興宮警察署。午後の署内は、相変わらず慌ただしかった。電話のベルが鳴り、廊下を足早に行き交う警察官たちの声が響く。書類を抱えて階段を上がる者もいれば、椅子へ深く腰掛け、難しい顔で受話器を握っている者もいる。窓の外では、再開発地区へ向かう大型車両が、低いエンジン音を響かせながら通り過ぎていった。大石蔵人は、その景色を横目に見ながら、自分の机へ戻ってきた。
「……ふぅ」
椅子へ腰を下ろし、手帳を取り出す。先ほどまで訪れていた学校での会話を思い返しながら、大石は一枚の紙を机へ広げた。前原圭一。東京から転校してきたばかりの少年。一昨日の夕方、園崎魅音と行動を共にしており、工事事故の発生直前には川沿いを離れていた。そして、事故について何かを知っている可能性がある。もっとも、それだけだった。
「……さてさて」
大石は頬を掻いた。あの少年は、何かを隠しているように見えた。事故現場へ行ったのかと尋ねた際、返答までに僅かな間があった。それに、北条鉄平の名前を出した時も、反応が変わったように思える。しかし、所詮は印象である。突然警察に呼び出された中学生が、緊張したからといって不自然ではない。むしろ、あの程度の反応だけで何かを断定する方が、刑事としてはよほど危うかった。
「……ま、そう簡単にはいきませんか」
大石は苦笑した。それにしても、奇妙な少年だった。最初こそ警戒していたものの、北条沙都子の話題になった途端、妙に強い口調で反論してきた。友達が話したくないことなら、知らなくてもおかしくない。確かに、その通りだった。大石も、あの言い分そのものが間違っているとは思わなかった。ただ、少し気になった。北条家の事情を何も知らないはずの少年が、どうしてそこまで沙都子のことを気に掛けるのだろう。いや、むしろ知らないからこそ、ああいう反応ができるのかもしれない。雛見沢には、昔から色々なしがらみがある。一度でも妙な噂が立てば、それだけで人間関係が変わることも珍しくない。しかし、東京から来たばかりの前原圭一には、そうした先入観がない。園崎魅音も、竜宮レナも、北条沙都子も、彼にとってはただの友人なのだろう。
「……若いってのは、いいもんですねぇ」
大石は独り言のように呟いた。それが羨ましいのかどうか、自分でもよく分からなかった。
「大石さん」
不意に声を掛けられ、顔を上げる。同僚の熊ちゃんという刑事が、書類を片手に立っていた。
「例の再開発地区の事故なんすけど」
「……おや、熊ちゃんじゃないですか」
大石は椅子へ座り直した。
「何か分かりましたか?」
「いえ。それが、また本部から連絡がありまして」
熊ちゃんは困ったように眉を寄せた。
「当該案件については、所轄での独自の照会は控えるように、とのことです」
「……またですか」
「ええ。既に担当部署へ移管済みなので、問い合わせがあれば本部を通せと」
大石は黙って書類を受け取った。そこに記されているのは、どこにでもありそうな事務的な文言だった。担当変更。資料の引き継ぎ。情報照会の制限。ただ、それだけである。普通なら、珍しいことではない。事件の規模や性質によって、所轄から本部へ捜査が移ることはある。専門的な知識を必要とする案件なら、なおさらだ。しかし、今回ばかりは話が違った。現場へ駆けつけた警察官の初期報告。通常の工事事故とは考えにくい損壊状況。そして、事故の前後に名前が浮かび上がった北条鉄平という男。大石がそれらを確かめようとした途端、事件そのものが手の届かない場所へ移されてしまったのである。
「……何とも、妙な話ですねぇ」
大石は書類へ目を落としたまま呟いた。
「ですよね。俺も気になってるんっすけど……」
「いやいや。上がそう言うなら、仕方ありませんよ」
大石はいつものように笑った。
「我々は組織の人間ですからねぇ。命令には従わないと」
「……大石さんが言うと、何だか変な感じですね」
「おやおや。私はいつだって真面目な警察官ですよ?」
熊ちゃんは苦笑し、その場を離れていった。大石はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。そして。
「……まったく」
小さく息を吐いた。命令には従わなければならない。それは、何も間違っていない。だが、だからといって納得できるわけでもなかった。大石は机の引き出しを開け、別の資料を取り出した。そこには、数年にわたって調べてきた事件の記録がまとめられていた。昭和五十四年。園崎家当主の死亡。昭和五十五年。北条夫妻の事故。昭和五十六年。古手夫妻の事件。昭和五十七年。北条悟史の失踪。いずれも、綿流しの時期に起きた不可解な出来事だった。そして、人々はそれらを一つの名前で呼んでいた。オヤシロさまの祟り。
「……祟り、ねぇ」
大石は苦笑した。刑事として、そんなものを信じているわけではない。ただ、事件が続いていることは事実だった。誰かが意図的に引き起こしているのか。それとも、まったく別々の出来事が、偶然同じ時期に重なっているだけなのか。その判断すら、まだできていない。大石は最初の事件の記録へ目を落とした。園崎家当主の死亡。雛見沢で大きな影響力を持っていた人物が、祭りの時期に命を落とした。当時も色々な噂が飛び交った。園崎家の内部対立。ダム建設を巡る争い。古くから続く村の因習。しかし、どれも決定的な証拠には結びつかなかった。何より、園崎家の当主自身が祟りの最初の犠牲者になっている。もちろん、それだけで園崎家の関係者が完全に無関係だと証明できるわけではない。だが、少なくとも園崎家が一方的に事件を引き起こしていると考えるには、無理があった。
「……昔は、随分と疑いましたけどねぇ」
大石は独り言のように呟いた。園崎家。雛見沢の古い権力。ダム戦争。確かに、あの一族が村の政治や人間関係へ与える影響は大きい。しかし、影響力があるというだけで犯人にするわけにはいかない。それに、今年の事件には別の疑問もあった。北条鉄平。あの男が、今回の工事事故にどのような形で関わっているのか。そこが分からなかった。大石は資料を閉じた。
「……それにしても、北条家ですか」
昭和五十五年の事故。翌々年の悟史失踪。そして今年、鉄平の名前。仮にそれらの事件が繋がっていたとすれば、北条家には一体何が起きているのだろう。しかし、その仮説にも問題があった。鉄平という男には、以前から色々と良くない話があった。だからといって、それが今回の工事事故と関係する証拠はない。そもそも、事故現場にいたと断定できるだけの資料すら、手元には残っていなかった。大石は指先で机を二度叩いた。
「……分からないことだらけですねぇ」
大石がオヤシロさまの祟りを追っているのは、何も個人的な恨みを晴らすためではない。確かに、長年の付き合いがある人間が事件に関わっていると思えば、気に掛かることはある。だが、幸いにも、あの人は今も元気に暮らしている。少なくとも、事件の犯人を何としてでも捕まえなければ気が済まないというほどの、強い私怨があるわけではなかった。それでも、毎年のように続く不可解な事件を、何も分からないまま放置していいとは思えない。まして、今年もまた何かが起きるのだとしたら。大石は窓の外へ目を向けた。再開発によって姿を変えた興宮の街。かつては田畑や古い家屋が広がっていた場所にも、新しい建物が立ち並んでいる。この十年ほどで、随分と景色が変わった。変わったのは街だけではない。大石自身も、もう若くはなかった。
「……さてさて」
大石は椅子の背もたれへ身体を預けた。今年の綿流し。それが、刑事として迎える最後の綿流しになるだろう。退職まで、そう長い時間は残っていない。できることなら、それまでに一連の事件の真相を知りたい。五年間も追ってきた事件なのだ。何も分からないまま終わるのは、やはり気持ちが悪い。しかし。
「……退職金、ですか」
大石は小さく笑った。もし今、上から止められている事件へ勝手に踏み込み、問題を起こしたらどうなるか。場合によっては、懲戒処分を受けることになるだろう。最悪の場合、これまで勤め上げてきた年月が、退職を目前にして台無しになりかねない。それは、さすがに御免だった。退職金。長年働いてきた人間にとって、それは決して小さなものではない。今さら正義感だけで何もかも投げ出せるほど、大石は若くなかった。
「……いやぁ、参りましたねぇ」
大石は天井を仰いだ。事件の真相は知りたい。しかし、退職金を失う危険を冒してまで調べたいかと尋ねられれば、即答はできない。まして、今はまだ何の証拠もない。仮に独自捜査を続けたとしても、何かが分かる保証はなかった。そんなものに残りの刑事人生を賭けるのは、どう考えても分が悪い。
「……まったく。歳は取りたくないもんですねぇ」
大石は苦笑した。若い頃なら、もう少し無茶をしたかもしれない。いや、若い頃だって同じように悩んでいたかもしれない。人間というのは、案外そんなものだ。それでも。一つだけ、気になっていることがあった。前原圭一。あの少年は、今の雛見沢で何が起きているのか、ほとんど知らない。北条悟史が沙都子の兄であることすら、今日初めて知ったほどだった。にもかかわらず、事故の発生直前には現場近くにいた。そして、自分へ何かを隠しているようにも見えた。偶然なのだろうか。
「……ま、偶然でしょうねぇ」
大石は小さく呟いた。転校してきたばかりの中学生が、地元の古い事件や再開発地区の事故と深く関係しているなど、普通に考えればあり得ない。それに、あの少年の友人関係についても、妙な意味を持たせる必要はなかった。園崎魅音。竜宮レナ。北条沙都子。古手梨花。確かに、祟りに関わる事件の当事者や家族と、何らかの接点がある子供たちではある。しかし、それは雛見沢という土地の狭さを考えれば、決して不自然なことではない。同じ学校へ通い、同じ部活で遊んでいる。ただ、それだけのことだ。
「……子供たちには、関係のない話でしょうしねぇ」
大石は呟いた。それでも、もし彼らの身近で何かが起きているのなら。刑事として、見過ごすわけにはいかない。まして、圭一が本当に何かを目撃していたのだとしたら、知らないうちに危険へ巻き込まれる可能性もある。大石はもう一度手帳を開いた。前原圭一。名前の横には、今日の聞き取りで得られた情報が並んでいた。ただ、どれも決定的ではない。
「……さて、どうしたものか」
事件には踏み込めない。北条鉄平の行方も分からない。上層部へ問い合わせても、まともな説明は返ってこないだろう。それならば。大石は、ふと一人の人物を思い出した。
「……そういえば」
机の引き出しを開ける。古い名刺や連絡先をまとめた束の中から、一枚を取り出した。赤坂衛。以前、雛見沢で起きた事件を通じて知り合った、警視庁の刑事だった。
「……赤坂さん、ですか」
大石は名刺を眺めた。彼なら、今回のような案件について何か知っているかもしれない。もちろん、赤坂が捜査移管の詳細を把握しているとは限らない。そもそも、今回の工事事故と過去の事件に関係があるのかどうかすら分からないのだ。しかし、警視庁に勤める彼なら、少なくとも大石とは違う角度から物事を見ることができるだろう。
「……ま、聞いてみるだけなら構いませんかねぇ」
大石は小さく笑った。正式な資料を要求するわけではない。何か違法なことを頼むわけでもない。昔の知り合いへ、少しばかり相談するだけだ。それくらいなら、退職金がどうこうという話にもなるまい。大石は受話器を取った。交換を通して、警視庁へ連絡を入れる。しばらくして。
『……はい。赤坂です』
聞き覚えのある声がした。
「いやぁ、どうもどうも。ご無沙汰しております」
『……その声は、大石さんですか?』
「んっふっふっふ。覚えていてくださいましたか」
『もちろんですよ。お久しぶりです』
大石は笑った。
「いやぁ、赤坂さんもお忙しいでしょうに、突然申し訳ありませんねぇ」
『いえ。どうされたんですか?』
「実はですねぇ、ちょっと気になることがありまして」
『……気になること?』
「ええ。こちらで、少々妙な事件が起きたんですよ」
大石は椅子へ座り直した。
「興宮の再開発地区で起きた、工事事故の件なんですがねぇ」
『工事事故、ですか』
「ええ。ところが、これがどうにも普通の事故ではなさそうでして。しかも、捜査を始めたと思ったら、上の方から手を引くように言われてしまいましてねぇ」
電話の向こうで、赤坂はしばらく黙っていた。
『……そうですか』
「いやいや、別に何か調べてほしいというわけじゃありませんよ。ただ、赤坂さんなら何かご存じないかと思いまして」
『……事件の詳しい日付と場所を教えていただけますか?』
「おや」
大石は僅かに目を細めた。
「……興味がおありで?」
『いえ。まずは、どのような事件なのか確認したいだけです』
「んっふっふっふ。相変わらず真面目ですねぇ」
大石は机の上に広げた資料へ視線を落とし、事故の概要を伝えた。赤坂は途中で口を挟まず、静かに聞いていた。やがて話が一区切りついたところで、赤坂が口を開いた。
『……大石さん』
「はい?」
『その事件が、例の雛見沢の件と関係しているとお考えなんですか?』
大石はすぐには答えなかった。窓の向こうでは、再開発地区へ向かう車両が、相変わらず途切れることなく走っている。
「……さて、どうでしょうねぇ」
大石は小さく笑った。
「正直なところ、私にもまだ分からないんですよ。ただ、少し気になる名前が出てきましてねぇ」
『……名前?』
「北条鉄平、という男です」
電話の向こうで、赤坂が僅かに息を呑んだような気がした。しかし、返ってきた声は落ち着いていた。
『……北条、ですか』
「ええ。三年前の事故で亡くなった北条夫妻の親族です。去年行方不明になった少年とも関係がありましてねぇ」
『……なるほど』
「もちろん、今回の事故に関係しているかどうかは分かりません。ただ、以前からあの一家には妙な出来事が続いていますから」
赤坂はしばらく考えているようだった。
『……大石さん。念のため、こちらでも確認できる範囲を調べてみます』
「……おや。よろしいんですか?」
『ええ。ただ、私の方でも何か分かるとは限りません』
「いやいや。それで結構ですよ」
大石は笑った。
「何も分からなければ、それはそれで仕方ありませんからねぇ」
『……分かりました。何か気づいたことがあれば、連絡します』
「ええ。よろしくお願いしますよ」
そこで一度、会話が途切れた。しかし、赤坂はまだ電話を切らなかった。
『……それと、大石さん』
「はい?」
『あまり無理はなさらないでください』
大石は思わず笑った。
「んっふっふっふ。いやぁ、赤坂さんまでそんなことをおっしゃいますか」
『……いえ。ただ、少し気になったものですから』
「ご心配なく。私だって、もう若くありませんので」
大石は椅子の背もたれへ身体を預けた。
「……退職金を棒に振るような真似は、したくありませんからねぇ」
赤坂は何も言わなかった。大石は軽く笑い、それから続けた。
「まあ、私も出来る範囲で調べてみますよ。何か分かりましたら、またご連絡しますので」
『……はい。お気をつけて』
「ええ。それでは」
受話器を置く。大石はしばらく、そのまま机を見つめていた。赤坂が何かを知っているのかどうかは分からない。少なくとも、今日の電話だけでは何も進展していない。しかし、少しだけ気が楽になった。長年追ってきた事件を、自分一人で抱え込む必要はないのかもしれない。
「……さてさて」
大石は手帳を閉じた。今年の綿流しまで、あと僅か。五年目の祟りが起きるのか。それとも、今年こそ何も起きずに終わるのか。その答えは、まだ誰にも分からない。ただ一つだけ確かなことがある。大石蔵人は、今年を最後に刑事としての仕事を終えるつもりだった。それまでに、何か一つでも真相へ近づければいい。そう考えながら、大石は机の上に積まれた別の事件の書類へ手を伸ばした。警察の仕事は、祟りの事件だけではない。今日もまた、興宮のどこかで誰かが困っている。大石は軽く背筋を伸ばすと、いつものように笑った。
「……んっふっふっふ。では、ぼちぼち仕事に戻りますかねぇ」
窓の外では、午後の日差しが再開発地区の建物を白く照らしていた。その街のどこかで、何かが静かに動き始めていることを、大石はまだ知らなかった。
<雑談>
お前が書いてるくせに何を言ってるんだ、という話ですが、どうにもTIPSや他の人物視点をついつい書きすぎてしまうんですよね。
『神楽舞』であれだけ話数と文字数が膨れ上がったのも、そのせい……だけではありませんが、相変わらずまったく反省していない作者です(笑)。
ちなみに、今の構想だと本作もかなりの長編になる予定です。
一体何話くらいになるんでしょうね? 作者自身も正直、見当がついていません。
できれば100話は超えたくないんですが……うーん、超えそうな気がするんですよねぇ。ただ、さすがに『神楽舞』ほど長くはならない……はず。
いやはや、こりゃ参りましたねぇ~。(大石風)
何しろ作者の悪癖で、一度何かを思いつくと、そこから次々に話が膨らんで止まらなくなるんですよ。困ったものです。まあ、こればっかりは仕方ありませんね(笑)。
だからこそ、無理せず、自分のペースで楽しく書いていこうと思います!
……と言いつつ、また設定やらTIPSやらを増やしてしまいそうですが(笑)。