圭一たちは、マンションの屋上に出ていた。
階数にして十五階。その屋上には、夜風が容赦なく吹きつけていた。夕暮れの時間はとうに過ぎ去り、興宮の街はすっかり夜の闇に包まれている。眼下には道路を行き交う車のヘッドライトが流れ、遠くには繁華街のネオンや、建設途中の高層ビルに灯る作業灯が見えた。
昼間であれば、さぞ壮観な景色だったことだろう。しかし今の圭一には、その美しさを楽しむ余裕など微塵もなかった。
「……大丈夫。いける。俺ならいける……このウェブシューター二号なら……」
呼吸を荒くしながら、圭一は何度も自分に言い聞かせていた。
赤と青のスーツに身を包み、顔には白いレンズのついたマスク。両手首には、新たに完成したウェブシューター二号が装着されている。
つい先ほどまで、詩音の前で得意げにその性能を語っていた前原圭一だったが、今ではその面影もない。先ほどの軽口の特訓で身につけたはずの余裕も、すっかり消え失せていた。
原因は明白だった。
高いのである。
とんでもなく高い。
圭一は恐る恐る屋上の縁から顔を出した。
眼下には、街灯に照らされた道路が細長く伸びている。歩道を歩く人々は豆粒のように小さく、車でさえ玩具のように見えた。十五階という高さは、地上から見上げていた時とはまるで印象が違う。
人間が本来持っている本能が、猛烈な勢いで警鐘を鳴らしていた。
ここから落ちれば、ただでは済まない。
そんなことは馬鹿でも分かる。いくら蜘蛛に噛まれて身体能力が向上したとはいえ、圭一は決して無敵になったわけではない。実際、鉄平との戦いでは何度も痛い目に遭っているし、身体が丈夫になったからといって、恐怖心まで消えたわけではなかった。
何より、十五階もの高さから飛び降りた経験など、当然ながら一度もない。
「……詩音」
「はい?」
「……やっぱり、やめにしねえか?」
圭一はゆっくりと振り返った。
「いや、冷静に考えてみろよ。十五階だぞ? 十五階! 流石に死ぬって!」
「え~?」
その一方で、詩音は随分と気楽な様子だった。
屋上の出入口に近い場所で手すりに寄りかかり、夜風になびく髪を片手で押さえながら、圭一を眺めている。
「圭ちゃんが言い始めたんじゃないですか。さっきはあんなに自信満々に、二号の設計だの特徴だのを説明してくれたでしょう?」
「そ、それはそうだけどよ!」
「それに、今までビルとビルの間を蜘蛛みたいに飛び回れるかもしれないって、あんなに嬉しそうに話してたじゃないですか」
「だからって、いきなり十五階からやる必要はねえだろ!?」
圭一は思わず声を張り上げた。
そもそも、ウェブシューターによる移動を試してみようと言い出したのは圭一本人だった。しかし、そのための道具については詩音も色々と意見を出してくれたはずである。
それなのに、実際に飛ぶ段階になると、彼女はまるで他人事のように楽しそうな顔をしている。
その態度に、圭一は何とも言えない苛立ちを覚えた。
「お前なぁ! こっちは命がけなんだぞ!? もっとこう、心配するとか、止めるとか、そういうのはねえのかよ!」
「もちろん、心配してますよ?」
詩音はにっこりと笑った。
「だったら止めろよ!」
「ですから、最初から地上で試そうって言ったじゃないですか」
「……うっ」
圭一は言葉に詰まった。
確かに、言われた。
屋上へ来る前、詩音はまず低い場所から装置の試験をするべきだと提案していた。
しかし圭一は、既に糸の強度については実験を済ませているし、自分の身体能力なら問題ないはずだと主張したのである。
そして、何より。
『スパイダーマンが地面でちまちま練習してどうすんだよ! やっぱり高いビルから華麗に飛び出してこそだろ!』
などと、大口を叩いてしまったのだった。
今となっては、過去の自分を引っ張り出して説教してやりたい気分である。
「……ちくしょう」
「ふふっ。思い出しました?」
「……ああ。思い出したよ。嫌ってほどな」
圭一はがっくりと肩を落とした。
そんな彼の様子を見て、詩音はくすくすと笑ったが、やがて屋上の縁へ近づいてきた。
「でも、圭ちゃん」
「……何だよ」
「本当に危ないと思ったら、やめておきましょうね」
圭一は顔を上げた。
詩音は先ほどまでの悪戯っぽい表情を少し和らげていた。
「さっきも言いましたけど、今日どうしても飛ばなきゃいけないわけじゃないんですから。装置が完成したからって、いきなり何でもできるとは限らないでしょう?」
「……まあ、そりゃそうだけどよ」
「別に格好悪いことじゃありませんよ。むしろ、ちゃんと怖がってくれた方が安心します」
詩音はそう言うと、圭一の手首に目を向けた。
「それに、まだ実際に使ったことのない装置なんでしょう?」
「……いや、射出試験なら何度もやってるぜ」
「でも、人間一人をぶら下げて、街の中を飛び回ったことは?」
「……ない」
「でしょう?」
圭一は黙り込んだ。
実際、詩音の言う通りだった。
圭一が今まで行ってきたのは、糸の強度や粘着力、射出距離などの試験である。重りを吊り下げたり、離れた場所にある物を引き寄せたりすることには成功していたが、自分自身の身体を空中で支えながら移動するとなれば、話は別だった。
それも、十五階の高さからである。
「……そうだな」
圭一は小さく頷いた。
「ちょっと調子に乗りすぎたかもしれねえ」
「ふふっ。圭ちゃんにしては素直ですねぇ」
「一言余計だ!」
詩音は笑った。
しかし圭一はそこで、もう一度眼下の街を見渡した。
高層ビル。
ネオン。
街灯。
そして、まるで血管のように街中へ張り巡らされた道路。
圭一の視線は、その中でもひときわ高くそびえる建物へ向けられた。あの屋上から、隣のビルへ。
さらに次のビルへ。もし本当に糸を使って移動できるのなら。
あの街を、自分の身体一つで自由に飛び回れるのだ。そう考えると、不思議と胸が高鳴った。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「やっぱりさ。ちょっとだけ試してみてえんだ」
詩音は首を傾げた。
「……ちょっとだけ?」
「ああ。流石にここから飛び降りるのはやめとくけどよ。まずは低いところで、身体を吊り下げられるか試してみる」
圭一は左手首の装置を見た。
「そんで、ちゃんと使えるって分かったら、少しずつ高さを上げていく。どうだ?」
詩音はしばらく圭一を見つめていた。
やがて、微笑んだ。
「……はい。それなら賛成です」
「よっしゃ!」
圭一は拳を握った。
「そうと決まれば、早速移動だ!」
「はいはい。今度はちゃんと慎重にお願いしますよ?」
「分かってるって!」
圭一は元気よく答えると、屋上の出入口へ向かった。その背中を見送りながら、詩音は小さく息を吐いた。
先ほどまであれほど怯えていたくせに、もう次の試験を楽しみにしている。
まったく、調子のいい少年である。
しかし、そんな圭一だからこそ、詩音も協力してやりたいと思うのだった。
最初の試験は、マンションの裏手にある、使われていない管理用通路で行われた。
夜も更けているため、人通りはほとんどない。周囲には低い建物とコンクリートの壁があり、圭一が装置を試すには都合のいい場所だった。
もっとも、詩音の提案によって、いきなり身体を宙に浮かせることはせず、まずは糸が狙った場所へ正確に届くかを確かめることになった。
「……よし。それじゃあ、行くぜ」
圭一は右腕を前へ突き出した。
狙うのは、数メートル先にある壁の一角。
掌を内側へ向け、中指と薬指を折り曲げる。
カチリ。
小さな作動音が響いた。
次の瞬間、手首の射出口から白い糸が勢いよく飛び出し、壁へと一直線に伸びていった。
パシッ!
軽い音とともに、糸の先端が壁へ張りつく。
「……おおっ!」
詩音が目を丸くした。
「すごいじゃないですか!」
「へへっ! だろ!?」
圭一は得意げに笑った。
「しかも、見てろよ!」
圭一は糸を軽く引いた。
壁に張りついた先端はびくともせず、白い糸がぴんと張られる。
「……ほらな! ちゃんとくっついてるだろ!」
「ええ。前の一号とは大違いですねぇ」
「ああ! あの時なんか、粘着性のある塊が飛び出すだけだったからな!」
圭一は満足そうに頷いた。鉄平との戦いで使用したウェブシューター一号は、あくまでも未完成品だった。糸としての形を保つことすら難しく、相手の視界を妨害する程度にしか使えなかったのである。
しかし今度は違う。射出口から伸びた白い繊維は、細いながらもしっかりとした一本の糸を形成している。
圭一はそのまま何度か引っ張り、接着部分の状態を確かめた。
「……ふむ。問題なさそうだな」
「それじゃあ、次は?」
「おう。今度はちょっとした重りを吊ってみる」
圭一は持参していた鞄から、試験用の重りを取り出した。既に自宅で何度も行ってきた実験ではあるが、今回は屋外での試験である。壁面の材質や気温、湿度など、室内とは条件が異なる。
圭一は糸の接着部分を確認しながら、慎重に重りを吊り下げた。
しばらく待つ。しかし、糸は切れない。接着部分も剥がれない。
「……よし!」
圭一は満足げに頷いた。
「いい感じだぜ!」
「ふふっ。順調ですねぇ」
「ああ! 次はもっと重いのでも試してみるか!」
「圭ちゃん」
「……ん?」
「今日は、どこまで試すつもりなんです?」
詩音は腕を組んだ。
圭一は少し考えた後、答えた。
「……そうだな。できれば、ちょっとくらい身体を浮かせてみてえけど」
「……ふむ」
詩音は周囲を見渡した。そして、少し離れた場所にある低い壁を指さした。
「それなら、あそこはどうです?」
「……ん?」
「あの壁なら、それほど高くありませんし。まずは手足で壁を掴みながら、糸がどれくらい身体を支えてくれるか確かめられるでしょう?」
圭一はその場所へ目を向けた。
確かに、都合がよさそうだった。
あの程度の高さなら、万が一糸が切れても、蜘蛛の能力で壁に張りつけば済む。
「……おお! いいじゃねえか!」
「でしょう?」
「よし! じゃあ、やってみるぜ!」
圭一は壁の前へ移動した。
そして、手首の装置を構える。
狙うのは、壁の上部。
「……行くぜ!」
シュッ!
白い糸が伸び、壁の上端へ張りついた。
圭一はそれを引き、十分に固定されていることを確かめる。そして、足元を少しずつ浮かせた。
「……おっ」
身体が傾く。
腕へ力がかかる。しかし、糸は切れない。圭一は壁に片足をつけたまま、身体の重みを徐々に糸へ預けていった。
「……おおおっ!」
「……圭ちゃん?」
「すげえ! すげえぞ、詩音!」
圭一は興奮したように叫んだ。
「ちゃんと支えられてる! 俺の身体、ちゃんと糸で支えられてるぜ!」
詩音も思わず笑顔になった。
「……本当ですねぇ!」
「ああ! こいつはすげえ!」
圭一はしばらくその状態を保った後、ゆっくりと地面へ戻った。そして、改めて自分の手首を見つめた。
小さな装置。たったそれだけのものが、今、自分の身体を支えていた。
「……へへっ」
圭一は笑った。
「……やったぜ」
「おめでとうございます、圭ちゃん」
詩音は小さく拍手した。
「これで、また一つ前進ですね」
「ああ!」
圭一は力強く頷いた。
しかし、その直後。
「……ってことは、次はいよいよスイングだな!」
「……圭ちゃん」
「おう?」
「……また調子に乗ってません?」
「……うっ」
圭一は言葉に詰まった。詩音は呆れたように笑った。
「本当に、油断も隙もありませんねぇ」
「いや、だってよ! ここまで成功したんだぜ!? 次も試してみたくなるだろ!」
「気持ちは分かりますけどね」
詩音は少しだけ真面目な顔になった。
「でも、今日のところは、もう少し低い場所で練習してからにしましょう」
「……へいへい」
圭一は渋々頷いた。
もっとも、その顔には既に次の試験への期待が浮かんでいた。
それから一時間ほど。圭一は、低い壁や建物の周囲を使いながら、少しずつ装置の扱い方を確かめていった。
糸を撃つ。固定を確かめる。身体を引き寄せる。
そして、壁へ張りつく。最初はぎこちなかった動作も、繰り返すうちに少しずつ滑らかになっていった。特に難しかったのは、糸を引っ張った際の身体の動きだった。圭一の身体能力は人間離れしているが、それでも空中での姿勢制御には慣れが必要だった。糸に引かれる方向を間違えると、思わぬ角度に身体が振られてしまう。
何度か壁へぶつかりそうになり、そのたびに詩音から呆れた声が飛んできた。
「圭ちゃーん! ちゃんと前を見てくださいよー!」
「見てるって! 見てるけど、身体が勝手に振られるんだよ!」
「ふふっ。蜘蛛さんも大変ですねぇ!」
「笑ってねえで、ちょっとは心配しろー!」
「心配してますよー!」
まったく信用ならない返事だった。しかし、それでも圭一は練習を続けた。やがて、低い場所であれば、糸を使って身体を少し振り子のように動かせるようになった。
そして、ついに。
「……よし!」
圭一は壁から少し離れた場所に立った。
「……詩音!」
「はい?」
「ちょっと、見ててくれ!」
圭一は右腕を掲げた。射出口が、建物の上部へ向けられる。
シュッ!
白い糸が伸び、壁の上端へ張りついた。圭一はそのまま地面を蹴った。身体が宙へ浮かぶ。糸がぴんと張り、圭一の身体はゆっくりと弧を描き始めた。
「……おおっ!」
圭一の声が響いた。今までとは違う。自分の足で跳ぶのではなく、糸に引かれる力によって身体が動いている。
前へ。そして、少しずつ上へ。
圭一は身体を捻り、足元の壁へ向けて姿勢を整えた。
「……よしっ!」
次の瞬間、圭一は壁へ着地した。
両足がコンクリートへ張りつく。
そのまま身体を支え、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
そして。
「……やった」
小さな声が漏れた。
「……やったぞ」
圭一は自分の手首を見た。白い糸は、まだ壁の上部から伸びている。その糸を使って、確かに空中を移動した。ほんの短い距離だった。高さも大したことはない。
それでも。
「……やったああああっ!!」
圭一の歓声が、夜の建物の間に響き渡った。
「詩音! 見たか!? 今の見たかよ!?」
「はい! 見てましたよ!」
詩音も嬉しそうに笑った。
「すごいじゃないですか、圭ちゃん!」
「だろ!? だろ!?」
圭一は興奮したように叫んだ。
「これだよ! これ! 俺がやりたかったのは、こういうことなんだよ!」
圭一は壁から地面へ降りると、何度も自分の手首を眺めた。
何週間も悩んだ。
失敗した。
作り直した。
それでも諦めずに続けてきた。
そして、とうとう。蜘蛛の糸で身体を支え、空中を移動することに成功したのだ。
「……へへっ」
圭一は嬉しそうに笑った。
「……最高だぜ」
詩音はそんな圭一を見つめていた。先ほどまで十五階の高さに怯えていた少年が、今では子供のように喜んでいる。その姿を見ていると、詩音も自然と笑みがこぼれた。
「……ふふっ」
「……ん?」
「いえ。良かったですね、圭ちゃん」
「ああ!」
圭一は大きく頷いた。
「本当に、最高だぜ!」
練習を終えた頃には、夜も随分と更けていた。
圭一は屋上へ戻り、街の景色を眺めていた。
十五階の高さ。
つい先ほどまでは、下を見るだけで足が震えていた場所である。しかし今は、少しだけ違って見えた。もちろん、怖くなくなったわけではない。眼下の道路は相変わらず遠く、車も人も小さく見える。それでも、圭一はもう一度、街の向こうへ目を向けた。
建物と建物の間。夜空の下に広がる、無数の屋根。そして、その向こうに続く興宮の街。
いつか、あの間を自由に飛び回れるようになるのだろうか。
「……へへっ」
圭一は小さく笑った。
「……楽しみだな」
「……圭ちゃん」
背後から、詩音の声が聞こえた。
「ん?」
「そろそろ帰りましょうか」
「ああ。そうだな」
圭一は頷いた。
しかし、詩音はそこで何かを思い出したように口を開いた。
「……あっ、そうそう」
「ん?」
「圭ちゃん、最後に一つだけ」
「……何だよ?」
詩音はにっこりと笑った。
「今日の実地試験、何点だったと思います?」
「……は?」
圭一は目を瞬かせた。
「……点数?」
「ええ。スパイダーマン養成講座の、実地試験ですからねぇ」
「……おいおい」
圭一は呆れたように笑った。
「まだ続いてたのかよ、それ!」
「もちろんですよ」
詩音は楽しそうに答えた。
「さあ、何点でしょう?」
圭一は少し考えた。
そして、得意げに胸を張った。
「……百点満点だろ!」
「……ふふっ」
詩音は笑った。
「残念。七十点です」
「何でだよ!?」
「だって、圭ちゃん。最初はあんなに怖がってたじゃないですか」
「いや、あれは仕方ねえだろ! 十五階だぞ!?」
「それに、練習中に何度も大騒ぎしてましたし」
「だから、それも仕方ねえだろ!?」
「ふふっ。あと、軽口の方も忘れてましたね」
「……あっ」
圭一は固まった。そういえば、そうだった。
今日はウェブシューターの実地試験だけではなく、先ほど詩音から教わった軽口の練習も兼ねていたはずである。
しかし、実際にはどうだったか。最初は恐怖のあまり、まともに喋ることすらできなかった。
練習中も、何度も叫んでばかり。結局、軽口らしい軽口など一度も言っていない。
「……ちくしょう」
圭一は肩を落とした。
「……完全に忘れてたぜ」
「でしょう?」
詩音は満足げに頷いた。
「だから七十点です」
「……厳しいなぁ」
「ふふっ。でも、合格は合格ですよ」
「……おっ?」
圭一は顔を上げた。
「……マジか?」
「ええ」
詩音は微笑んだ。
「だって、ちゃんと怖がって、ちゃんと考えて、それでも最後には成功したんですから」
圭一は黙った。詩音は続けた。
「それに、最初から何でもできる必要はないでしょう? 今日できなかったことは、また次に練習すればいいんです」
「……なるほどな」
圭一は小さく頷いた。
「……そうだな」
「はい」
詩音は笑った。
「それじゃあ、次回も頑張りましょうね。スパイダーマンさん?」
圭一はしばらく彼女を見つめていた。
そして、ふっと笑った。
「……へへっ」
「……ん?」
圭一はゆっくりと片手を掲げた。
白いレンズの向こうから、詩音を見つめる。そして、少しだけ気取った声で言った。
「……どうも。親愛なる隣人、スパイダーマンです!」
詩音は一瞬、目を丸くした。
そして、楽しそうに笑い出した。
「……ふふっ! はい、上出来ですよ!」
「だろ!?」
圭一は得意げに胸を張った。
しかし、そこで何かを思いついたように首を傾げた。
「……そういや、詩音」
「はい?」
「俺、もっと格好いい決め台詞を考えたんだけどよ」
「……へえ?」
詩音は興味深そうに顔を上げた。
「どんなのです?」
圭一は大きく息を吸い込んだ。
そして、夜空へ向かって勢いよく叫んだ。
「――地獄からの使者、スパイダーマッ!!」
「…………」
詩音は固まった。
圭一は得意げに胸を張っている。
「……どうだ!?」
「…………」
「……詩音?」
「…………」
やがて、詩音の肩が小刻みに震え始めた。
「……ぷっ」
「……ん?」
「……あはっ……あはははははっ!!」
詩音は堪えきれず、盛大に笑い出した。
「もう!また地獄ですか! あはははっ!」
「お、おい! そんなに笑うことねえだろ!?」
「だ、だって……! 圭ちゃん、さっきまで親愛なる隣人って言ってたじゃないですか!」
「いや、だからよ! もっと迫力のある名乗りも必要かと思ってだな!」
「だから!地獄から来ちゃ駄目でしょう!」
詩音は腹を抱えて笑っていた。
圭一は憮然とした表情を浮かべた。
もっとも、マスクのせいでその顔は見えなかったが。
「……ちぇっ。結構格好いいと思ったんだけどなぁ」
「……ふふっ。圭ちゃん」
詩音はようやく笑いを落ち着かせると、にっこりと微笑んだ。
「……零点です」
「低すぎるだろおおおおっ!!」
圭一の絶叫が、夜の興宮に響き渡った。
それを聞いて、詩音はまた笑い出した。
赤と青のスーツを着た少年と、その隣で笑い転げる少女。
十五階の屋上には、相変わらず冷たい夜風が吹いていた。
しかし、二人にとっては、そんな寒さも気にならないほど賑やかな夜だった。
こうして、前原圭一のスパイダーマンとしての新たな一歩が始まった。
まだ街を自由自在に飛び回ることはできない。
まだ戦い方も、軽口も、未熟なところばかりである。
それでも、少しずつ。
一歩ずつ。
圭一は、自分の力を使いこなせるようになっていく。
そしていつの日か。
この興宮の夜空を、赤と青の蜘蛛男が自由に飛び回る日が来るのかもしれない。
もっとも、その時までに「地獄からの使者」という名乗りが矯正されているかどうかは、詩音の教育次第であった。
<雑談>
よくよく考えたら、圭一って東映版スパイダーマンの時代にほぼジャストじゃねぇか。特撮の見すぎてこうなった、ということで。(笑)