圭一は店前に立つと、もう足が勝手に店から離れていることに気づいた。
「帰る」
「ちょっと待ってください、圭ちゃん」
呼び止める詩音。圭一は今回ばかりは呆れも表情に出さず、無心に帰ろうと願う。詩音が連れて来た場所は服屋だった。伝説の仕立て人とまで言うなら、どんな人だろうと緊張しつつも好奇心が勝った。伝説。そんな言葉まで使われるほどなのだから、余程のものだろうと昨日から期待していた。
ただ――
「メイド服は聞いてねぇよ!!!」
圭一は心の奥底から叫ぶ。そう、この店の店名は『MAID』
ウィンドウに飾られているのは数々のドギツイ衣装たち。白いエプロンに黒いドレスならまだ分かる。だが、袖という袖にはフリルが付き、胸元には大きなリボン、頭には用途不明の白い飾り。中にはどう考えても十九世紀英国の使用人が見たら卒倒しそうなものまで混じっている。
確かに自分が変態ではない、ということはない。ただスーツやらコスチュームやらを作ろう! なんて流れで出てくる店では絶対にないはずだ。
圭一はもう詩音の冗談に付き合うつもりはない。馬鹿馬鹿しくなって踵を返す。
その時だった。どこからか、あるいは待っていたかのように二人を呼び止めた声があった。
「ちょっと、待った!! 今、メイドを求める声が聞こえましたよ!」
「一言も言ってねぇよ!!」
反射的に振り返った圭一の視界へ、店の奥から一人の男が飛び出してくる。勢いよく現れた割には着地だけ妙に軽やかで、両手には巻かれた布地を何本も抱えていた。年齢は三十前後だろうか。眼鏡を掛けた柔和な顔立ちで、圭一が昨日から勝手に想像していた、眉間に皺を寄せた白髪の老職人とは似ても似つかない。
男は抱えていた布を危なげなく持ち直すと、爽やかに笑った。
「初めまして。入江京介と申します。この『MAID』の店長をしております」
圭一は無言で詩音へ顔を向けた。
「……こいつ?」
「はい」
「伝説の?」
「仕立て人です」
「若ぇじゃねえか!」
「年齢と技術は関係ありませんよ、前原さん」
「なんで俺の名前知ってんだ!?」
「私が伝えてありますから」
「先に言え!」
詩音は悪びれる様子もなく笑っている。圭一が今日何度目になるか分からない溜息を吐いている横で、入江はふと真面目な顔になり、店先に並んだ衣装へ目をやった。
「しかし、なるほど。店を見て不安になったわけですね」
「むしろこれ見て安心できる奴がいたら連れて来てほしいですよ」
「では誤解を解いておきましょう」
入江はそう言うと、ガラス越しの一着へ視線を向けた。それは先ほど圭一が特に派手だと思った、紺色を基調としたメイド服だった。
「元々、私は服屋ではありません。本職は医者です」
「……医者?」
圭一は二度見した。
詩音が楽しそうに笑う。
「だから言ったでしょう? 面白い人だって」
「面白いで片付けていい転職じゃねえぞ」
「転職したわけでもありませんよ。医者は今も続けています」
ますます分からない。圭一の顔にそれがありありと出ていたのだろう。入江は少し困ったように笑った。
「昔からメイドというものに、少々――」
「少々?」
詩音が横から口を挟む。
入江は咳払いした。
「……並々ならぬ関心がありまして」
「言い直して悪化したぞ」
「ところが、いざ理想の一着を作ろうとすると、これが実に難しい。見た目だけ整えても、人が着れば肩が突っ張る。丈を間違えれば歩きづらい。生地を厚くすれば形は保てても重くなるし、薄くすれば今度はシルエットが崩れる。汗を吸う素材、摩擦に強い素材、伸びる素材。人体がどう動くのかまで知らなければ、本当に着られる衣服にはならない」
そこまで言われて、圭一は店内を改めて見た。
入口からは派手な衣装ばかりが目に入ったが、よく見ればその奥にはまるで別の世界が広がっていた。壁一面に掛けられた色も厚さも異なる布地。引っ張った時の伸びを記した札。小さく切り分けられた素材見本。縫い方を変えた試験片らしきものまで、細かく分類されて並べられている。その一角だけ見れば服屋というより、何かの実験室だった。
「それで調べ始めたんです。繊維や素材を。医者ですから身体の動きについては元々多少知識がありましたし、調べているうちに面白くなりましてね。自分で試作品を作っているうちに、知人から舞台衣装だの特殊な注文服だのまで頼まれるようになった。それならいっそ工房を持とう、と」
「その結果が……」
圭一は看板を見る。
『MAID』
「ええ」
「なんでそこだけ一切ブレねぇんだよ」
「初心を忘れないためです」
胸を張って答えられ、圭一は何も言えなくなった。
「ちなみに私は素材や構造を見る方が得意でして、実際のデザインや型紙については、今はもう一人、腕のいい人に手伝ってもらっています」
「もう一人?」
「ええ。ただ今日は奥で仕事をしていますから、まずは私がお話を聞きます」
その言葉に詩音が一瞬だけ圭一を見る。圭一も視線を返した。
――もう一人には、どこまで話すんだ?
そう尋ねるより先に、詩音が小さく首を振った。
入江はそれを見ていたのかいなかったのか、「こちらへ」と二人を店の奥へ案内した。
表の派手さに比べ、奥の応接兼作業スペースはずっと落ち着いていた。大きな机に椅子が三脚。壁には人体の簡単な図と、様々な衣服の型紙が掛かっている。入江が扉を閉めると、店内のざわめきが少し遠くなった。
「さて」
入江は椅子に座り、白い紙を一枚手元へ引き寄せた。
「前原さん。何を作りたいんです?」
ようやく来た。
圭一は少しだけ姿勢を正した。
昨日から何度も考えていたはずなのに、いざ他人へ説明するとなると妙に恥ずかしい。詩音には既に全部知られているから今更だが、初対面の大人に「夜な夜な仮面を被って悪党を捕まえています」と自己紹介する趣味はない。
「……服です」
「ここは服屋ですからね」
「分かってますよ!」
詩音が口元を押さえる。
「そうじゃなくて……その、普通の服じゃなくて」
「制服?」
「違います」
「舞台衣装?」
「それもちょっと違う」
「では仮装用?」
「……近いような遠いような」
入江は急かさなかった。
圭一は腕を組み、しばらく唸った末に、ようやく言葉を選んだ。
「全身を覆う服が欲しいんです。頭から足まで。顔も隠せるやつ」
入江のペンが動き始める。
「なるほど」
「でも、ただ隠すだけじゃ嫌なんです」
「と、言いますと?」
「見た奴に……何ていうか」
圭一は眉を寄せた。
これが一番説明しにくい。
今まで使っていた黒っぽい服と適当な覆面では、鏡を見た自分ですら夜道の不審者にしか見えなかった。確かに正体は隠せる。だが、人を助けに行ったはずの自分を見て、助けられる側が悲鳴を上げるようでは何かが違う。
「……敵と間違われない格好にしたい」
入江のペンが止まった。
「敵?」
「いや、その」
圭一が言い淀むと、今まで黙っていた詩音が口を開いた。
「先生」
声の調子が少し変わっていた。
ふざける時のものではない。
「ここから先は、絶対に外へ漏らさないでください」
入江は詩音を見た。
「随分と物々しいですね」
「約束できます?」
少しの間を置いて、入江は頷いた。
「患者さんの秘密を預かる仕事をしていますから。その手の約束なら慣れています」
詩音はそれを聞いてから、圭一を見る。
圭一は一瞬迷った。
この男に言う必要があるのか。
だが、手のひらを厚い生地で覆われれば壁に張り付きにくくなる。身体の動きも普通の人間とは違う。何より、自分がどんなことをしているか知らない相手に「壁を這っても破れず、殴り合っても動きやすい服を作ってくれ」とだけ注文すれば、それこそ余計に怪しい。
圭一は観念して背もたれへ身体を預けた。
「……先生」
「はい」
「最近、興宮で変な奴が出るって噂、聞いたことあります?」
「変な奴?」
「夜に、不良とかチンピラを捕まえてる……仮面つけた奴」
入江は数秒考えた。
「はい。聞いたことがありますね。壁を登ったとか、妙に身軽だとか」
「それです」
「はい」
「……俺です」
沈黙した。
入江は圭一を見る。
詩音を見る。
もう一度圭一を見る。
そして眼鏡の位置を直した。
「なるほど」
「いや、もっと驚けよ!!」
「驚いてますよ」
「全然そう見えねぇ!」
「医者をやっていると、世の中には色々な人が来るものです」
「壁登る中学生が頻繁に来てたまるか!」
そこで初めて、入江が吹き出した。
「すみません。ですが、これでようやく話が繋がりました。詩音さんがわざわざ私のところへ連れて来た理由も」
入江は紙を新しいものへ取り替えた。
「では改めましょう。前原さんが欲しいのは、仮面ではなく――」
少し考えてから言う。
「その『スパイダーマン』という人物のための衣装、ということですか?」
圭一の目が丸くなった。
「……なんでその名前まで」
「私が言いました☆」
「詩音ーーー!!」
「必要でしょう? 先生にイメージを伝えるのに」
「必要かもしれねぇけど俺の覚悟ってものをだな!」
入江は笑いながら二人を制した。
「分かりました。ではスパイダーマンの衣装を作りましょう」
その言葉は妙にあっさりしていた。
だが圭一にとって、自分と詩音以外の人間が初めてその名前を口にした瞬間でもあった。
スパイダーマン。
自分たちが半ば勢いで付けた名前だったはずなのに、第三者の口から聞くと、何だか急に実在するものになった気がした。
「ただし」
入江の声音が変わる。
「名前が分かったところで、服は作れません」
「え?」
「スパイダーマンという名前は、服の性能を教えてくれませんからね」
入江は紙の中央に簡単な人体の輪郭を描いた。
「まず、どんな姿にしたいです?」
圭一は紙を見る。
「……蜘蛛、ですかね」
「蜘蛛そのもの?」
「いや、それは嫌です。八本脚とか絶対嫌だ」
詩音が肩を震わせる。
「じゃあ、蜘蛛を思わせる人間?」
「そんな感じです。顔は全部隠す。でも目は見えるようにしたい。あと、夜しか使わないからって真っ黒にはしたくない」
「理由は?」
「今の俺がそれなんですよ。黒い服に覆面で」
「確かに犯罪者側ですね」
「自分でもそう思ってるよ!」
入江は笑いながら書き留める。
「つまり、正体は隠したい。しかし、人を怖がらせる姿にはしたくない」
圭一は少し考えてから頷いた。
「はい」
「ではそこが最初の条件ですね」
ペン先が紙を走った。
――顔を隠す。
――人間の輪郭は残す。
――蜘蛛を意匠として使う。
――敵よりも、助ける側に見えること。
それから入江は視線を上げた。
「次に、この服で何をするのかを教えてください。ここからが素材の話になります」
やっぱり来たか。
圭一は苦笑した。
「……走ります。かなり」
「はい」
「跳びます。これも、かなり」
「どれくらい?」
「二階くらいなら……まあ」
入江のペンが一瞬止まる。
「続けてください」
「壁も登ります」
「手足で?」
「はい」
「何か器具を使って?」
「いや。直接」
「なるほど」
やはり「なるほど」で済ませるのか、この男。
「それから、喧嘩もします」
「喧嘩」
「いや、好きでしてるわけじゃないですよ!? 相手が襲ってきたらって意味です!」
「でしたら、転倒や打撃も考えなければいけませんね。ただ、そこを厚くしすぎると動けなくなる」
入江は圭一の肩、肘、膝へ順番に視線を移した。
「擦れやすい場所だけ補強して、それ以外は伸縮性を優先する方がいいでしょう。ところで壁へ張りつく時、手袋越しでも大丈夫なんですか?」
「それが分からないんです」
圭一は自分の掌を見た。
「今は素手か、かなり薄い手袋なら問題ない。でも厚くなると多分駄目です」
「なら掌と指先は別構造にしましょう。足も同じですか?」
「たぶん」
「面白いですね」
入江が小さく呟いた。
今度はメイドへの情熱ではない。医者が珍しい症例を見るような、それでいて研究者が新しい素材を前にした時のような目だった。
しかし、その視線もすぐに紙へ戻る。
「通気性は必要。夜間とはいえ、これだけ運動すれば汗をかく。全身を覆うならなおさらです。顔については、目だけ別の素材にしましょう」
「白い目にしたいです」
圭一が言う。
入江が顔を上げる。
「白?」
「なんとなくですけど。蜘蛛っぽいし、外から目が見えない方がいい。でも俺からはちゃんと見えるようにしたい」
「布では無理がありますね。細かな網状素材だけでも夜間視界が落ちる。レンズ状のものを探した方がいいでしょう。外側は白く見えて、内側からは視界を確保できるもの」
「そんな都合いいのあるんですか?」
「既製品でなければ、素材を組み合わせます」
そこで入江は、ごく当たり前のことのように言った。
「そのために私がいるんでしょう?」
圭一は思わず黙った。
詩音が「だから言ったでしょう」とでも言いたげに笑っている。
なるほど。伝説かどうかはまだ知らない。ただ、少なくとも自分一人で布切れを縫い合わせるよりは、遥かにまともなものが出来そうだった。
「あと、腕に何か付けるかもしれません」
「何か?」
「まだ作ってる途中です。糸を飛ばす道具みたいなのを」
「……蜘蛛らしくなってきましたね」
「そこは俺もそう思います」
「では前腕部には後付けの装具を固定できる余地を残しておきます。ただし、その道具の大きさが決まれば一度見せてください。服と干渉するようでは困りますから」
「分かりました」
入江はしばらく紙へ書き込み続けた。さっきまでただの人体だった輪郭の周りに、少しずつ文字が増えていく。伸縮。摩擦。補強。通気。視界。掌部薄型。前腕拡張可能。
圭一はそれを眺めながら、妙な感覚を覚えていた。
自分の頭の中にしかなかったものが、紙の上で少しずつ形になっていく。
これまでは仮面を被れば、それで別人になれた。名前すらなく、夜道を走って、気に入らない悪党を捕まえる。そんな程度のものだった。
だが今、入江が描いているのは、ただ正体を隠すための服ではない。
『スパイダーマン』という誰かのための服だった。
「さて」
しばらくして入江がペンを置く。
「最後に、色です」
「色か……」
圭一は紙を見る。
一番簡単そうで、一番難しい質問だった。
「黒じゃ駄目なんですよね」
「駄目とは言いません。ただ、先ほど前原さん自身が言ったでしょう。人を怖がらせたくない、と」
「じゃあ白?」
「夜道で目立ちすぎますね」
「黄色」
「蜘蛛というより工事現場ですね」
「緑」
「少し怪物寄りです」
「先生、却下するの早くない?」
詩音がくすくす笑う。
入江も微笑んだ。
「今日は決めなくて構いません。むしろ、考えてください」
「考える?」
「はい。性能はこちらで考えられます。身体に合う形も作れる。ですが、何色を身につけるか、どんな姿で人前に現れるか。それは素材屋が決めることではありません」
入江は圭一へ紙を向けた。
そこにはまだ、色のない人型がある。
「前原さん。スパイダーマンは、見た人にどう思われたいんです?」
「…………」
圭一はすぐには答えられなかった。
強そうに。
格好よく。
怖く。
色々浮かんだが、どれもしっくりこない。
少し考えてから、ようやく口を開く。
「……あいつが来たなら、大丈夫だって」
入江の目が少し細くなる。
「そう思ってもらえる奴には……なりたいです」
詩音は何も言わなかった。
入江もすぐには返さず、やがて穏やかに頷いた。
「では、その服を作りましょう」
その言葉で、ようやく圭一は今日ここへ来た意味を理解した。
スーツを買いに来たわけではない。
服を注文しに来ただけでもない。
まだ自分ですらよく分かっていない『スパイダーマン』という存在を、初めて外側から形にしようとしているのだ。
入江が立ち上がり、棚から巻尺を取る。
「それでは採寸を始めます。試作品を一着作ってみましょう。デザインについては、うちのもう一人の担当にも相談します」
圭一の眉が動いた。
「その人にも、俺のこと話すんですか?」
「いいえ」
入江は即答した。
「彼には、必要な条件だけ伝えます。身長、体格、可動域、補強する場所、そして大まかな意匠。誰が着るのかも、何のために使うのかも知らせません」
圭一は少しだけ肩の力を抜いた。
「……それなら」
「ただし」
入江が笑う。
「採寸する私は知ってしまいましたからね。逃げられませんよ、スパイダーマン君」
「その呼び方やめてください! まだ慣れてねぇんだから!」
「では脱いでください」
「話の飛び方がおかしいだろ!?」
「上着だけです」
「先に言え!!」
詩音の笑い声が店の奥まで響いた。
その向こう、閉じた作業室の扉の奥では、ミシンの音が絶えず続いている。そこにいるもう一人の仕立て人が、いずれ自分の衣装を形にすることになるなど、この時の圭一はまだ知らない。
そしてその人物の娘が、後になってテレビに映る一人のヒーローを見ながら、
――この服、どこかで見たことがある。
そう気づくことになることも。
もちろん、まだ誰も知らなかった。