です。私の声で読み上げても、彼に届くのは記録の中の誰かの名前かもしれない。……彼は、それを身体で分かっていたんだと思います」
『じゃあ、どうする』
榊原の声が硬くなった。
『捕まえるか。今なら居場所が分かる。麻酔で眠らせて、連れて帰って、家族に会わせる』
「だめです」
御門は即答した。
「彼は人と恐竜のはざまでもがいています。今の状態で、恐竜にそうするように麻酔を撃たれて、目が覚めて改めて恐竜の身体を認識したら。……それが最後の一押しになるかもしれない」
しばらく誰も何も言わなかった。
『もし、あいつが本当に戻ってこられなくなったら。人を襲うようになったら』
榊原は言葉を切った。
『そのときは、俺がやる。ほかの誰にも、やらせねえ』
脅しには聞こえなかった。誰にも渡さずに、自分の手で背負っていく、という声だった。何度も同じ引き金を背負ってきたハンターの声だった。
御門は何も言えなかった。
地図の上で、赤い線の先がまた小さな円を描き始めていた。
御門は送信画面を開いた。
「先生? まだ、青は届いてませんよ」
三枝が言った。
「分かっています」
御門は振動を打ち込んだ。短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。
「待っているだけじゃ、鏡になれません。……こちらから、先に鳴らします」
送信した。小部屋の隅で、二号が顔を上げた。
◇
男は山の中へ逃げ込んだ。どこをどう走ったのか、覚えていない。気づくと、谷底の凍った沢のほとりにいた。左の前肢から、自分で噛んだ傷の血が滴っていた。
沢の水面は半分凍っていて、氷の張っていない淀みだけが黒い鏡のように静まり返っていた。男はその水面を覗き込んだ。黒い恐竜が映っていた。除雪車のミラーの中にいたのと同じ顔だった。
(……おれ、か)
答えはなかった。
この目で見ているこの顔が、自分なのかどうか。それを確かめる目そのものが、恐竜の目だった。確かめる脳そのものが、恐竜の脳だった。ミラーの中の恐竜が自分だと分かるまでに、一瞬かかった。あの一瞬が、次はもっと長くなるかもしれない。いつか永遠に分からなくなるかもしれない。
会社のコピー機のことを、ふと思い出した。何年も前から使い回されている古い手順書があって、新しく人が入るたびに、手元の一枚をコピーして配っていた。コピーの、コピーの、コピー。細かい字から潰れていき、しまいには何が書いてあったのかも読めなくなった。原本はとっくにどこかへ消えていた。
自分もそれなのかもしれなかった。人間だった自分を、毎朝この恐竜の脳で写し直している。写すたびに、煮物の具の名前のような細かいところから潰れていく。どこが潰れたのか確かめようにも、原本はもうどこにもない。
いちばん怖いのは、平気だと思えてしまうことだった。
鹿を見たとき、最初に来たのは満ちた腹の心地よさだった。嫌だと思う気持ちは、少し遅れてやってきた。いつか、その遅れてくるほうが来なくなるかもしれない。そうなったら、たぶん楽になる。何も失っていないような顔で、雪の山を歩いていく。自分がいなくなったことに、自分だけが気づかないまま。
苦しいと思えるうちは、まだここにいる。そう思うしかなかった。
人間だったころは、鏡を見ればそこに自分がいた。けれど本当は、あれもたくさんのものに支えられていたのだ。家族のおはよう。会社で呼ばれる名前。友達の、変わってないな、という笑い声。それが揃っていたから、鏡の中の顔を迷わず自分だと思えた。
今は何もない。鏡は知らない恐竜を映す。おはようと言ってくれる人はいない。二号も置いてきた。腹の横の温かい獣とも、県境で別れた。
そして、名前がない。
名前さえあれば、と思った。ここまでが自分で、ここから先は自分じゃない、という線があれば。身体が勝手に動いても、俺の身体が勝手に動いたのだと言える。
線がなければ、どこまでが自分なのか分からない。除雪車の前で頭の中に満ちていた熱は、身体のものだったのか、自分のものだったのか。もう分からなかった。
あと何度かあんな朝が来たら。言葉が全部抜け落ち、家族の顔が溶け、身体の熱と自分とがすっかり混ざり合ってしまう日が来る。
それは、死ぬのとは違った。死ぬよりも、たぶんずっと寂しかった。身体だけが何事もなかったように雪の山を歩き続け、腹が減れば獲物を倒し、満ち足りて眠る。八王子の家では、母がいつまでも玄関の明かりを点けて待っている。その玄関に、帰るはずの者は二度とたどり着かない。
(……いやだ)
男は喉の奥で、短く二度鳴らした。
その音は少しだけ潰れていた。県境の尾根で聞いた、不格好な二つの音に似ていた。
返事はなかった。谷底の凍った沢に、音が小さく跳ね返って消えた。
山形の森から、二号はずっとこうしてきた。待っているあいだ。戻ってきたとき。夜中に知らない音が聞こえたとき。返事が来るかどうか分からなくても、ここにいる、と鳴らし続けてきた。その気持ちを、今自分が味わっている。
(……ごめんな)
もう一度鳴らした。返事はなかった。それでも、もう一度、もう一度と鳴らし続けた。自分の喉が鳴らす音を自分の耳で聞くたびに、ほんの少しだけ、自分の輪郭が戻ってくる気がした。
二号は、どんな姿の自分でも、この音で自分を見分けた。血まみれでも泥まみれでも、短く二度鳴らせば、それが自分だと分かって鳴き返してきた。誰かが書類に書いた名前ではない。けれど、自分の外側にいる誰かが、自分を自分として見分けるための目印だった。
今の自分に残っている、たった一つの名前だった。
そのとき、鞄の肩紐で何かが震えた。
短く一度。ひと呼吸おいて、もう一度。
男はびくりと身体を強張らせた。それが何なのか、一瞬分からなかった。黒い、硬い、小さな箱。赤と青の丸いもの。肩紐に固く結ばれている。
短く、二度。
二号の音だった。自分が今、谷底に向かって何度も鳴らしていた音と同じ間隔だった。
思い出した。毎晩、青を押せば、この箱は二度震える。けれど今夜は、まだ押していない。
押していないのに、震えた。
誰かが向こうから鳴らしたのだ。返事が来るかどうか分からないまま。
男は震える左の爪を伸ばして、青いボタンを押した。
小さな電子音が雪の谷に響いた。
しばらくして、箱がもう一度、短く二度震えた。
鏡は知らない恐竜を映す。けれど、この箱は自分を映していた。黒い恐竜を、誰かがまだ自分として見てくれている。
◇
男は沢のほとりの雪に前肢を下ろした。噛んだ傷から、血が雪に落ちた。それでも爪を立てた。言葉が全部抜け落ちてしまう前に。自分が、まだここにいるうちに。
た。書けた。だ。書けた。い。書けた。
次の字で爪が止まった。
ま、という字の形が出てこなかった。何度も書いたはずの形を、頭の中で必死に探した。妹の鞄の上に、血の爪で書いた。宮城の沢のほとりでも書いた。それなのに、どこに縦の線があって、どこが丸くなるのか思い出せなかった。
た だ い
その先がない。
全身の鱗が内側から逆立った。帰るための言葉だった。家の玄関で、母に見せるためだけに覚えてきた四文字だった。その最後の一文字が、いちばん大事なところで抜け落ちていた。
(……いやだ)
息が浅くなった。爪が雪の上で震えた。
(いやだ、いやだ、いやだ)
男は爪をむちゃくちゃに動かした。形を思い出せないまま、とにかく何かを書いた。横に二本。縦に一本。そこからぐるりと回して、最後に払う。払うところで爪が雪に引っかかり、線が大きく右へ曲がった。
男はその字を見つめた。正しい形なのかどうか分からなかった。たぶん正しくはなかった。
けれど、右へ大きく曲がった最後の線だけは知っていた。妹の鞄の上でも、こうなった。宮城の沢でも、こうなった。何度書いても、最後の線だけは必ず右へ逃げていった。
この曲がり方は、自分の曲がり方だった。頭が形を忘れても、爪が覚えていた。自分にしか書けない形だった。
た だ い ま
男は雪の上の四文字から目を離せなかった。視界がにじんで、文字が揺れた。恐竜の目にも、涙は滲むのだった。
曲がった「ま」。短く二度の音。それから、もう一つ。
除雪車の前で、自分の前肢を噛んで止まったこと。
身体は勝手に動く。止められないこともある。けれど最後に止まったのは自分だった。自分の牙を自分の身体に立てて、痛みで自分を引き戻した。
止まれるうちは、俺だ。
男はその一行を、胸の中で何度も繰り返した。止まれるうちは、俺だ。
記憶は抜けていく。言葉も顔も。けれど止まったということは、自分が覚えていなくても残る。除雪車の運転手が見ていた。左の前肢には、自分の牙の跡が残っている。頭の中の物差しがどれだけ狂っても、外に残った跡は狂わない。
それは答えではなく、仮の線だった。名前が見つかるまでのつなぎの線。いつまで持つかも分からない、細い線だった。
それでも、線のないまま夜を越えるよりは、ずっとましだった。
◇
それから先のことは、切れ切れにしか覚えていない。
雪の尾根を越えた。凍った川を渡った。目を覚ますたびに知らない場所にいた。口の中に血の味がする朝が、また一度あった。数えるのをやめた。
身体が跳ぼうとするたびに、左の前肢を噛んだ。噛む場所はもう残っていなかった。古い傷の上に新しい傷が重なり、鱗は剥がれ、雪の上に一歩ごとに赤い点が落ちた。それでも噛んだ。痛いのは俺だ、と言い聞かせるために。
眠る前には必ず青を押した。箱が短く二度震えるのを待ってから、目を閉じた。それだけは一度も忘れなかった。
ある朝、風の中に知っている匂いが混じった。
硫黄の匂いだった。
目の前に白い山がそびえていた。雪に覆われた大きな山の、なだらかな裾野。木々の向こうから、湯気が細く立ちのぼっている。
知っていた。言葉より先に、身体が知っていた。夏の土の匂い。頭の後ろの、重い衝撃。近づいてくる地面。そして、青白い光。
ここで、始まったのだ。
男は雪の中に膝をついた。もう立っていられなかった。身体の奥から、また熱が上がってくる。ここまで来たのに。あと少しなのに。頭の中の言葉が端からほどけていく。
(……おれ、は……)
次の言葉が出てこなかった。左の前肢を口元へ運んだ。噛もうとした。けれど、そこにはもう牙を立てられる場所が残っていなかった。
そのとき、雪を噛む金属の音が聞こえた。
峠道の下から、チェーンを巻いた車が一台、ゆっくりと登ってきた。男の二十メートルほど手前で止まった。
扉が開いた。
雪の上に、人影が一つ降りてきた。手に細長い何かを提げている。車の中にも、まだいくつかの影が動いていた。
男の身体が低くなった。後肢に力が溜まる。
動くものがいる。柔らかいものが――。
第54章 鏡のない冬 了