「――完成だぁぁぁっ!!」
圭一の歓声が、部屋いっぱいに響き渡った。
長机にはネジや工具が散らばっている。先ほど詩音と話し合った後、ウェブシューター二号の最後の調整を続けていたところだった。
スーツの上からぴったりと装着できるウェブシューター二号。圭一は以前、装置の寸法や取り付け位置を電話で入江に伝えていたため、完成したスーツにも問題なく取り付けることができた。残るのは角度や射出時の干渉など、細かな調整だけだったのである。
そして、それもようやく終わった。
「……へへっ。ついに、ついにここまで来たぜ……!」
圭一は満足げに頷き、机の上に広げられたスーツへ目を向けた。
赤と青を基調とした生地には、蜘蛛の巣を思わせる模様が走り、胸元には黒い蜘蛛の紋章が描かれている。顔を覆うマスクには白いレンズが取り付けられ、その縁を黒い線が囲んでいた。
初めて赤鬼の仮面を被った頃とは、まるで違う。
あの頃は、とにかく顔さえ隠せればよかった。服装もあり合わせで、ヒーローというより、どこかの怪しい覆面男といった出で立ちだった。
しかし、今は違う。
「……ふっふっふ」
圭一は思わず笑みを浮かべた。
「……よぉし。だったら、早速着てみるとするか!」
圭一はスーツを持ち上げ、改めて全体を眺めた。
身体にぴったりと沿うように作られた一体型の衣装である。手袋とマスクは別になっており、背中には目立たないよう縫い込まれたファスナーがあった。
「……お?」
圭一は背中側を確かめた。
蜘蛛の巣模様に沿って細い合わせ目が走っている。よく見ると、そこにファスナーが隠されていた。上から生地が重なっているため、普通に眺めただけではほとんど分からない。
「……へぇ。随分と上手いこと作ってあるじゃねえか」
入江から届いた説明書には、一人でも着脱できるよう、長い引き手を使用することが書かれていた。
「……なるほどなぁ」
圭一は感心しながら、まず足をスーツへ通した。
しかし。
「……お、おお?」
思った以上に、生地が身体へ密着する。
片足を通し、もう片方の足を入れる。そこから腰まで引き上げようとしたところで、圭一は少しばかり顔をしかめた。
「……何だこりゃ。結構きついな」
もちろん、寸法が合っていないわけではない。
生地そのものはよく伸び、動きを妨げるような感覚もなかった。ただ、普段の服と違って身体に沿うよう作られているため、着慣れていない圭一には少々勝手が違ったのである。
「……ったく。格好いい格好するのも大変だぜ」
何とか腰まで引き上げ、続いて両腕を袖へ通す。
肩を動かしてみると、布地が滑らかに伸びた。
「……おっ?」
圭一は試しに腕を大きく回した。
続いて膝を曲げ、軽く屈伸する。
「へぇ。すげえな、これ!」
先ほどまで少し窮屈に感じていたというのに、動いてみると不思議なほど邪魔にならない。
「……なるほど。入江の奴、なかなかやるじゃねえか!」
圭一は嬉しそうに笑った。
しかし、次の瞬間。
「……あれ?」
背中へ手を伸ばしたところで、圭一は動きを止めた。
ファスナーである。
「……おいおい。これ、どうやって閉めるんだ?」
圭一は右手を肩越しに回し、左手を腰の後ろへ伸ばした。
「……んっ。……くそっ。届かねえ!」
身体が柔らかくなったとはいえ、ぴったりとした衣装の背中を綺麗に閉じるのは、思った以上に面倒だった。
「……ああ、そうか!」
圭一は説明書を思い出した。
ファスナーの金具には、取り外し可能な細い引き手が取り付けられている。それを背中から肩越しへ回し、ゆっくり引き上げればよいらしい。
「……よいしょっと」
圭一が引き手を引くと、背中の合わせ目が少しずつ閉じていった。
やがて首元まで到達すると、最後に引き手を取り外し、襟の内側へ金具を隠す。
「……おお! 出来た!」
圭一は振り返り、鏡越しに背中を確かめた。
蜘蛛の巣模様が綺麗に繋がり、ファスナーの位置はほとんど分からない。
「……なるほどなぁ。これなら後ろから見られても格好悪くねえぜ!」
圭一は満足げに頷いた。
続いて、机の上に置かれていたウェブシューター二号を手に取る。
「……さて。こいつが肝心だな」
左右の手首へ装置を固定し、袖口の位置を整えた。
事前の調整どおり、装置はスーツにぴったりと収まった。手首を曲げても邪魔にならず、射出口も生地に塞がれていない。
「……よしよし!」
圭一は右手を前へ突き出した。
「シュッ!」
もちろん、今は糸を撃ち出さない。
ただの構えである。
それでも、圭一には何とも言えない高揚感があった。
「……へへっ。いいじゃねえか!」
続いて手袋をはめ、最後に赤いマスクを手に取った。
白いレンズを縁取る黒い線。頭全体を覆う赤い生地。そして、額から後頭部にかけて伸びる蜘蛛の巣模様。
圭一はしばらくそれを眺めた。
「……そういや、こいつを被るのも初めてだな」
以前の仮面や覆面は、顔の前に被せるだけだった。しかし、このマスクは頭全体を覆う構造になっている。
「……さて、どうなることやら」
圭一はマスクを頭から被った。
最初は少し視界が暗くなったように感じたが、目元の位置を合わせると、思った以上によく見えた。呼吸にも大きな支障はなく、首を動かしてもマスクがずれることはない。
「……おお?」
圭一は左右を見渡した。
「……こりゃ、なかなか……!」
そして、ゆっくりと鏡へ顔を向けた。
「…………」
圭一は言葉を失った。
そこに立っていたのは、見慣れた前原圭一ではなかった。
赤と青の衣装。胸元に描かれた黒い蜘蛛。白い目をしたマスク。そして、手首に取り付けられた二つのウェブシューター。
鏡に映っているのは、紛れもなく一人のヒーローだった。
「……おおお……!」
圭一は思わず鏡へ近づいた。
右を向く。
左を向く。
胸を張り、腕を組んでみる。
さらに、片手を壁へ向け、糸を撃ち出す構えまで取ってみた。
「……すげえ……!」
思わず笑みが漏れた。
もっとも、マスクを被っているので、その表情は誰にも見えないのだが。
「……すげえぞ、これ!」
圭一は両手を握りしめた。
思い返せば、最初は蜘蛛に噛まれたことがすべての始まりだった。
壁を這えるようになり、異様な力を手に入れ、何が起きたのか分からないまま、ただ戸惑っていた。
それがいつの間にか、赤鬼の仮面を被って街を走り回るようになり、詩音と出会い、葛西の協力を得て、今ではこうして本格的なスーツまで手に入れている。
父親が考えてくれたデザイン。
入江が仕立てた衣装。
そして、自分自身が何度も失敗を重ねながら完成させたウェブシューター。
そのすべてが、ようやく一つになったのである。
「……へへっ」
圭一は鏡の前で両手を腰へ当て、胸を張った。
そして、大きく息を吸い込む。
「見ろ、この勇姿! これぞ新生スパイダーマン!」
圭一は右腕を勢いよく突き出した。
「地獄から這い出て、興宮の平和を守る、赤と青の正義の使者だ!」
そのまま、片膝を軽く曲げ、右手を前へ、左手を後ろへ引いて決めポーズを取る。マスクの白いレンズが室内の明かりを反射し、胸元の蜘蛛の紋章が堂々と輝いていた。
「……ふっふっふ。どうだ、詩音!」
圭一は得意満面で振り返った。俺が着替えたというのにまだコメントを残していない詩音。詩音らしくはないと思いつつ、圭一は感想を述べるように促した。
「この姿! この台詞! もうどっからどう見ても、立派なヒーローだろ!?」
「…………」
しかし、詩音は何も答えなかった。
ただ、腕を組み、圭一の姿をじっと眺めている。
「……お、おい?」
圭一は少しだけ首を傾げた。
「どうした? あまりの格好よさに言葉も出ねえか?」
「……そうですねぇ」
詩音はゆっくりと圭一の周囲を見て回った。
「スーツは確かに格好いいですし、ポーズも……まあ、悪くはありませんね」
「だろ!? 分かってるじゃねえか!」
「でも、肝心の台詞がちょっと……」
「……へ?」
詩音は口元へ指を当て、何やら真剣に考え込んだ。
「地獄から這い出て、ですかぁ……」
「おう! どうだ、迫力あるだろ!?」
「……それ、どちらかと言えば悪役の登場台詞じゃありません?」
「…………」
圭一の動きが止まった。
「……な、何だと?」
「だって、考えてもみてくださいよ。街の人たちが助けを求めているところへ、突然赤と青の覆面男が現れて、『地獄から這い出てきた!』なんて叫ぶんですよ?」
詩音はそこで、くすりと笑った。
「……助けに来たのか、襲いに来たのか分かりませんよねぇ」
「……ぐっ!」
圭一は思わず言葉に詰まった。
確かに、言われてみればそうかもしれない。
しかし、あの台詞にはそれなりの自信があったのである。
「……い、いや! でもよ! ヒーローってのは登場時の迫力も大事だろ!? 敵に舐められたら終わりじゃねえか!」
「ふふっ。もちろん、それも大切だと思いますよ」
詩音はにっこりと笑った。
「でも、圭ちゃん。スパイダーマンが助けるのは、悪い人たちだけじゃないでしょう?」
「……それは」
「困っている人や、怖がっている人だっているんです。そんな人たちが安心できるような登場の仕方も、考えた方がいいんじゃありません?」
「…………」
圭一は腕を組んだ。
なるほど。確かに一理ある。
今までは怪人を倒すことばかり考えていたが、スパイダーマンとして街を守るなら、助けられる人間のことも考えなければならない。
「……ふむ。なるほどなぁ」
圭一が感心したように頷くと、詩音は満足げに微笑んだ。
「……というわけで」
「……ん?」
「今回の決め台詞、採点させてもらいますね」
「……おっ! いいぜ! どんと来い!」
圭一は再び胸を張った。
「さあ、詩音先生! 百点満点で何点だ!?」
「……うーん」
詩音は顎に手を当てた。
「七点ですね」
「百点満点で!?」
「もちろん」
「低すぎるだろ!!」
圭一が抗議すると、詩音は涼しい顔で机の上に一冊のノートを置いた。
「圭ちゃん。確かにスーツもシューターも完成しました。これで、以前よりずっと安全に人助けができるようになるでしょう」
「お、おう」
「でも、それだけじゃ駄目なんです」
「……何が?」
「ヒーローとしての振る舞いですよ」
圭一は瞬きをした。詩音はノートの表紙を指で叩いた。そこには、大きな文字でこう書かれていた。
『スパイダーマン・話術訓練計画 第一号』
「…………」
圭一は無言でノートを見つめた。
「……詩音」
「はい?」
「何だ、これは」
「台本です」
「台本?」
「はい。圭ちゃんには今から、これを使って軽口の練習をしてもらいます」
「はああああっ!?」
圭一の叫び声が響いた。
「ちょっと待て! 俺は今日、ウェブシューターの実地試験をするつもりだったんだぞ!?」
「もちろん、後でやりますよ」
「だったら何で台本なんだよ!」
「圭ちゃん、前に怪物と戦った時、何て言ってました?」
「……は?」
「ほら、あのライノに向かって」
圭一は少し考えた。
「えーっと……確か、デカい図体して随分動きが鈍いな、とか……」
「他には?」
「その角は飾りか、とか……」
「他には?」
「……ぶっ倒してやる、だったかな」
「はい、そこです」
詩音はびしりと指を突きつけた。
「圭ちゃんの軽口は、いちいち喧嘩腰なんですよ!」
「喧嘩してるんだから当たり前だろ!?」
「そういう問題じゃありません!」
詩音は勢いよく言い返した。
「いいですか? 圭ちゃんはもう、正体不明の赤鬼面の男でも、不審者覆面男でもないんです。街の人たちを守るスパイダーマンなんですよ?」
「……おう」
「そんな人が『俺がぶっ倒してやる!』なんて怒鳴ってたら、周りの人たちだって怖いじゃないですか」
「そ、そうか?」
「そうです!」
詩音はノートを開いた。
「まず、一人称!」
「一人称?」
「圭ちゃん、スパイダーマンの時も『俺』って言ってますよね」
「そりゃ、俺は俺だからな」
「駄目です」
「何でだよ!?」
「『俺』は強すぎます。少なくとも一般の人たちに話しかける時は、『僕』か『私』にしてください」
「わ、私ぃ!?」
圭一は思わず仰け反った。
「おいおい!俺に『私』なんて似合うと思うか!?」
「別に変じゃありませんよ? 顔を隠してるんですし」
「いや、そういう問題じゃ……!」
「だったら『僕』でもいいです。とにかく、スパイダーマンは親しみやすくなきゃ駄目なんですよ」
詩音は一度言葉を切った。
「それに、助けられた人が子供だったらどうします? いきなり『おい、怪我はねえか!』なんて言われたら、びっくりするでしょう?」
圭一は想像してみた。
蜘蛛の模様のついた全身タイツの男が、突然目の前に現れる。
おまけに、顔は完全に隠れている。
そんな男が、いきなり怒鳴ってきたら。
「……まあ、確かに」
「でしょう?」
詩音は満足げに頷いた。
「つまり圭ちゃんに必要なのは、相手を威圧する言葉じゃなくて、安心させる言葉なんです」
「……なるほどな」
圭一は腕を組んだ。やはり、詩音は真面目に話すと一理ある。悪戯好きで、時々とんでもないことを言い出すが、こういう時は妙に的を射ている。
「……よし。分かった」
手を差し出した。
「貸してみろ、その台本」
「ふふっ。ようやくやる気になりましたね」
詩音は嬉しそうにノートを渡した。圭一は最初のページを開いた。そして、そこに書かれた文章を読み始める。
「よーし。それじゃあ、もう一度だけ説明するぜ!」
「……圭ちゃん」
「何だよ!」
「『説明するね』です」
「細かいなぁ!」
「最初からやり直し」
「ちっ……。よーし。それじゃあ、もう一度だけ説明するね!」
詩音は満足そうに頷いた。
圭一は咳払いをして、続きを読み上げた。
「僕は前原圭一。東京から雛見沢に引っ越してきた、ごく普通の中学生……だったんだけど、ある日、妙な蜘蛛に噛まれてしまった」
「ふむふむ」
「そしたら、びっくり! 壁には張りつけるわ、馬鹿みたいに高く跳べるわ、おまけに危険が迫ると何となく分かるようになっちゃった! いやぁ、人生って何が起こるか分からないね!」
「いいですよ、圭ちゃん。その調子です」
圭一は調子づいて続けた。
「でも、ここで問題が一つ! 蜘蛛の力が手に入ったからって、本物の蜘蛛みたいに糸が出せるわけじゃない。そこで僕は、何度も失敗しながら、腕につける小さな装置を作ったんだ!」
圭一は左腕を掲げた。
新しいウェブシューターが、照明を受けて鈍く光った。
「こいつが自慢のウェブシューター! 糸を飛ばして物を掴んだり、建物の間を移動したりできる優れもの! ……まあ、最初の頃は壁にくっついて離れなくなったり、部屋をベタベタにしたりして大変だったんだけどね」
「そこは圭ちゃんの実体験ですねぇ」
「おう。あの時はマジで焦ったぜ……」
「圭ちゃん、語尾」
「……焦ったよ!」
詩音はくすくすと笑った。
圭一は少しだけ顔を赤くしたが、すぐに続きを読み始めた。
「最初は覆面を被って、人助けを始めたんだ。でも、世の中そんなに甘くなかった! 街にはとんでもない怪物が現れるし、正体を隠すのも大変だし、おまけに学校の試験まである!」
「ふふっ。忙しいですねぇ」
「まったくだよ!」
圭一は大袈裟に肩を竦めた。
「ある日は巨大な角を生やした大男と戦って、ある日は糸の配合を考えて、ある日は部活の仲間とゲームで大騒ぎ! 昼間はどこにでもいる学生だけど、街で誰かが助けを求めていたら――」
そこで圭一は一度、言葉を止めた。
詩音が顔を上げる。
圭一は胸元の蜘蛛の印に手を当てた。
「――僕の出番だ!」
詩音はぱちぱちと手を叩いた。
「はい、なかなかよろしいです!」
「へへっ、そうだろ?」
「でも、まだ続きがありますよ」
「まだあんのか!?」
「もちろん。最後が一番大事なんですから」
圭一はノートに目を落とした。
そこには、こんな文章が書かれていた。
「……えーっと。『僕は有名人でもなければ、特別に立派な人間でもない。失敗もするし、怖い思いだってする。だけど――』」
圭一はそこで、少しだけ黙った。
続く文章を見つめる。
「……『もし僕の力で、誰かを助けられるのなら』」
詩音も黙っていた。
「『その時は、できる限りのことをしたいと思ってる』」
圭一はゆっくりと顔を上げた。
「……『それが僕、スパイダーマンだ!』」
しばらく静寂が流れた。
詩音は圭一を見つめていた。
やがて、小さく笑う。
「……どうです、圭ちゃん?」
「……何が?」
「その台詞、気に入りました?」
圭一はノートを閉じた。
そして、少しだけ照れ臭そうに頭を掻いた。
「……まあ、悪くねえな。僕って一人称は慣れねぇけど」
「でしょう?まあ一人称の方もゆくゆくは慣れていきますよ」
詩音は嬉しそうに笑った。
しかし、圭一はふと思いついたように顔を上げた。
「……あ、そうだ」
「はい?」
「最後、こういうのはどうだ?」
圭一は再び胸を張った。
「『悪党どもよ、覚悟しろ!俺は、地獄からの使者、スパイダーマッ!』」
「…………」
詩音の笑顔が消えた。
「……圭ちゃん」
「おう?」
「最初からやり直しです」
「何でだよぉぉぉ!!」
圭一の思い付きのセリフたちは即却下されて、無残にもスパイダーマンに圭一らしさなど、とうに消えていた。
「じゃあ、次です」
詩音はノートを一枚めくった。
「今度は、実際に人を助けた時の練習ですよ」
「おう、任せろ!」
「では、私が助けられた女の子役をやりますね」
「……お前が?」
「何か問題でも?」
「いや、別に……」
詩音は一度咳払いをした。そして、いかにも怯えた少女のような声を出した。
「きゃー! 助けてー! 怖い人に追いかけられてるんですー!」
「……おいおい。随分棒読みだな」
「圭ちゃん」
「はい」
「真面目にやってください」
「……了解」
詩音は再び演技を始めた。
「助けてください、スパイダーマン!」
圭一は勢いよく片手を掲げた。
「おう! 安心しろ! この俺が来たからには、もう大丈夫だ!」
「はい、駄目」
「早えよ!!」
「だから『俺』は禁止です!」
「ぐっ……!」
圭一は咳払いをした。
「……えーっと。大丈夫だよ、お嬢さん。僕が来たからには、もう安心さ!」
「……うーん」
「今度は何だよ!?」
「ちょっと気取ってますね」
「難しすぎるだろ!!」
詩音は笑いながら続けた。
「もっと自然に。相手は怖がってるんですよ? 圭ちゃんまで大袈裟に振る舞う必要はありません」
「……なるほど」
圭一は少し考えた。
そして、改めて口を開く。
「……もう大丈夫だよ。怪我はない?」
詩音は一瞬、目を丸くした。
「……はい」
「よかった。じゃあ、安全なところまで案内するから、僕についてきて」
圭一はそう言って、手を差し出した。
詩音はその手を見つめた。
そして、ふっと表情を和らげた。
「……はい、合格です」
「おっ、マジか!」
「今のはよかったですよ、圭ちゃん」
「へへっ、そうだろ!」
「ただし、最後に『お嬢さん』とか付けなくても十分ですからね」
「ちぇっ。格好いいと思ったんだけどなぁ」
「圭ちゃんには十年早いです」
「辛辣すぎるだろ!?」
そんなこんなで、台本による練習も煮詰まって来た頃、ついに本番がやってきた。
「さて、いよいよ本番です」
詩音は楽しそうにノートを閉じた。
「今度は台本なしで、私の出す状況に合わせて軽口を言ってみてください」
「おっ、ようやくか!」
圭一は腕を組み、不敵に笑った。
「ふっふっふ。任せろ! 口喧嘩なら俺の得意分野だぜ!」
「そうですねぇ。ではまず、巨大な角を生やした怪物が突進してきました」
「おう!」
「さて、何と言います?」
圭一は少し考えた。
そして、勢いよく指を突きつけた。
「おい、そこのサイ野郎! 動物園はあっちだぜ!」
「……七十点」
「おおっ! 高え!」
「でも、ちょっとありきたりですね」
「厳しいなぁ!」
「では、次。怪物が壁をぶち破って突っ込んできました」
「……そうだな」
圭一は腕を組んだ。
「おっと! そこの大将! 壁を壊すなら、まず建築許可を取ってくれよ! こっちはまだ中学生なんだから、修理代なんて払えないぞ!」
詩音が吹き出した。
「ぷっ……あはははっ!」
「おっ、今のよかったか?」
「はい! なかなかいいですよ!」
「へへっ!」
「自分が未成年だって、わざわざ言うところは気になりますけどね」
「……あ」
圭一は口を閉じた。
「……そういや、正体隠してんだった」
「そうです。自分で情報を漏らしてどうするんですか」
「ぐっ……!」
詩音は楽しそうに笑った。
「じゃあ、次。怪物が『貴様、一体何者だ!』と怒鳴ってきました」
「そんなもん決まってるだろ!」
圭一は胸を張った。
「ご存じ、興宮の赤い悪魔! 正義の鉄拳、そして地獄から来た男、スパイダーマッ!」
「……二十点」
「低っ!?」
「だから、どうしてそういう方向に行っちゃうんですか! それに、いい加減『地獄』って単語から離れてください!」
「いや、格好いいだろ!?」
「悪魔なんて名乗ってどうするんですか! それに最後の『マン』の発音、何なんです? 助けた人が怖がっちゃいますよ!」
「ぐぬぬ……!」
詩音は呆れたように溜息をついた。
「もっとこう、親しみやすい感じがいいんです。圭ちゃんは怪物と戦うんですから、せめて街の人たちには安心してもらわないと」
「……親しみやすい、ねえ」
圭一は腕を組んで考え込んだ。
「じゃあ、こういうのはどうだ? 興宮の皆さん、こんにちは! あなたの街のスパイダーマンです!」
「……うーん。さっきよりはいいですけど、何だか商店街の宣伝みたいですねぇ」
「注文多いな、お前!?」
「だって、圭ちゃんのためですもん」
詩音は悪びれもせずに笑ったが、ふと何かを思い出したように首を傾げた。
「……そういえば、昔、学校で似たようなことを習いましたね」
「学校?」
「ええ。ルチーアにいた頃です」
「ああ、あのお嬢様学校か」
「一応、キリスト教系の学校でしたからね。聖書のお話なんかも授業で聞かされたんですよ」
詩音は少し考えながら続けた。
「確か……『隣人愛』っていう言葉があったんです」
「りんじんあい?」
「はい。自分の身近な人だけじゃなくて、他の人のことも大切にしましょう、というような教えだったと思います。まあ、私もそんなに真面目に聞いていたわけじゃありませんけど」
「へえ……」
圭一は感心したように頷いた。
「隣人って、つまり隣に住んでる人のことだよな?」
「普通はそうですけど、聖書ではもっと広い意味だったはずですよ。知らない人だって、自分とは関係ない人だって、困っていたら助けてあげる。確か、そんなお話でした」
「……なるほどな」
圭一は顎に手を当てた。考えてみれば、スパイダーマンが助ける相手も同じである。名前も知らない通行人。たまたま事件に巻き込まれた人。自分とは何の関係もない、見ず知らずの人々。しかし、目の前で困っていれば、放っておくわけにはいかない。
「……でも、隣人愛ってのはちょっと堅苦しいな」
「でしょう? いきなり『隣人愛のスパイダーマン』なんて名乗られても、何のことだか分かりませんし」
「ははっ! 確かにな!」
圭一は笑った。しかし、その時だった。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いや、待てよ……隣人、隣人か……」
圭一は何度かその言葉を口の中で繰り返した。そして、ぱっと顔を上げた。
「……おっ! 思いついた!」
「はい、どうぞ」
圭一は腰に手を当て、得意げに胸を張った。
「名前が知りたい? じゃあ覚えといてくれよ! 親愛なる隣人、スパイダーマン! ちなみにサインはお断りだぜ!」
詩音は目を丸くした。
「……親愛なる、隣人?」
「ああ! 隣人ってのは別に、隣の家に住んでる奴だけじゃないんだろ? だったら、街のどこにだっている、ご近所の蜘蛛男ってわけさ!」
「…………」
「どうだ?」
詩音はしばらく圭一の顔を見つめていた。そして、次の瞬間。
「あははははっ! いいじゃないですか、圭ちゃん!」
「だろ!?」
「それですよ、それ! そういうのが欲しかったんです!」
詩音は嬉しそうに頷いた。
「親愛なる隣人……ふふっ。何だか、すぐ近くにいてくれそうな感じがしますね」
「おう! 何せ蜘蛛だからな。天井にだって張りついてるぜ!」
「それはちょっと怖いですけどね」
「何でだよ!?」
詩音はくすくすと笑った。
「でも、いいと思いますよ。地獄から来た悪魔なんかより、ずっと素敵です」
「へへっ。そいつはどうも!」
「それに、圭ちゃんらしいじゃないですか」
「……俺らしい?」
「ええ。困っている人を見かけたら、放っておけないでしょう? 別に、その人が偉い人だとか、お金持ちだとか、そんなことは関係なく」
圭一は少しだけ照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。
「……まあ、そりゃそうだけどよ」
「だったら、ぴったりですよ」
詩音は微笑んだ。
「街の誰かにとって、いつでも頼れる隣人。 そういうスパイダーマンなら、きっと皆さんにも親しんでもらえると思います」
「……そっか」
圭一はもう一度、その言葉を口にした。
「親愛なる隣人、スパイダーマン……」
悪くない。いや、むしろ随分と気に入った。何より、これならわざわざ地獄からやって来なくても済む。
「……よし! 決まりだな!」
「ふふっ。では、もう一問いきましょうか」
詩音はノートへ視線を戻した。
「相手が『貴様、ふざけているのか!』と怒鳴ってきたら?」
「……そうだな」
圭一は少しだけ考えた。そして、にやりと笑った。
「ふざけてるように見える? いやぁ、こっちは大真面目なんだけどね! ……ところで、その顔は生まれつき? それとも怒りすぎ?」
「ぷっ……!」
詩音は思わず口元を押さえた。
「……圭ちゃん」
「おう?」
「百点です」
「よっしゃあああっ!!」
圭一は両拳を突き上げた。
圭一は勢いよく立ち上がった。
「ようやく新生スパイダーマンのお披露目だぜ!」
「はいはい。でも、圭ちゃん」
「何だ?」
「最後に一つだけ」
詩音は人差し指を立てた。
「今日からスパイダーマンの時は、『俺』禁止ですからね?」
「……分かったよ」
「本当に?」
「分かったって!」
「じゃあ、確認です。自分のことは?」
「……僕」
「困ってる人には?」
「……大丈夫ですか、怪我はありませんか」
「怪物に遭遇したら?」
圭一はにやりと笑った。
「やあ、こんにちは! 今日は随分と天気がいいね! ……ところで、そんな怖い顔して、何か嫌なことでもあった?」
詩音は満面の笑みを浮かべた。
「……はい、合格!」
圭一はスーツのマスクを手に取った。その白いレンズを眺めながら、少しだけ笑う。
赤鬼の仮面で戦った、あの日。自分が何者なのかさえ、まだよく分からなかった。
けれど、今は違う。
姿も、装備も、そして名乗る名前もある。
圭一はマスクを被った。
「……よし」
顔が隠れると、その声は少しだけくぐもって聞こえた。
詩音が腕を組み、楽しそうに尋ねる。
「それじゃあ、最後に自己紹介をお願いします。あなたは誰ですか?」
圭一は振り向いた。
赤と青のスーツ。
胸に描かれた黒い蜘蛛。
そして、両手首に装着されたウェブシューター。
圭一は片手を掲げ、指先を蜘蛛の糸を放つ形にした。
「――どうも! 親愛なる隣人、スパイダーマンです!」
詩音は笑った。
「ふふっ。上出来ですよ、圭ちゃん」
「……へへっ!」
こうして、前原圭一の新たな訓練が始まった。
もっとも。
この後、意気揚々と実地試験に臨んだ圭一は災難に巻き込まれるとは思いもしなかった。
<次回予告>
次回、地獄からの使者スパイダーマッ!現る!