温泉恐竜は家に帰る   作:ごろうまるし

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第55章 終わった場所、始まった場所

 赤い点が岩手と青森の県境を越えた夜、御門たちは東北道を北へ走った。日下部はケージを佐倉の膝に載せながら、包帯は濡らすな、とだけ言った。二号はもう、自分の足で立てるようになっていた。

 

 林道へ続く峠道は、途中から除雪が止まっていた。

 

 榊原が四輪駆動のハンドルを握り、助手席に御門が座っていた。後部座席では、佐倉が保温用のケージを膝に抱えている。中で二号がずっと落ち着かずに身じろぎしていた。

 赤い点は、もう何時間も動いていなかった。ワイパーが雪を払った先に、古い木の看板が見えた。その前の雪の中に、黒いものがうずくまっていた。

 

 御門はその姿を見て息を止めた。

 左の前肢が血まみれだった。鱗が剥がれ、肉が裂け、そこに無数の噛み跡が重なっている。肩にも、脇腹にも。凍りついた血が、黒い鱗の上でひび割れた漆のようにこびりついていた。誰かに襲われた傷ではなかった。自分の牙の形だった。

 

「……自分で」

 

 後部座席で佐倉がかすれた声を出した。口元を押さえた指が震えていた。

 榊原は黙って、足元の細長いケースに手を伸ばした。留め金を外し、猟銃を取り出す。弾を込める音が車内に小さく響いた。

 

 御門はそれを止めなかった。止められなかった。

 看板の前で、金色の目がこちらを見ていた。その目が何を見ているのか、御門には分からなかった。

 黒い身体が低くなった。腹を雪につけ、後肢に力を溜めている。待ち伏せの姿勢だった。喉の奥から低い唸りが漏れ始めた。

 

「……下がってろ」

 

 榊原が運転席の扉を開け、雪の上に降りた。銃口はまだ地面を向いていた。

 

「榊原さん」

 

「分かってる。まだ撃たねえ。……まだ」

 

 後肢が震えていた。跳ぶ寸前の震えだった。

 次の瞬間、彼は首をねじるようにして、動かないはずの右の前肢を口元へ引き寄せた。左には、もう牙を立てられる場所が残っていなかったのだ。その右の前肢に牙を立てた。

 噛んだまま動かなかった。唸りが、くぐもった別の音に変わった。痛みに耐える音だった。泣いているような音だった。

 

 御門は車の扉を開けた。

 

「先生!」

 

 佐倉の叫びに構わず、御門は雪の上へ降りた。一歩、二歩と近づいていく。

 

「私です」

 

 声が震えた。

 

「御門です。……迎えに来ました」

 

 彼は前肢を噛んだまま、御門を見ていた。金色の目が揺れていた。何かを探すように。何かを思い出そうとするように。

 

 届いていない、と御門は思った。自分の声も顔も、今の彼には外から来た知らない刺激の一つにすぎない。待っているだけでは鏡になれないとあれほど言っておきながら、自分にはその力がなかった。

 

 そのとき、後ろで後部座席の扉が開く音がした。

 小さな身体が雪の上へ転がり落ちた。佐倉が止める間もなかった。ケージの扉を、自分で押し開けたのだった。

 

 二号は雪に足を取られながら、まっすぐに駆けた。何度も転び、そのたびに起き上がった。脇腹の包帯が雪に濡れていた。御門の脇を抜け、榊原の足元を抜け、牙を剥いた巨大な顔のすぐ下まで。そこで立ち止まり、顔を上げた。

 

――ぴ、ぴ。

 

 短く、二度。

 

 黒い恐竜の動きが止まった。牙が前肢からゆっくりと離れた。金色の目が、足元の小さな身体を見下ろした。

 長い時間だった。峠を渡る風が雪を巻き上げていた。榊原は銃口を地面に向けたまま、息を止めていた。御門は自分の手のひらに爪を立てていた。

 

 二号がもう一度鳴いた。

 

――ぴ、ぴ。

 

 柳沢峠で別れたあの日、二号は鳴くことさえできなかった。荷台の中で目を閉じたまま、トラックの消えた道に向かって鳴らされた音に、応えることもできなかった。その小さな生き物が、今、同じ声で呼んでいた。

 

 彼の喉の奥が震えた。

 最初は音にならなかった。掠れた息が漏れただけだった。それからもう一度。今度は確かに音になった。

 

 短く、二度。

 

 少しだけ潰れた、二つの音だった。

 二号が顎の下へ頭をこすりつけた。黒い身体はそのまま、雪の上に崩れるように伏せた。ずたずたの前肢の間に、二号をそっと抱え込むようにして。喉の奥で、何度も何度も、短く二度鳴らし続けていた。

 

 峠で別れてから初めて、声で返ってきた返事だった。

 車の中で、佐倉が声を上げて泣いていた。

 

◇

 

 御門は彼のすぐ横に膝をついた。

 前肢の傷は、近くで見ると、映像で想像していたよりずっとひどかった。古い傷の上に新しい傷が重なり、その上にまた今日の傷が重なっていた。この看板の前で、何度も自分を噛んで、ここに留まっていたのだ。

 

「……待っていて、くれたんですね」

 

 救急箱を開け、ガーゼと消毒液を取り出した。手が震えて、消毒液の蓋がなかなか開かなかった。

 

「一人で行けたのに。もうすぐそこなのに。ここで、止まって」

 

 彼は答えなかった。前肢の間の二号に、鼻先を押しつけていた。

 

 傷口にガーゼを当てると、黒い身体がびくりと震えた。けれど逃げなかった。噛みつきもしなかった。

 

 しばらくして、彼がゆっくりと前肢を動かした。傷だらけの爪が雪の上に下りた。線が何度もぶれた。一文字書くのに長い時間がかかった。

 

 ま つ て た

 

 御門はその四文字を見つめた。

 

 爪がまた動いた。今度はもっと時間がかかった。途中で何度も止まり、雪を均しては書き直した。

 

 お れ

 ま だ

 い る ?

 

 御門は唇を噛んだ。

 

 問いかけだった。自分では答えられない問いを、外側にいる誰かに確かめてほしいと差し出していた。誰もいない冬の山の中で、何日も、ずっとこれを聞きたかったのだ。

 

 自分で自分を確かめることは、誰にもできない。だから人は、問いの形で外へ差し出す。おはようと言い、名前を呼び、返事を待つ。壊れかけているから聞いているのではなかった。人は誰でも、そうやって毎日自分を確かめている。この人はそれを、たった一人で我慢してきた。

 

「……います」

 

 御門ははっきりと言った。

 

「あなたは、ここにいます」

 

 金色の目が御門を見た。

 

「私は、あなたが福島で母娘の前に立ったのを見ました。山梨で、草食恐竜の群れの中で止まったのを見ました。八王子で牙を離して、鞄に四文字を書いたのを見ました。そして今、ここで、自分の腕を噛んで止まったのを見ました」

 

 声が詰まった。それでも続けた。

 

「名前は、まだここにはありません。でも、あなたが誰なのかは、私たちが覚えています。この小さい子も覚えています。……あなたがあなたを見失っても、私たちが外側から、あなたを見ています」

 

 御門は雪の上の問いの横に、自分の指で字を書いた。指先がかじかんで、うまく動かなかった。それでも一画ずつ強く書いた。

 

 いる

 

 その二文字のすぐ横に、二号が小さな足跡を一つつけた。

 

 彼は雪の上の字と足跡を、じっと見つめていた。金色の目の縁に、雪とは違うものが溜まっていた。

 

 それから喉の奥で、短く二度鳴らした。今度は二号ではなく、御門に向けて。

 

 背後で雪を踏む音がした。

 

 榊原が猟銃をケースに戻しながら近づいてきて、彼の顔の前にしゃがみ込んだ。いつもの渋面だった。けれど目の縁が、少しだけ赤かった。

 

「……待たせたな」

 

 榊原はそれだけ言った。

 

 黒い頭が、ほんの少しだけ下がった。

 

◇

 

 その夜、峠の下の閉鎖された道の駅の駐車場で、御門たちは手当てを続けた。

 連絡を受けた青森県警の成田が、四輪駆動車で駆けつけてきた。成田は前肢の傷を見て、しばらく言葉を失っていた。それから御門に、小さな声で何かを伝えた。

 

 御門は頷いた。

 

「……林道までは分かっています。業者の供述で、名前まで出ています。どこなのかは、まだ。でも、彼なら」

 

 御門は振り返った。

 

 黒い身体は保温シートにくるまれ、二号を腹の下に抱えて目を閉じていた。眠っているのではなかった。ときどき喉の奥で、短く二度鳴らしている。そのたびに、腹の下から小さな声が返ってきた。

 

――ぴ、ぴ。

 

 確かめているのだ、と御門は思った。自分がまだここにいることを。外側に、返事をしてくれる誰かがいることを。返事が返るたびに、呼吸がほんの少しずつ深くなっていった。

 

「明日の朝、行きます」

 

 御門は成田に言った。

 

「彼と一緒に。……すべての始まりの場所へ」

 

◇

 

 翌朝、雪は膝の高さまで積もっていた。

 佐倉は車に残って、赤い点の画面を見守ることになった。出がけに、男の首の付け根へ自分のマフラーをそっと巻いていった。

 

 男はほとんど泳ぐようにして、雪に埋もれた林道を進んだ。道だと分かるのは、両側の杉の並びが、そこだけ一本分の幅で途切れているからだった。

 少し後ろを、御門と榊原と成田が雪を漕いでついてきた。二号はマフラーの上から、首の付け根にしがみついていた。

 

 林道の入口で、御門は男の前に立ち止まって言った。

 

「ここから先は、あなたが先に行ってください。ここは、あなたの場所ですから。私たちは後ろにいます。……ずっと、後ろにいます」

 

 だから、男は先を歩いた。

 

 両方の前肢の傷が、一歩ごとにずきずきと痛んだ。それでいい、と男は思った。痛いのは、俺だ。

 

 頭の中には、まだ言葉が少ししか戻っていなかった。けれど昨日の夜より、少しだけ多かった。首の付け根に、二号の体温がずっとあった。後ろからは、雪を漕ぐ足音がずっとついてきた。一人で歩いた冬の山には、なかったものだった。

 

 この世界のどこにも、自分を映す鏡はないと思っていた。

 

 鏡のほうが、ここまで来てくれた。

 鼻の奥に何かが触れた。杉の樹液。湿った土。それから、もっと古い、遠い記憶の匂い。古い藁と、消毒液と、人間の煙草。

 

 男は立ち止まった。

 大きな栗の木が、雪の中に立っていた。

 身体の奥で、何かがかすかに震えた。恐竜の身体なのか自分なのか、分からなかった。けれどその震えは、どちらのものでもある気がした。

 

 ここだ、と思った。

 ここで一人の男が終わった。誰にも看取られず、誰にも名前を呼ばれず、雪も降らない夏の夜に、土の下へ消えた。そして同じ場所で、名前のない黒い獣が始まった。どちらも、ずっと一人だった。

 

 男は振り返った。

 少し離れた雪の中に、三人が立っていた。誰も声をかけなかった。ただ、こちらを見ていた。

 見ていてくれる。今は一人ではない。

 

 男はもう一度、栗の木のほうへ向き直った。喉の奥で短く二度鳴らした。首の付け根で、二号が、ぴ、ぴ、と返した。

 

 それから雪の上に、爪で四文字を書いた。

 

 終わった男へ。始まった獣へ。その両方へ。

 

 た だ い ま

 

 最後の線は、ちゃんと右へ曲がっていた。

 

第55章 終わった場所、始まった場所 了

 




85話かけてようやく第1話の場所に帰ってきました
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