夜。興宮の一角にあるマンション、その一室に詩音は住んでいる。ルチーアに投獄されかけたタイミングで、私が幼い頃、葛西に無理を言って頼んだマンションの一室。ほとんどそのまま居つくような形で暮らし続けていた。
興宮を拠点とする園崎家は、この数年の発展で大きな恩恵を受けていた。再開発に研究施設、企業誘致、それに伴う不動産価格の上昇。少し歩けば、園崎の名がどこかしらで関わっている建物にぶつかると言ってもいいくらいで、詩音の住んでいるこのマンションも例外ではない。園崎家の人間が住むのなら家賃がどうこうという話にすらならない。
それでも詩音が本家へ戻ろうとしないのは、単純に今の生活が気に入っているからだった。本家にいれば、どうしても園崎の娘として見られる。誰かの目があり、誰かの考えがあり、誰かの期待がある。そういうものから少し離れた場所で、一人で好きな時間に起きて、好きなものを食べ、好きなことをする。詩音にとって、この部屋は数少ない「園崎詩音としてだけ」いられる場所だった。
その夜も、寝室のライトだけがぽつりと灯っていた。ベッドの上には、今日デパートで買った紙袋がいくつか置かれている。その横で詩音は受話器を肩に挟みながら、時折笑い、時折わざとらしくため息を吐いていた。
相手は園崎魅音。
双子の姉であり、詩音にとっては最も分かりやすく、そして最も面倒な相手でもある。
「ねぇー! 詩音ばっかりずるい!」
受話器の向こうから、魅音の不満げな声が響く。
詩音は思わず笑った。
「お姉がもっとしっかりしてたら、こんなことにはなってませんよ。このままじゃ圭ちゃん、私だけじゃなくて、レナさん、沙都子、梨花ちゃままでライバル候補に上がっちゃいますよ?」
「なんで沙都子と梨花ちゃんまで入るのさ!」
「可能性の話です」
「可能性広げすぎでしょ!」
魅音は本気で嫌そうだった。
その反応が、詩音には分かりやすすぎた。
今日のデパートで、魅音が圭一を見ていた目。
圭一が詩音と二人でどこかへ行っている間、別に不機嫌ではないふりをしていた。レナや沙都子と普通に話していたし、ゲーム売り場でも笑っていた。
けれど詩音が戻った瞬間に、圭一の持っていた紙袋へ目が行った。
服。
その一言で、空気がほんの少しだけ変わった。
その程度の変化は、他の誰にも分からなかったかもしれない。けれど詩音には分かる。何年姉妹をやっていると思っているのか。
だからこそ、詩音はその場で魅音の腕を掴んだ。
『お姉、次はこっち』
『は?』
『服です』
『いや、おじさんは別にいらないって』
『いいから』
『ちょ、詩音!』
半ば引きずるように連れて行った先で、魅音は案の定、最初から乗り気ではなかった。
「別に普段着なんて何でもいいじゃん」
などと言いながら、実際に鏡の前へ立たせれば、いつもより少しだけ姿勢を正す。詩音が明るすぎない色のシャツを選び、髪型と合わせて少し柔らかい印象になるように組み合わせると、魅音は鏡を見ながらしばらく黙った。
『……変じゃない?』
『別に』
『ほんと?』
『ほんとです』
『圭ちゃん、こういうの好きかな』
その時点で、詩音の中ではもう全部答えが出ていた。
「お姉、」
電話口で、詩音は呆れたように声を落とした。
「今日、服選んでる時に何て言ったか覚えてます?」
「……何が?」
「『圭ちゃん、こういうの好きかな』って」
「言ってない!」
「言いました」
「言ってない!」
「言いました」
「言ってないってば!」
詩音は受話器を少し耳から離した。
「声大きいですよ」
「誰のせいだと思ってるの!」
魅音は完全に焦っていた。詩音はベッドへ仰向けになり、天井を見ながら少しだけ笑った。
「まあ、でも安心しました」
「何が?」
「お姉、本当に圭ちゃんのこと好きなんですね」
今度こそ、受話器の向こうが静かになった。
ほんの数秒。
けれど、その沈黙が何より雄弁だった。
「……別に」
ようやく返ってきた声は、さっきよりずっと小さい。
「別に、そこまでじゃないし」
「そうですか」
「そうだよ」
「じゃあ私がもらっても?」
「それはダメ!」
即答。詩音は吹き出した。
「ほら」
「今のは違う!」
「何が違うんです?」
「姉として!」
「何の姉ですか」
魅音はまた黙った。詩音は笑いながら受話器を持ち直す。からかうのは楽しい。
けれど、今日は少しだけ違った。
本気で、まずいと思っている。魅音は圭一のことが好きだ。それ自体はもう疑いようがない。
ただ、好きだからこそ動けなくなっている。
普段なら、誰にでも遠慮なく話しかける。部活では圭一と張り合い、くだらない勝負になれば意地でも勝とうとする。そのくせ、少しでも男女らしい空気になると急に逃げる。
これでは進むものも進まない。
しかも、圭一は多分、魅音が自分をどう見ているのか気づいていない。
詩音はそこまで考えてから、少しだけ声を真面目にした。
「お姉」
「なに」
「ゴールデンウィーク、最後の日空いてます?」
「最後の日?」
「はい」
「たぶん……何もないと思うけど」
「じゃあ、圭ちゃん誘えばいいじゃないですか」
「……は?」
魅音の声が止まる。
詩音は続けた。
「二人で」
「ちょっと待って」
「何です?」
「二人で?」
「そうです」
「圭ちゃんと?」
「他に誰がいるんです」
「なんで!?」
「なんでって……」
今度は詩音が本気で呆れた。
「好きな人と二人で出掛けるのに理由いります?」
「好きって決めつけるな!」
「じゃあ嫌いなんですか?」
「それは違うけど!」
「じゃあいいじゃないですか」
「よくない!」
「何がです?」
「だって、いきなり二人でって……絶対変に思われるじゃん!」
詩音は額へ手を当てた。
「お姉、今まで圭ちゃんとどれだけ一緒にいるんですか」
「それとこれとは別でしょ!」
「別じゃありません」
「別なの!」
受話器越しでも、魅音が顔を真っ赤にしているのが分かる気がした。
詩音は一度、大きく息を吐いた。
「じゃあ、デートって言わなきゃいいんですよ」
「……え?」
「普通に遊びに行こうって言えばいいんです。買い物でも、ゲームでも、ご飯でもいいでしょう」
魅音は黙る。
詩音は続けた。
「圭ちゃん、そういうの鈍そうですし。お姉が普通に誘えば、普通に来ると思いますよ」
「……それはそれでムカつくんだけど」
「知りませんよ」
「でもさ」
「はい」
「断られたら?」
その一言だけは、さっきまでとは違った。
少しだけ、本気で不安そうだった。
詩音は笑わなかった。
魅音がこういうことで怖がるのは珍しい。だからこそ、変にからかう気にもならなかった。
「断られたら、その時考えればいいじゃないですか」
「簡単に言うね」
「お姉が難しくしすぎなんです」
「だって」
「それに」
詩音は少し考えてから、声を明るく戻した。
「私が取り次いであげますよ」
「……え?」
「圭ちゃんに、それとなく予定聞いておきます」
「ちょっと!」
「空いてるかだけです」
「やめてよ!」
「じゃあ自分で聞きます?」
「……」
沈黙。
詩音はにやりと笑った。
「無理でしょう?」
「……うるさい」
「なら任せてください」
「でも詩音が言ったら、絶対怪しまれるじゃん」
「そこは上手くやります」
「どうやって?」
「そこは秘密です」
魅音は明らかに不安そうだったが、完全には拒まなかった。
その時点で、詩音には十分だった。
「じゃあ、圭ちゃんの予定だけ確認しておきます。あとはお姉が誘ってください」
「え、最後は私なの?」
「当たり前でしょう。私が『お姉とデートしてください』まで言ったら、それもう私が告白してるみたいになるじゃないですか」
「告白って言うな!」
「事実でしょう」
「違う!」
「じゃあ何なんです?」
また沈黙。詩音は目を閉じた。本当に面倒な姉だと思う。
でも、それも分かっている。
魅音は強い。
学校でも、本家でも、誰かの前でも、基本的には前へ出る側だ。だからこそ、こういう時に弱くなる。
自分が傷つくかもしれない場面だけは、どうしても一歩が出ない。
「お姉」
「……なに」
「今日、服選んだでしょう」
「うん」
「似合ってましたよ」
魅音は少し黙る。
「……ほんと?」
「ほんとです」
「圭ちゃんもそう思うかな」
また出た。
詩音は思わず笑いそうになったが、今度は堪えた。
「そう思わせればいいんですよ」
「……簡単に言うなぁ」
「簡単じゃないから、行くんでしょう?」
魅音は何も言わなかった。
でも、その沈黙はさっきまでとは少し違った。
「……分かった」
小さな声だった。
「最後の日ね」
「はい」
「圭ちゃん空いてたら」
「はい」
「その……誘ってみる」
詩音は少しだけ笑った。
「それでいいんです」
「でも」
「まだ何か?」
「詩音」
「はい」
「余計なこと言わないでよ」
「余計なこと?」
「その……私が圭ちゃんのこと好きとか」
「言いませんよ」
「絶対?」
「絶対です」
少し間を置いてから、詩音は付け加える。
「ただし、お姉があまりにもグズグズしてたら知りませんけど」
「詩音!」
「冗談ですって」
魅音の怒鳴り声と、それを聞いて笑う詩音の声が、静かな部屋へ重なった。しばらくして通話が終わる。
詩音は受話器を置くと、ベッドへ身体を倒した。天井を見つめる。
「……ほんと、世話が焼けますねぇ」
そう呟きながらも、顔は笑っていた。
今日、魅音が圭一を見る目は分かりやすすぎた。それに気づいていない圭一も圭一である。多分、放っておけばしばらく何も進まない。なら、少しくらい背中を押してやってもいい。
詩音はそう思った。
ただ。
その考えの奥に、ほんの少しだけ別の感情があったことには、この時の詩音自身もまだ深く触れようとはしなかった。今日一日、圭一と二人で行動していた時間は思っていたより楽しかった。
からかえば面白い。
反応も素直。そのくせ、妙なところでは真面目で、変なところで頑固だ。姉が気に入るのも、少し分かる気がした。
「……まあ」
詩音は目を閉じる。
「お姉がちゃんと動くなら、それでいいですよね」
誰に言うでもなく、そう呟いた。ゴールデンウィークの最終日。まだ何も決まっていない。
けれど、少なくとも一つだけ。詩音の中では、もう次の計画が始まっていた。