赤い点が岩手と青森の県境を越えた夜、御門たちは東北道を北へ走った。日下部はケージを佐倉の膝に載せながら、包帯は濡らすな、とだけ言った。二号はもう、自分の足で立てるようになっていた。
林道へ続く峠道は、途中から除雪が止まっていた。
榊原が四輪駆動のハンドルを握り、助手席に御門が座っていた。後部座席では、佐倉が保温用のケージを膝に抱えている。中で二号がずっと落ち着かずに身じろぎしていた。
赤い点は、もう何時間も動いていなかった。ワイパーが雪を払った先に、古い木の看板が見えた。その前の雪の中に、黒いものがうずくまっていた。
御門はその姿を見て息を止めた。
左の前肢が血まみれだった。鱗が剥がれ、肉が裂け、そこに無数の噛み跡が重なっている。肩にも、脇腹にも。凍りついた血が、黒い鱗の上でひび割れた漆のようにこびりついていた。誰かに襲われた傷ではなかった。自分の牙の形だった。
「……自分で」
後部座席で佐倉がかすれた声を出した。口元を押さえた指が震えていた。
榊原は黙って、足元の細長いケースに手を伸ばした。留め金を外し、猟銃を取り出す。弾を込める音が車内に小さく響いた。
御門はそれを止めなかった。止められなかった。
看板の前で、金色の目がこちらを見ていた。その目が何を見ているのか、御門には分からなかった。
黒い身体が低くなった。腹を雪につけ、後肢に力を溜めている。待ち伏せの姿勢だった。喉の奥から低い唸りが漏れ始めた。
「……下がってろ」
榊原が運転席の扉を開け、雪の上に降りた。銃口はまだ地面を向いていた。
「榊原さん」
「分かってる。まだ撃たねえ。……まだ」
後肢が震えていた。跳ぶ寸前の震えだった。
次の瞬間、彼は首をねじるようにして、動かないはずの右の前肢を口元へ引き寄せた。左には、もう牙を立てられる場所が残っていなかったのだ。その右の前肢に牙を立てた。
噛んだまま動かなかった。唸りが、くぐもった別の音に変わった。痛みに耐える音だった。泣いているような音だった。
御門は車の扉を開けた。
「先生!」
佐倉の叫びに構わず、御門は雪の上へ降りた。一歩、二歩と近づいていく。
「私です」
声が震えた。
「御門です。……迎えに来ました」
彼は前肢を噛んだまま、御門を見ていた。金色の目が揺れていた。何かを探すように。何かを思い出そうとするように。
届いていない、と御門は思った。自分の声も顔も、今の彼には外から来た知らない刺激の一つにすぎない。待っているだけでは鏡になれないとあれほど言っておきながら、自分にはその力がなかった。
そのとき、後ろで後部座席の扉が開く音がした。
小さな身体が雪の上へ転がり落ちた。佐倉が止める間もなかった。ケージの扉を、自分で押し開けたのだった。
二号は雪に足を取られながら、まっすぐに駆けた。何度も転び、そのたびに起き上がった。脇腹の包帯が雪に濡れていた。御門の脇を抜け、榊原の足元を抜け、牙を剥いた巨大な顔のすぐ下まで。そこで立ち止まり、顔を上げた。
――ぴ、ぴ。
短く、二度。
黒い恐竜の動きが止まった。牙が前肢からゆっくりと離れた。金色の目が、足元の小さな身体を見下ろした。
長い時間だった。峠を渡る風が雪を巻き上げていた。榊原は銃口を地面に向けたまま、息を止めていた。御門は自分の手のひらに爪を立てていた。
二号がもう一度鳴いた。
――ぴ、ぴ。
柳沢峠で別れたあの日、二号は鳴くことさえできなかった。荷台の中で目を閉じたまま、トラックの消えた道に向かって鳴らされた音に、応えることもできなかった。その小さな生き物が、今、同じ声で呼んでいた。
彼の喉の奥が震えた。
最初は音にならなかった。掠れた息が漏れただけだった。それからもう一度。今度は確かに音になった。
短く、二度。
少しだけ潰れた、二つの音だった。
二号が顎の下へ頭をこすりつけた。黒い身体はそのまま、雪の上に崩れるように伏せた。ずたずたの前肢の間に、二号をそっと抱え込むようにして。喉の奥で、何度も何度も、短く二度鳴らし続けていた。
峠で別れてから初めて、声で返ってきた返事だった。
車の中で、佐倉が声を上げて泣いていた。
◇
御門は彼のすぐ横に膝をついた。
前肢の傷は、近くで見ると、映像で想像していたよりずっとひどかった。古い傷の上に新しい傷が重なり、その上にまた今日の傷が重なっていた。この看板の前で、何度も自分を噛んで、ここに留まっていたのだ。
「……待っていて、くれたんですね」
救急箱を開け、ガーゼと消毒液を取り出した。手が震えて、消毒液の蓋がなかなか開かなかった。
「一人で行けたのに。もうすぐそこなのに。ここで、止まって」
彼は答えなかった。前肢の間の二号に、鼻先を押しつけていた。
傷口にガーゼを当てると、黒い身体がびくりと震えた。けれど逃げなかった。噛みつきもしなかった。
しばらくして、彼がゆっくりと前肢を動かした。傷だらけの爪が雪の上に下りた。線が何度もぶれた。一文字書くのに長い時間がかかった。
ま つ て た
御門はその四文字を見つめた。
爪がまた動いた。今度はもっと時間がかかった。途中で何度も止まり、雪を均しては書き直した。
お れ
ま だ
い る ?
御門は唇を噛んだ。
問いかけだった。自分では答えられない問いを、外側にいる誰かに確かめてほしいと差し出していた。誰もいない冬の山の中で、何日も、ずっとこれを聞きたかったのだ。
自分で自分を確かめることは、誰にもできない。だから人は、問いの形で外へ差し出す。おはようと言い、名前を呼び、返事を待つ。壊れかけているから聞いているのではなかった。人は誰でも、そうやって毎日自分を確かめている。この人はそれを、たった一人で我慢してきた。
「……います」
御門ははっきりと言った。
「あなたは、ここにいます」
金色の目が御門を見た。
「私は、あなたが福島で母娘の前に立ったのを見ました。山梨で、草食恐竜の群れの中で止まったのを見ました。八王子で牙を離して、鞄に四文字を書いたのを見ました。そして今、ここで、自分の腕を噛んで止まったのを見ました」
声が詰まった。それでも続けた。
「名前は、まだここにはありません。でも、あなたが誰なのかは、私たちが覚えています。この小さい子も覚えています。……あなたがあなたを見失っても、私たちが外側から、あなたを見ています」
御門は雪の上の問いの横に、自分の指で字を書いた。指先がかじかんで、うまく動かなかった。それでも一画ずつ強く書いた。
いる
その二文字のすぐ横に、二号が小さな足跡を一つつけた。
彼は雪の上の字と足跡を、じっと見つめていた。金色の目の縁に、雪とは違うものが溜まっていた。
それから喉の奥で、短く二度鳴らした。今度は二号ではなく、御門に向けて。
背後で雪を踏む音がした。
榊原が猟銃をケースに戻しながら近づいてきて、彼の顔の前にしゃがみ込んだ。いつもの渋面だった。けれど目の縁が、少しだけ赤かった。
「……待たせたな」
榊原はそれだけ言った。
黒い頭が、ほんの少しだけ下がった。
◇
その夜、峠の下の閉鎖された道の駅の駐車場で、御門たちは手当てを続けた。
連絡を受けた青森県警の成田が、四輪駆動車で駆けつけてきた。成田は前肢の傷を見て、しばらく言葉を失っていた。それから御門に、小さな声で何かを伝えた。
御門は頷いた。
「……林道までは分かっています。業者の供述で、名前まで出ています。どこなのかは、まだ。でも、彼なら」
御門は振り返った。
黒い身体は保温シートにくるまれ、二号を腹の下に抱えて目を閉じていた。眠っているのではなかった。ときどき喉の奥で、短く二度鳴らしている。そのたびに、腹の下から小さな声が返ってきた。
――ぴ、ぴ。
確かめているのだ、と御門は思った。自分がまだここにいることを。外側に、返事をしてくれる誰かがいることを。返事が返るたびに、呼吸がほんの少しずつ深くなっていった。
「明日の朝、行きます」
御門は成田に言った。
「彼と一緒に。……すべての始まりの場所へ」
◇
翌朝、雪は膝の高さまで積もっていた。
佐倉は車に残って、赤い点の画面を見守ることになった。出がけに、男の首の付け根へ自分のマフラーをそっと巻いていった。
男はほとんど泳ぐようにして、雪に埋もれた林道を進んだ。道だと分かるのは、両側の杉の並びが、そこだけ一本分の幅で途切れているからだった。
少し後ろを、御門と榊原と成田が雪を漕いでついてきた。二号はマフラーの上から、首の付け根にしがみついていた。
林道の入口で、御門は男の前に立ち止まって言った。
「ここから先は、あなたが先に行ってください。ここは、あなたの場所ですから。私たちは後ろにいます。……ずっと、後ろにいます」
だから、男は先を歩いた。
両方の前肢の傷が、一歩ごとにずきずきと痛んだ。それでいい、と男は思った。痛いのは、俺だ。
頭の中には、まだ言葉が少ししか戻っていなかった。けれど昨日の夜より、少しだけ多かった。首の付け根に、二号の体温がずっとあった。後ろからは、雪を漕ぐ足音がずっとついてきた。一人で歩いた冬の山には、なかったものだった。
この世界のどこにも、自分を映す鏡はないと思っていた。
鏡のほうが、ここまで来てくれた。
鼻の奥に何かが触れた。杉の樹液。湿った土。それから、もっと古い、遠い記憶の匂い。古い藁と、消毒液と、人間の煙草。
男は立ち止まった。
大きな栗の木が、雪の中に立っていた。
身体の奥で、何かがかすかに震えた。恐竜の身体なのか自分なのか、分からなかった。けれどその震えは、どちらのものでもある気がした。
ここだ、と思った。
ここで一人の男が終わった。誰にも看取られず、誰にも名前を呼ばれず、雪も降らない夏の夜に、土の下へ消えた。そして同じ場所で、名前のない黒い獣が始まった。どちらも、ずっと一人だった。
男は振り返った。
少し離れた雪の中に、三人が立っていた。誰も声をかけなかった。ただ、こちらを見ていた。
見ていてくれる。今は一人ではない。
男はもう一度、栗の木のほうへ向き直った。喉の奥で短く二度鳴らした。首の付け根で、二号が、ぴ、ぴ、と返した。
それから雪の上に、爪で四文字を書いた。
終わった男へ。始まった獣へ。その両方へ。
た だ い ま
最後の線は、ちゃんと右へ曲がっていた。
第55章 終わった場所、始まった場所 了
85話かけてようやく第1話の場所に帰ってきました