テストは実験も兼ねつつ、なんとか一晩で勉強をやってのけた。手ごたえはそれなりだった。東京にいた頃よりは出来が悪いかもしれないが、圭一は成績を特段気にする事はなかった。それよりも、目下悩みの種なのは、魅音についてだ。
あの日から、もう四日が経っていた。
映画を見て、昼食を食べ、ゲームセンターで遊び、書店に立ち寄った。振り返ってみれば、実に楽しい一日だった。魅音も終始上機嫌で、圭一自身、また二人で出かけてもいいと思っていた。
それなのに、最後の最後で台無しにしてしまった。
川沿いで魅音が何かを言いかけた、その瞬間。詩音からの緊急連絡が入り、街ではあの怪物が暴れ始めた。圭一は魅音にろくな説明もできないまま、その場を飛び出してしまったのだ。
無論、後悔はしていない。
もしあそこで駆けつけなければ、あの化け物によって何人もの人間が危険に晒されていたかもしれない。圭一が動いたことには、少なくともそれだけの理由があった。
しかし、それはあくまでも圭一の事情である。
何も知らない魅音にとっては、どうだったのだろうか。
あれほど楽しそうにしていた彼女を、理由も告げずに置き去りにした。おまけに、その後は試験勉強やら妙な事件やらで忙しく、まともに顔を合わせる機会さえなかった。昨日も二年生と三年生では試験の教室が違い、結局会えずじまいである。
圭一は答案を提出すると、椅子の背もたれに身体を預け、長々と息を吐いた。
「……はぁ」
「何よ、圭一くん。そんなに難しかった?」
隣の席から声をかけてきたのはレナだった。試験終了の合図とともに、教室には解放感に満ちたざわめきが広がっている。机に突っ伏す者、友人と答え合わせを始める者、早くも鞄をまとめて帰ろうとする者。午前中で全日程が終わったこともあって、皆の表情は明るかった。
「いや、テストはまあまあだ。それより、ちょっと考え事をな」
「考え事?」
「ああ。まあ、大したことじゃねえよ」
「ふぅん……?」
レナは不思議そうに首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「そうだ、圭一くん。今日、みんなで集まるんだよね? 魅ぃちゃんも三年生の試験、もう終わる頃だと思うよ」
「……おう。そうだったな」
魅音の名前を聞いた途端、圭一は思わず窓の外へ目を向けた。
興宮総合学園の新校舎は、ダム建設以降の人口増加に合わせて整備された比較的新しい建物である。廊下は広く、教室の窓も大きい。外には整備された運動場が広がり、その向こうにはかつての校舎が建っていた。詩音が通う旧校舎とは渡り廊下で繋がっているが、学年や課程によって使用する教室は分けられている。
考えてみれば、詩音とはこの数日で何度も話しているのに、魅音とはろくに話せていない。
それが余計に、圭一の胸を重くしていた。
「……よし」
「どうしたの、圭一くん?」
「いや、何でもねえ。ちょっくら腹を括っただけだ」
「はぅ?」
圭一は勢いよく立ち上がると、鞄を肩に引っ掛けた。
「さあて! 長かった試験もこれでおしまいだ! 我ら部活メンバーの華々しい再会といこうじゃねえか!」
「わ、圭一くん、急に元気になった!」
「ふっふっふ。試験の束縛から解き放たれた前原圭一は、もはや誰にも止められねえぜ!」
「でも圭一くん、前に試験が全然できなかったって言ってなかったかな?」
「昨日のことは忘れろ!!」
レナの無邪気な一言が、圭一の胸を容赦なく抉った。
集合場所は、新校舎一階の昇降口前だった。
圭一とレナが階段を下りていくと、既に沙都子と梨花が待っていた。沙都子は試験が終わった喜びを全身で表現するかのように大きく伸びをしており、梨花はその隣で静かに微笑んでいた。小学生組はどうやら、全国学力調査とかでそっちも試験だったらしい。
「あら、圭一さん! ようやくいらっしゃいましたわね!」
「おう、沙都子! どうだった、テストの出来は?」
「をーっほっほっほ! このわたくしにかかれば、あの程度の問題など朝飯前でしてよ!」
「ほほう。じゃあ、昨日あれだけ算数を教えてくれと騒いでいたのは誰だったかなぁ?」
「そ、それは! 圭一さんの勉強があまりにも心配でしたので、わたくしが付き合って差し上げただけですわ!」
「みぃ。沙都子は昨日、分数の問題で泣きそうになっていたのです」
「梨花ぁっ!?」
圭一とレナが笑い出す。沙都子は顔を真っ赤にして抗議したが、梨花は相変わらず涼しい顔をしていた。
そんな、いつも通りの騒がしいやり取りだった。
しかし、圭一の視線は何度か階段の方へ向いていた。
「……あれ? そういや、魅音は?」
「魅ぃちゃんなら、そろそろ来ると思うよ」
レナがそう答えた直後、階段の方から聞き慣れた声が響いた。
「おーい! みんなー!」
振り向くと、制服を着た魅音が手を振りながら駆け寄ってきた。
「いやー、やっと終わったよ! まったく、試験なんてものは人類最大の発明であると同時に、人類最大の失敗だね!」
「何を言ってんだ、お前は」
「おっ、圭ちゃん! 久しぶりじゃん!」
魅音は快活に笑った。その笑顔を見た瞬間、圭一は少しだけ安心した。少なくとも、露骨に避けられているわけではないらしい。
「おう。四日ぶりくらいか?」
「そうだねぇ。試験期間って学年が違うと、ほんっと会わないもんだね」
「まったくだぜ。お前がいないと、俺の活躍を正当に評価できる人間がいなくて困る」
「おやおや? 圭ちゃん、随分な自信だねぇ。昨日の試験は散々だったって聞いたけど?」
「何で知ってんだよ!?」
「ふっふっふ。部長の情報網を甘く見ちゃいけませんなぁ」
魅音は得意げに胸を張った。普段と変わらない。少なくとも、そう見えた。
だが、圭一はふと気づいた。
魅音の鞄に、小さなぬいぐるみがついている。四日前、ゲームセンターで圭一が取ってやったものだった。
あの日、魅音はずっと大切そうに抱えていた。いつの間にか鞄に取り付けたらしく、彼女が動くたび、小さなぬいぐるみが左右に揺れている。
「……あ」
圭一が思わず声を漏らすと、魅音もその視線に気づいたらしい。
「……ん?」
彼女は鞄を見下ろした。
そして、圭一が何を見ているのか理解した途端、わずかに頬を染めた。
「……な、何さ」
「いや、それ……」
「べ、別にいいじゃん。せっかく取ってもらったんだからさ」
「ああ。そうだな」
圭一は小さく笑った。
「……似合ってるぜ」
「っ……!」
魅音は一瞬、目を丸くした。
「……そ、そりゃどうも」
彼女は照れ隠しなのか、ぬいぐるみを指先で弄ぶと、すぐに顔を逸らした。
「さ、さーて! みんな揃ったことだし、どっか行こうか! せっかく試験も終わったんだし!」
「賛成ですわ! わたくし、今日は思いっきり遊びますの!」
「はぅ! レナも賛成!」
「みぃ。ボクも遊びたいのです」
四人の声が重なった。
魅音は満足げに頷き、早速今日の予定を話し始めた。ゲームセンターへ行くか、買い食いをするか、それともどこかで昼食を取るか。沙都子とレナはそれぞれ好き勝手な案を出し、梨花はその様子を楽しそうに眺めている。
いつもの光景。
圭一にとって、雛見沢へ来てから当たり前になりつつある時間だった。
だからこそ、ここで目を逸らしてはいけない。
「……なあ、魅音」
「ん? 何、圭ちゃん?」
「ちょっと、話せるか?」
「……え?」
魅音の声が、僅かに上擦った。
「いや、その……この前のことでさ。少し、二人で話したいんだが…」
その瞬間、魅音の表情が変わった。
ほんの一瞬だけ、何かを期待するように目を見開く。しかし、すぐにいつもの笑顔に戻った。
「……あ、ああ。うん、いいけど」
「あの、圭一くん?」
レナが遠慮がちに口を挟んだ。
「それじゃあ、レナたちは先に行ってた方がいいかな?」
「悪いな。そんな長くはならねえと思う」
「ううん。大丈夫だよ。ね、沙都子ちゃん?」
「仕方ありませんわねぇ。では、わたくしたちは先に興宮の商店街へ向かっていますわ!」
「みぃ。二人とも、ゆっくり話してくるのですよ」
梨花はそう言って、圭一と魅音を交互に見た。
その眼差しが、圭一には少しだけ意味深に見えた。
「……何だ、梨花ちゃん?」
「何でもないのです。にぱー☆」
梨花は笑うと、沙都子の手を引いて歩き出した。レナも二人の後を追い、途中で一度だけ振り返る。
「それじゃ、また後でね!」
「おう!」
三人の姿が廊下の向こうへ消える。
途端に、先ほどまでの騒がしさが嘘のように遠のいた。
圭一と魅音は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
「……で、どこで話す?」
先に口を開いたのは魅音だった。
「そうだな……屋上でも行くか。今なら誰もいねえだろ」
「屋上?」
「ああ。別に、ここでもいいけどさ」
「……ううん。屋上でいいよ」
魅音は小さく頷いた。
新校舎の屋上に出ると、五月の風が二人を迎えた。
校舎の最上階からは、興宮の街並みがよく見渡せた。大通りに沿って中層のビルが立ち並び、その隙間には古い商店や住宅街が広がっている。さらに遠くには、雛見沢へと続く緑の山々が連なっていた。
旧校舎の屋上とは、随分違う景色である。
圭一は以前、詩音と旧校舎で話した時のことを思い出した。あの時は化け物の正体や事件の手掛かりについて頭を悩ませていたが、まさか今日は、その姉とこうして向かい合うことになるとは思わなかった。
もっとも、今回の問題は怪物よりも遥かに手強いかもしれない。
二人はフェンスの近くまで歩いた。
校庭からは、試験を終えた生徒たちの声が聞こえてくる。帰宅する者、部活動へ向かう者、友人と談笑する者。どこまでも平穏な、ありふれた昼前の光景だった。
「……それで?」
魅音が先に口を開いた。
「話って、何?」
圭一は一度息を吸った。
「……この前は、悪かった」
魅音が瞬きをした。
「あの日さ。せっかく一緒に出かけたのに、途中でいなくなっちまって」
「……ああ」
魅音はようやく思い当たったように頷いた。
「なーんだ。そのこと?」
「そのことって……お前な」
「いやいや、そんなに気にしなくていいって! ほら、街の方で何かあったみたいだしさ。圭ちゃんにも事情があったんでしょ?」
「……まあな」
「だったらいいじゃん。おじさん、別に怒ってないよ?」
魅音は笑った。
普段と同じような、少し豪快な笑い方だった。
けれど、圭一はそれを見て、どうにも納得できなかった。
「……本当に?」
「え?」
「怒ってねえのか?」
「だから、怒ってないってば」
「じゃあ、悲しくもなかった?」
魅音の笑顔が止まった。圭一は目を逸らさなかった。
「……あの日、お前、何か言いかけてただろ」
「っ……!」
魅音の肩が小さく跳ねた。
「な、何のことかなぁ?」
「とぼけんなって。俺だって覚えてるぜ」
「……そ、そう」
「何を言おうとしてたのかは分かんねえけどさ……大事な話だったんじゃねえのか?」
魅音は答えなかった。代わりに、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
圭一は言葉を続けた。
「それなのに、俺は最後まで聞かずに飛び出しちまった。しかも、その後も全然話せてねえ」
「……」
「だから、ちゃんと謝っときたかったんだ。悪かった、魅音」
圭一が頭を下げると、魅音は慌てて手を振った。
「ちょ、ちょっと! 圭ちゃん、そこまでしなくても!」
「いや、けじめってやつだよ」
「……もう」
魅音は困ったように笑った。
「圭ちゃんってさ、変なところで真面目なんだから」
「変とは何だ、変とは」
「だって圭ちゃんは、いつもはあんなに馬鹿なことばっかり言ってるじゃん」
「おいおい。俺の知的で高尚な会話を理解できねえとは、困った部長さんだぜ」
「ははは、圭ちゃんのほうこそ、おじさんトークについていけてないじゃん」
いつもの軽口が戻った。
しかし、今度は魅音の笑顔も、どこか自然なものになっていた。
彼女はしばらく校庭を眺め、それからぽつりと呟いた。
「……でもさ」
「ん?」
「ちょっとだけ、寂しかったかな」
圭一は黙って魅音を見た。
「映画も楽しかったし、ゲームセンターも面白かったし……おじさん、あんなふうに圭ちゃんと二人で出かけるの、初めて…だったからさ」
「ああ」
「だから、最後まで一緒にいたかったなーって」
魅音は笑おうとした。しかし、今度はうまく笑えなかったらしい。
「……それだけ」
その声は、普段の彼女からは想像できないほど小さかった。
圭一はフェンス越しに街を眺めた。四日前の夕暮れが、ふと頭をよぎる。あの時、もし事件が起きなかったら。
魅音は何を言ったのだろう。
何と答えただろう。
考えても分からない。ただ一つだけ、分かることがあった。
「……俺も、楽しかったぜ」
「……え?」
「お前と二人で出かけんの。結構、楽しかった」
魅音は顔を上げた。
「映画も面白かったし、ゲームセンターじゃお前に散々やられたしな。まあ、そこは次回の雪辱を誓うとして」
「……あはは」
「だからさ、また行こうぜ」
「……また?」
「ああ。今度は、最後までちゃんとな」
魅音はしばらく圭一を見つめた。
そして、ゆっくりと目を伏せた。
「……そっか」
その表情に、ようやく安堵の色が浮かんだ。
だが、彼女はそこで何かを思い出したらしい。
「あのさ、圭ちゃん」
「ん?」
「……もう一つ、聞いてもいい?」
「おう。何でも来い」
「……最近、ずっと詩音と仲いいよね」
「…………は?」
あまりにも唐突な話題に、圭一は間の抜けた声を漏らした。
「何だよ、いきなり」
「いや、ほら。最近、よく一緒にいるみたいだし」
「まあ、そりゃ……」
「詩音もさ、圭ちゃんのこと、色々知ってるみたいだから」
圭一は思わず口を閉じた。
詩音が知っていること。
それは、魅音が想像するより遥かに多い。
仮面や覆面を被って街を駆け回っていたことも、鉄平という怪物と戦ったことも、そして圭一が人知れず糸の研究を続けていることも。
すべて、詩音は知っている。
だが、だからといって、それを魅音に話すわけにはいかなかった。
「……まあ、色々と話すことはあるけどな」
「……色々?」
「お、おう」
「ふぅん……」
魅音の声が、少し低くなった。
圭一はようやく気づいた。
「……おい、まさかお前」
「な、何さ」
「俺と詩音が、その……付き合ってるとか思ってんのか?」
「っ!?」
魅音の顔が一瞬で真っ赤になった。
「ばっ、馬鹿! 誰もそんなこと言ってないでしょ!?」
「いやいや! 今の話の流れなら、そうなるだろ!」
「だ、だから違うってば! おじさんはただ、最近仲がいいなーって思っただけで!」
「そんな関係じゃねえって!」
圭一は思わず声を張り上げた。
「詩音とは別に、そういうんじゃねえよ。何つーか……まあ、気の合う奴っていうか、協力してもらってることがあるっていうか……」
「……協力?」
「……あ」
しまった。圭一は内心で頭を抱えた。また余計なことを言ってしまった。
「何の協力?」
「い、いや、その……色々だよ。ほら、詩音って何だかんだ面倒見がいいだろ?」
「……」
「と、とにかく! お前が考えてるような関係じゃねえって!」
魅音は黙っていた。いつもなら、ここでからかうような言葉の一つでも飛んできそうなものだった。
しかし、彼女は何も言わない。
「……魅音?」
「……ほんとに?」
顔を上げた魅音を見て、圭一は言葉を失った。彼女は、笑っていなかった。少しだけ潤んだ目で、まっすぐ圭一を見つめている。
そこにあったのは怒りでも、いつもの勝ち気な態度でもない。ただ、どうしても確かめておきたいことがあるのだという、切実な眼差しだった。
「……本当に、そういうんじゃないの?」
圭一は一度、口を開きかけた。しかし、すぐに閉じた。ここで軽口を叩いてはいけない。何となくではあるが、それくらいは分かった。
「……ああ。本当だ」
圭一は、はっきりと答えた。魅音はしばらくその顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……そっか」
「おう」
「……よかった」
その一言が、圭一の胸に残った。魅音は慌てて付け加えた。
「あ、いや! 別に変な意味じゃないからね!? ほら、詩音って昔からああいうところあるしさ! 圭ちゃんが変なことに巻き込まれてないか、おじさん心配だっただけで!」
「……へえ?」
「な、何よ!」
「いや、別に?」
圭一は思わず笑いそうになった。だが、ここで笑ったら間違いなく怒られる。そう判断して、どうにか堪えた。
その代わり、少しだけ気になったことを尋ねた。
「……なあ、魅音」
「ん?」
「お前、何でそんなに気にしてたんだ?」
「っ……!」
魅音が固まった。
「そ、それは……」
「いや、別に無理に答えなくてもいいけどさ」
「……」
魅音は俯いた。鞄についたぬいぐるみが、風に揺れている。彼女はそれを見つめながら、何度か口を開こうとした。
しかし、そのたびに言葉が途切れた。圭一は急かさなかった。四日前と同じだった。
いや、今度こそ最後まで聞こうと思っていた。
「……圭ちゃん」
「おう」
「おじさんさ、あの日……本当に楽しかったんだ」
「……ああ、それ何度も聞いた」
「圭ちゃんといると、何だか調子が狂っちゃうんだよね。いつもは部長としてみんなを引っ張ってるつもりなのに、圭ちゃんと二人になると……何ていうか」
魅音は困ったように笑った。
「……うまく言えないや」
「珍しいな。お前が口喧嘩で負けるなんて」
「もう、茶化さないでよ」
「悪い悪い」
魅音は小さく息を吸った。そして、意を決したように顔を上げた。
「……おじさんね」
「うん」
「これからも、圭ちゃんの隣にいたいんだ」
圭一は目を見開いた。魅音の指が、鞄の持ち手を強く握る。
「部活でも、学校でも……その、また二人で出かけたりとかさ。圭ちゃんと、もっと色んなことしてみたいなって」
「……魅音」
「でも……」
魅音は一度、言葉を止めた。その頬は赤い。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「……それって、迷惑かな?」
風が吹いた。遠くの街から車の走る音が聞こえる。圭一はすぐに答えることができなかった。
それがどういう意味を持つ言葉なのか、分からなかったわけではない。
四日前の夕暮れ。あの時、魅音が言いかけた言葉。今なら、その続きが少しだけ分かる気がした。
だが、圭一自身はどうなのだろう。魅音のことは好きだ。
一緒にいると楽しいし、くだらないことで張り合う時間も好きだった。強気なくせに時々妙に照れ屋で、皆の前では頼れる部長なのに、二人になると途端に調子を狂わせる。
そんな魅音を、圭一は大切に思っていた。
しかし、それが彼女の望んでいる答えと同じものなのか。
そこまでは、まだ分からなかった。
だからこそ、圭一は今言えることを、きちんと伝えようと思った。
「……何言ってんだよ」
「……え?」
「迷惑なわけねえだろ」
魅音の目が大きく開いた。
「俺だって、お前と一緒にいるのは楽しいぜ。部活だってそうだし、四日前だってそうだった」
「……」
「それに、お前がいなきゃ誰が俺に勝負を挑んでくるんだよ。沙都子の罠ばっかり相手してたら、俺の頭脳が退屈しちまうぜ」
「……あはは。何それ」
「お前こそ何だよ。そんなこと、わざわざ聞くまでもねえだろ?」
圭一は笑った。
「これからも一緒に遊ぼうぜ。次の休みだって、都合が合えばどっか行こう」
「……ほんと?」
「ああ。ただし、今度のゲームセンターじゃ俺が勝つからな!」
「ふふっ……何言ってんのさ。圭ちゃんじゃ、おじさんにはまだまだ勝てないって!」
ようやく魅音が笑った。その笑顔を見て、圭一もほっとした。
しかし、魅音はすぐに表情を改めた。
「……でもさ、圭ちゃん」
「ん?」
「また、急にいなくなっちゃったり……しない?」
その問いに、圭一は言葉を詰まらせた。できることなら、もう二度とそんなことはしないと言いたかった。
けれど、約束できない。
圭一の知らないところで、いつまた誰かが危険な目に遭うかもしれない。あの鉄平のような怪物が、再び興宮に現れる可能性だってある。
もしそうなったら、圭一はきっと駆けつけるだろう。
たとえ、目の前に魅音がいたとしても。
だから、できない約束だけはしたくなかった。
「……絶対に、とは言えねえ」
魅音がわずかに目を伏せた。圭一は続けた。
「また、どうしても行かなきゃならねえことがあるかもしれない。でもさ」
「……うん」
「黙っていなくなって、それっきりなんてことはしねえよ。ちゃんと、お前に話す。話せることは、全部な」
魅音は顔を上げた。
「……圭ちゃん」
「だから、あんまり心配すんな」
圭一は照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「俺も、もうちっと考えて行動するようにするからさ」
「……ふふっ」
魅音は小さく笑った。
「圭ちゃんがそれ言う?」
「な、何だよ!」
「だって、圭ちゃんって思い立ったらすぐ行動するじゃん。部活でもそうだしさ」
「ぐっ……反論できねえ!」
「……でも」
魅音は、ほんの少しだけ圭一に近づいた。
「……ありがと」
その声は小さかったが、圭一にははっきりと聞こえた。
「……おう」
二人は並んで街を眺めた。
五月の陽射しが、校舎の屋上を明るく照らしている。
試験の終わった午前。
いつもなら、今頃はくだらない勝負でも始めていたかもしれない。
しかし今は、こうして何も話さずにいる時間が、不思議と居心地よかった。
魅音は横目で圭一を見た。
四日前、言えなかった言葉。
今日も結局、その続きを言うことはできなかった。
けれど、少しだけ前へ進めたような気がした。
少なくとも、圭一の隣にいたいと伝えることはできた。そして圭一は、それを迷惑だとは思わないと言ってくれた。
今は、それだけで十分だった。
――そのはずだった。
「……はぁ」
不意に、背後から小さな溜息が聞こえた。
「……ん?」
圭一が振り返る。屋上には二人しかいないはずだった。しかし、出入口の扉の陰から、何やら人の気配がする。
「……おい、魅音」
「何?」
「今、誰かいなかったか?」
「え?」
圭一は扉の方へ目を向けた。
すると、その向こうから、聞き覚えのある声がした。
「……まったく、うちのお姉は」
圭一の眉が跳ね上がった。
「……あ?」
「四日前もあれだけ頑張って、今日もここまで来て……それで結局、そこ止まりですかぁ」
「……詩音?」
「っ!?」
魅音が勢いよく振り向いた。扉の陰から、見慣れた緑色の髪がひょっこりと現れる。
「はろろーん。お二人とも、仲睦まじいことで」
詩音はにっこりと笑った。
「……し、詩音!?」
魅音の声が裏返った。
「何であんたがここにいるのよ!?」
「何でって、旧校舎の方も試験が終わったんですよ。せっかくだからお姉たちと合流しようと思いまして」
「だったら普通に来ればいいでしょ!?」
「いやぁ、屋上へ上がってきたら、何やらいい雰囲気だったもので。お邪魔しちゃ悪いかなぁって」
「だったら最後まで黙ってなさいよ!!」
魅音が真っ赤になって叫んだ。詩音は涼しい顔で笑っている。
「でも、お姉?」
「な、何!」
「そこまで言ったんなら、もう一歩踏み込めばよかったじゃないですか。『圭ちゃんの隣にいたい』だなんて、ほとんど告白みたいなものじゃないですかぁ」
「こっ……!?」
魅音の顔が、さらに赤くなった。
「し、詩音んんんっ!!」
「きゃー、怖い怖い」
詩音はわざとらしく肩を竦めた。圭一は二人を交互に見た。
「……おい、詩音。お前、いつから聞いてたんだ?」
「そうですねぇ……『最近、詩音と仲いいよね』のあたりでしょうか」
「ほとんど全部じゃねえか!!」
「いやぁ、偶然ですよ、偶然」
「絶対嘘だろ、それ!」
圭一の抗議にも、詩音は笑うばかりだった。
もっとも、彼女が最初から覗き見をするつもりだったわけではない。試験後に圭一たちと合流しようと新校舎へ来たところ、ちょうど二人が屋上へ向かうのを見かけたのだ。
そこで、ほんの少し好奇心が勝ってしまった。
その結果、姉がようやく自分の気持ちを口にする場面に遭遇したのである。
しかし、詩音としては少々物足りなかった。
せっかく四日前にあれほど勇気を出していたというのに、今回も肝心な一言は口にできなかったのだから。
「それにしても、お姉も案外可愛らしいところがあるんですねぇ」
「う、うるさい!」
「『これからも圭ちゃんの隣にいたいんだ』……ですって。いやぁ、私まで胸がいっぱいになっちゃいました」
「やめてぇえええ!!」
魅音は頭を抱えた。圭一も頬を掻きながら苦笑する。
「……まあ、何だ。あんまりからかってやるなよ、詩音」
「おや?」
詩音が目を細めた。
「圭ちゃん、お姉を庇うんですか?」
「いや、だってよ……」
「ふふっ。なるほどなるほど。そういうことですかぁ」
「何がだよ!」
「いえいえ、何でもありませんよ?」
詩音は楽しそうに笑った。
その笑顔に、圭一は嫌な予感を覚えた。
詩音がこういう顔をする時は、大抵ろくなことにならない。
「でも、圭ちゃん」
「……何だ?」
「お姉には随分お優しいんですねぇ。私の時とは大違いじゃないですか」
「は?」
「だって、私とは秘密のお話ばっかりですし。たまには私とも、こうしてゆっくりお話ししたいものです」
「……おいおい」
圭一は思わず額に手を当てた。その言い方は、どう考えても誤解を招く。案の定、魅音がぴくりと反応した。
「……また秘密?」
「あら、お姉。気になります?」
詩音は笑みを深めた。
「圭ちゃんと私、最近は色々と一緒にやってるんですよ。ねぇ、圭ちゃん?」
「お、おい! 変な言い方すんなって!」
「変? 私は何も変なこと言ってませんよ?」
「いや、お前、分かってて言ってるだろ!?」
「ふふふ。さあ、どうでしょう?」
詩音は楽しそうに笑うと、圭一の右腕に手を添えた。
「それじゃあ、圭ちゃん。せっかく試験も終わったことですし、私と一緒にお昼でもいかがです?」
「へ?」
「葛西にお願いすれば、車も出してもらえますし。美味しいお店、知ってますよ?」
「いや、俺はこの後みんなと――」
「……ちょっと」
背後から、低い声がした。圭一が振り向くと、魅音が笑っていた。
ただし、妙に引き攣った笑顔だった。
「……詩音?」
「はい?」
「圭ちゃんは、おじさんたちと一緒に遊ぶ約束があるんだけど?」
「あら、そうでしたか。それは残念」
詩音はまったく残念そうではなかった。
「でも、お姉。圭ちゃんが誰とお昼を食べるかは、圭ちゃん自身が決めることですよ?」
「ぐっ……」
「それに、私にも圭ちゃんとお話ししたいことがありますし」
「……」
「ねぇ、圭ちゃん?」
「お、おう……?」
圭一は思わず頷きかけた。
その瞬間。
「圭ちゃん!」
魅音が左腕を掴んだ。
「へ?」
「おじさんと帰ろ!」
「えっ、ちょっ……!」
魅音は圭一の腕を自分の方へ引き寄せた。詩音がにっこりと笑う。同時に詩音も圭一の左腕を掴む。
「あらあら。お姉、随分強引ですねぇ」
「あんたが先に腕を掴んだんでしょ!」
「私はただ、お誘いしただけですよ?」
「だったら離しなさいよ!」
「お姉こそ、そんなに圭ちゃんを独占しなくてもいいじゃないですか」
「ど、独占って……!」
魅音は言葉を詰まらせた。詩音はすかさず畳みかける。
「それとも、圭ちゃんはお姉のものなんですかぁ?」
「っ……!」
魅音の顔が真っ赤になった。
「そ、それは……!」
「ふふっ。どうなんです?」
「う、うるさいっ!」
魅音は勢いよく圭一の腕を引いた。
「圭ちゃんは私の物!!」
「……へ?」
圭一が間抜けな声を漏らした。詩音は一瞬、目を丸くした。
そして次の瞬間、堪えきれないように吹き出した。
「ぷっ……あははははっ!」
「な、何がおかしいのよ!」
「い、いえ……! いやぁ、お姉、やればできるじゃないですか!」
「はぁ!?」
「でも残念ですねぇ。圭ちゃんはまだ、お姉の恋人じゃないでしょう?」
「ぐっ……!」
魅音が固まった。詩音はにこにこと笑いながら、圭一の右腕を引き寄せる。
「なら、私にもチャンスはあるってことですよねぇ?」
「なっ……!」
「ねぇ、圭ちゃん?」
「いや、ちょっと待て! 何の話だよ!?」
「圭ちゃんは黙ってて!」
「圭ちゃんは少し待っててくださいね?」
「何で俺が黙らなきゃなんねえんだよ!?」
しかし、二人はまったく聞いていなかった。
「ほら、圭ちゃんはこっち!」
「いえいえ、こっちですよ」
「詩音! 離しなさいって!」
「お姉こそ、そんなに強く引っ張ったら圭ちゃんが困るじゃないですか」
「そう言うあんたが引っ張ってるんでしょ!?」
「ちょっ、お前ら!?」
圭一の身体が左右に揺れた。
普段なら、人間二人に腕を引っ張られた程度でどうにかなる身体ではない。何しろ、あの怪物の突進を相手にして、どうにか生き延びたのである。
しかし、だからといって、二人を力任せに振りほどくわけにもいかない。
圭一は両腕を引かれるまま、屋上の真ん中で情けなく右往左往する羽目になった。
「お、おい! 腕! 腕が!!」
「圭ちゃんはこっち!」
「いえ、こっちです!」
「待て待て待て! 二人とも落ち着けって!!」
「そもそも詩音! あんた、何でいっつもそうやっておじさんの邪魔するのよ!」
「邪魔だなんて人聞きの悪い。私はお姉の恋を応援しているだけですよ?」
「どこがよ!!」
「だから、ちゃんと告白できるように背中を押してあげてるんじゃないですかぁ」
「余計なお世話ぁぁぁ!!」
詩音は愉快そうに笑った。魅音は今にも湯気が出そうなほど顔を赤くしている。
そして圭一は、二人に挟まれながら、ただただ天を仰いだ。
「だああああっ!! 頼むから俺を引っ張り合うなぁぁぁ!!」
試験終了の解放感に包まれた校舎に、圭一の悲鳴が響き渡った。結局、騒ぎが収まったのは、それからしばらく経ってからだった。
魅音と詩音はなおも言い合いを続けていたが、圭一が本気で怒ったところで、ようやく二人とも手を離した。
「ったく……何だってお前ら姉妹は、こうなると揃いも揃って人の話を聞かねえんだ……」
圭一は疲れ果てた様子で肩を落とした。
「ふふっ。すみませんねぇ、圭ちゃん」
「絶対反省してねえだろ、お前」
「さあ、どうでしょう?」
「こいつ……!」
詩音は悪戯っぽく笑った。一方、魅音はまだ頬を赤くしていた。
「……ふんっ」
「あら、お姉。まだ怒ってるんですか?」
「怒ってない!」
「そうですか。では私はそろそろ失礼しますね。旧校舎の方に荷物も残してありますし」
詩音は軽く手を振ると、屋上の扉へ向かった。
しかし、扉に手をかけたところで、ふと思い出したように振り返った。
「……あ、そうそう。圭ちゃん」
「何だよ、まだあるのか?」
「お姉のこと、よろしくお願いしますね」
圭一は目を瞬かせた。その一言だけは、先ほどまでのからかうような調子とは少し違っていた。
「……おう」
圭一が頷くと、詩音は満足げに笑った。
「それじゃ、ごゆっくり」
扉が閉まる。屋上には再び、圭一と魅音の二人だけが残された。
「……まったく、あいつは」
圭一が呆れたように呟くと、魅音も小さく溜息をついた。
「ほんっと、昔からああなんだから……」
「お前も大概だったけどな」
「うっ……」
魅音が言葉に詰まった。
「そ、それは……その……」
「『圭ちゃんは私の物』、だったか?」
「~~~~っ!!」
魅音は両手で顔を覆った。
「わ、忘れて! 今すぐ忘れて!!」
「いやぁ、あそこまで堂々と言われちゃ、忘れる方が難しいぜ?」
「圭ちゃんの馬鹿ぁ!!」
魅音が軽く圭一の肩を叩いた。圭一は笑った。魅音も、最初こそ恥ずかしそうにしていたが、やがてつられるように笑い始めた。
二人の笑い声が、五月の空に広がった。ひとしきり笑った後、圭一は屋上の時計に目を向けた。
「……おっと。そろそろ行かねえとな。レナたち、待ってるだろうし」
「あ、うん。そうだね」
二人は並んで扉の方へ歩き始めた。
その途中、魅音が小さく圭一を呼び止めた。
「……ねえ、圭ちゃん」
「ん?」
「……さっきの話、覚えてる?」
「さっき?」
「その……詩音が来る前の」
圭一は少しだけ考えた。
そして、頷いた。
「……ああ。覚えてるぜ」
「……そっか」
魅音は嬉しそうに笑った。
「じゃあさ、今度のお休み……本当に、また二人で出かけようね」
「おう。約束だ」
「……うん!」
魅音は大きく頷いた。
それから、鞄についた小さなぬいぐるみに、そっと指を触れた。
四日前。
あの日、圭一が突然いなくなった後も、魅音はこのぬいぐるみを手放せなかった。
楽しかった時間を思い出すたびに、最後の寂しさまで蘇ってしまう。それでも、鞄につけておきたかった。
けれど、今は違う。
また圭一と二人で出かけられる。
その約束ができた。
それだけで、あの日の思い出が、少し違ったものに変わったような気がした。
「……ふふっ」
「ん? どうした、魅音?」
「ううん。何でもない」
魅音は笑った。
「……さ、行こっか! 圭ちゃん!」
「おう!」
二人は屋上を後にした。
階段を下りながら、圭一は隣を歩く魅音をちらりと見た。
四日前、彼女が言いかけた言葉。
今日、彼女が伝えてくれた言葉。
そのどちらも、圭一の胸には残っていた。
まだ、それにどんな答えを出せばいいのかは分からない。
ただ、今度こそ彼女との約束を守りたいと思った。
そして、魅音もまた、圭一の隣を歩きながら、同じようにこれからのことを考えていた。
告白はできなかった。
けれど、四日前とは違う。
今度は、自分の気持ちを少しだけ伝えられた。
その先に何が待っているのかは、まだ分からない。
それでも、魅音はもう一度、勇気を出してみようと思った。
少なくとも、次に二人で出かける時には。
「……あ、そうだ。圭ちゃん」
「何だ?」
「今度のお出かけ、どこ行こっか?」
「おいおい、気が早いなぁ!」
「いいじゃん! 今から決めといたって!」
「ふっふっふ。じゃあ、今度こそゲームセンターで俺の完全勝利を――」
「却下!」
「早えよ!!」
二人の笑い声が、人気の少なくなった校舎に響いた。
午前の陽射しは、まだ明るい。
そして、二人の恋路もまた、ようやくその先へと続き始めたのだった。
<雑談>
この世界線だったら、案外ハーレムルートも目指せるんじゃないか……? などと、無責任なことを考えている作者です(笑)。
もっとも、レナの地雷や魅音の独占欲、さらにカオスにさせる詩音。などなどを考えると、ハーレムルートなんて猛禽類と猛獣を同時に飼い慣らすようなものですが……。
しかし! 今の圭一には、あのスパイダーマンの身体能力があります!
超人的な怪力、反射神経、そして危険を察知するスパイダーセンス!
これなら、どんな修羅場が待ち受けていようとも、何とか乗り切れるのでは……?
……いや、待てよ。
そもそもスパイダーセンスって、恋愛の修羅場にも反応するんでしょうかね?(笑)