ゴールデンウィークも、残すところあと一日となっていた。詩音との買い物の翌日は両親と雛見沢近くに出来たキャンプ場へ赴き、久々に家族三人で一日を過ごした。もっとも、圭一にとってキャンプそのものと同じくらい重要だったのは、林の中で見つけた蜘蛛だった。前原圭一の机の上には、キャンプへ行く前にはなかった小さな容器が三つ並んでいる。一つには、蜘蛛由来のものを何も加えていない試料。もう一つには、キャンプ場で採取した普通の蜘蛛の巣から得たもの。そして最後には、あの特殊な蜘蛛から採れたものを、それぞれ出来る限り同じ条件になるよう加えていた。
もっとも、圭一に本格的な分析が出来るわけではない。専門的な器具もなければ、何が何という物質なのかを特定する方法も知らない。今出来るのは、同じように作った試料を引っ張り、曲げ、乾いた後の状態を比べ、その違いを書き留める程度だった。それでも、結果は随分とはっきりしていた。
「……やっぱり、こいつだけ変だ」
三つの試料を順番に見比べながら呟く。何も加えていないものと、普通の蜘蛛の糸を加えたものには多少の違いこそあるものの、圭一の予想を越えるほどの変化はない。ところが、あの特殊な蜘蛛から得たものを加えた試料だけは違った。引っ張った時の粘りも、細く伸ばした時のまとまり方も明らかに違う。普通の蜘蛛の糸だって弱いわけではない。あれほど細いにもかかわらず、指先で触れてみれば意外なほど切れにくい。
しかし、それを別の材料へ加えたところで、周囲まで別物のような性質へ変化するわけではなかった。特殊蜘蛛だけが違う。しかも、使っている量に対して変化が大きすぎる。圭一はノートへ視線を落とした。
『特殊蜘蛛だけ、何か違う』
「そりゃ分かってんだよ……」
我ながら随分と頭の悪そうな結論だった。その下へ鉛筆を走らせる。
『糸そのものが強い? →それだけじゃない?』
最初は、蜘蛛の糸に含まれている何かが、そのまま材料を補強しているのだと思っていた。しかし、それだけでは説明出来ない。僅かな量を加えただけで、なぜ周囲まで性質が変わるのか。もしかすると、あの蜘蛛から得られるものそのものが特別に強いのではなく、周囲へ何らかの作用を与えているのではないか。そこまで考えることは出来ても、それ以上を説明出来る知識は圭一にはなかった。
「……今はXでいいか」
ノートへ、
『特殊成分X?』
と書く。正体が分からないのだから、名前など何でもいい。今重要なのは、普通の蜘蛛とあの蜘蛛では明らかに違うという事実だった。そして机の反対側には、もう一つの課題が置かれている。ウェブシューター。――と呼ぶには、まだ随分と恥ずかしい試作品だった。手首から前腕へ固定する台座に、小さな容器と中身を送り出す仕組みを組み合わせただけ。それでも以前より多少は進歩していた。圭一は右腕へ巻き、机の向こうへ空箱を置く。
「よし……」
腕を伸ばし、指を決めた形へ動かす。小さな作動音と共に、先端から液体が飛び出した。しかし、空箱へ届く遥か手前で勢いを失い、そのまま床へ落ちる。
「……近っ」
思わず声が漏れた。以前は先端から垂れるだけだったのだから、一応進歩している。だが実戦で使えるかと聞かれれば、答えは明らかだった。
「これじゃ目の前の奴に水掛けるくらいしか出来ねぇぞ……」
ノートへ、
『試作一号 飛ぶようにはなった。勢い弱い』
と書き加える。しかも、本物の試料を入れればさらに酷い。粘りが強すぎてまともに送り出せず、無理に出そうとすると途中で詰まる。ようやく先端から出ても、糸になるどころか白っぽい塊が落ちるだけ。装置単体では少し進んだ。材料側にも、細く伸びるものは出来始めた。しかし二つを合わせると、途端に上手くいかない。
「……両方一緒に直していくしかねぇか」
思った以上に先は長そうだった。ただ、何が悪いのかさえ分からなかった数日前よりはいい。圭一はシューターを外した。今日はここまでにしておこう。そう考えた時、一階から電話の音が響いた。しばらくして、
「圭一ー! 電話よー!」
と母親の声。
「俺?」
最近、自分へ電話を掛けてくる人間など限られている。一階へ降り、受話器を取った。
「もしもし?」
『あ、圭ちゃんですか?』
妙に楽しそうな声。
「……詩音か」
『はい。愛しの詩音ちゃんですよ』
「切るぞ」
『ちょっと待ってください!』
圭一は笑いながら受話器を持ち直した。
「で、何だよ」
『キャンプどうでした?』
「普通。山行って、飯作って、父さんが景色描いて、母さんが虫嫌がってた」
『楽しそうじゃないですか』
「まあな。あと欲しかったもんも手に入った」
『欲しかったもの?』
「蜘蛛」
数秒、沈黙した。
『……圭ちゃん、とうとう蜘蛛集めが趣味に?』
「違う!」
圭一は思わず声を潜めた。
「例の蜘蛛と普通の蜘蛛を比べるためだよ。さっきもやってたけど、やっぱあいつのだけ全然違う」
『へぇ……』
詩音の声へ、少しだけ本気の興味が混じる。
『何が違うんです?』
「まだ分からん。分からんから調べてるんだよ」
『なるほど』
「詳しいのは今度見せる」
『はいはい。楽しみにしてます』
そこから詩音はキャンプ場の話や、この前デパートで買った服を本当に着る気があるのかなど、どうでもいい雑談を続けた。あまりにも普通だったので、圭一も特に疑わなかった。そして、何でもない調子で。
『そういえば圭ちゃん、明日は何してるんです?』
「明日?」
『ゴールデンウィーク最後の日ですよ』
「別に。実験の続きでもすると思うけど」
『一日中?』
「多分」
『へぇ』
「何だよ」
『いえ。じゃあ誰かに誘われたら出掛けられるくらいには暇なんですね?』
「まあ、そりゃ」
『そうですか』
妙に満足そうな声だった。
「……何なんだよ」
『何でもありません。それじゃ、実験頑張ってくださいね』
「お、おう」
電話が切れる。結局、何の電話だったのか分からなかった。しかし、その答えは三十分もしないうちに出た。
再び電話が鳴る。今度は魅音だった。
『あ、圭ちゃん?』
「魅音?」
『う、うん。その……明日さ』
「明日?」
その瞬間、圭一の中で何かが繋がった。
――明日は何してるんです?
――誰かに誘われたら出掛けられるくらいには暇なんですね?
「……あの野郎」
『え?』
「いや、何でもない」
危ない。魅音へそのまま言うところだった。
『それでさ、明日って暇?』
「暇だけど」
『ほんと!?』
一気に声が明るくなる。
『じゃあ興宮出ない? ほら、この前のデパートも全部回れなかったし、映画も新しいのやってるらしいし。おじさんもちょうど暇だしさ!』
明らかに一息で言った。
「いいぞ」
『え』
「何だよ」
『いや……普通に来るんだなって』
「誘ったのお前だろ!?」
何故そこで驚くのか。時間と待ち合わせ場所を決め、電話を切った圭一は、そのまま受話器を置かなかった。もう一度ダイヤルを回す。
『はい、園崎です』
「おい詩音」
『あら圭ちゃん。さっき電話したばかりなのに、もう寂しくなりました?』
「お前、仕組んだな?」
『何のことでしょう』
「しらばっくれんな! お前が俺の予定聞いた三十分後に魅音から電話来たぞ!」
『へぇ。奇遇ですねぇ』
「そんな偶然あるか!」
電話の向こうから笑い声。
『で、お姉から何て?』
「明日遊びに行こうって」
『良かったじゃないですか』
「やっぱ知ってんじゃねぇか!」
圭一は大きな溜息を吐いた。
「まあ別にいいけどさ。魅音と普通に遊びに行くだけだろ?」
一拍。
『……圭ちゃん』
「何だよ」
『男女二人きりで休日に待ち合わせして、映画を見て、ご飯食べて、その後も二人で遊ぶんですよね?』
「そうだけど」
『世間では、それをデートって言うんですよ』
「…………」
圭一の口が止まった。デート。その単語が頭の中へ落ちた途端、それまで何とも思っていなかった予定の一つ一つが妙な意味を持ち始める。
「いやいや。魅音だぞ?」
『そうですね』
「いつも部活で一緒に馬鹿やってる魅音」
『はい』
「デート?」
『はい』
詩音が吹き出した。
『今さら意識しました?』
「してねぇ!」
『声、大きくなってますよ』
「お前が変なこと言うからだ!」
知らない方が楽だった。圭一は本気でそう思った。
翌朝。駅前へ向かう圭一は、何度目か分からないほど自分の格好を確認していた。結局、先日のデパートで詩音に選ばれた服を着ている。今日のためではない。新しく買ったからだ。ただそれだけ。そう自分へ言い聞かせている時点で、既に完全に昨日の言葉を意識していた。
「圭ちゃん」
横から突然声を掛けられ、圭一は肩を跳ねさせた。
「うわっ!? 詩音!」
「おはようございます」
「お前なんでいるんだよ!」
「失礼ですね。私だって興宮に用事くらいあります」
「絶対嘘だろ」
「半分くらいは本当です」
「残り半分を言え」
詩音は答えず、圭一の服装を上から下まで確認し、満足そうに頷いた。
「ちゃんと着ましたね」
「買ったんだから着るだろ」
「似合ってますよ」
「……そりゃどうも」
「お姉も喜びますね」
「その言い方やめろ」
詩音は楽しそうに笑った後、鞄から少し大きな機械を取り出した。
「何だこれ」
「無線機の試作品です」
「もう作ったのか?」
「既製品を色々組み合わせただけですよ。まだ大きいですけど」
携帯するには確かに邪魔そうだった。小さな本ほどの厚みがあり、側面に二つのランプが付いている。
「普段は鞄に入れてください。こちらから普通に連絡した時は振動だけします。気づいたら、人目のないところで通信してください」
「普通の連絡で毎回トイレ行くのかよ……」
「今は我慢してください。そのうち小さくします」
詩音は赤いランプを指差した。
「ただし、振動と一緒にこれが点いたら緊急です。こっちが点いた時だけは、出来るだけ早く通信してください」
「なるほど」
圭一は無線機を鞄へ入れた。
「今日は使うことなさそうだけどな」
「そう願います」
詩音はそれだけ言うと、すぐに一歩下がった。
「では、私は消えます」
「別に魅音に会ってもいいだろ」
「せっかく二人なんですから、妹がいたら邪魔でしょう?」
「……お前な」
「じゃ、ごゆっくり」
「その言い方やめろって!」
詩音は楽しそうに手を振り、人混みへ消えていった。数分後。
「圭ちゃーん!」
聞き慣れた声が響く。
「おう、魅――」
振り向いた圭一の言葉が途中で止まった。魅音だった。もちろん魅音なのだが、いつも学校で見る姿とは少し違う。普段より柔らかな印象の服を着て、髪も少し丁寧に整えられている。それだけのことなのに、目が自然と止まった。
「デート」
という言葉を植え付けられた圭一には、何だか妙に目に付いた。
「……何?」
魅音が自分の服を見下ろす。
「変?」
「いや」
圭一はすぐ首を振った。
「似合ってる」
「え?」
魅音が完全に止まった。
「いつもとちょっと違うなと思っただけで。変って意味じゃねぇぞ」
「あ、うん……ありがと」
魅音は少しだけ顔を逸らした。圭一も何となく目を逸らす。
――男女二人きりで休日に。余計なところで詩音の声が蘇る。
「……行くか!」
「う、うん!」
二人とも普段より少しだけ声が大きかった。最初に向かったのは映画館だった。上映までには少し時間があったので、ロビーのポスターを眺めながら、どれを見るかで早速揉める。
「絶対こっち!」
魅音が指差したのは海外の冒険映画。
「いや、こっちの方が面白そうだろ」
圭一が示したのは刑事物だった。
「休日に男二人みたいな映画見るの?」
「誰が男二人だ」
言ってから、二人とも一瞬黙った。
「……じゃあこの映画」
魅音が先に顔を逸らす。
「なんで今ので決まったんだよ」
結局、魅音が最初に選んだ映画を見ることになった。座席へ着いた時も、圭一は少しだけ隣を意識した。学校なら、肩が触れようが何だろうが気にもしない相手である。それが暗い映画館で二人並んで座っていると思うと、妙に落ち着かない。しかし、映画が始まって十分もすれば、そんなことはどうでもよくなった。二人とも普通に夢中になる。主人公が罠に掛かれば魅音が小声で、
「ほらー」
と笑い、派手な逃走劇では圭一が身を乗り出す。物語の途中、主人公が情けない失敗をしたところで、魅音が堪えきれず笑った。
「ふふっ……」
圭一は何となく、そちらを見る。スクリーンの光が、魅音の顔を淡く照らしていた。学校で大口を開けて笑っている時と同じはずなのに、暗闇の中で見る横顔は少しだけ違って見えた。
「……何?」
魅音が気づく。
「いや、別に」
「変なの」
魅音は再び前を向いた。圭一もスクリーンへ視線を戻す。自分が何故魅音の顔を見ていたのかは、よく分からなかった。やがて終盤。序盤の何気ない場面が伏線だったことが明らかになり、圭一は小さく、
「あ」
と声を漏らした。上映が終わり、明るい外へ出る頃には、最初の妙な緊張などほとんど消えている。
「最後のあそこ絶対反則でしょ!」
魅音が興奮したように言った。
「いや、ちゃんと最初に出てたじゃん」
「普通気づかないって!」
「俺途中で分かったぞ」
「絶対嘘!」
「本当だって!」
「じゃあ何分くらい?」
「そこまで覚えてねぇよ!」
笑いながら歩く。いつもの魅音だった。それなのに、何故か今日だけは、その
「いつも通り」
が少し心地よかった。昼は駅前から少し離れた洋食屋へ入った。窓際の席へ案内され、向かい合って座る。魅音はメニューを開くと、しばらく真剣に悩んだ末、大きめのハンバーグを頼んだ。
「魅音ならもっと女の子っぽいの頼むかと思ったぜ」
「...おかしい...かな?」
急にしおらしくなる魅音。圭一も少し返事に戸惑った。
「いや、別におかしいってわけじゃねぇけど...いや、こういう時ってパフェとか」
「圭ちゃんはパフェを食べる子が好きなの?」
魅音が涙目のような子犬が人間に向ける目をこちらに向けた。圭一は一瞬、戸惑ったのかすぐに返事が出来きなかった。ただ、魅音の姿は余りにも圭一の知っている魅音とは違ってることが相まって、圭一は魅音の変わり様に意識せざるを得なかった。
「いやそれは...分かんねえけど、魅音がいいなら、俺は文句ねえよ」
魅音は頬を膨らませた。どうやら、魅音が欲しがった答えじゃないらしい。
「でも、圭ちゃんだって同じようなの頼んでるじゃん」
「俺は男だからいいんだよ」
「差別だー」
言いながら笑う。料理が来れば、今度は互いの皿を見比べ、魅音が、
「そっち一口」
と言って圭一の付け合わせを勝手に取った。
「おい!」
「一個くらいいいじゃん」
「じゃあ俺もそれもらうぞ」
「ちょ、それはおじさんが最後に食べようと思ってたやつ!」
「知らねぇ!」
結局、昼食もいつもの延長だった。けれど、食べ終わって一息ついた頃。魅音がふと静かになる。
「圭ちゃん」
「ん?」
「今日、来てくれてありがとね」
「何だよ急に」
「いや……別に」
ストローの袋を指先で弄りながら、少し照れくさそうに笑う。
「こういうの、たまにはいいなって」
圭一は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……別に礼言われるようなことじゃねぇだろ」
「え?」
「俺だって来たかったんだし」
魅音の指が止まった。
「……そっか」
「何だよ」
「何でもない」
魅音は僅かに顔を伏せた。しかし、その口元には小さな笑みが残っていた。圭一はそれ以上深く考えず、水を一口飲む。ただ。今日何度目か分からない、小さな違和感だけが胸のどこかへ残った。いつもの魅音なのに。今日は時々、いつもとは違う顔をする。それが何なのかまでは、まだ圭一には分からなかった。
午後はゲームセンターへ向かった。映画館では少しよそよそしかった二人も、この辺りまで来ると完全にいつもの調子へ戻っていた。格闘ゲームでは魅音が勝ち誇り、レースゲームでは圭一が僅差で勝って煽り返す。
「はい圭ちゃんの負けー!」
「まだ一勝一敗だろ!」
「圭ちゃん、負け惜しみは見苦しいですなぁ」
「次やれ! 次!」
「望むところ!」
周囲の客が少し振り返るほど騒ぎながら、二人は何度も勝負を繰り返した。クレーンゲームでは二人とも意地になり、結局、小さなぬいぐるみ一つを取るために、普通に買うより遥かに高い金額を使ってしまった。
「……これ絶対、買った方が安かったよね」
魅音が手のひらほどのぬいぐるみを眺めながら言う。
「言うな」
「圭ちゃん途中から完全にムキになってたじゃん」
「お前もだろ!」
「でも取ったの圭ちゃんだし」
魅音はぬいぐるみを圭一へ差し出した。
「持って帰れば?」
「いらねぇよ。お前欲しがってただろ」
「え」
「ほら」
圭一が押しつける。魅音は受け取った小さなぬいぐるみを見て、それから圭一を見た。
「……いいの?」
「俺が持って帰ってどうすんだよ」
「部屋に飾るとか」
「絶対やだ」
「ふふっ」
魅音は少しだけ笑った。
「じゃあ、もらっとく」
「おう」
それだけだった。圭一にとっては、それだけのことだった。しかし魅音は、その後もしばらくぬいぐるみを紙袋へ入れず、手に持ったまま歩いていた。少しして圭一が気づく。
「お前、それまだ持ってるのかよ」
「悪い?」
「いや。袋入れればいいじゃねぇか」
魅音は一瞬だけぬいぐるみへ視線を落とした。
「……いいの。今日は」
「?」
「何でもない」
「変な奴だな、魅音は」
「圭ちゃんに言われたくないよ」
その意味が分からないまま、二人はまた歩き出す。途中、例の力を測るゲームへ誘われた時だけは、圭一が頑として拒否した。
「圭ちゃん絶対怪しい!」
「何がだよ!」
「体育測定であんな記録出してたのに、何でやらないの?」
「こういう機械嫌いなんだよ!」
「逃げたー!」
本当の理由を言えるはずもない。間違って本気を出せば、ゲームどころでは済まなくなる。その後は本屋へ寄った。魅音が参考書の棚を嫌そうに眺めているのを見て、圭一が笑う。
「受験生だろ?」
「今それ言う!?」
「中三だもんなぁ」
「圭ちゃん一年下だからって余裕ぶっこいてるでしょ!」
「魅音、俺は来年のお前見て笑ってやるよ」
「あはは、受験なんか、おじさんにかかれば一瞬で終わるよ。だから圭ちゃん...そのさ...」
またもや魅音が魅音らしくなく言い淀む。だが、圭一は急かさなかった。何か大事なことな気がして。
「勉強とか、教えてくれないかなって...」
「教えるって言ったって...受験のレベルによって変わるな。どこ受けるんだ?」
圭一は何気なく聞いた。本来ならば、すぐにでも快諾するべきなのだろうが、そんなことはしなかった。相手の話を聞くことが最初の誠意だと圭一は考えたのだ。
魅音は少し考える。
「まだ決めてない」
「へぇ」
「興宮から通えるところもあるし、ちょっと遠く行くのもありかなって。家のこともあるしさ」
「家?」
「……まあ、色々」
魅音は少し笑って誤魔化した。園崎家。圭一も詳しいことまでは知らないが、普通の家庭ではないことくらいは分かっている。
「圭ちゃんは?」
「俺?」
「高校。どこ行きたいとか」
「まだ全然。今更、東京に戻るつもりもないしな」
圭一も少し考える。東京へ戻る気はなかった。興宮へ来てまだ一か月ほどしか経っていないというのに、今ではこの街での生活の方が、ずっと長いものだったような気すらしている。学校へ行けば魅音たちがいる。部活で馬鹿をやって。雛見沢へ行けば自然があって。最近では、夜にまで随分忙しくなった。
「まあ、ここ面白いし」
圭一は本棚へ視線を向けたまま言った。
「しばらくは興宮あたりで居るくらいでいいかな」
「……そっか、良かった」
魅音の声が少しだけ明るくなった。圭一は横目で見る。
「何だよ」
「何でもない」
「今日そればっかりだな」
「圭ちゃんには分からないだろうけど、おじさんには色々あるんですよー」
「便利な言葉だな、それ」
「便利でしょ?」
魅音が笑った。圭一も笑う。ただ、その後で。さっきの魅音の
「そっか」
という声だけが、少し妙に耳へ残った。夕方が近づく頃には、二人とも随分歩き疲れていた。駅へ向かうにはまだ少し早い。魅音が、
「ちょっと遠回りして帰ろうよ」
魅音がそう言ったので、二人は駅へ続く大通りを外れ、川沿いの遊歩道へ向かうことになった。ダムから流れてくる川は、興宮の街を横切るように続いている。昼間には明るく見えた水面も、夕方になると西から差し込む光を受けて、橙色に細く輝いていた。少し高くなった遊歩道からは、ここ数年で増えた中層の建物や、その間に立ち並ぶ工事用のクレーンが見渡せる。さらに遠くの山側には、ダム湖の周辺施設が小さく見えていた。大通りから離れたことで、辺りの喧騒も幾分和らいでいる。時折、散歩をする人や自転車が通り過ぎる程度で、川の流れる音が思いのほかはっきりと耳に届いた。
「……綺麗だな」
圭一は夕日に染まる川面を見下ろし、何気なく呟いた。
「……うん」
隣を歩く魅音も、同じ景色を眺めている。その手には、ゲームセンターで手に入れたぬいぐるみが抱えられていた。先ほどから魅音はそれを大事そうに持っていて、途中で圭一が荷物を持とうかと申し出ても、自分で持つと言って譲らなかった。圭一はその様子を思い出し、少し笑った。普段の魅音なら、ぬいぐるみ一つであそこまで喜ぶだろうか。部活で勝負に勝った時はもっと大袈裟に騒ぐし、負けた時には子供みたいに悔しがる。それなのに今日は、ぬいぐるみを受け取った時も、どこか照れ臭そうに笑っていた。もっとも、圭一にとっても今日は普段とは違う一日だった。学校で顔を合わせる時の魅音とは、服装も雰囲気も違う。映画館ではいつもより静かだったし、昼食の時には妙に丁寧な言葉まで使っていた。最初は調子が狂うと感じていたものの、一緒に過ごしているうちに、それも不思議と心地よくなっていた。
「いやぁ、それにしても今日は結構遊んだな」
圭一は手すりへ軽く腕を乗せた。
「映画も当たりだったし、ゲーセンもなかなかだったし」
「ふふん。ゲーセンはおじさんの勝ちだったけどねぇ」
「おいおい、格ゲーだけだろ? ほかは俺だって負けてねえぞ」
「勝ちは勝ちですー。負け惜しみは見苦しいですなぁ、圭ちゃん?」
「くっそぉ……! 今度こそ、その減らず口を叩けなくしてやるからな!」
「へっへーん。受けて立とうじゃないの!」
二人は顔を見合わせて笑った。それは、いつも通りのやり取りだった。学校であれば、ここから互いに余計な挑発を重ねて、最後にはどちらかがくだらない勝負を持ちかけるところだろう。しかし、今日の魅音はそれ以上何も言わなかった。圭一も、何となく続ける言葉を失った。歩道に二人分の靴音が響く。横目で魅音を見ると、彼女はぬいぐるみを胸元に抱え直し、前を向いたまま歩いていた。その横顔は、普段の魅音よりも少し大人びて見えた。
「……圭ちゃん」
やがて、魅音が口を開いた。
「ん?」
「……今日さ」
魅音は言いかけて、一度言葉を止めた。
「……楽しかった?」
圭一は思わず目を瞬かせた。
「……は? 何だよ、急に」
「いや、だから……楽しかったかなって」
「そりゃ楽しかったけど」
「……ほんと?」
「何で疑うんだよ」
圭一は苦笑した。
「さっきも言っただろ? 俺だって来たかったんだって。誘ってくれてありがとな」
「……うん」
魅音は小さく頷いた。しかし、どこかまだ納得していないようだった。圭一は首を傾げた。今日一日、別につまらなさそうな態度を取った覚えはない。映画では二人で笑ったし、ゲームセンターでも思い切り遊んだ。昼食も美味しかったし、帰り道でこんな景色まで見ることができた。むしろ、今まで魅音と二人で出掛けたことがなかったのが不思議なくらいだった。
「……まあ、また行きゃいいだろ」
だから、圭一は何気なくそう付け加えた。
「……え?」
魅音の足が、僅かに止まった。
「……また?」
「おう。映画でもゲーセンでもさ。今度はもっと面白そうなところ探してもいいし」
「……そっか」
魅音はぬいぐるみを見下ろした。圭一は、その反応に少し戸惑った。
「……何だよ。嫌なのか?」
「ち、違うっ!」
思いがけず大きな声が返ってきた。圭一が驚いて顔を向けると、魅音も自分の声に驚いたらしく、慌てて口元を押さえた。
「……あ、いや、その……違うんだって」
「……お、おう」
「嫌とかじゃなくて……むしろ、その……」
魅音は続きを言おうとして、結局口を閉じてしまった。圭一はますます訳が分からなくなった。今日の魅音は、どうにも調子がおかしい。普段ならもっとはっきり物を言うはずなのに、今日は何かにつけて言葉を濁している。いつもの悪戯っぽい笑みを浮かべたかと思えば、次の瞬間には妙に大人しくなる。何か気に障ることでも言ってしまったのだろうか。そう考えてみても、思い当たる節がなかった。
「……圭ちゃんってさ」
「ん?」
「そういうこと、普通に言うよね」
「……そういうこと?」
「……うん」
「いや、何が?」
魅音は圭一を見つめた。何かを言いたそうに唇を動かしたものの、やがて困ったように笑った。
「……ごめん。何でもない」
「またそれかよ!」
圭一は思わず声を上げた。
「おいおい魅音さんよぉ。今日のお前、さっきから妙に歯切れが悪いぞ? いつもの威勢はどうしたんだ?」
「……へへ。そうだねぇ」
魅音は曖昧に笑った。しかし、いつものような反撃は返ってこなかった。圭一は口を閉じた。からかうつもりで言ったのに、魅音が少し困った顔をしたからだ。その表情を見て、圭一はようやく、今のやり取りが普段の部活の延長ではないのかもしれないと思い始めた。しばらくの間、二人は黙って歩いた。夕日はもう随分と低くなり、川面に伸びた光の帯も細くなっていた。
「……でもさ」
やがて、魅音が小さく呟いた。
「おじさん、今日結構頑張ったんだよ?」
「……え?」
圭一は顔を向けた。
「何を?」
「……ほら」
魅音はぬいぐるみを片腕で抱え直すと、空いた手で自分の服を軽く摘まんだ。
「……服とか」
「……ああ」
「髪も、ちょっと頑張ったし」
「……うん」
「それに……圭ちゃんを誘うのだって……」
そこで、魅音の声が小さくなった。
「……結構、勇気が必要だったんだから」
圭一は何も言えなくなった。今日のことを、朝から順番に思い返す。待ち合わせ場所に現れた魅音。いつもの制服ではなく、少し洒落た私服を着ていたこと。髪も普段とは違って、丁寧に整えられていたこと。圭一が似合っていると言った途端、彼女が妙に慌てたこと。映画館で隣に座った時、どこか落ち着かない様子だったこと。昼食の席で、不意に
「来てくれてありがとう」
と言われたこと。そして、ゲームセンターで手に入れたぬいぐるみを、ずっと大切そうに抱えていること。圭一は、それらを一つずつ思い出した。その時々では、特に深く考えていなかった。ただ、いつもと違う魅音を見るのが新鮮で、何となく面白くて、今日という一日を楽しんでいた。しかし、魅音にとっては違ったのかもしれない。服を選ぶことも、髪を整えることも、自分を誘うことも。その全部に、圭一の知らない迷いや緊張があったのだとしたら。
「……そうだったのか」
圭一はようやく、そう答えた。魅音は少し俯いた。
「……うん」
「……いや、何ていうか」
圭一は頭を掻いた。こういう時に、何と言えばいいのか分からなかった。普段なら、どんな些細なことでも口から言葉が出てくる。部活で負けそうになった時も、相手を挑発する時も、くだらない冗談を思いついた時も、圭一は大抵、考えるより先に喋っている。それなのに。今は、妙に言葉が出てこない。魅音が勇気を出して自分を誘ってくれた。そこまでは分かった。そして、その勇気を軽く扱ってはいけないことも。けれど、それ以上に何を言えばいいのか、どうにも考えがまとまらなかった。
「……悪い」
圭一は小さく言った。
「俺、あんまり気づいてなくてさ」
魅音が顔を上げた。
「……え?」
「今日のお前がいつもと違うってのは、何となく分かってたんだけどよ」
圭一は苦笑した。
「……そこまで頑張ってくれてたとは、思ってなかった」
「……圭ちゃん」
「でもさ」
圭一は魅音を見た。
「俺、今日のお前、結構好きだったぜ」
「……ふぇっ!?」
魅音の顔が、見る見る赤くなった。圭一は一瞬、その反応の意味が分からなかった。しかし、数秒遅れて自分の言葉を思い返す。そして。
「……あっ」
今度は圭一の方が固まった。
「い、いや! ちょっと待て! 今のは、その……!」
「……!」
「そういう意味じゃなくて! いや、そういう意味じゃないってのも変だけど! ほら、いつもの魅音もいいけど、今日みたいなのも……!」
説明しようとするほど、言葉がおかしくなっていく。圭一は思わず頭を抱えた。何を言っているのか、自分でもよく分からない。ただ、今日の魅音が可愛らしく見えたことは確かだった。服を褒められて照れた顔も、映画を楽しんでいる横顔も、ぬいぐるみを嬉しそうに抱える仕草も。今まで知らなかった魅音の一面だった。それを伝えたかっただけなのに、何故こんなにも難しいのだろう。
「……ぷっ」
不意に、小さな笑い声がした。顔を上げると、魅音が口元を押さえていた。
「……ふ、ふふっ」
「……な、何だよ」
「……いやぁ、圭ちゃんでも、そんなに慌てることあるんだなぁって」
「う、うるせえな! お前が変な反応するからだろ!」
「へへ……ごめん、ごめん」
魅音は笑った。今度は、いつもの彼女に少しだけ戻ったようだった。圭一はほっとすると同時に、妙な気恥ずかしさを覚えた。こんなふうに魅音の前で言葉に詰まったことが、今まであっただろうか。少なくとも、すぐには思い出せなかった。
「……でもさ」
魅音は笑い終えると、少しだけ声を落とした。
「……そういうところが、ずるいんだよねぇ」
「……は?」
「……いや、圭ちゃんが悪いわけじゃないんだけどさ」
魅音は苦笑した。
「おじさんが勝手に意識して、勝手に緊張してるだけなのかもしれないけど……」
彼女はぬいぐるみを見下ろした。
「……圭ちゃんは、いつも通りなんだもん」
圭一は、何も言えなかった。いつも通り。確かに、そうだった。圭一にとって、魅音は魅音だった。部活では誰よりも負けず嫌いで、勝負となれば容赦がない。くだらない冗談を言えば、必ずと言っていいほど乗ってくるし、時には圭一の方がからかわれることだってある。皆を引っ張る部長であり、頼りになる先輩であり、気兼ねなく話せる友人。圭一は、そんな魅音と一緒にいる時間が好きだった。だからこそ、今日も誘われた時には嬉しかった。しかし。それは、魅音が求めていた嬉しさと、同じだったのだろうか。圭一は、隣に立つ彼女を見た。夕日に照らされた頬。胸元に抱えられたぬいぐるみ。何かを言いかけては、また飲み込んでしまう唇。いつもなら、こんな顔をする魅音を見れば、すぐにからかっていただろう。だが今は、そんな気分になれなかった。胸の奥が、何となく落ち着かない。別に嫌な気分ではない。むしろ、その逆だった。魅音が自分との一日を、そこまで大切にしてくれていた。その事実が、妙に嬉しかった。ただ同時に、今まで何も考えずに口にしていた言葉が、急に重みを持ち始めたようにも感じられた。
「……魅音」
圭一は、少し迷ってから口を開いた。
「……その、俺さ」
魅音が顔を上げる。
「……うん?」
「今日、お前と来れて良かったと思ってる」
圭一は、できるだけ言葉を選んだ。
「映画も面白かったし、ゲーセンも楽しかった。けど……それだけじゃなくてさ」
「……」
「何ていうか……学校じゃ見られないお前が、いっぱい見られた気がして」
言いながら、圭一は自分の顔が少し熱くなっているのを感じた。こんなことを真面目に話すのは、どうにも性に合わない。しかし、ここでふざけてしまうのは違うと思った。
「……だから、また行きたいって言ったのも本気だ」
魅音は、じっと圭一を見つめていた。
「……そっか」
やがて、彼女は小さく頷いた。
「……うん。ありがと、圭ちゃん」
その笑顔を見た時、圭一は不意に胸が高鳴るのを感じた。大袈裟な笑顔ではなかった。部活で勝った時のように、得意げに笑ったわけでもない。ただ、少し照れ臭そうに、嬉しそうに笑っただけ。それなのに、圭一は妙に目を離せなくなった。
――何だよ、これ。圭一は戸惑った。
今日、魅音のことを可愛いと思った瞬間は何度かあった。けれど、それは普段と違う服装だったからだとか、いつもより大人しくしていたからだとか、何となく理由をつけられるものだった。しかし今は、そういう話ではない気がした。目の前にいるのは、いつもの魅音だ。少し照れ臭そうに笑っているだけで、それ以外は何も変わらない。それなのに。圭一は、その笑顔をもう少し見ていたいと思った。
「……圭ちゃん」
魅音が口を開いた。
「……ん?」
「……おじさんもね」
彼女は、ぬいぐるみを少し強く抱きしめた。
「今日、二人で来れて良かった」
「……おう」
「映画見て、ゲームして、色々話して……すっごく楽しかった」
魅音は笑った。けれど、その声は少しだけ震えていた。圭一は、それに気づいた。そして、今度は何も言わなかった。普段なら、照れ隠しに何か冗談を言っていたかもしれない。せっかくの雰囲気をわざと壊して、いつもの調子に戻そうとしたかもしれない。
しかし、今はそうしたくなかった。魅音が何かを伝えようとしている。それは、圭一にも分かっていた。しかも、彼女にとって簡単に口にできることではないらしい。圭一は、黙って待った。川の向こうでは、夕日が街の建物の間へ沈もうとしていた。遠くを走る車の音が聞こえる。風が吹き、魅音の髪が僅かに揺れた。
「……それでね、圭ちゃん」
「……ああ」
魅音は一度、視線を落とした。その指が、ぬいぐるみの端をぎゅっと握る。圭一は、何となく次に何を言われるのか予感していた。いや、正確には、まだ分からなかった。ただ、その可能性を考えた途端、胸が落ち着かなくなった。今日の服装。待ち合わせでの反応。何度も尋ねられた、楽しかったかという質問。そして、二人でまた出掛けたいと言った時の、あの嬉しそうな顔。今まで別々だった出来事が、少しずつ一つの意味を持ち始める。
――……まさか。圭一は、思わず息を呑んだ。そんなはずはない。いや、そんなはずがないと決めつける理由もない。魅音は、圭一の大切な友人だった。だからこそ、もし今、彼女が自分の想像していることを言おうとしているのなら。
圭一は、どう答えるべきなのだろう。その答えが、すぐには見つからなかった。ただ、目の前の魅音が勇気を出そうとしていることだけは分かった。それなら、少なくとも。ふざけたり、誤魔化したりしてはいけない。圭一は、ゆっくりと魅音へ向き直った。
「……魅音?」
呼びかけると、彼女は顔を上げた。夕日に照らされた頬は赤く、普段は堂々としている瞳が、僅かに揺れていた。それでも、魅音は圭一から目を逸らさなかった。
「……圭ちゃん」
「……うん」
「私ね……」
魅音は一度、唇を結んだ。そして、何かを振り切るように小さく息を吸った。
「……おじさん――」
いつもの一人称が、途中で途切れた。魅音は、照れ臭そうに笑った。けれど、その笑顔には、普段のような余裕がなかった。
「……私、圭ちゃんのこと――」
ドォン――。
遠くで、低い音が響いた。二人同時に振り向く。
「……何だ?」
最初は工事の音かと思った。しかし、続けてもう一度。今度はもっと近い。何か重たいものがぶつかり、壊れたような鈍い轟音。その直後、街の方から人の叫び声が聞こえた。
「何……?」
魅音が眉を寄せる。そして同時に。圭一の鞄の中が激しく震えた。
ブッ、ブッ。昼間に一度試したものとは違う。短く。強い振動。圭一は鞄へ手を入れる。赤い光。点滅している。緊急。
その瞬間。圭一の顔から、さっきまでの空気が消えた。
「……魅音」
「圭ちゃん?」
もう一度、遠くで破壊音。人々が走り始める。誰かが、
「逃げろ!」
と叫んだ。圭一は街の方向を見る。蜘蛛感覚までは、まだ何も告げていない。しかし、嫌な予感だけは十分だった。
「悪い」
「え?」
「先帰っててくれ!」
「ちょっと、圭ちゃん!?」
圭一は走り出した。数歩進んだところで、一瞬だけ足が鈍る。魅音が何を言おうとしていたのか。今なら。ほんの数秒なら。聞けるかもしれない。圭一は振り返った。夕日の中で、魅音が立っていた。片手には、自分が取って渡した小さなぬいぐるみ。何かを言いたそうな顔。今日何度も見た、いつもの魅音とは少し違う表情。
「圭ちゃん……?」
圭一の胸の中で、何かが僅かに引っ掛かった。けれど。また、遠くで音がした。鞄の中では赤いランプが点滅している。圭一は歯を食いしばった。
「……ごめん!」
それだけ叫び、人混みとは逆方向へ走る。
「圭ちゃん!」
背後から魅音の声が飛ぶ。それでも止まれなかった。人の波を抜けながら、圭一は鞄を押さえる。数分前まで、自分はただの中学生だった。映画を見て。飯を食って。ゲームをして。一人の女の子と夕焼けを見ていた。そして。
もしかすると、今までとは何かが変わる言葉を聞こうとしていたのかもしれない。けれど今はもう、その時間から引き剥がされている。圭一は人目の切れる場所を探しながら走る。通信を入れる。何が起きているのかを聞く。
そして必要なら――。
また覆面を被る。夕焼けに照らされた遊歩道には、魅音だけが取り残されていた。手の中には、午後に圭一から押しつけられた小さなぬいぐるみ。魅音はしばらく、圭一が消えた方角を見ていた。やがて、小さく息を吐く。
「……もう」
誰へ言うでもなく呟いた。あと少しだった。本当に。あと一言だった。魅音はぬいぐるみを胸元へ引き寄せる。
「……圭ちゃんのバカ...」
怒っているのか。悲しいのか。魅音は自分でもでもよく分からない。ただ。今日一日で積み上げた勇気と。胸の奥からようやく出しかけた言葉だけが。行き場を失ったまま、夕暮れの中に残されていた。