ここは『MAID』という店の奥の工房である。部屋は綺麗に整えられ、製作途中のメイド服たちがトルソーに掛けられていた。
そこにミシンを扱う男がいた。竜宮保典。竜宮レナの父である。
竜宮保典は休日だというのに、店に詰めていた。ミシンを使い、布と布を丁寧に縫い合わせていく。以前はデザインの仕事をしていたとはいえ、自分でミシンを触る機会はそれほど多くなかった。図面を引き、色を決め、形を考える。あとは専門の人間に任せる。それがかつての彼の仕事だった。
だが今では違う。
「よし、これで最後っと」
糸を切り、出来上がった袖口を指先で整える。縫い目に乱れがないか確認し、それから少し離れて全体を見る。
悪くない。
いや――かなりいい。
今日が休日だというのに、わざわざここまで来た理由は、ずばり入江先生である。いや、今では同志と呼んでもいいかもしれない。昨日の夜に電話があり、「どうしても見てもらいたいものがある」と頼まれたので、ついでに残っていた仕事まで片付けていたのだ。
「あ、竜宮さん。入りますよ」
ノックを鳴らし、礼儀正しく入ってくる入江。その手には何枚かの紙が握られていた。
「先生。ちょうど今終わったところですよ」
「おお! さすが竜宮さん!」
入江はまず完成した服を見る。途端に目の色が変わった。
「この袖……少し細くしました?」
「ええ。前の形だと腕を曲げた時に余るでしょう。肩から少し落として、こっちを――」
「素晴らしい!」
声がでかい。
保典は思わず苦笑する。
最初に会った時もそうだった。
今から一年ほど前。当時の保典は、ほとんど仕事らしい仕事をしていなかった。
妻とは離婚した。
理由を一言で言ってしまえば、浮気だった。
もちろん、結婚生活がそこへ至るまでには色々なものがあった。夫婦のすれ違いも、自分に至らないところもあっただろう。だが、結果だけ見れば妻は別の男を選び、保典と礼奈の元から去った。
その頃には仕事の方も上手くいっていなかった。
元々デザイン関係の仕事をしていたが、離婚前後から集中できなくなり、依頼も減った。何かを描こうとしても、以前のように面白いとは思えない。色を置いても、線を引いても、どこか他人の仕事を眺めているようだった。
別に、生きていけないわけではなかった。
蓄えもあった。
家もあった。
何より礼奈がいた。
だから娘との生活を第一にしよう。それでいいと思っていた。
ただ――何かが抜け落ちていた。
そんな時だった。
興宮を歩いていた保典は、一枚の広告を見つけた。
『求む! 服飾に情熱ある者!
理想のメイド服を、この手で!』
最初は通り過ぎた。
数歩進んだ。
そして戻った。
「……なんだ、これ」
今思えば、なぜ拾ったのか自分でも分からない。
恐らく、あまりにも馬鹿馬鹿しかったからだ。
服飾関係の求人広告なら分かる。舞台衣装でも、婦人服でもいい。だが、そこには堂々と『メイド服』と書かれていた。
しかも下の方には、さらに小さな文字で、
『フリルに妥協なし。機能性にも妥協なし。メイド服は人類が生み出した総合芸術である』
とまで書かれていた。
その日の夕方、保典は半分冷やかしのつもりで店を訪れた。
そこで出会ったのが入江京介だった。
「メイド服にはですね! ただ可愛いだけでは駄目なんです!」
初対面でそう力説された。
「人が着る以上、動けなければならない! 給仕をするなら腕を伸ばす! 歩く! 屈む! それでも美しい形を崩さない! つまり人体構造と繊維工学、そして芸術性、その全てが――」
正直、やばい人だと思った。
今でも少し思っている。
だが、話を聞いているうちに、保典は久しぶりに笑っていた。
ここまで一つの服に本気になれる人間がいるのか。
馬鹿馬鹿しい。
馬鹿馬鹿しいのに、少し羨ましかった。
試しに一着だけデザインした。
入江が注文を出し、保典が形にする。
最初のものは散々だった。入江は「ここではメイドの魂が死んでいます!」などと意味不明の駄目出しをし、保典も腹を立てて言い返した。
その翌日には、修正版を持って来ていた。
二着目。
三着目。
いつの間にか、また鉛筆を持つのが楽しくなっていた。
色を選ぶのが楽しくなった。
布を触り、実際に縫い、自分の考えたものが形になるのが楽しくなった。
気がつけば『MAID』に入り浸るようになっていた。
そして今では――
「竜宮さん、このスカートの広がりは完璧です!」
「先生、ここは二センチ詰めた方が綺麗ですよ」
「なんと!」
同志である。
ただし。
この事実を、娘には言っていない。
絶対に言えない。
礼奈には「服のデザインをまた少し始めた」とだけ話している。
嘘ではない。
決して嘘ではないのだ。
ただ、そのデザインしている服の九割近くがメイド服だという情報を意図的に省いているだけである。
もし知られたらどうなるだろう。
『お父さん、かぁいいよ~! レナも着たいな、かな!』
いや、まだそれならいい。
自分の部屋にあるデザイン帳まで見つかれば終わる。
最近では入江に毒され――いや、影響されて、フリルの幅やエプロンドレスの丈について真剣に研究した書き込みまである。
父親の威厳が死ぬ。
確実に死ぬ。
「……竜宮さん?」
「え?」
「どうしました?」
「いや……娘には絶対この店のこと言わないでくださいね」
「なぜです!? これほど素晴らしい活動を!」
「だからですよ!」
保典は額を押さえた。
入江は理解できないという顔をしたが、やがて「ああ、思春期ですものね」と妙に納得した。
「それより先生。見てもらいたいものって?」
「ああ、そうでした」
入江が持っていた紙を机に置く。
保典は何気なくそれを覗き込んだ。
そして眉を寄せた。
「……なんです、これ?」
人体図。
そこに大量の書き込みがある。
全身を覆う。
顔は完全に隠す。
視界確保。
高い伸縮性。
肩、肘、膝は耐摩耗性を重視。
掌と指先、足裏は薄く。
前腕部には後付け装具を装着できる余地を残す。
激しい跳躍、走行を想定。
そして一番下には、
『人を怖がらせないデザイン』
とあった。
保典はもう一度最初から読み返した。
「先生」
「はい」
「……何の服です?」
「守秘義務です」
即答だった。
「舞台衣装?」
「秘密です」
「曲芸?」
「秘密です」
「新しいメイド服?」
「それは違います」
そこだけ答えるのか。
保典は紙を持ち上げた。
奇妙な注文だった。
これまで舞台衣装も作った。変わった仮装の注文もあった。だが、この仕様はどれとも違う。
動きやすさを求めながら、身体全体を覆う。
顔まで隠すのに、人を怖がらせてはいけない。
しかも前腕には何らかの装具。
「色は?」
「まだ未定です。本人に考えてもらっています」
「本人?」
入江はにっこり笑った。
「そこから先は秘密です」
「……先生、楽しんでません?」
「少し」
保典は溜息を吐きながら、もう一度紙へ視線を落とした。
だが。
その口元には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。
面白い。
何だか知らない。
誰が着るのかも知らない。
けれど、この服には目的がある。
ただ目立ちたいわけでも、格好よく見せたいだけでもない。
この服を着る誰かは、自分の姿を見た人間に安心してほしいと思っている。
そういう注文だった。
保典は鉛筆を手に取った。
「……じゃあ、まず輪郭から考えますか」
「お願いします」
「先生」
「はい?」
「これ、面白い仕事になりそうですね」
入江は笑った。
「私もそう思います」
保典は白紙の上に一本目の線を引いた。
この時の彼はまだ知らない。
自分がこれから作る一着が、やがて興宮の街を飛び回り、新聞に載り、テレビに映り、多くの人々から一つの名前で呼ばれるようになることを。
そして、その映像を自宅のテレビで見た娘が、首を傾げることになることも。
――あれ?
――この服、どこかで見たような気がするかな。
それは、もう少し先の話である。