孤独な男が夏の終わりに見た夢の話です

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第一ボタン

 夏だった。

 

 日差しの強さでそう分かった。空は青く、雲は白く、それ以外のことは何も起きていなかった。

 

 アスファルトはところどころひび割れていて、割れ目から草が伸びていた。誰も抜かないまま、ずいぶん時間が経ったような草だった。車は一台も通らない。人もいない。

 

 おれは歩いていた。何か考えごとをしていた気がする。何を考えていたのかは覚えていない。目は前を向いていたけれど、何を見ていたのかも覚えていない。

 

 音がなかった。

 

 蝉が鳴いていてもおかしくない季節なのに、自分の足音さえ聞こえなかった。そのことを、おれは少しも不思議に思っていなかった。

 

 後ろから呼ばれた。

 

 声は聞こえなかった。ただ、呼ばれたということだけが分かった。

 

 振り向くと、先生が立っていた。

 

 古文の先生だった。

 

 高校のとき、週に何度か教壇に立っていた人だ。膝くらいの丈のスカートに、白いブラウス。袖はいつもまくってあって、第一ボタンはいつも外れていた。栗色の長い髪。夏は素足で、冬は黒いタイツを履いていた。

 

 そういうことは覚えている。

 

 めったに笑わない人だった。授業から話が逸れることもほとんどなかった。それが、ときどき自分で何か言って、自分で笑った。大きな声で。

 

 誰も笑わなかった。

 

 教室の中で先生の笑い声だけが鳴って、おれたちはそれをぽかんと聞いていた。先生は気にするふうもなく、笑い終えると黒板に向き直った。

 

 顔を思い出そうとすると、うまくいかない。服と髪と笑い声は出てくるのに、目がどんなふうだったか、おれは一度も見ていなかった気がする。

 

 その先生が、ひび割れた道の上に立っていた。

 

 髪が黒かった。ブラウスではなく、近所のコンビニに行くときのような服を着ていた。顔も、どこか違った。当時より若く見えた。

 

 それでも、先生だと分かった。

 

 おれは第一ボタンを探した。ボタンのある服ではなかった。

 

 先生は何も言わなかった。

 

 ただ、おれの目を見て微笑んでいた。

 

 教室で聞いたあの笑い声とは違った。声がないぶん、それはまっすぐこっちに届いた。温かかった。

 

 当時そんなふうに思ったことは、一度もなかった。

 

 先生の家に行ったのだと思う。

 

 道を歩いていたはずが、次にはもう玄関の内側にいた。先生のあとについて歩いた。

 

 廊下の途中で、半開きの扉の前を通った。隙間の向こうに、誰かの背中が見えた。男だった。こっちは見ていなかった。おれは止まらなかった。

 

 リビングを抜けると、奥にドアがあった。先生がそれを開けた。寝室だった。

 

 おれはトイレにいた。

 

 家のトイレにしては広かった。駅の公衆トイレくらいはあった。壁は赤いレンガだった。

 

 なぜそこをトイレだと思ったのかは分からない。便器を見た覚えはない。小さな窓があって、白い光が入っていた。窓の外には何もなかった。光だけがあった。

 

 おれはそれを見ていた。

 

 いつのまにか、あの扉の向こうにいた。扉は閉まっていた。薄暗かった。布団が一組敷いてあった。

 

 男が耳元にいた。同じ高校にいたやつだった。ほとんど話したこともない。あの頃はつるりとしていた顎に、髭がしっかり生えていた。

 

 男は何か囁いていた。口が動くのが見えた。声はガラスの向こうからのように、こっちまで届かなかった。

 

 おれは何も返さなかった。

 

 寝室には、先生がいた。

 

 気づくと、おれは裸だった。

 

 恥ずかしいとは思わなかった。

 

 おれは高校生のおれではなかった。今の歳の、今のおれだった。先生は、おれの知らない頃の先生だった。

 

 先生の手が、おれに触れていた。

 

 熱が、下腹のあたりに集まってきた。

 

 そのとき、おれはドアの外にいた。

 

 リビングの側から、閉じかけたドアの細い隙間越しに、ベッドの上の自分と先生を見ていた。

 

 先生はまだ微笑んでいた。たぶん、ベッドの上のおれの目を見ていた。

 

 でもその微笑みは、もうこっちには届かなかった。

 

 熱だけがあった。

 

 それで、夢だと分かった。

 

 分かってからも、おれはそこにいようとした。

 

 できなかった。終わった。

 

 目が覚めると、下着が濡れていた。

 

 夢を見たのは、ずいぶん久しぶりだった。

 

 その日の夜、車を運転していた。九月も終わりだというのに、まだ暑かった。

 

 交差点で赤信号に止まった。

 

 道路の向こう側は、橙色がかった光のなかにあった。そこを、若い男と女が歩いていた。男は白い半袖で、自転車を押していた。ふたりは自転車をあいだに挟んで、何も話さずに歩いていた。

 

 ふたりの背中が、少しずつ遠ざかっていった。

 

 信号が青に変わった。

 

 おれはすぐにはアクセルを踏まなかった。

 

 後ろに車はいなかった。鳴らされることもなかった。前にも横にも、誰もいなかった。

 

 エンジンの低い音だけが、車の中で鳴っていた。

 

 それから、ゆっくりと走り出した。

 




あとがき――静寂のなかで過去と交差する

今作『第一ボタン』は、ある種のシュルレアリスム(超現実主義)であり、同時に極めて現代的な「夢幻能」の構造を持った短編です。

音のない世界、物理的な法則を無視して移り変わる空間、そして現在と過去が溶け合う時空の歪み。無意識の連想によって紡がれる描写は、どこかダリの絵画やオートマティザム(自動記述)の実験を思わせます。

しかしその核にあるのは、能の演者が旅人の夢の中に現れ、言葉にならなかった過去の気配を残して消えていくような、日本的な「夢幻」の情景です。

記憶のなかの「第一ボタン」を探す行為。言葉のない微笑み。

解釈や意味から解放された世界の果てで、ただ「熱」と「エンジンの低い音」だけが手元に残る。幻影が去ったあとに訪れる孤独の余韻を、感じ取っていただけたなら幸いです。

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