「……あら」
背後から、不意に女性の声が聞こえた。
「随分と難しい顔をしているのね」
圭一は振り返った。
そこには、白衣を羽織った一人の女性が立っていた。
年齢は二十代半ばから後半くらいだろうか。長い金髪を背中へ流し、白衣の下には落ち着いた色合いの服を着ている。近くの研究施設で働いている人間なのだろうが、何故こんなところで白衣を着ているのかはよく分からなかった。女性は片手に書類の入った薄い鞄を提げ、もう片方の手を白衣のポケットへ入れたまま、何やら面白そうな顔で圭一を眺めていた。
そんな彼女の第一印象はミステリアスな感じ、と言うべきだった。
「……えっと」
圭一は少し困った。
いきなり知らない女性に声を掛けられたのだから、当然といえば当然だった。しかも、随分と親しげな口調である。どこかで会ったことがあるのかと思って記憶を探ったが、やはり見覚えはなかった。
「……俺、ですか?」
「あら、他に誰かいるのかしら?」
女性はくすりと笑った。
圭一は周囲を見渡した。レナはまだ戻っておらず、近くのベンチにも人の姿はない。どうやら間違いなく自分へ話しかけているらしかった。
「いや、まあ……そうですけど。何か用ですか?」
「用というほどのものでもないわ。ただ、あんまり真剣に湖を見つめているものだから、何を考えているのか気になっただけ」
「……はぁ」
変な人だ。
圭一は率直にそう思った。
いくら観光客の少ない場所とはいえ、見ず知らずの中学生へ突然声を掛ける理由としては随分と奇妙だった。もっとも、女性の方はそんな圭一の戸惑いなど気にした様子もなく、隣の空いたベンチへ目を向けている。
「ここ、座ってもいいかしら?」
「あ、どうぞ」
「ありがとう」
女性は軽く礼を言い、圭一から少し離れた位置へ腰掛けた。鞄を膝の上へ置くと、今度は圭一と同じようにダム湖を眺め始める。しばらくの間、二人の間には風の音だけが流れていた。
「……いい景色でしょう?」
やがて女性が口を開いた。
「ええ。さっき初めて近くまで来たんですけど、正直驚きました。こんなでかいとは思わなくて」
「そうね。人間が造ったものとは思えないくらい」
女性は湖の向こうへ視線を向けたまま、小さく笑った。
「もっとも、ここへ来るたびに少し複雑な気分になるのだけれど」
「……複雑?」
「だって、綺麗な湖でしょう? 山の緑が映って、風が吹けば波が立って、夕方には水面が真っ赤に染まる。でも、この下には昔、人が暮らしていたのよ」
圭一は思わず女性の顔を見た。
それは、つい先ほど自分が考えていたことだった。
「ああ……そうらしいですね。俺も昨日、新聞で読みました」
「あら、そうなの?」
「ええ。ダムが出来る前は、もっと村が広かったんですよね」
「そうよ。今は高台の集落が残っているけれど、昔はあの辺りにも家や田畑があったの。道路だって、今とは随分違うところを通っていたそうよ」
女性は湖の奥を指差した。
圭一もその方向へ目を向ける。水面はただ静かに広がっているだけで、かつてそこに何があったのかを想像するのは難しかった。
「……そう考えると、変な感じですね」
「何がかしら?」
「いや、今じゃこんなに綺麗な場所なのに、そのために家とか土地とか、全部なくなっちまったんだろうなって」
「……ふふっ」
女性が小さく笑った。
「あなた、面白いことを考えるのね」
「……そうですか?」
「ええ。ここへ来る人の多くは、景色が綺麗だとか、ダムが大きいとか、そういうことを話すもの。もちろん、それが悪いわけじゃないけれど」
そう言ってから、女性は圭一へ視線を戻した。
「あなたは、見えなくなったものの方が気になるのね」
圭一は少し考えた。
「……まあ、昨日色々調べたばっかりだからかもしれませんけど」
「色々?」
「昔のダム戦争とか、その辺りです」
「へぇ……」
女性の目が僅かに細くなった。
「若いのに、随分と変わったものに興味があるのね」
「別に、そんな大したことじゃないですよ。ちょっと気になることがあって調べてただけです」
「気になること?」
「……まあ、色々と」
圭一は曖昧に笑った。
女性はそれ以上追及せず、再び湖へ視線を戻した。しかし、その口元には相変わらず楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「……そういえば」
圭一はふと、女性の白衣へ目を向けた。
「お姉さん、研究者か何かですか?」
「あら、どうして?」
「いや、白衣着てるんで。近くに研究所とかありますよね?」
「ふふっ。そうね。まあ、そんなところかしら」
「へぇ。何の研究してるんです?」
「色々よ」
「……便利な答えですね、それ」
「あら、あなたもさっき同じようなことを言わなかった?」
圭一は思わず笑った。
「……確かに」
女性も笑う。
どこか掴みどころのない人だった。何か尋ねれば答えてはくれるのだが、肝心なところは上手く躱されてしまう。かといって大石のようにこちらを問い詰めるわけでもなく、ただ会話そのものを楽しんでいるようにも見えた。
「でも、研究者っていいですよね」
圭一は何気なく言った。
「あら、どうして?」
「だって、分からないことを調べるのが仕事なんでしょう?」
女性は少し驚いたように圭一を見た。
「……そうね。随分と大雑把だけれど、間違ってはいないわ」
「俺も最近、ちょっと実験みたいなことしてるんですよ。蜘蛛の糸を使ったもので……全然上手くいかなくて」
「実験?」
「ええ。材料を色々混ぜたり、引っ張ったりして、どうすれば強くなるか調べてるんですけど」
「……へぇ」
女性は興味を示した。
「何を作っているの?」
「……秘密です」
「あら、残念」
圭一は笑った。
「まだ全然出来てないんで。完成したら誰かに見せるかもしれませんけど」
「そう。それは楽しみね」
女性はそう言ってから、少し真面目な顔になった。
「でも、思うような結果が出ないこともあるでしょう?」
「……ええ。最初は糸を強くすりゃいいだけだと思ってたんですけど、やってみたら全然違って。材料を増やしても上手くいかないし、逆に少ししか入れてない方が丈夫になったりするんですよ」
「あら、そうなの?」
女性は興味深そうに圭一の顔を覗き込んだ。
「それは面白いわね。確かに蜘蛛の糸というのは、生物が生み出す素材の中でも目を見張るものがあるわ。細くて軽いのに丈夫で、種類によっては随分と違った性質を持っているの。人工的に再現しようとする研究だってあるくらいよ」
「へぇ……。そんなに凄いものなんですか?」
「ええ。でも、私が面白いと思ったのは、蜘蛛の糸のことだけじゃないわ」
「……え?」
「あなたのことよ」
思いも寄らない言葉に、圭一は思わず女性の顔を見た。
「……俺?」
「そう。今の話を聞いていると、あなたは随分と根気強いのね。ただ材料を混ぜて終わりにするんじゃなくて、量を変えてみたり、出来上がったものを比べてみたり。それに、思った通りの結果にならなかったことを、ちゃんと不思議に思っている」
女性はそこで小さく笑った。
「研究ってね、知識があるだけでは出来ないものなのよ。自分の予想が外れた時に、何故そうなったのかを考えられること。案外、それが一番難しかったりするの」
「……いや、そんな大したもんじゃないですよ。ただ、どうしても上手く作りたかったんで」
「あら、それも立派な動機よ。何かを知りたい、作りたい、確かめたい。その気持ちがなければ、研究なんて続けられないもの」
女性は楽しそうに笑った。
「……もしかしたら、あなた、研究者に向いているかもしれないわね」
「け、研究者!?」
圭一は思わず声を上げた。
「いやいや、俺なんか全然ですよ! 専門的なことは何も知らないし、学校の理科だってそこまで得意ってわけじゃ……」
「ふふっ。最初から何もかも知っている人間なんていないわ。知識はこれから身につければいいじゃない」
女性はそう言うと、何かを思いついたように口元へ指を添えた。
「そうねぇ……どうかしら? 将来、私の研究所へ来てみる?」
「……はい?」
「私、一応所長をしているのよ。研究員を採用する時にも意見を言える立場だから、あなたにその気があるなら、考えてあげてもいいわ」
あまりにも突然の申し出に、圭一は目を瞬かせた。
「……いや、ちょっと待ってください。所長って、研究所の一番偉い人ですよね?」
「まあ、そういうことになるかしら」
「そんな人が何でこんなところで、俺みたいな中学生と喋ってるんですか!?」
「ふふっ。所長だって休憩くらいするわよ」
女性は悪戯っぽく笑った。
「それに、面白いものを見つけたら、つい話しかけたくなるでしょう?」
「……俺、面白いもの扱いですか」
「褒めているのよ?」
「絶対からかってるでしょう!」
圭一が抗議すると、女性は楽しそうに肩を揺らした。
しかし、圭一としては悪い気がしなかった。
今まで、自分の実験について誰かに話したことは何度かあった。詩音は興味を持って聞いてくれたし、葛西も必要な時には手を貸してくれる。しかし、専門的な知識を持った人間から、こうして研究の進め方そのものを褒められたのは初めてだった。
しかも、相手は研究所の所長だという。
もちろん、冗談半分なのかもしれない。それでも、少し嬉しかった。
「……まあ、ありがとうございます」
「あら、随分素直なのね」
「人がせっかく礼言ってんのに!」
「ふふっ。ごめんなさい」
女性は笑いながら謝ると、少し考えるように顎へ指を添えた。
「それで、さっきの実験のお話だけれど。一つ、考え方を変えてみたらどうかしら?」
「考え方?」
「ええ。強い材料を混ぜれば、必ず強いものが出来るとは限らないわ。大切なのは、何が入っているかだけじゃないの。同じ材料でも、どう並んで、どう結びついているかで、まったく違う性質になることがあるのよ」
「……並び方?」
「そう。例えばタンパク質ね。タンパク質は小さな構成要素が鎖のように繋がって出来ているけれど、その鎖がどう折り畳まれて、どんな構造を作るかによって働きが変わるの。同じような材料から出来ていても、形が違えば性質も変わってしまうことがあるわ」
「……へぇ」
圭一は感心したように頷いた。
「じゃあ、同じものを混ぜても、出来上がりが違うこともあるってことですか?」
「ええ。もちろん、あなたが何を作っているのか分からないから、今の話が当てはまるとは限らないけれどね。ただ、材料を増やすことばかり考えず、その材料がどんな状態になっているのかを疑ってみるのも面白いかもしれないわ」
「……なるほど」
圭一は腕を組んだ。
これまでは、特殊な蜘蛛から得られた成分をどうすれば有効に使えるのか、そればかり考えていた。量を増やし、別の材料を加え、丈夫になったかどうかを確かめる。しかし、出来上がったものの内部で何が起きているのかについては、ほとんど考えたことがなかった。
「……そっか。そういう見方もあるのか」
「ふふっ。何か思いついた?」
「いや、まだ分かんないですけど……ちょっと試してみたいことは出来ました」
「それはよかったわ。でも、あくまで考え方の一つよ。実際に何が起きているのかは、ちゃんと確かめてみないと分からないもの」
「……ですね」
圭一も笑った。
もちろん、これで問題が解決したわけではない。糸が丈夫になる理由も、それを上手く射出する方法も、まだ分からないままだった。しかし、今まで何度も見返していた実験結果を、もう一度違った角度から眺めてみる価値はありそうだった。
「……ありがとうございます。何か、ちょっと分かった気がします」
「あら、お礼を言われるほどのことじゃないわ。単なる世間話よ」
そう言って女性は湖へ目を戻した。
「でも、分からないものに興味を持つのは悪いことじゃないわ。誰もが当たり前だと思っていることほど、疑ってみる価値があるものよ」
「……当たり前、ですか」
「ええ。例えば、この湖」
女性は水面を指差した。
「人間が造ったダムによって出来た湖。そう説明されれば、誰もが納得するでしょう? でも、もしここに昔から何かが棲んでいたとしたら?」
「……はい?」
圭一は思わず女性を見た。
「何かって……魚とかですか?」
「ふふっ。もっと面白いものよ」
「……もっと?」
「例えば、古い村の神様とか」
圭一の表情が僅かに変わった。
女性はそれに気づいたのか、楽しそうに笑う。
「……オヤシロさま、ってご存じ?」
圭一は思わず息を呑んだ。
今日、何度目だろう。
その名前を聞くのは。
大石。
レナ。
そして今、目の前の女性まで。
「……知ってますよ」
圭一は少しだけ警戒しながら答えた。
「へぇ。雛見沢の子なの?」
「いや、最近引っ越してきたばっかりです」
「そうなの。じゃあ、誰かに教えてもらったのかしら?」
「……まあ、そんなところです」
女性は面白そうに頷いた。
「オヤシロさまはね、昔から雛見沢に伝わる神様なの。村を守る一方で、掟を破った人間へ祟りを下すとも言われているわ。特に有名なのは、ここ数年続いている事件ね」
「……綿流しの頃に起きるっていう、あれですか?」
「あら、そこまで知っているの?」
「ええ。昨日、新聞で読みましたから」
「ふふっ。随分と勉強熱心なのね」
女性は楽しそうに笑った。
「最初の年はダム工事に関係する騒ぎがあって、園崎家の当主が亡くなった。次の年は北条家の夫婦がダム付近で転落し、その翌年には古手家の神主が亡くなった。そして去年は、北条家の少年が姿を消した」
「……よく知ってるんですね」
「興味があるもの」
「祟りに?」
「ええ。とっても」
女性はまるで好きな小説について話すように笑った。
圭一は何とも言えない気分になった。
先ほどレナも同じような話をしていたが、あちらは神様を心から信じているようだった。それに対して、この女性はどうだろう。話している内容は似ているのに、その口調には恐怖も信仰も感じられない。
むしろ、面白がっている。そんな印象すら受けた。
「……研究者なのに、祟りとか信じるんですか?」
圭一が尋ねると、女性は目を細めた。
「あら、研究者は神様を信じちゃいけないのかしら?」
「いや、そういうわけじゃないですけど」
「ふふっ。意外とそう考える人は多いのよね。科学を信じる人間は、迷信や怪談を馬鹿にするものだって」
女性は白衣のポケットから手を出し、膝の上で指を組んだ。
「でもね、私にとっては少し違うの。科学というのは、分からないものを分かるようにするための方法でしょう? だったら、最初から何もかも迷信だと決めつけてしまうのは、少しつまらないじゃない」
「……なるほど」
圭一は思わず頷いた。
確かに、言われてみればそうだった。
自分も蜘蛛に噛まれてから、随分と常識外れな出来事を経験している。壁を這い、普通の人間なら持ち上げられないものを持ち上げ、危険が迫れば身体が勝手に反応する。そんなことを数か月前の自分へ話したところで、まともに信じてもらえなかったに違いない。
しかし、実際に起きた。
だからこそ、今ではその仕組みを調べている。
「……まあ、確かに」
圭一は小さく笑った。
「分かんないからって、最初からあり得ないって決めつけるのも変ですもんね。でも、それと祟りが本当にあるかどうかは別ですよね」
「あら」
「事件が起きたのは事実でも、それを神様がやったって証拠はない、ですよね?」
女性はしばらく圭一を見つめていた。やがて、小さく笑った。
「……ふふっ。あなた、なかなか面白い子ね。怖がるかと思ったのに、随分と冷静なんだもの」
「いや、普通に怖いですけどね。四年も続けて人が死んでるんでしょう? しかも、いなくなった人もいる」
圭一は少し真面目な顔になった。
「だったら、祟りだって言って終わらせるより、ちゃんと調べた方がいいんじゃないですか?」
女性は答えなかった。ただ、圭一の顔をじっと見つめていた。その視線に、圭一は少し居心地の悪さを覚えた。
何だろう。
さっきまでの楽しそうな笑顔とは、少し違う。こちらが何を考えているのか、確かめようとしているような。
そんな目だった。
「……あの?」
「……ああ、ごめんなさい」
女性はすぐに微笑んだ。
「少し感心してしまっただけよ。あなたの言う通りね。何かが起きたのなら、そこには必ず原因がある。私たちがそれを考えることをやめてしまえば、そこで何も分からなくなってしまうもの」
「……ですよね」
「でも」
女性はそこで一度言葉を切った。
「原因が分かったからといって、必ずしも幸せになれるとは限らないわ」
圭一は眉を寄せた。
「……どういう意味です?」
「例えば、誰かが祟りを信じているとしましょう。その人にとっては、神様が怒ったから不幸が起きた。それで納得出来るのかもしれない。でも、もし本当はもっと残酷な理由があったとしたら?」
女性は穏やかな口調で続けた。
「知らない方が幸せだった、なんてこともあると思わない?」
圭一は黙った。レナの顔が浮かんだ。先ほど、オヤシロさまについて話していた時の表情。
もし彼女が心から祟りを信じているのなら、そこへ別の説明を持ち込むことは、必ずしも歓迎されないのかもしれない。
けれど───
「……それでも」
圭一は口を開いた。
「本当のことなら、知っといた方がいいと思いますけど」
「……へぇ」
「知らなかったら、同じことがまた起きるかもしれないじゃないですか。事故だったら原因を調べて、次は起きないようにすればいい。誰かが悪いことしてるんなら、そいつを止めればいい。なのに祟りだから仕方ないって言ってたら、何も変わんないと思います」
言い終えてから、圭一は少し照れくさくなった。我ながら随分と偉そうなことを言ってしまった気がする。
「……まあ、俺が勝手にそう思ってるだけですけど」
「……いいえ」
女性は静かに首を振った。
「とても立派な考えだと思うわ」
圭一は少し驚いた。
女性は微笑んでいた。
しかし、その目には先ほどまでの楽しそうな色だけでなく、何か別のものが混じっているように見えた。
「……でも、気をつけた方がいいわね」
「何にです?」
「何でも知ろうとすることによ。世の中には、知られたくないことを隠している人間もいるもの。あなたが真実を知りたいと思っていても、向こうがそれを歓迎してくれるとは限らないでしょう?」
圭一は思わず女性を見た。
その言葉は、今日の大石との会話を思い出させた。
警察ですら調べられない事件。突然回収された資料。行方の分からない鉄平。
「……それって」
圭一は口を開きかけた。
しかし、すぐに止めた。
目の前の女性が何か知っているとは限らない。
そもそも、たまたま出会った研究者に、昨日の事件について何を話すつもりなのか。
「……いや、何でもないです」
女性は少し不思議そうに首を傾げた。
「あら、気になるわね」
「大したことじゃないですよ」
「そう?」
「ええ」
女性はそれ以上尋ねなかった。
ただ、しばらくしてから。
「……そういえば、今年も一か月もすれば綿流しね」
圭一は顔を上げた。
「綿流し?」
「ええ。雛見沢のお祭りよ。毎年、村の人たちが集まって、古い綿を川へ流すの。なかなか趣のあるお祭りなのよ。でも、今年は興宮と合同で行うらしいから、去年よりも壮大な祭りを催すらしいわね」
「ああ、名前は聞いたことありますよ」
圭一は少し考えた。
新聞にも、綿流しの名前が何度か出てきた。
毎年、その前後に人が亡くなったり、行方不明になったりしている。
「……じゃあ、祟りってのもその頃なんですか?」
「そう言われているわ」
女性は微笑んだ。
「そして今年で五年目。もしまた同じようなことが起きたら、いよいよ偶然では片づけられなくなるかもしれないわね」
圭一は眉を寄せた。
「……今年も起きるみたいな言い方ですね」
「……あら?」
女性がこちらを見る。
「だって、まだ何も起きてないんでしょう?」
「ええ」
「なのに、五年目って……」
圭一は少し困ったように笑った。
「何か、もう起きるって決まってるみたいじゃないですか」
女性は一瞬だけ黙った。
本当に短い間だった。
しかし、圭一にはその沈黙が妙に引っ掛かった。
やがて女性は、くすりと笑った。
「……ふふっ。確かにそう聞こえるわね。でも、村の人たちの間では、今年も何か起きるんじゃないかと噂になっているのよ。私もつい、その言い方に引っ張られてしまったみたい」
「……なるほど」
圭一は頷いた。
一応、筋は通っている。
四年も続けて事件が起きたのなら、今年も起きるのではないかと考える人間がいても不思議ではない。むしろ、何も心配しない方が難しいだろう。
それでも。
ほんの一瞬だけ見えた、女性の表情。
あれは何だったのだろう。
「……あなたはどう思う?」
不意に尋ねられた。
圭一は顔を上げた。
「何がです?」
「今年も祟りが起きると思う?」
「……さあ。分かんないですね」
「あら、随分と素直なのね」
「だって分かんないもんは分かんないでしょう」
女性が笑った。
「でも、もし起きたら?」
「……起きたら?」
「ええ。また誰かが死んで、誰かが消える。そうなったら、あなたはどうする?」
圭一は黙った。
何故そんなことを聞くのだろう。
見ず知らずの中学生へ尋ねるにしては、随分と妙な質問だった。しかし、女性は冗談を言っているようには見えなかった。
「……そうですね」
圭一は湖へ目を向けた。
もし、また同じような事件が起きたら。
その相手が、もし自分の知っている人間だったら。
魅音。
レナ。
沙都子。
梨花。
詩音。
そこまで考えたところで、圭一は胸の奥に嫌なものを感じた。
「……まあ、何とかしたいですね」
「何とか?」
「ええ。事件が起きるって分かってんなら、止められるかもしれないじゃないですか」
女性はじっと圭一を見つめた。
「……あなたが?」
「いや、俺一人でってわけじゃないですけど」
圭一は苦笑した。
「警察とか、大人とか、色々いるでしょう。それに、何も知らないからって何もしないよりは、出来ることくらい探した方がいいと思いますし」
「……怖くはないの?」
「そりゃ、怖いですよ」
圭一は小さく笑った。
「でも、怖いからって何もしないのも違う…と思います」
言ってから、少しだけ考える。
一昨日の鉄平との戦い。
あの時も怖かった。
十三号を引き千切られ、ウェブシューター一号もまともに使えず、最後には本当にどうなるかと思った。それでも、逃げるわけにはいかなかったのである。
何しろ、自分が逃げれば、あの怪物は再び街へ戻ってしまう。
それを考えたら。
怖いからやめる、という選択肢はなかった。
「……まあ、そういう性分なんでしょうね」
圭一は肩を竦めた。女性は何も言わなかった。ただ、しばらく圭一の横顔を見つめていた。
やがて、ふと何かを思いついたように口を開く。
「……そういえば、最近の興宮も随分物騒らしいわね」
圭一の身体が僅かに強張った。
「……そうなんですか?」
「ええ。工事現場で事故が起きたり、夜中に妙な騒ぎがあったり。最近は色々あるみたい」
女性は何気ない口調だった。
しかし、圭一にはその話題が偶然出てきたとは思えなかった。
「……工事事故なら、新聞で見ましたけど」
「あら、そうなの?」
「ええ。一昨日の夕方にあったやつですよね」
「そうそう。それよ。随分派手に壊れた場所もあったそうね」
圭一は女性を見た。
「……詳しいんですか?」
「いいえ。噂で聞いただけよ」
「……へぇ」
圭一は少し考えた。
目の前の女性は研究者らしい。そして、あの事件が起きた場所は研究施設も多い再開発地区だった。もしかすると、何か知っているのかもしれない。
しかし、こちらから詳しく尋ねすぎれば、逆に怪しまれる可能性もある。圭一は少し間を置いてから、出来る限り何気ない調子で口を開いた。
「……でも、最近の技術ってすごいですよね」
「あら、急にどうしたの?」
「いや、さっき研究の話してたじゃないですか。最近はロボットとか、人工の筋肉とか、そういうのも研究してるんですよね?」
女性の表情が僅かに変わった。
「……人工筋肉?」
「ええ。何か、そういうのがあるって聞いたことあって」
圭一は肩を竦めた。
「人間の筋肉みたいに動く機械とか、作れたらすげぇなって」
女性は少し黙った。
それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……へぇ。随分と面白いものに興味があるのね」
「そうですか?」
「ええ。でも、どうして人工筋肉なの? さっきまで糸の話をしていたでしょう?」
圭一は一瞬だけ言葉に詰まった。
「……いや、まあ」
「何か理由があるのかしら?」
女性は微笑んでいた。
しかし、その目は圭一から離れなかった。
圭一は考えた。ここで鉄平のことを持ち出すわけにはいかない。
新聞にも怪物のことは書かれていないのだから、あの身体を知っていると自分から明かせば、間違いなく不自然に思われるだろう。
「……単に、面白そうだからですよ。ほら、ロボットとかって普通は金属で動くじゃないですか。でも人間みたいに動く材料があったら、もっと色々出来そうだなって」
「……なるほど」
女性は頷いた。
「確かにそうね。でも、人間の身体って、機械よりずっと複雑なのよ」
女性は少し楽しそうに話し始めた。
「筋肉一つ取っても、ただ縮んだり伸びたりしているわけじゃない。神経からの信号を受けて動き、血液から栄養を受け取り、損傷すれば修復もする。あれほど精巧な仕組みを人工的に再現するのは、簡単なことじゃないわ」
「……へぇ。じゃあ、実際にそういう研究してる人もいるんですか?」
「もちろん。人工的に筋肉の働きを再現しようという研究は、昔から色々あるわ。もっとも、研究と実用化は別問題だけれどね。仮に強い力を生み出せたとしても、それを安定して動かすのは難しいもの」
圭一の耳が、その言葉を捉えた。
安定して動かす。
一昨日の鉄平。
最初は圧倒的な力で暴れ回っていたのに、戦いが長引くにつれて動きが鈍くなり、最後には身体を覆っていた異様なものが機能を失った。
「……例えば」
圭一は慎重に口を開いた。
「すげぇ力が出せても、途中で動かなくなったりするんですか?」
女性がこちらを見る。
「……ええ。そういうことも考えられるわね」
「……そうなんだ」
「でも、どうして?」
「いや、普通に気になっただけです」
圭一は笑った。女性も微笑んだ。しかし、今度はすぐに話を続けなかった。
僅かな沈黙が流れる。圭一はその間に、女性の顔を横目で見た。何かを考えている。
そんな印象だった。もっとも、何を考えているのかまでは分からない。
やがて女性は、ゆっくりと口を開いた。
「……あなた」
「はい?」
「名前、何ていうのかしら?」
圭一は少し驚いた。
そういえば、ここまで随分と話していたのに、まだ自己紹介すらしていなかった。
「……前原です。前原圭一」
「前原……圭一君」
女性は名前を繰り返した。
まるで、その響きを確かめるように。
「いい名前ね」
「……どうも」
「雛見沢へ越してきたばかりなのよね?」
「ええ。四月に」
「そう。じゃあ、まだ一か月くらいなのね」
女性は楽しそうに笑った。
「これから色々なことを知ることになるでしょうね」
「……何か意味深ですね」
「あら、そう聞こえた?」
「ええ。さっきから結構そういう言い方多いですよ」
女性はくすくすと笑った。
「ごめんなさい。癖なのかもしれないわ」
圭一も笑ったが、内心では少し落ち着かなかった。この女性は一体、何者なのだろう。
最初はただの変わった研究者だと思っていた。
実際、話していて面白い部分もある。科学の話になれば妙に詳しく、圭一のような中学生相手にも馬鹿にせず答えてくれる。オヤシロさまの祟りについても、レナとは違う角度から考えているようだった。
しかし、時折妙なことを言う。
今年も祟りが起きるかもしれない。知られたくないことを隠している人間がいる。真実を知ったからといって幸せになれるとは限らない。そして、人工筋肉の話をした時の反応。どれも単なる偶然なのかもしれない。それでも、何故か気になってしまう。
「……そういや」
圭一は口を開いた。
「お姉さんの名前、まだ聞いてませんでしたね」
「あら、そうだったわね」
女性は小さく笑った。
「鷹野三四よ」
「……鷹野さん」
「ええ。近くの研究所に勤めているの」
圭一は頷いた。
「へぇ。じゃあ、やっぱり研究者なんですね」
「まあ、そんなところね」
「……専門は?」
「ふふっ。随分と知りたがりなのね」
「そりゃ、ここまで色々話したんですから」
女性――鷹野は楽しそうに笑った。
「そうね。生体に関する研究、とでも言っておこうかしら」
「生体?」
「人間や動物の身体の仕組みよ。どうやって動くのか、どうして病気になるのか、傷ついた身体がどうやって治るのか。そういうことを色々調べているの」
「……へぇ」
圭一は感心した。
それなら、人工筋肉について詳しいのも納得出来る。もしかすると、自分が今調べている特殊な蜘蛛の糸についても、何か分かるかもしれない。
そこまで考えたところで、圭一はすぐにその発想を打ち消した。
駄目だ。何を考えている。さっき出会ったばかりの研究者に、あの蜘蛛のことまで話してどうする。
詩音にも葛西にも、自分が何を作ろうとしているのかはある程度話している。しかし、相手が信用出来るかどうかも分からないうちに、何でも話すわけにはいかなかった。
「……面白そうですね」
結局、それだけ言った。
「ええ。面白いわよ」
鷹野は頷いた。
「生き物って、本当に不思議だもの。どれほど研究が進んでも、まだまだ分からないことだらけなの」
「……そうでしょうね」
圭一は苦笑した。変わった人だ。
けれど、悪い人ではなさそうだった。少なくとも、話していて退屈するような相手ではない。その時だった。
「あっ、圭一くーん!」
遠くから声が聞こえた。
圭一は振り返る。
休憩施設の方から、レナがこちらへ小走りで向かってきていた。
「あ、お帰り」
「ただいまー! ……あれ?」
レナは圭一の隣に座っている鷹野へ気づき、足を止めた。
「あ、鷹野さん!」
鷹野が顔を上げる。
「あら、レナちゃん」
圭一は二人を見比べた。
「……知り合いなのか?」
「うん! 鷹野さん。昔、雛見沢が沈む前に診療所にも来てる人なんだよ」
「へぇ……」
圭一は鷹野へ目を向けた。
「そうなんですか?」
「ええ。研究所の仕事だけじゃなくて、診療所の方でも少しお手伝いしていたわ」
鷹野はそう答えた。
レナは二人の間を見比べ、少し不思議そうに首を傾げる。
「でも、圭一くんと鷹野さんが一緒にいるなんて珍しいね。何のお話してたのかな?」
「ああ、いや。ちょっと研究の話とか、オヤシロさまのこととか」
「……オヤシロさま?」
レナの表情が僅かに変わった。
圭一はそれに気づいた。
しかし、鷹野は気にした様子もなく、楽しそうに笑っている。
「ええ。前原君、随分と興味があるみたいなのよ」
「……そうなんだ」
レナは圭一を見る。
「圭一くん、オヤシロさまのこと、そんなに気になるの?」
「いや、まあ……ちょっとな」
圭一は曖昧に答えた。
すると鷹野が、何かを思いついたように手を叩いた。
「あら、そうだわ」
「……?」
「前原君も今度よかったら雛見沢のことをもっと教えてあげましょうか?」
圭一は目を瞬かせた。
「……いいんですか?」
「もちろん。昔の伝承とか、村の歴史とか、色々調べているのよ。あなたなら興味を持ってくれると思うわ」
「へぇ……」
正直、少し興味はあった。
昨日の新聞だけでは分からなかったことが、まだ山ほどある。ダム戦争。オヤシロさま。四年続く事件。それらについて詳しく知っている人間がいるのなら、話を聞いてみたいと思うのは当然だった。
けれど。
「……まあ、機会があれば」
圭一はそう答えた。
鷹野は少しだけ目を細めた。
「あら、慎重なのね」
「いや、俺も色々忙しいんで」
「ふふっ。そういうことにしておきましょうか」
鷹野は立ち上がった。
「さて、私もそろそろ戻らないと」
「お仕事ですか?」
「ええ。少し寄り道をしていただけだから」
そう言って、鷹野は鞄を持ち直した。
「今日は楽しかったわ、前原君」
「……どうも」
「またお会いしましょうね」
「ええ」
鷹野は微笑んだ。
そして、レナへも軽く手を振る。
「それじゃあ、レナちゃんも」
「はい! お仕事頑張ってくださいね!」
「ありがとう」
鷹野はそのまま歩き出した。
白衣の裾が風に揺れる。
圭一はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。
やがて鷹野の姿が休憩施設の向こうへ消えると、レナが隣へ腰掛けた。
「……鷹野さんと、随分仲良くなったんだね」
「……そうか?」
「うん。あの人、ちょっと変わってるけど、面白い人でしょ?」
圭一は少し考えた。
「……まあな」
実際、面白い人だった。
科学の話も出来るし、オカルトにも詳しい。しかも、こちらが何を言っても馬鹿にせず聞いてくれる。
それなのに、何故か妙に引っ掛かるところがある。
「……何か、変な人だったな」
圭一は小さく呟いた。
「え?」
「いや、何でもない」
そう答え、圭一は湖へ目を向けた。
先ほどと何も変わらない景色。
青い水面。
遠くの山々。
そして、水の下へ沈んだかつての村。
圭一は小さく息を吐いた。
今日一日で、随分と色々な話を聞いた。
大石からは、警察ですら調べられない事件のこと。レナからは、オヤシロさまの祟りのこと。そして鷹野からは、研究と真実について。
それぞれが違うことを話しているようで、何故かどこかで繋がっているような気もした。
しかし、何がどう繋がっているのかは分からない。
「……まったく」
圭一は頭を掻いた。
「分かんねぇことばっかりだな」
「……圭一くん?」
レナが顔を覗き込んできた。
「ん?」
「また難しい顔してるよ?」
「……そうか?」
「うん」
レナは少し笑った。
「せっかくお天気いいんだから、そんなに考え込まなくてもいいと思うな。かな?」
「……まあ、そうだな」
圭一も笑った。
今はこれ以上考えても仕方がない。少なくとも、答えがすぐに出るような話ではなさそうだった。
「よっしゃ! じゃあ、そろそろ帰るか!」
「うん!」
レナが元気よく頷いた。
二人は弁当の容器を片づけ、ベンチから立ち上がった。帰り道、レナは相変わらず楽しそうに話していた。次の部活で何をするか。今度はどこへ遊びに行くか。今日の試験はどうだったか。もっとも、最後の話題だけは圭一が全力で拒否したため、レナに随分と笑われることになった。
そんな他愛のない会話を交わしながら、二人はダムを後にした。
しかし、圭一が最後にもう一度湖へ振り返った時。
その目には、先ほどまでとは少し違う景色が映っていた。
広大な水面。
静かな山々。
そして、その奥に見える研究施設。
何故か分からない。
けれど、あの白衣の女性と話してから、遠くの建物が妙に気になってしまう。
「……圭一くーん!」
先を歩いていたレナが振り返った。
「早くー!」
「ああ! 今行く!」
圭一は慌てて駆け出した。
その背後では、ダム湖が相変わらず静かな水面を湛えていた。
まるで。その底へ沈んだものを、誰にも見せまいとするかのように。