「……というわけで、圭ちゃん。お待たせしました」
休日の昼下がり。圭一が招かれていたのは、興宮にある園崎家の屋敷だった。いや、正式に言えば屋敷というより事務所に近いんだろうか。圭一はあまりヤクザ事情は知らないし、知る必要もない。圭一は「お前の家で集まるのはダメなのか?」と詩音に聞けば、
「いいですか?いきなり、乙女の家に押しかけるなんて失礼ですよ」
なんて返された。
広々とした応接間には、磨かれた木製のテーブルと、ゆったりとしたソファが置かれている。窓からは手入れの行き届いた庭が見え、壁に掛けられた時計が規則正しく時を刻んでいた。以前にも訪れたことはあるが、圭一はいまだにこの部屋の広さに慣れなかった。東京に住んでいた頃も、それなりに大きな家を見る機会はあった。しかし、園崎家の屋敷には、単に金持ちというだけでは片づけられない独特の重々しさがある。その一角で、詩音は数枚の紙をテーブルへ並べていた。
「葛西にお願いしていた調査なんですけど、少しだけ分かったことがあります」
「おおっ! そいつは朗報だな!」
圭一は身を乗り出した。
「それで、どうだった? あの鉄平って野郎、何か分かったのか?」
「まあまあ、圭ちゃん。そう焦らずに」
詩音は苦笑すると、紙の一枚を指先で押さえた。
「まず、お金の話からしましょうか」
「金?」
「ええ。北条鉄平は以前からあちこちで借金をしていたそうなんです。仕事も長続きしなかったみたいですし、あまり評判のいい人ではなかったそうですよ」
「……まあ、何となく想像はつくな」
圭一はあの男の姿を思い出した。大柄で、威圧的で、何より異様な姿へと変貌していた男。初めて会った時の印象は、決して良いものではなかった。
「でも、妙なのはここからです」
詩音は次の紙に目を移した。
「三か月ほど前、鉄平が借金をまとめて返済したという話があるんです」
「……三か月前?」
「ええ。正確な金額までは分かりませんけど、それまで滞っていた返済を一度に清算したらしくて」
圭一は眉を寄せた。
「そりゃまた……随分景気のいい話じゃねえか」
「でしょう? ところが、その頃に大きな仕事を始めたとか、宝くじに当たったとか、そういう話はないんですよ」
「……なるほどな」
圭一は腕を組んだ。借金を抱えていた男が、突然まとまった金を手に入れた。それ自体は、別にあり得ないことではない。何かを売ったのかもしれないし、知人から借り直しただけかもしれない。仕事の報酬を受け取ったという可能性もある。しかし、あの鉄平が普通では考えられない身体へ変わっていたことを思えば、どうしても気になってしまう。
「……で、その金はどっから来たんだ?」
「それが、まだ分からないんです」
詩音は小さく肩を竦めた。
「ただ、同じ頃から再開発地区で鉄平らしい人を見かけた、という証言があるそうです」
「再開発地区……?」
「はい。建設関係の仕事を紹介されたとか、そんな話もあったみたいで」
圭一は少し考えた。
「……あいつと戦った場所も、その辺りだったよな」
「ええ。だから私も気になったんです」
「なるほど。工事現場で働いてたってことか?」
「そうかもしれません。ただ、葛西さんが知り合いの会社に何件か当たってくれたんですけど、今のところ、鉄平を正式に雇っていたという話は出てこないんですよ」
「……へえ?」
圭一は紙を手に取った。そこには、葛西が調べたらしい会社名と、簡単な聞き取りの内容が並んでいる。いずれも再開発地区の工事に関わる企業だったが、鉄平の名前を確実に確認できたところはない。
「じゃあ、仕事してたって話自体が嘘なのか?」
「そこまでは言えませんね。下請けの、そのまた下請けということもありますし、個人的に仕事を頼まれていた可能性もありますから」
「……ふむ」
「でも、少なくとも変でしょう?」
詩音は紅茶を一口飲んだ。
「今まで借金ばかりしていた人が、急に大金を手に入れて、その頃から再開発地区へ出入りするようになった。そして、今度はあんな姿になって現れたんです」
「……確かにな」
「もちろん、全部が繋がっているとは限りませんけどね」
詩音はそう付け加えた。圭一も頷いた。
「……まあ、今はそう考えるしかねえよな」
「ええ。葛西には引き続き調べてもらっています。特に、仕事を紹介した人について」
「そいつが分かれば、何か手掛かりになるかもしれねえな」
「そうですねぇ」
詩音は紙をまとめると、圭一の前へ置いた。
「それから、もう一つ。鉄平、最近は以前の知り合いともあまり顔を合わせていなかったみたいなんです」
「詳しい事情は分かりません。でも、三か月前を境に、生活が随分変わったようではありますね」
圭一は背もたれに身体を預けた。三か月前。借金の返済。再開発地区。そして、あの奇妙な肉体。断片的な情報は少しずつ集まっている。しかし、肝心なところが何も繋がらない。
「……ったく、やっぱり謎だらけだな」
「ええ。本当に」
「そもそも、あいつの身体は何だったんだ? あの角だって、皮膚だか鎧だか分かんねえし……」
「圭ちゃんの身体能力も大概ですけどねぇ」
「おいおい。俺をあんな化け物と一緒にすんなよ」
「ふふっ。冗談ですよ」
詩音は笑った。圭一もつられて口元を緩めたが、すぐに真面目な表情へ戻った。
「……それにしても、よくここまで調べられたな」
「まあ、私というより葛西のおかげですけどね」
「いやいや。お前だって色々やってくれてんだろ?」
「そうですねぇ。少なくとも、圭ちゃんが昼寝してる間に足を運んだ分くらいは働いてますよ?」
「誰が昼寝してるって!こっちはこっちで、寝る間も惜しんで研究してたんだぞ」
「あらあら。それは失礼しました」
詩音は悪びれもせずに笑った。その様子を見て、圭一は呆れたように溜息を吐いた。しかし、内心では感謝していた。圭一には、園崎家のような情報網はない。研究や実験なら自分なりに考えられるが、鉄平の金の流れや過去の交友関係を調べようにも、そもそもどこへ聞きに行けばいいのか分からない。詩音がいなければ、あの戦いはただの奇妙な事件として終わっていたかもしれない。
「……ありがとな、詩音」
「……はい?」
「いや、調査だよ。色々やってくれて、助かってるぜ」
詩音は少しだけ目を丸くした。しかし、すぐにいつもの笑顔へ戻る。
「ふふっ。どういたしまして」
そう答えた後、彼女はわずかに声を落とした。
「……でも、圭ちゃん。葛西からも言われたんですけど、分かったことがあっても、私たちだけで鉄平に近づくのはやめておきましょうね」
「……そりゃ、そうだな」
「特に圭ちゃんです」
「へ?」
「圭ちゃん、何か分かったら一人で飛び出していきそうですから」
「おいおい、俺を何だと思ってんだ?」
「自分から怪物に殴りかかっていくような人、ですかねぇ」
「……ぐっ」
返す言葉がなかった。詩音はそんな圭一を見て、くすくすと笑った。
「とにかく、調査は調査、戦う時は戦う時です。ごちゃ混ぜにしちゃ駄目ですよ?」
「……へいへい」
「返事は一回!」
「はいよ」
詩音は満足そうに頷いた。ひとまず、鉄平についての報告はこれで終わりらしい。圭一はテーブルに並べられた紙へもう一度目を通してから、ソファへ深く腰掛けた。その時、ふと別のことが頭に浮かんだ。北条鉄平。その姓を、圭一は最近、別の場所でも耳にしていた。大石から聞いた話。そして、レナと出かけたダム湖での出来事。あの日から、どうにも気になっていることがあった。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「そういや、もう一つ聞きたいことがあるんだけどよ」
「何でしょう?」
圭一は少し言葉を探した。そして、詩音を見た。
「……オヤシロ様の祟りって、お前はどう思う?」
詩音の手が止まった。彼女は持ち上げかけていたティーカップを、ゆっくりと皿へ戻した。
「……祟り、ですか?」
「ああ」
「……また、急ですねぇ」
詩音は小さく笑った。しかし、その笑みは先ほどまでとは少し違っていた。
「どうしてまた、そんなことを?」
「いや……最近、何度かその話を聞くことがあってさ」
「……誰からです?」
「大石さんだよ。あの刑事さん。それと、レナからも少しな」
「……なるほど」
詩音は短く答えた。圭一は続けた。
「毎年、綿流しの時期になると誰かが死んだり、いなくなったりするんだろ?」
「……ええ」
「で、村の人たちはそれをオヤシロ様の祟りって呼んでる」
「そうですね」
「……それって、どうなんだ?」
詩音は首を傾げた。
「どう、とは?」
「いや、変じゃねえか?」
圭一は身を乗り出した。
「確かに、偶然ってこともあるだろうけどよ。何年も続けて人が死んだり消えたりするなんて、普通じゃねえだろ?」
「……」
「それに、鉄平のこともある」
詩音の表情が変わった。
「……鉄平?」
「ああ。あいつの家族にも、昔の事件に関係した人がいるって聞いたんだ。確か、北条悟史って奴も行方不明になってるんだろ?」
「……ええ」
詩音は頷いた。
「去年のことです」
「……」
「悟史くんは、ある日突然いなくなりました。今も見つかっていません」
その声は、少しだけ硬かった。圭一はそれに気づいたが、今はまだ理由を尋ねなかった。
「……だからさ。もしかして、今回の鉄平の一件と何か関係あるんじゃねえかって」
「……なるほど」
詩音はしばらく黙っていた。やがて、静かに口を開いた。
「……圭ちゃん。ダム戦争のことは、どれくらい知ってます?」
「ダム戦争?」
「ええ。雛見沢のダム建設を巡って、昔あった反対運動のことです」
「……ああ。そりゃ少しは知ってるぜ」
圭一は頷いた。
「元々、村を丸ごと沈める計画だったけど、反対運動があって縮小されたんだろ? それで、今みたいに一部がダム湖になってるって」
「はい。その通りです」
詩音は微笑んだ。
「でも、その反対運動の中心にいた人のことは知ってます?」
「……いや。詳しくは知らねえな」
「園崎お魎」
「……園崎?」
「ええ。私のお婆ちゃんです。」
圭一は目を見開いた。
「……マジかよ」
「ふふっ。マジですよ」
詩音は小さく笑った。
「昔は、とんでもなく怖い人だったんですよ。まあ、鬼婆って呼ばれるくらいですからね。国の役人だろうと建設会社の偉い人だろうと、気に入らなければ平気で怒鳴りつけるような人だったって」
「……へえ」
「雛見沢の土地は絶対に渡さないって、ずっと反対運動を続けてたそうです。私も間近で見てました」
詩音は窓の外へ目を向けた。
「でも、途中で亡くなってしまったんです」
「……」
「それが、最初の祟りでした」
圭一は黙った。最初の祟り。あのダム湖でレナが話していた、過去の怪死事件。その始まりが、園崎家の祖母。それが詩音にとってどれだけ重いことなのか。圭一は事実は知っていても、詩音の気持ちを完全に推し量るには至らなかった、だからこそ今まで聞き出すのを躊躇した。
「……病気だったのか?」
「表向きは、そういうことになってます」
「表向き?」
詩音は頷いた。
「突然倒れて、病院に運ばれて……そのまま亡くなったそうです。急な心臓の異常だったって聞いてます」
「……じゃあ、別に事件じゃねえんじゃないか?」
「そうかもしれませんね」
詩音は静かに答えた。
「でも、当時はダムの反対運動が一番激しかった頃だったんです。そんな時に、その中心人物だった鬼婆が突然亡くなったものだから……」
「……妙な噂が立ったってわけか」
「ええ」
詩音は小さく頷いた。
「建設側が何かしたんじゃないかとか、園崎家の中に裏切り者がいたんじゃないかとか。色々言われたそうですよ」
「……ひでえ話だな」
「まあ、仕方がなかったのかもしれません。当時は、みんな必死だったでしょうから」
そう言って、詩音は一度言葉を切った。
「その後、反対運動を引き継いだのが、私のお母さんでした」
「……茜さんか」
「はい」
圭一は以前に事務所の通りすがりで見た茜の姿を思い出した。堂々とした態度に、はっきりとした物言い。魅音と詩音の母親だというのも納得できる人物だった。
「お母さんは、鬼婆とは少し考え方が違ったんです」
「……どういうことだ?」
「鬼婆は、ダムの全面中止以外は絶対に認めないって人でした。でも、お母さんは、それじゃもう難しいって考えたんです」
詩音はテーブルの上で指を組んだ。
「その頃には、工事もある程度進んでいましたし、補償金や移転先の話も動き始めていたそうですから。何もかも中止にするより、ダムの規模を小さくして、村の一部を残す方が現実的だって」
「……なるほどな」
「それで、建設側との交渉をやり直したんです。結果として、雛見沢は全部沈むことだけは避けられました」
「……」
「でも、それをよく思わない人もいたんですよ」
詩音の声が少し低くなった。
「園崎家は金で折れたんじゃないかとか、鬼婆の遺志を裏切ったとか。中には、鬼婆が亡くなったことまで、お母さんのせいにする人もいたそうです」
「……は?」
圭一は眉を寄せた。
「何だよ、それ」
「……そういう噂です」
「いや、だってよ。茜さんだって、村を守ろうとしてたんだろ?」
「ええ」
「それなのに、裏切り者扱いか?」
詩音は少しだけ笑った。
「……圭ちゃんは、そう思います?」
「当たり前だろ」
圭一は即答した。
「全部守れなかったからって、何もしなかったことにはならねえだろ。少なくとも、村が丸ごと沈むのを防いだんじゃねえか」
詩音は圭一を見つめた。そして、少しだけ表情を和らげた。
「……ありがとうございます」
「……へ?」
「いえ。何でもありません」
詩音は小さく笑った。
「でも、圭ちゃん。土地を失った人たちにとっては、そんなに簡単な話でもなかったんでしょうね」
「……」
「生まれ育った家が水の底に沈んでしまった人もいますし、何代も続いた田畑を手放した人もいます。お金をもらったからって、全部納得できるものでもないでしょう?」
圭一は黙った。確かに、その通りだった。以前、ダム湖を訪れた時にも考えたことだった。今は美しい湖が広がっているその場所にも、かつては家があり、道があり、人々の生活があったはずなのだ。
「……そうだな」
圭一は静かに頷いた。詩音は続けた。
「結局、どちらが正しかったのかなんて、私には分かりません。鬼婆もお母さんも、雛見沢を守りたいって気持ちは同じだったと思いますし」
「……」
「でも、その頃からなんでしょうね」
「……ん?」
「何か悪いことが起きると、すぐにオヤシロ様の祟りだって言われるようになったのは」
詩音は窓の外へ視線を移した。
「鬼婆が亡くなって、その翌年にも人が亡くなって、また次の年にも事件が起きて……いつの間にか、毎年誰かが祟られるって話になってしまったんです」
圭一は腕を組んだ。
「……そういや、ダムの工事に反対した人とか、村に関係する人が多いって聞いたな」
「ええ。そういう噂もありますね」
「……何か、因縁でもあるのかねえ」
「さあ……」
詩音は曖昧に笑った。そして、静かに言った。
「……でも私、あの祟りって言葉、あまり好きじゃないんですよ」
圭一は顔を上げた。
「……何でだ?」
「便利すぎるからです」
「……便利?」
「ええ」
詩音は頷いた。
「誰かが亡くなる。誰かがいなくなる。そうすると、みんな口を揃えて言うんです。オヤシロ様の祟りだって」
「……」
「でも、それで何が分かるんでしょうね」
詩音は圭一を見た。
「亡くなった人がどうして亡くなったのか。いなくなった人がどこへ行ったのか。誰かが何かをしたのか、それとも本当に事故だったのか……そんなこと、何一つ分からないじゃないですか」
圭一は黙っていた。詩音の声は普段と変わらない穏やかなものだったが、その言葉にはどこか強い感情が込められていた。
「なのに、祟りだから仕方がないって。オヤシロ様が怒ってるからだって。そうやって、何でも片づけようとする人がいるんです」
詩音は一度、息を吐いた。
「……私、それが嫌なんです」
圭一は詩音の横顔を見つめた。
「……お前、オヤシロ様なんて信じてねえのか?」
「……どうでしょうねぇ」
詩音は少し考えた。
「いるかもしれませんし、いないかもしれません。そんなの、私には分かりませんよ」
「……まあ、そりゃそうだな」
「でも、仮にオヤシロ様が本当にいたとしても、何もかもそのせいにしていいとは思いません」
詩音はカップに手を伸ばした。しかし、結局口をつけずに戻した。
「……それに、圭ちゃん」
「ん?」
「祟りって、亡くなった人やいなくなった人だけの話じゃないんですよ」
「……どういうことだ?」
「残された人たちのことです」
詩音は静かに答えた。
「誰かが祟られたって噂が立つと、今度はその人が何をしたのかって話になるんです。オヤシロ様を怒らせるようなことをしたんじゃないかとか、村の決まりを破ったんじゃないかとか」
「……」
「そうすると、その家族まで妙な目で見られたりするんですよ」
圭一の脳裏に、沙都子の姿が浮かんだ。北条家。ダム戦争。失踪した悟史。そして、鉄平。これまで別々の話として聞いていた事柄が、少しずつ繋がり始めた気がした。
「……北条家も、そうなのか?」
詩音は圭一を見た。
「……大石さんから、何か聞きました?」
「ああ。詳しくはねえけどな」
圭一は頷いた。
「北条家はダムの建設に賛成してたって。それで、村の人たちからあまりよく思われてなかったらしい」
「……ええ」
詩音は静かに頷いた。
「それは、本当です」
「……」
「だからといって、北条家の人たち全員が悪いわけじゃないでしょう?」
「……当たり前だろ」
「でも、そう考えない人もいるんです」
詩音は少しだけ俯いた。
「去年、悟史くんがいなくなった時も、色々な噂が立ちました。祟りに遭ったんだとか、家の事情で逃げ出したんだとか……」
「……」
「でも、結局どこへ行ったのかは分からないままです」
圭一は何も言わなかった。悟史の失踪について、詩音がどこまで知っているのかは分からない。しかし、少なくとも彼女がその話をする時、普段のように軽く笑い飛ばせないことだけは分かった。
「……詩音」
「はい?」
「お前、悟史とは知り合いだったのか?」
詩音は一瞬、目を伏せた。
「……ええ。知ってましたよ、特にお姉たちと仲が良かったですから」
「……そうか」
「同じ街に住んでいたんですから。それほど不思議なことじゃないでしょう?」
詩音は微笑んだ。しかし、圭一はそれ以上聞かなかった。今の彼女の表情を見る限り、簡単に話せることばかりではなさそうだったからだ。しばらく沈黙が続いた。時計の針が進む音だけが、応接間に響いている。やがて、詩音が口を開いた。
「……もう、うんざりなんですよね」
圭一は顔を上げた。
「……何が?」
「こういうの、全部です」
詩音は窓の外を見た。
「昔のダム戦争のことで今も揉めて、誰かがいなくなれば祟りだって騒いで、何かあれば誰かのせいにして……」
彼女は小さく息を吐いた。
「……いつまで続けるつもりなんでしょうね」
圭一は黙っていた。
「興宮なんて、昔とは随分変わったんですよ。建物も増えたし、お店も増えたし、色々な人が引っ越してきて……」
詩音は少し笑った。
「今じゃ、東京から来た圭ちゃんみたいな人までいるんですから」
「……おいおい。俺はそんな珍獣扱いなのか?」
「ふふっ。どうでしょう?」
圭一も小さく笑った。しかし、詩音はすぐに表情を戻した。
「……でも、そうやって街が変わっても、昔のことばかり引きずっている人はいるんです」
「……」
「別に、忘れろって言いたいわけじゃありませんよ。ダムで家を失った人たちにとっては、大切なことでしょうし」
詩音は圭一へ目を向けた。
「でも、それと、今を生きている人たちまで不幸にならなきゃいけないことは、別でしょう?」
圭一は静かに頷いた。
「……ああ」
「私、もっと普通に暮らしたいんです」
詩音はそう言って、少しだけ笑った。
「学校に行って、友達と遊んで、美味しいもの食べて、くだらないことで笑って……そんな毎日が続けばいいなって」
「……」
「なのに、何かあるたびに、みんな怖い顔になっちゃうんですよね」
詩音は肩を竦めた。
「……本当に、困ったものです」
圭一はしばらく彼女を見つめていた。そういえば、詩音と知り合ってからというもの、彼女が真面目に自分の考えを語る姿を見る機会は、ほとんどなかった気がする。最初は圭一の正体を見破って散々からかってきた少女だった。
今でも隙あらば圭一を困らせようとするし、魅音との喧嘩に巻き込まれることもしょっちゅうである。しかし、その一方で、鉄平についての調査を引き受け、葛西と協力して情報を集めてくれている。圭一は、ふと疑問に思った。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「何でそこまで手伝ってくれるんだ?」
詩音は瞬きをした。
「……え?」
「いや、だからよ。俺のことだよ」
圭一は自分の胸を指した。
「お前、別に俺の面倒を見る義理なんてねえだろ?」
「……」
「それなのに、色々調べてくれてるしさ。葛西さんまで頼って……」
圭一は少しだけ言葉を選んだ。
「……何でだ?」
詩音はしばらく答えなかった。そして、やがて小さく笑った。
「……圭ちゃんって、時々妙に鋭いですよねぇ」
「時々は余計だ!」
「ふふっ」
詩音は笑った。しかし、その後、少しだけ真面目な表情になった。
「……そうですね。最初は、単純に面白かったんだと思います」
「……面白かった?」
「ええ。突然現れた覆面のお面の男が、実は知り合いの男の子だったんですよ? しかも、壁に張りついたり、高いところから飛び降りたりするんですから」
「……まあ、確かにな」
「そんなの、気にならないわけないじゃないですか」
詩音は小さく笑った。
「でも……鉄平との戦いを見て、ちょっと考えが変わったんです」
「……」
「圭ちゃん、あの時、本当に危なかったでしょう?」
「……ああ。まあな」
「あの人、普通じゃありませんでしたよね。遠くから聞いてても、分かりました」
詩音はカップへ目を落とした。
「正直、私には何もできませんでした」
「……」
「葛西さんだって、車を出したり、怪我の手当てをしたりするのが精一杯で……」
詩音は静かに息を吐いた。
「……圭ちゃんがあの人と戦っている間、私たちは見ていることしかできなかったんです」
圭一は黙っていた。あの時のことは、今でもよく覚えている。巨大な身体。地面を揺らす足音。そして、何度も圭一へ迫ってきた、あの恐ろしい突進。自分自身、何度も危ない目に遭った。しかし、詩音たちにとっては、また違う恐怖があったのだろう。
「……でもよ」
圭一は口を開いた。
「お前らがいなかったら、俺だってどうなってたか分かんねえぜ?」
詩音が顔を上げた。
「……はい?」
「だってそうだろ。葛西さんが車を出してくれたから、あの後ちゃんと帰れたんだし。お前だって、色々助けてくれただろ?」
「……」
「それに、怪物と戦うばっかりが人助けってわけじゃねえだろ」
詩音は目を見開いた。圭一は続けた。
「今だって、こうして鉄平のことを調べてくれてるじゃねえか。俺一人じゃ、こんなの絶対無理だったぜ?」
「……圭ちゃん」
「だからさ、何もできなかったなんて言うなよ」
圭一は笑った。
「少なくとも、俺は助かってるぜ」
詩音はしばらく圭一を見つめていた。そして、ふっと表情を和らげた。
「……ふふっ」
「……何だよ?」
「いえ。圭ちゃんって、そういうところありますよねぇ」
「……そういうところ?」
「何でもありません」
詩音は小さく首を振った。そして、ゆっくりと口を開いた。
「……私も、この街を何とかしたいんです」
圭一は黙って聞いていた。
「オヤシロ様の祟りだとか、そんな不気味な噂がいつまでも続くのは嫌ですし……今度は、あんな怪物まで現れたんですから」
「……」
「もし鉄平のことを調べて、何か分かれば、今までの事件についても手掛かりが見つかるかもしれません」
詩音は一度、言葉を切った。
「……もちろん、何も関係ないかもしれませんけどね」
「……ああ」
「でも、だからって最初から諦める理由にはならないでしょう?」
圭一はゆっくりと頷いた。
「……そうだな」
詩音は小さく笑った。
「圭ちゃんは、困っている人がいたら助けに行くんでしょう?」
「……まあ、そうだな」
「だったら私は、圭ちゃんが助けに行けるように、できるだけのことをします」
「……」
「圭ちゃんが怪物と戦うなら、私はその怪物がどこから来たのか調べる。圭ちゃんが誰かを助けるなら、私はその人が安心して帰れるように、裏から手を回す」
詩音は笑った。
「……そんなふうに分担すれば、いいじゃないですか」
圭一はしばらく黙っていた。そして、やがて小さく笑った。
「……なるほどな」
「はい?」
「つまり、お前も結構なお節介焼きってわけだ」
詩音は目を丸くした。
「……あら?」
「俺と似たようなもんじゃねえか」
圭一はにやりと笑った。その瞬間、詩音は吹き出した。
「ぷっ……あははははっ!」
「な、何だよ!」
「いえ、そうですねぇ……確かにそうかもしれません」
詩音は笑いながら頷いた。
「でも、圭ちゃん」
「ん?」
「一つだけ、約束してください」
詩音は真面目な表情になった。圭一も、自然と背筋を伸ばした。
「……何だ?」
「これからは、無茶をする前にちゃんと相談してください」
「……相談?」
「ええ」
詩音は静かに頷いた。
「圭ちゃんが一人で何でも背負う必要はありません。私にも葛西にも、できることはありますから」
「……」
「それに、圭ちゃんが怪物に勝ったとしても、圭ちゃん自身が戻ってこなかったら……意味がないでしょ?」
圭一は言葉を失った。詩音は、いつになく真剣な表情だった。
「……だから、約束してください」
しばらく沈黙が続いた。圭一は考えた。自分にしかできないことがある。それは、確かだろう。あの鉄平のような怪物が再び現れたとして、普通の人間に何ができるか。少なくとも、正面から立ち向かえる人間は、そう多くないはずだ。しかし、だからといって、何もかも自分一人で背負う必要があるのか。圭一は詩音を見た。そこには、真剣に自分のことを心配してくれる少女がいた。
「……分かった」
圭一は頷いた。
「なるべく、一人で無茶しねえようにする」
「……なるべく?」
「いや、だってよ。何かあった時に、いちいち相談してる暇があるとは限らねえだろ?」
詩音は少しだけ目を細めた。
「……まあ、それはそうですけど」
「でも、できる限りは相談する。お前らにも頼る」
圭一は、まっすぐ詩音を見た。
「……それでどうだ?」
詩音はしばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐いた。
「……仕方ありませんねぇ」
「おいおい」
「圭ちゃんですからね。それくらいが精一杯なんでしょう」
「何だよ、その言い方!」
詩音はくすくすと笑った。
「でも、いいですよ。約束ですからね?」
「……おう」
圭一は頷いた。詩音はようやく安心したように微笑んだ。それから、彼女はふと何かを思いついたように顔を上げた。
「……そういえば、圭ちゃん」
「ん?」
詩音はふと思い出したように、傍らに置いていた紙袋へ目を向けた。
「圭ちゃんに、渡しておきたいものがあるんですよ」
「……渡したいもの?」
「ええ。実は今日、それを持ってきていたんです」
詩音はにっこりと笑い、足元から少し大きめの包みを取り出した。丁寧に包装されており、随分とかさばるものらしい。
「……何だ、そりゃ?」
「ふふっ。開けてみてください」
「……お、おう」
圭一は包みを受け取り、慎重に包装を解いていった。中から現れたのは、赤と濃紺の生地だった。
「……お?」
圭一は一瞬、目を見開いた。見覚えのある配色。しかし、以前使っていた衣装や覆面とは明らかに質感が違う。
「……おおっ! もしかして、これって!」
「はい。入江先生にお願いしていた、新しいスーツですよ」
「マジか!?」
圭一は思わず立ち上がった。
「完成したのか!?」
「ええ。圭ちゃんが注文した時に、届け先をうちにしておいたでしょう? 昨日、ようやく届いたんです」
「そういや、そうだったな!」
圭一は包みの中身を広げた。赤と濃紺を基調とした、一着のスーツ。全体の形は以前の衣装と似ているが、仕立てはまるで違っていた。布地は薄くしなやかで、引っ張れば滑らかに伸び、手を離すと元の形へ戻る。肩や肘、膝にあたる部分は少し厚くなっており、激しく身体を動かしても邪魔にならないよう工夫されているらしい。何より目を引いたのは、胸元に描かれた蜘蛛の紋章だった。
「……へぇ」
圭一は思わず感嘆の声を漏らした。以前、父親と相談しながら考えた意匠である。紙の上ではなかなか格好よく見えたものの、実際に服へ取り入れるとなるとどうなるか、圭一自身にも想像できていなかった。しかし、こうして完成品を見ると、不思議なほど馴染んでいる。
「……すげえ。ちゃんと出来てるじゃねえか!」
「ふふっ。入江先生、随分と張り切っていましたからねぇ」
詩音は楽しそうに笑った。
「私が圭ちゃんの注文を話した時なんて、最初は随分驚いていたんですよ?」
「……だろうな」
圭一は苦笑した。何しろ、注文内容が注文内容である。身体にぴったり合い、激しく動いても破れにくく、しかも暑苦しくない服。さらに顔を隠すマスクまで必要だというのだから、普通の仕立て屋へ頼める代物ではない。
「……それで、お前が最初に電話した時、入江の奴、何て言ってたんだ?」
「そうですねぇ。最初は『舞台衣装にしては随分と本格的ですね』って」
「……ははっ! そりゃそうだ!」
「でも、身体を動かす時の負担がどうとか、生地の伸縮性がどうとか、途中から随分と真剣に考え始めまして」
「……へぇ」
圭一は改めてスーツを眺めた。確かに、ただ見た目を格好よくしただけではないようだった。
「……さすがは医者ってところか」
「ええ。それと、圭ちゃんのお父さんが考えたデザインも、なるべくそのまま活かしたそうですよ」
「……父さんの?」
「はい。蜘蛛の模様も、最初の図案からあまり変えていないみたいです」
圭一は胸元の紋章を指先でなぞった。思い返せば、最初にスーツのデザインを相談した時、伊知郎は随分と楽しそうだった。普段は自分の絵に没頭している父親が、息子の奇妙な注文にも真面目に付き合ってくれたのである。その時は、単に絵の得意な父親へ意見を求めたつもりだった。しかし、こうして形になったものを見ると、何だか妙に嬉しかった。
「……へへっ。父さんも、なかなかやるじゃねぇか」
「でしょう?」
詩音は微笑んだ。
「それに、ほら。マスクもありますよ」
「……おおっ!」
圭一は包みの底から、赤いマスクを取り出した。以前の赤鬼のお面とは違い、頭全体を覆う形になっている。目の部分には白いレンズ状の部品が取り付けられ、外から表情が分からないようになっていた。
「……へぇ。こいつはいいな!」
圭一は早速、顔へ当ててみた。
「……おっ。思ったより見やすいぞ!」
「入江先生が、視界を狭めすぎないよう気をつけたそうです」
「なるほどなぁ」
圭一はマスクを外し、感心したように眺めた。赤鬼のお面を使っていた頃は、顔を隠すことしか考えていなかった。実際、あれを被ったまま走り回るのは決して快適ではなかったのである。それに、何より。
「……これなら、鬼のお面よりずっとヒーローらしいな!」
「ふふっ。そうですね」
詩音は楽しそうに頷いた。
「もっとも、圭ちゃんの場合、中身までヒーローらしくなれるかは別問題ですけど」
「おい! 余計な一言が多いぞ!?」
「あははっ! 冗談ですよ!」
圭一は呆れたように肩をすくめたが、すぐに笑った。そして、もう一度スーツを広げる。
「……あ、そうだ。ウェブシューターの方はどうなんだ?」
「袖口のことですか?」
「ああ。せっかく二号が出来たってのに、スーツを着ると使えねえんじゃ困るからな」
「それなら大丈夫だと思いますよ。圭ちゃんが渡した寸法を基に、装着部分も調整したそうです」
「……おお!」
圭一は袖口を確かめた。手首の部分には、他とは少し違う縫い合わせが施されていた。装置を収める場所が確保され、糸を射出する部分にも余裕がある。
「……へへっ。こりゃ、いよいよ本格的になってきたな」
「ええ。もっとも、実際に着て動いてみないと分かりませんけどね」
「そりゃそうだな。帰ったら早速合わせてみるか!」
圭一は嬉しそうに笑い、スーツを丁寧に畳んだ。それを見ていた詩音が、ふと口を開く。
「……ところで、圭ちゃん」
「ん?」
「これで、ようやくお面から卒業ですね」
「……ああ。そうなるな」
圭一は少しだけ懐かしそうに笑った。考えてみれば、あのお面とも随分と長い付き合いになった。最初は正体を隠すため、とりあえず使っていただけだった。それがいつの間にか、自分にとってのスパイダーマンの顔になっていたのである。
「……ま、あれはあれで悪くなかったけどな」
「そうですかぁ?」
詩音は首を傾げた。
「私は、あのお面や覆面でで街中を飛び回る圭ちゃんを初めて見た時、ちょっと怖かったですよ?」
「……うっ」
「だって、突然赤鬼が現れて、悪い人たちを蹴っ飛ばしていくんですもの」
「……いや、まあ、そうだけどよ」
「それに、助けられた人からしても、あの姿は少し怖かったんじゃありません?」
圭一は腕を組んだ。確かに、それは否定できない。スパイダーマンを名乗っているくせに、赤鬼のお面を被り、悪党相手に大声で啖呵を切っていたのだから、事情を知らない人間には随分と物騒に映ったことだろう。
「……そう言われると、ちょっとなぁ」
「でしょう?」
詩音は満足げに頷いた。
「でも、これからは違いますよ」
「……ん?」
「ちゃんとしたスーツも出来たんですから、もう少し親しみやすいヒーローにならないと」
「……親しみやすい?」
「ええ。せっかく街の人たちを助けるんですもの。怖がられるより、安心してもらえた方がいいでしょう?」
圭一は少し考えた。確かに、スパイダーマンの役目は悪党を倒すことだけではない。困っている人を助けること。そして、助けられた人に、もう大丈夫だと思ってもらうこと。そう考えれば、外見が変わるだけでは足りないのかもしれない。
「……なるほどな」
圭一は小さく頷いた。
「確かに、怖がられてちゃ格好つかねえもんな」
「ふふっ。分かってもらえました?」
「ああ。要するに、もっとヒーローらしく振る舞えってことだろ?」
「そういうことです」
詩音はにっこりと笑った。しかし、その笑顔を見た瞬間、圭一は何となく嫌な予感がした。
「……おい、詩音」
「はい?」
「お前、何か企んでねえか?」
「ふふっ。どうでしょう?」
「……何だよ、その笑い方は」
「いえいえ。せっかくですから、私の方でも少し準備しておこうと思いまして」
「……準備?」
「はい。スパイダーマンになるための、最後の特訓です」
「……最後の特訓?」
圭一は眉を寄せた。詩音は悪戯っぽく笑った。
「ふふっ。次にお会いする時を楽しみにしていてくださいね?」
圭一はしばらく彼女を見つめ、深々と溜息を吐いた。
「……何だか知らねえが、嫌な予感しかしねえぜ」
「失礼ですねぇ。圭ちゃんのためを思って言ってるんですよ?」
「お前がそういう時ほど、ろくなことにならねえんだよ!」
「まあまあ。きっと楽しいですよ?」
詩音はくすくすと笑った。圭一は呆れたように肩を落としたが、やがてつられるように笑った。窓の外には、初夏の陽射しを浴びた興宮の街が広がっている。その街には、今も解き明かされていない過去があった。ダム戦争。オヤシロさまの祟り。毎年繰り返される怪死と失踪。そして、北条鉄平という得体の知れない怪物。
それらが本当に繋がっているのか、圭一にはまだ分からない。ただ一つ、確かなことがあった。
圭一はもう一人ではなかった。
目の前には、秘密を共有し、同じ街の平穏を願う相棒がいる。圭一は静かに息を吐いた。これから何が起こるかは分からない。しかし、少なくとも今は、彼女と一緒に進んでいこうと思った。
その一方で、詩音は既に、次の特訓で圭一へ何をさせようかと思案していた。