かぐや姫が月へ帰る夜、帝は生まれて初めて月を憎んだ。都の上空には、雲ひとつなかった。夏の終わりの夜であった。御所の庭に白い月が浮かび、その光を受けて、竹林の葉が一枚一枚、銀色に濡れている。その竹林の向こうに、かぐや姫は立っていた。いつもと同じ、白い衣。けれど、その顔には、この世の人間には持ち得ない静けさがあった。
「帝」
その声を聞いたとき、帝は初めて自分が何もできない人間なのだと思った。
「私は、月へ帰らねばなりません」
「帰る、だと」
「はい」
「ならば、なぜ地上へ来た」
かぐや姫は答えなかった。やがて、遠くから不思議な音が聞こえてきた。風ではない。雷でもない。月から、何かが降りてくる。雲が割れ、その隙間から白い光が差し込んだ。光の中に、人影があった。かぐや姫は振り返る。
「お迎えが来ました」
帝は弓を取った。だが、矢をつがえることすらできなかった。何千人もの兵を集めたところで、相手は空にいる。人の手の届かない場所から来て、人の手の届かない場所へ帰っていく。やがて光がかぐや姫を包んだ。
「待て!」
帝は叫んだ。
「かぐや!」
かぐや姫は振り返った。ほんの一瞬だけ、寂しそうに笑った。
「帝。月は、遠いところにございます」
その言葉を最後に、彼女の姿は光の中へ消えた。月へ帰ったのである。帝は空を見上げた。月は、何事もなかったかのように輝いていた。
それから三日後。帝のもとへ、一本の筒が届けられた。竹取の翁が持ってきたものである。筒の中には、一通の文と小さな瓶が入っていた。文には、こう記されていた。
«この薬を飲めば、決して老いることはありません。かぐや姫が残したものです。»
帝は瓶を手に取った。透明な液体が、月明かりのように揺れている。その薬について、かぐや姫から聞いたことがあった。月の者が作る不老の薬。飲めば、この世の人間にはない長い時を生きることができる。
しかし――。
かぐや姫のいない世界で、永遠に生きる意味などあるのだろうか。
「燃やせ」
帝はそう命じた。臣下たちはその言葉に驚いた。
「しかし、これはかぐや姫様からの――」
「だからこそだ」
帝は瓶を見つめた。
「かぐやのいない世で、永遠に生きるつもりはない」
薬は焼かれることになった。
夜。帝は富士の山へ向かう一行を見送った。かつて、帝の命を受けた者たちが、かぐや姫の不老の薬を山頂で焼くために向かったという。その煙が、富士の山から立ち昇る。それを見ながら、帝はふと空を見上げた。月が出ていた。満月だった。
「……近いな」
帝は呟いた。臣下が振り返る。
「何と?」
「月だ」
「はい?」
「近いではないか」
誰も答えなかった。帝は月を見つめた。あれほど遠いと思っていた。かぐや姫が帰ってしまった瞬間、月は永遠に手の届かない場所になったと思っていた。だが、今こうして見れば月は確かに空に浮かんでいる。手が届かない。だから何だというのか。帝は突然、笑った。
「待て」
富士へ向かっていた使者を呼び戻した。
「薬を燃やすな」
「は?」
「こちらへ持ってこい」
瓶が帝の手に戻った。帝は蓋を開けた。
「かぐや」
そして、薬を飲み干した。
「私も行く」
誰も意味を理解できなかった。
「月へ行って、直接会う」
帝は空を見上げた。
「かぐや姫を、迎えに行く」
もちろん、最初は誰も帝の言葉を本気にはしなかった。だが帝は本気だった。
「月へ行くには、どうすればいい」
帝の問いに、陰陽寮の若い陰陽師・安倍晴明が答えた。
「人の足では不可能です」
「ならば、別の方法を考えよ」
「月は空を回っております。天に昇る道など、ございません」
「ないなら作れ」
晴明は黙った。帝は続けた。
「星を観測せよ。月の動きを記録せよ。唐から伝わった書物もすべて集めろ」
「……本当に月へ行かれるおつもりですか」
「そうだ」
「なぜです」
帝は少し考えた。
「約束したからだ」
それだけだった。帝の命を受け、朝廷中から知識が集められた。陰陽寮の天文博士たちは、夜ごと星を観測した。大陸から伝わった天文学の書を読み漁った。宮中の職人たちは、軽くて丈夫な木材を研究した。鍛冶師は鉄を薄く加工する方法を試した。さらに帝は、唐から帰国した経験を持つ者たちを呼び寄せた。その中に、海を越えて異国を見てきた老僧がいた。
「大陸では、火薬というものが使われております」
「火薬?」
「硝石、硫黄、炭を混ぜると、激しく燃えます」
帝の目が輝いた。
「それで空を飛べるか」
「まさか」
「まだ、まさかと言うな」
帝は笑った。試作機は、何度も失敗した。竹を束ねて作った筒は、火をつけた瞬間に壊れた。鉄で作った筒は重すぎて動かなかった。巨大な木箱に火薬を詰めたものは、空へ飛ぶ前に庭を吹き飛ばした。
「陛下!」
陰陽師たちが叫ぶ。帝は煤だらけになった顔を拭った。
「……少し飛んだな」
「飛んだのではなく、爆発したのです!」
「だが、地面から離れた」
「屁理屈でございます!」
その日から、帝は「爆発した」という記録を「第一回飛行実験」と書き換えさせた。
十年が過ぎたが帝は老いなかった。不老の薬は本物だった。帝だけが変わらない。臣下は年を取り、子が生まれ、孫が生まれ、そして世を去っていった。都の景色も変わった。けれど帝は変わらなかった。そして、空を飛ぶための技術だけは、少しずつ進歩していった。木の筒に火薬を詰めるだけでは駄目だった。そこで帝は考えた。
「一度に全部燃やすから壊れるのだ」
火薬を何段にも分ける。一つが燃え尽きたら、次の筒に火を移す。そうすれば、少しずつ、長く空へ向かえる。現代でいう多段式ロケットに近い考えだった。さらに、帝は自分自身の身体について考えた。月へ行くなら、ただ高く飛べばいいわけではない。空の上では風がなくなる。息ができなくなる。寒くなる。そして何より――。
「月は、空に浮かんでいるのではない」
天文博士が言った。
「地の周りを回っているのでございます」
「ならば、そこまで行くには?」
「……分かりません」
帝は笑った。
「ならば、分かるまで調べればよい」
そして彼は、夜空を観測し続けた。
百年。
二百年。
三百年。
帝は死ななかった。やがて、人々は彼を神のように扱うようになった。しかし帝自身は、神になったつもりなどなかった。ただ一人の男として、月を見続けていた。
そして、さらに長い年月が過ぎた。日本ではない国から伝わった技術も増えた。金属加工、火薬、精密な時計、レンズ、気圧を測る道具。帝は、それらを一つずつ組み合わせていった。ついに、一隻の船が完成した。海へ浮かべる船ではなく、空へ向かう船。巨大な円筒形の胴体。その下には、数え切れないほどの燃料筒。内部には一人分の座席と小さな窓。帝はそれを見上げた。
「この船の名は何というのですか?」
職人が尋ねた。
帝はしばらく考えた。
「かぐや」
「……」
「それ以外にあるか?」
誰も何も答えなかった。出発の日。帝は白い衣を脱ぎ、動きやすい服に着替えた。もう宮中の装束は必要ない。彼は空へ行く。いや、月へ行く。発射台の周りには、何千人もの人間が集まった。帝が生きている間に生まれた人間、そのまた子、さらにその子。何世代にもわたって、帝の夢を受け継いできた者たちだった。帝は振り返った。
「必ず戻る」
誰かが叫んだ。
「月へ行ってらっしゃいませ!」
帝は笑った。
「違う」
空を見上げる。
「愛に行くのだ」
火がついた。轟音、大地が震える。帝の身体が座席へ押しつけられる。窓の外で地面が遠ざかる。都が小さくなり、山も小さくなる。雲を突き抜ける。さらに高く、さらに高く。やがて、青い空が黒くなった。帝は息を呑んだ。昼なのに、星が見える。空気のない場所では、星が消えない。そして、窓の向こうに地球があった。帝は、しばらく言葉を失った。そこには、千年を生きてきた世界があった。幾つもの国が生まれ、滅び、名を変え、人々が争い、愛し、死んでいった。けれどここから見れば、それらに境目はなかった。国も、山も、海も、帝が知っていた幾千もの出来事も、すべてが一つの青い星の上にあった。
「……あれが、私のいた場所か」
帝は、初めて自分の故郷を故郷の外から見た。そして思った。あれほど広いと思っていた世界は、こんなにも静かだったのだ、と。かぐや姫も、月からこの星を見ていたのだろうか。そう思うと、胸が熱くなった。
かぐや姫が月へ帰った夜から、千年が過ぎていた。正確には、千年と三年。帝は、その年月を覚えていた。忘れることができなかった。最初の百年は、長かった。次の百年は、それほどでもなかった。三百年を過ぎた頃には、季節が巡ることそのものに驚かなくなった。五百年が過ぎる頃には、かぐや姫を知る者は誰もいなくなった。八百年が過ぎた頃には、かぐや姫の物語は古い物語になった。人々は竹取の翁の名を語り、月から来た姫の話を語った。けれど、その物語を本当に知っている者は、もう帝しかいなかった。そして千年。帝は今も生きていた。
月面への着陸に成功したとき。帝は、まず地球を見た。窓の向こうに、青い星が浮かんでいる。千年前、かぐや姫が去った夜、帝が見上げていたのも同じ月だった。あの頃、月は遠かった。あまりにも遠かった。だが今、帝はその月の上に立っている。帝はゆっくりと船の外へ出た。
一歩。灰色の砂の上に、足跡が残る。二歩、三歩。千年前から続いていた旅の、最後の一歩だった。そのとき、月面の向こうに光が見えた。一つではない。二つ、三つ。やがて無数の灯りになった。月の都から人々が歩いてくる。白い衣をまとった男女、幼い子供。長い年月を生きてきた者たち。彼らは帝を取り囲んだ。誰も声を上げない。ただ、千年ぶりに月へ来た地上の人間を見ている。その中から、一人の男が歩み出た。
「地上の者よ」
帝は男を見る。
「何だ」
「なぜ、ここへ来た」
帝は少しだけ空を見上げ、そして答えた。
「人を探しに来た」
「誰を」
帝は、その名を口にした。
「かぐや姫を」
その瞬間、人々の間に小さなざわめきが起こった。何人かが振り返る。そして、道が開いた。帝は息を止めた。人々の向こうに、一人の女が立っていた。白い衣、長い黒髪。千年前と何一つ変わらない姿。帝は動けなかった。千年間、何度も想像した。再会したら、何を言おうか。責めようか、笑おうか、抱きしめようか。それとも、何も言わずにただ顔を見るのか。千年かけて、いくらでも考えられた。なのに、いざ本人を目の前にすると、何一つ思い浮かばなかった。かぐや姫も動かない。ただ帝を見ている。千年前と同じ瞳で。帝はようやく、一歩進んだ。
「……かぐや」
声は震えていた。かぐや姫の唇がわずかに動く。
「……帝」
その声を聞いた瞬間。帝の中で、千年という時間が崩れた。竹林、月明かり、別れの夜。手を伸ばしたのに届かなかった。あの日から今日まで、桜が千回都を彩った。自分を手伝ってくれる臣下を、友人を、何人も見送った。そのすべてが、一瞬のうちに胸の中を駆け抜けていった。
「本当に……お前なのか」
帝が言った。かぐや姫は微笑みながら言った。
「はい」
「千年だぞ」
「存じています」
「私は、千年待った」
「……はい」
「お前は」
帝の声が途切れた。
「お前は、私を覚えていたのか」
かぐや姫はすぐには答えなかった。やがて、静かに言った。
「忘れたことは、一度もありません」
帝は目を閉じた。その言葉を聞くために、その一言を聞くためだけに。千年という時間を生きてきたような気がした。帝の頬を涙が伝った。月には風がない、ゆえに涙は落ちない。ただ、月明かりの中で小さく光っていた。かぐや姫がそれを見つめる。
「泣いておられるのですか」
「……千年も待ったのだ」
帝は笑おうとした。しかしうまく笑えなかった。
「少しくらい、許せ」
かぐや姫の目にも涙が浮かんだ。
「はい」
そして、彼女は一歩進んだ。帝も一歩進む。あと一歩。それだけだった。千年前には、月と地球ほど離れていた。それが今は、たった一歩。帝はその距離を見つめた。
「長かったな」
「はい」
「本当に長かった」
「でも」
かぐや姫が微笑む。
「来てくださったのですね」
帝は頷いた。
「ああ」
それだけ言って。帝は、かぐや姫を抱きしめた。誰も二人の間に入らなかった。月の住人たちは、静かに見守っている。その瞬間だけは、帝も、かぐや姫も、彼らの存在を忘れていた。月も、地球も、千年という時間さえも。二人の間から消えていた。やがて帝は、かぐや姫の背後に広がる月の都を見る。
「お前は、ここで千年を過ごしたのか」
「はい」
「長かったか」
かぐや姫は少し考えた。
「……帝ほどではありません」
帝は笑った。
「そうか」
そして二人は、並んで立った。足元には、二人分の足跡。帝が月へ来るまでに残した、たった一つの足跡。そして、その隣に今、かぐや姫の足跡が並んでいる。千年前、帝は彼女の背中を見送ることしかできなかった。千年後、今度は彼女の隣に立っている。帝は空を見上げた。遠くに地球がある。そして、その地球から月へ続く道を、自分は千年かけて作った。帝は静かに笑った。
「千年か」
かぐや姫が尋ねる。
「何ですか?」
「いや」
帝は首を振った。
「思ったより短かった」
かぐや姫は目を丸くして、千年前と同じように笑った。
「嘘ばかり」
帝も笑った。
「そうかもしれぬ」
月の静寂の中で、二人の笑い声だけが響いていた。
かぐや姫カワイイ