『MAID』と大きく書かれた看板から十分ほど離れたところで、圭一はようやく大きく息を吐いた。
「……とんでもないところだった」
「そうですか? 私は結構好きですよ、あのお店」
「そりゃお前はな!」
先ほどまでいた店の方を振り返る。ここからではもう、その悪趣味――もとい、店主の情熱に満ち溢れた看板は見えない。それだけで何となく安心した。
しかし、不思議なものだった。
最初に店を見た時には、一秒でも早く帰りたかった。それが今では、次にあの店へ行く時のことを少しだけ考えている。
入江京介。
見た目はどう見ても普通の、少し人当たりのいい若い医者だった。それがメイド服について語り始めれば途端に目の色を変え、服の話になると今度は人体だの素材だのを真面目に語り出す。変人なのはまず間違いない。だが少なくとも、自分が今欲しがっているものを作る相手としては、これ以上適した人間もそうはいないのかもしれなかった。
顔を隠す。
激しく動ける。
壁を登れる。
それでいて、自分を見た人間に恐怖を与えない。
そんな馬鹿げた注文を笑いもせず聞いてくれた。
「……まあ」
圭一は頭を掻いた。
「悪い人じゃなさそうだったけどさ」
「でしょう?」
詩音は満足そうに笑う。
「私が圭ちゃんを変なところに連れていくと思いました?」
「連れて行っただろ。店名思い出してみろ」
「失礼ですねぇ。由緒正しい服屋さんですよ?」
「店長がメイド服を総合芸術扱いしてる時点で由緒なんか吹き飛んでるわ!」
二人はそんなことを言いながら、デパートの中央通路へ戻っていった。休日だけあって人通りは多い。家族連れ、買い物袋を下げた主婦、友人同士で歩く学生。食品売り場から漂う匂いと、どこかで流れている軽い音楽が混ざり合っている。
ひとまず秘密の用事は終わった。
あとは魅音たちと合流するだけ――。
そう思っていた。
「じゃあ次、行きましょうか」
詩音が当然のように言った。
圭一は足を止める。
「……どこに?」
「服屋さんです」
「今出てきたところだよな!?」
「普通の服屋さんですよ」
「だったら最初からそっち連れてけよ!」
「普通の服屋さんに『壁を登っても破れない服をください』って言うんですか?」
「…………」
何も言えなかった。
詩音は勝ち誇ったように微笑むと、そのままエスカレーターへ向かった。
「というか、まだ服買うのか?」
「買うのは圭ちゃんですよ」
「俺?」
「はい」
「別にいらねぇけど」
圭一は自分の格好を見る。
薄い色のシャツ。少し大きめの上着。何の変哲もないズボン。東京にいた頃から着ていたもので、別に破れてもいないし、着られないわけでもない。休日に着るものなど、これで十分だと思っている。
ところが詩音は立ち止まると、上から下まで圭一を眺めた。
一度。
二度。
そして、とても穏やかな笑顔を浮かべた。
「ダサいです」
「言い切った!?」
「特にその上着」
「普通だろ!?」
「普通に似合ってません」
「お前今日俺に恨みでもあるのか!?」
「ありませんよ。むしろ親切心です」
そう言われると余計に腹が立つ。
しかし詩音は圭一の抗議など意に介さず、さっさと紳士服の階へ向かっていく。圭一も置いて行かれるわけにもいかず、その後を追った。
連れて来られた店は、先ほどの『MAID』とは違って、圭一から見ても明らかにまともだった。シャツやジャケット、ズボンが整然と並び、休日らしい軽い服装から少し落ち着いたものまで揃っている。
「圭ちゃん、背があるんですから、もうちょっとちゃんとすれば見栄えするのに」
詩音はハンガーを一つ取り出すと、圭一の胸元へ当てる。
「これ」
「地味じゃね?」
「圭ちゃんが着てるのより百倍いいです」
「比較対象への悪意が強すぎるだろ」
次に別のシャツ。
さらにズボン。
詩音は妙に手際がいい。
「お前、こういうの詳しいんだな」
「女の子ですから」
「……その台詞、妙に説得力あるな」
普段、魅音と並んでいるとどうしても姉妹というより似た者同士の印象が強い。だがこうして見ると、やはり詩音は服や髪型には随分気を使っているらしい。
数分後、圭一の両腕には既に何着もの服が乗せられていた。
「多くない?」
「試着するだけです」
「全部!?」
「当たり前でしょう」
「嫌だよ面倒くせぇ!」
「圭ちゃん」
詩音が笑った。
「女の子と二人で出歩く時も、その格好で行くつもりです?」
圭一は眉をひそめる。
「……なんでそんな話になる」
「別に? 例えばの話ですよ」
妙な言い方だった。
しかし圭一は深く考えなかった。
「誰と行こうが同じだろ」
「そういうところですよ」
「何がだよ」
「分からなくていいです」
詩音はそのまま圭一を試着室へ押し込んだ。
結局、三度着替えさせられた。
最初は少し大人しすぎると言われ、次は「圭ちゃんには似合うけど少し格好つけすぎ」と却下された。そして最後に渡されたのは、濃い色の細身のズボンと、白に近い明るいシャツ。その上から軽い青系のジャケットを羽織る組み合わせだった。
鏡を見る。
「…………」
意外だった。
悪くない。
というより、自分が普段適当に選んでいる服より明らかにまともだった。
身体に合っているからだろうか。最近急に成長した体格も、妙に大きく見えすぎず、逆に細くも見えない。
カーテンを開ける。
詩音が一度圭一を見て、満足そうに頷いた。
「ほら」
「……まあ」
「何です、その反応」
「いや……悪くないな」
「最初からそう言ってるじゃないですか」
詩音は少し離れ、今度は頭から足元まで確認する。
「うん。これなら大丈夫ですね」
「何が?」
「いえ、こっちの話です」
その顔が妙に嬉しそうだった。
後に圭一が知ることになるのだが、この時詩音の頭の中では、既に別の計画が進んでいた。
魅音。
中学三年生。受験生。普段は男勝りで、圭一の前では特にその傾向が強い。
そんな姉に、少しくらいまともな格好で圭一と出歩かせてやろうという、お節介極まりない計画である。
当然、この時の圭一はそんなことを知る由もない。
「じゃあこれで」
圭一は値札を見る。
「……結構するな」
「服なんですから」
「俺、スパイダーマンの服も注文したばっかなんだけど……」
「あっちは必要経費でしょう」
「これも必要経費扱いなの!?」
結局、圭一は詩音に押し切られる形で一式購入することになった。
紙袋を受け取った後、再び皆との待ち合わせ場所へ向かおうとしたところで、圭一はふと足を止めた。
「……そうだ」
「どうしました?」
「買っときたいものある」
今度は圭一が詩音を連れて歩き出した。
向かったのは衣料品売り場ではない。玩具や模型、家庭用品、工作用品などが置かれた階だった。
棚を見ながら、圭一は小さな金具や丈夫なバンド、細いチューブ、模型用の部品、小型の空容器などを順番に籠へ入れていく。
詩音が横から覗き込む。
「今度は何を作るんです?」
「昨日話しただろ」
「糸を飛ばすやつですか?」
「飛ばすっていうか……出すっていうか」
圭一は棚を眺めながら考える。
今ある十三号は、一応使える。
ただし、あくまで「長い紐を持ち歩く」方式だ。
自分が欲しいのは違う。
蜘蛛のように、必要な時に必要なだけ出せるもの。
その考え自体はもう固まりつつあった。
問題は、それをどうやって手首から出すか。
「まず腕につけられる形にしたいんだよ。中身は後でもいい」
「順番逆じゃないです?」
「両方一緒にやるんだよ。中身が出来ても、瓶抱えて戦うわけにいかないだろ」
「確かに」
詩音は想像したらしく、少し笑った。
「敵に『ちょっと待ってください、今から蓋開けますんで』って?」
「だから嫌なんだよ!」
圭一はさらに、小さなベルトと金属製の留め具を手に取った。
完全な機械を作るつもりはない。
まず必要なのは、手首へ固定できること。
腕を振ってもズレないこと。
そして指の動きで、無理なく作動させられること。
そこまで出来れば、今日としては十分だった。
「圭ちゃん」
「ん?」
「楽しそうですね」
言われて、圭一は一瞬黙った。
「……まあな」
否定できない。
能力を得たことそのものも、最初は怖かった。
だが、調べること。
試すこと。
失敗して、また考えること。
それは素直に面白かった。
自分の身体に起きた得体の知れない変化を、少しずつ自分の手で理解していく。そこから何か使えるものを作り出していく。
多分、自分はこういうことが嫌いではない。
会計を済ませる頃には、袋が一つ増えていた。
その後、二人はようやく魅音たちのところへ戻った。
「あ、圭一君! 遅かったね、かな!」
レナが真っ先に気付いた。
魅音は腕時計を見る。
「遅いぞー、圭ちゃん。詩音に何されてたの?」
「聞くな」
「何その返事!?」
「色々あったんだよ……」
圭一は『MAID』での出来事を思い出して遠い目をした。
詩音は横で涼しい顔をしている。
沙都子が圭一の紙袋へ目を向けた。
「あら? 圭一さん、随分買い込みましたわね」
「まあな」
「服?」
魅音が覗こうとする。
圭一は反射的に少し袋を引いた。
「見るほどのもんじゃねぇよ」
「なにぃ? 隠されると気になるじゃん」
「普通の服だ普通の!」
詩音が意味ありげに笑う。
「圭ちゃん、ちゃんと格好良くなりましたからね」
「言い方!」
魅音が一瞬だけ圭一を見る。
「へぇ……」
「なんだよ」
「別に?」
今度は魅音が妙に素っ気なく顔を逸らした。
詩音の笑みがさらに深くなったが、それについて圭一が問いただすより先に、彼女は今度は魅音の腕を掴んだ。
「じゃ、お姉。次はこっち行きますよ」
「は?」
「服」
「いや、おじさん別に――」
「いいから」
「ちょ、詩音!?」
連行されていく魅音を見送りながら、圭一は首を傾げた。
「……何なんだ、あいつ」
「さあ?」
レナは笑っている。
梨花もどこか面白そうに二人の背中を見ていた。
それからしばらくして詩音と魅音も戻り、一行はデパートを後にした。
休日の買い物はそこで終わった。
少なくとも、表向きには。
家へ帰ったのは、まだ昼を少し回った頃だった。父はいつものように仕事部屋へ籠もっていて、母も買い物に出ているらしく、玄関から二階へ上がるまで誰とも顔を合わせなかった。
圭一は自室へ入るなり、デパートから持ち帰った二つの紙袋を床へ下ろした。片方には詩音に半ば強引に選ばされた服が入っている。帰る途中まではそれなりに気になっていたはずなのだが、部屋へ戻った途端、興味はもう一方の袋へ完全に移っていた。
中身を机の上へ広げていく。手首へ巻けそうな丈夫なバンド、小さな留め具、模型工作用に売られていた細かな部品、空の容器や細い管。店で見つけた時には「これも使えるかもしれない」「あれも必要になるかもしれない」と次々籠へ放り込んだものばかりだったが、改めて一か所へ並べてみると、何かの機械を作るための部品というより、用途の分からないガラクタの寄せ集めに見えなくもない。
「……で、これをどうすりゃいいんだ?」
圭一は椅子へ腰を下ろし、腕を組んだ。
ここ数日で、自分の部屋は以前とは比べものにならないほど雑然としていた。蜘蛛の生態を調べるために買った図鑑や参考書の隣には、繊維や樹脂について書かれた本が積まれ、そのさらに上には学校の授業より随分先まで扱っている化学の参考書まで乗っている。机の端には小さな容器が並び、その中には、硬くなりすぎて板のようになったもの、逆に柔らかすぎて少し引っ張っただけで伸びきってしまったもの、粘着力だけが強すぎて紙から剥がせなくなったものなど、ここ数日の失敗がそのまま保存されていた。
そして、その中で唯一「失敗作」と呼ばずに済むところまで辿り着いたのが、十三号だった。
圭一は机の端に置いてあった縄を手に取った。見た目だけなら、少し表面加工された市販のロープと大して変わらない。芯になっているのも普通の人工繊維であり、蜘蛛の糸を大量に集めて編み込んだわけでもなかった。そもそも、あの一匹から何十メートルもの糸を取ることなど出来るはずがない。
だから圭一がやったのは、人工繊維の縄へ、自分で作った試作素材を加えることだった。その中へ例の蜘蛛から得られたものをほんの僅かに混ぜてやると、不思議なことに縄全体の粘りや強度が変わった。
昨日までなら、それで納得していた。
特殊な蜘蛛なのだから、特殊な糸を作る。だから、その糸の成分を混ぜれば強くなる。それだけの話だと思っていた。
だが、詩音を助けたあの夜、実際に十三号へ何度も強い力を掛け、それでもほとんど傷まなかったことがどうにも引っ掛かっていた。
「……やっぱ、おかしいよな」
両手で縄を掴み、少し強く引く。びくともしない。
問題は強いことではない。
その強さが、使った蜘蛛由来の材料の量に見合っていないことだった。
十三号へ加えた量など、本当に僅かである。縄そのものを置き換えたわけでも、全体を蜘蛛糸で覆ったわけでもない。それなのに、出来上がったものは元の縄とは明らかに性質が違っていた。
圭一はノートを引き寄せ、これまでの記録をぱらぱらと捲った。一号から十三号まで、作ったものについて思いつく限りのことを書き残してある。最初の頃は「硬い」「すぐ切れる」「くっつきすぎ」といった雑な感想ばかりだったが、数を重ねるうちに、どの素材を加えた時に何が変わったのかくらいは意識するようになっていた。
そのページを並べて見ていると、どうしても一つの傾向が目につく。
例の蜘蛛から採ったものを使った時だけ、結果が明らかに違う。
「こいつ自身が丈夫だから……ってだけじゃねぇのか?」
圭一は飼育容器の方へ目を向けた。
中では、あの蜘蛛がいつものように張った糸の上でじっとしている。
三日前までなら、圭一も「変な蜘蛛」で済ませていただろう。だが、自分を噛んだ後に身体へ起きた変化を考えれば、そんな簡単な言葉で片付ける方がおかしい。壁へ張り付き、人間離れした力を出し、危険まで妙な感覚で察知するようになった。その原因である蜘蛛が、糸だけは普通だと考える方がむしろ不自然だった。
ただし、今の圭一には、それを確かめる手段がない。
特殊な蜘蛛しか手元にいないからだ。
比較する相手がいない。
そこで数日後の予定を思い出した。
ゴールデンウィークには、両親と一緒にキャンプへ出掛けることになっている。山へ行けば蜘蛛くらいいくらでもいるだろうし、何も捕まえなくても、残された巣から少量の糸を採るくらいなら出来る。
圭一はノートの余白へ、
『GW 普通の蜘蛛の糸を集める』
と書き込んだ。
その下へ少し考えて、
『蜘蛛なし/普通の蜘蛛/こいつ 同じ条件で比較』
と付け足す。
専門的な実験など出来ない。それでも、三つを同じように比べて特殊蜘蛛だけ結果が違えば、少なくとも自分の思い込みではないと分かる。
そこまで考えたところで、圭一は十三号を机へ戻した。
もっとも、その結果が出るのはゴールデンウィークの後だ。今日一日、蜘蛛を眺めながら待っているわけにもいかない。
圭一が今すぐ何とかしたかったのは、十三号そのものではなく、それを持ち歩かなければならない今のやり方だった。
「強いんだけどなぁ……」
腰へ巻いて夜道を走った時の感覚を思い出す。
長い。邪魔になる。壁を登ればどこかへ引っ掛かりそうになるし、一度使えば巻き直さなければならない。相手の武器を絡め取るには便利だったが、蜘蛛の力を使っている人間の装備としては、あまりにも原始的だった。
何より、本物の蜘蛛はそんなことをしていない。
蜘蛛が何十メートルもの完成した糸を身体の中へ巻き取って持ち歩いているわけではないことくらい、本を読んで圭一も知っている。必要な時に、糸になる前の何かを身体の中から送り出し、それを細い糸へ変えている。
そこまで考えると、圭一の中に数日前からぼんやりあった考えが、ようやく一つの形になった。
完成した縄を持ち歩く必要なんてない。
糸になる前の材料だけ持ち歩いて、使う瞬間に糸へ出来ればいい。
問題は――その「使う瞬間に糸へする」という部分が、今の自分にはさっぱり分からないことだった。
夕食を終えた後。
圭一は父の仕事部屋を覗いた。
前原伊知郎は大きな机へ向かい、何枚かの紙を広げていた。絵具の匂いが薄く漂っている。
「父さん」
「ん?」
伊知郎が振り向く。
「どうしたんだい、圭一」
「ちょっと聞きたいんだけど」
圭一は部屋へ入った。
もちろん、スパイダーマンのスーツを作っています、などと言えるはずがない。
少し考える。
「仮にさ」
「うん」
「仮に、蜘蛛をモチーフにした……ヒーローみたいな奴を描くとするじゃん」
父の眉がわずかに上がった。
「蜘蛛のヒーロー?」
「いや、学校でちょっとそういう話になって」
我ながら雑な言い訳だった。
だが伊知郎は特に追及しなかった。
むしろ面白そうに椅子を回す。
「それで?」
「色って何がいいと思う?」
「なるほど」
さすが画家というべきなのか。
父はそれだけで少し考え込み、机の端から白紙を一枚取った。
「蜘蛛というと、普通は黒や茶色を使いたくなるね」
「だよな」
「でもヒーローなんだろう?」
「ああ」
「なら黒一色はやめた方がいい」
圭一は少し驚いた。
入江と同じことを言う。
「なんで?」
「怖いからさ」
父は鉛筆を走らせながら答える。
「特に夜ならね。黒い人影が突然屋根から降りてきたら、助けに来たのか襲いに来たのか分からないだろう?」
「……それ、今日も言われた」
「へえ」
「あ、いや、何でもない」
危ない。
伊知郎は少し不思議そうにしたが、すぐ紙へ戻った。
「じゃあ、一色は赤」
「赤?」
「目を引くからね。危険の色でもあるけど、生命力も強い。遠くからでも存在が分かる。顔や胸、腕に使えば印象に残る」
父は簡単な人型の上半身へ線を引く。
「ただ、全部赤だとうるさい」
「うるさい?」
「色が強すぎるんだ。ずっと見ていると疲れる。それに、赤一色だと少し攻撃的に見える」
「じゃあもう一色?」
「そうだね」
伊知郎は少し考えた。
「青かな」
圭一は紙を見る。
「赤と青?」
「赤が前へ出る色なら、青は少し引く。赤の強さを落ち着かせてくれる。空や水の色でもあるし、清潔感も出る。動いている時にも二色の境目があると身体の形が見えやすい」
父は背中や脚の部分を指でなぞった。
「例えば、顔の中心と胸、腕は赤。脇から脚にかけて青。そうすれば人間の身体の形も残る。そこに蜘蛛を表す線を入れるなら……」
さらに鉛筆が動く。
圭一は父の手元を見つめた。
赤。
青。
まだ鉛筆だけだから色は付いていない。
それなのに、頭の中には何となく姿が見えた。
真っ黒な覆面男ではない。
夜の路地に現れても、一目で何者か分かる。
人ではある。
でも普通の人間ではない。
蜘蛛のように壁を這い、糸を飛ばし、誰かを助けに来る。
「……赤と青か」
圭一は呟いた。
「気に入った?」
「うん」
思った以上に。
伊知郎は笑った。
「それなら良かった」
「ありがと、父さん」
圭一は紙を受け取ろうとして、一瞬止まる。
「これ、もらっていい?」
「もちろん」
父から紙を受け取る。
部屋を出ようとしたところで、背後から声が飛んできた。
「圭一」
「ん?」
振り返る。
伊知郎は笑っていた。
「その蜘蛛のヒーロー、完成したら父さんにも見せてくれよ」
圭一の心臓が一瞬だけ跳ねた。
「……だから学校の話だって」
「そうだったね」
父はそれ以上何も言わなかった。
圭一は紙を持ったまま自分の部屋へ戻った。
机には今日作った不格好なウェブシューター。
隅には特殊な蜘蛛の入った容器。
そして手には父が描いた、まだ名前も模様も完成していない人型。
圭一は椅子へ座る。
赤。
青。
白い目。
胸には蜘蛛。
手首にはウェブシューター。
頭の中で、それらを一つずつ重ねていく。
少しずつ。
本当に少しずつではあるが、自分の中にしか存在しなかったものが、現実の形を持ち始めている。最初はただ、黒い服を着て夜道を走っただけだった。
名前すらなかった。
それが今では名前がある。作ってくれる人がいる。手助けしてくれる人がいる。
そして、自分自身のための道具も作り始めている。圭一は父から貰った紙の端へ、赤鉛筆と青鉛筆で小さく色を置いた。
「……これだな」
赤と青。
まだ誰も知らない色。
けれど、そう遠くない未来。
興宮の街でその二色を見た人間は、誰もが同じ名前を思い浮かべるようになる。
――スパイダーマン。
その姿は、この夜、ようやく色を持った。
<雑談>
結局、圭一の普段着のアレ、なんの服だったんでしょうねぇ...初見で見たときは「なんだ?この服は」ってすぐ気づいたものですよ。最初はあの服は、ライフジャケットを普段着にしてるのかと思っていた作者です。今回のssでは、詩音が居るのでその服とはおさらばかもしれません。