「親愛なる隣人、出動!」
興宮の夜空を、一つの赤い影が駆け抜けていた。
「――ひゃっほおおおおおおっ!!」
歓喜の叫びが、夜風とともに街へ響き渡る。地上数十メートル。中高層ビルの立ち並ぶ再開発地区を、赤と青のスーツに身を包んだ一人の少年が飛び回っていた。右手から伸びる白い糸がビルの外壁へと張りつき、その細い一本を支点として、少年の身体が大きな弧を描く。
前原圭一。つい二日前まで、十五階の屋上から下を覗いただけで足を震わせていた少年である。しかし、今の圭一には、その面影など微塵もなかった。
「うおおおおっ! すっげええええっ!!」
ビルとビルの間を通り抜け、勢いよく身体を振り上げる。足元には、街灯に照らされた道路が広がっていた。車のヘッドライトが白い光の帯となって流れ、その向こうには商店街の看板や、建設途中のビルに取りつけられた赤い警告灯が点々と輝いている。圭一は糸を離した。身体が宙へ放り出される。支えを失った身体は、それまでの勢いを保ったまま、夜空へと高く舞い上がった。
「うっひょおおおおっ!!」
一瞬、重力から解き放たれたような感覚が全身を包んだ。見下ろせば、先ほどまで頭上にあったビルの屋上が、いつの間にか足元に近づいている。そこからさらに身体が前へ進み、緩やかに上昇が止まる。
そして、落下。
圭一はすかさず右腕を伸ばした。
シュッ!
新たな糸が斜め前方のビルへと伸びる。糸が張りつき、身体に再び力がかかると、圭一は大きく両足を振り上げた。そのまま、振り子のようにビルの谷間を滑り抜ける。頬を撫でる風が、マスク越しにも感じられた。否、撫でるというより、叩きつけられていると言った方が正しい。風圧によってスーツの生地が細かく震え、耳元では絶え間ない風切り音が鳴っていた。
しかし、不思議と不快ではなかった。むしろ、心地よい。自分の身体がどこへ向かい、どのような軌道を描くのか。そのすべてを自分自身で決められるという感覚が、圭一を夢中にさせていた。
「はははっ! 最高だぜ、こいつぁ!!」
ウェブシューター二号が完成してから、二日。は
学校が終わるたびに、人気のない場所で練習を重ねていた。最初は、たった数メートル身体を揺らすだけでも精一杯だった。糸を放すタイミングを間違えて壁にぶつかりかけたり、飛び出す方向を誤って建物の屋上へ転がり込んだりと、散々な目にも遭った。
しかし、繰り返すうちに、少しずつ感覚を掴めるようになった。圭一が発見したのは、ただ腕の力だけで身体を引っ張ろうとしても上手くいかないということだった。糸はあくまで身体を支えるもの。重要なのは、自分が持っている勢いと、身体の向きを上手く利用することだった。最初は無理やり腕で方向を変えようとしていたが、それでは身体に余計な負担がかかる。むしろ、糸に身体を預け、振り子のように動く方が遥かに滑らかに移動できる。そして、頂点へ向かう途中で糸を離せば、その勢いを保ったまま次の建物へ飛び移れる。頭では理解できても、実際に身体を動かすとなると難しい。しかし圭一には、蜘蛛に噛まれたことで手に入れた並外れた身体能力があった。普通の人間ならば体勢を崩してしまうような場面でも、空中で身体を捻り、手足を動かすことで姿勢を立て直せる。それが、二日間という短い練習期間で、圭一がここまで上達できた最大の理由だった。もっとも、まだ完璧というわけではない。
「――よっしゃ! 次はあそこだ!」
圭一は前方にあるビルへ向かって腕を伸ばした。シュッ!白い糸が飛び出す。ところが、その先端は狙っていた建物へ届く前に、手前の看板へ張りついてしまった。
「……ん?」
身体が予想外の方向へ引っ張られる。
「お、おおおおっ!?」
圭一は慌てて糸を放した。そのまま身体が大きく横へ流れ、ビルの外壁が目前へ迫ってくる。
「うおおっ!? ちょっ、ちょっと待てええっ!!」
両足を前へ突き出し、壁面へ着地。しかし勢いを完全には殺しきれず、圭一はそのまま壁を数歩駆け上がることになった。ようやく止まったところで、圭一は壁に張りついたまま、大きく息を吐いた。
「……ふうっ。あっぶねえ……」
眼下には、人通りの少ない道路が見える。幸い、今の失敗を目撃した人間はいないようだった。圭一は胸を撫で下ろした。
「……危うくスパイダーマン初の交通事故になるところだったぜ」
もっとも、道路ではなく壁にぶつかったのだから、交通事故というより建物への衝突事故かもしれない。そんなくだらないことを考えながら、圭一は再び前方の街並みへ目を向けた。そして、ふっと笑った。
「……ま、失敗は成功の母ってな!」
圭一は壁を蹴った。赤と青の身体が再び空中へ飛び出す。シュッ!白い糸が伸び、今度こそ狙った建物へと張りついた。
「よっしゃあっ!!」
大きく身体を振り上げる。ビルの窓に、圭一の姿が一瞬だけ映り込んだ。赤と青のスーツ。胸元の黒い蜘蛛の印。そして、白いレンズのついたマスク。あの赤鬼の仮面を被り、街を駆け回っていた頃とはまるで違う。今の圭一は、まさしく自分が思い描いていたヒーローの姿をしていた。
「……へへっ」
圭一は笑った。何とも言えない充実感が、胸の奥から湧き上がってくる。この力を手に入れてから、随分と色々なことがあった。自分の身体が突然おかしくなり、壁に張りついた時は、本気でどうしたものかと思った。鉄平のような怪物と戦うことになるなど、夢にも思わなかった。それでも。今、こうして夜空を飛び回っている。自分で考え、自分で作った道具を使って。これまで見上げることしかできなかった街の景色を、誰よりも高いところから眺めている。
「……こりゃあ、たまんねえな!」
圭一は勢いよく身体を捻った。糸を離す。ビルの屋上を飛び越え、空中で一回転。そのまま両腕を大きく広げた。目の前には、興宮の街がどこまでも広がっている。遠くには山々の黒い稜線。その手前には、新しく建てられたマンション群。さらに眼下には、昔ながらの商店街と、新しい商業施設が入り混じる独特の街並み。圭一が東京から引っ越してきた時、興宮は奇妙な街だと思った。地方都市にしては異様なほど開発が進み、その一方で、少し道を外れれば古びた木造住宅や昔ながらの商店が残っている。しかし、今となっては。
「……いい街じゃねえか!」
圭一は笑った。そして、両腕を広げたまま夜空へ向かって叫んだ。
「――興宮の皆さーん! 親愛なる隣人、スパイダーマンでございまーす!!」
当然ながら、返事はなかった。しかし、それでも構わなかった。圭一はもう一度、右手を突き出した。シュッ!白い糸が夜空を切り裂く。そして赤と青の蜘蛛男は、再び街の中へ飛び込んでいった。
「――圭ちゃん、圭ちゃん。聞こえますか?」
不意に、耳元から声が響いた。
「……ん?」
「圭ちゃーん?」
「おう! 聞こえてるぜ!」
圭一は糸を離し、近くのビルの屋上へ着地した。耳元には、小型の無線機が取りつけられている。詩音から渡されたものであり、以前にも何度か使ったことがあった。もっとも、スイング中は風切り音が激しいため、声が聞き取りにくいこともある。
「随分楽しそうですねぇ」
「ああ! そりゃもう最高だぜ!」
「ふふっ。何よりです」
詩音は小さく笑った。
「でも、あんまり大声で叫ばない方がいいですよ?」
「……へ?」
「さっきから、無線越しに圭ちゃんの叫び声がずっと聞こえてましたから」
「……マジで?」
「はい。『ひゃっほおおおお!』とか、『俺は自由だあああ!』とか」
「ちょっ!? 聞いてたのかよ!?」
「ええ。ばっちり」
詩音は楽しそうに答えた。
「いやぁ、圭ちゃんがあんなにはしゃぐなんて。よっぽど嬉しかったんですね」
「……う、うるせえ!」
「ふふっ。別に馬鹿にしてるわけじゃありませんよ?」
「嘘つけ! 絶対笑ってんだろ!」
「はい。笑ってます」
「認めやがった!?」
圭一は思わず頭を抱えた。その様子が見えていれば、詩音はさらに笑っていたことだろう。
「……ったく。お前って奴は……」
「でも、安心しましたよ」
「……あ?」
「だって、二日前はあんなに怖がってたじゃないですか」
「……うっ」
「十五階の屋上で『死ぬ! 絶対死ぬ!』って騒いでた人が、今では街を飛び回ってるんですから」
「……あれは忘れろ」
「嫌です」
「即答すんなよ!?」
詩音はくすくすと笑った。しかし、やがて少しだけ声を落とした。
「……それで、圭ちゃん。装置の調子はどうです?」
「おう! 絶好調だぜ!」
圭一は右腕を掲げた。
「射出も安定してるし、糸の強度も問題なし! 昨日までは狙った場所に上手く撃てなかったけど、今日はだいぶ慣れた!」
「そうですか。それは良かったですね」
「ああ! あとはもうちょい動きを滑らかにできれば完璧だな!」
「ふむふむ」
詩音は少し考えるように黙った。そして、何やら思いついたように口を開いた。
「……ところで、圭ちゃん」
「ん?」
「せっかくそんなに上達したんですから、そろそろ本格的にお仕事してみません?」
「……仕事?」
「はい」
圭一は首を傾げた。
「……おいおい。何だよ、仕事って」
「そのままの意味ですよ」
「……へ?」
「スパイダーマンとしてのお仕事です」
圭一は一瞬、黙った。そして、ゆっくりと口元を緩めた。
「……ほほう?」
「ふふっ。興味ありそうですねぇ」
「そりゃあな!」
圭一は勢いよく立ち上がった。
「待ってました! ついにこの俺にも、ヒーローとしての依頼が舞い込んだってわけか!」
「ええ。まあ、そんなところです」
「よっしゃあっ!」
圭一は拳を握った。
「で!? 何だ!? 人質救出か!? 銀行強盗か!? それともまた怪物でも出たのか!?」
「……圭ちゃん」
「おう!?」
「そんなに嬉しそうに犯罪を待ち望まないでください」
「……あっ」
圭一は固まった。確かに、それでは本末転倒である。
「……いや、違うんだって! 別に事件が起きてほしいわけじゃなくてだな!」
「ふふっ。分かってますよ」
詩音は笑った。
「それで、今回の依頼なんですけど……」
そこで、少しだけ声色が変わった。
「……ある『薬屋』を調べてもらいたいんです」
「……薬屋?」
圭一は眉を寄せた。
「……何だよ。風邪薬でも買ってこいってのか?」
「違いますよ」
「じゃあ、薬局の宣伝でもすんのか?」
「……圭ちゃん」
「はい」
「真面目に聞いてください」
「……へいへい」
圭一は屋上の縁へ腰を下ろした。
「で、その薬屋ってのは何なんだ?」
「……簡単に言えば、違法な薬を売りさばいている人たちです」
圭一の表情が変わった。
「……違法な薬?」
「ええ。覚醒剤とか、そういうものですね」
「……なるほどな」
圭一は眼下の街を見下ろした。ネオンの輝く繁華街。人々が行き交う道路。そして、その裏側にある薄暗い路地。普通に暮らしていれば、なかなか関わることのない世界である。
「……で、そいつらがどうしたんだ?」
「最近、興宮の旧市街で、そういう薬を扱う人たちが増えているらしいんです」
「……へぇ」
「それも、ただ売ってるだけじゃなくて、別の場所から薬を運び込んで、あちこちに流しているみたいで」
「……運び屋ってことか?」
「そういうことですね」
詩音は頷いた。
「葛西が調べてくれたんですけど、どうやら最近になって、今まで見かけなかった人たちが出入りするようになったそうなんです」
「……ふむ」
「それで、その人たちが違法な薬を扱ってるんじゃないかって話がありまして」
「……なるほどな」
圭一は腕を組んだ。
「でもよ。そういうのって警察の仕事じゃねえのか?」
「もちろん、そうですよ」
「だったら警察に任せりゃいいじゃねえか」
「ええ。最終的には、そうしてもらいます」
詩音は一度言葉を切った。
「ただ、ちょっと事情がありましてね」
「……事情?」
「はい」
彼女の声が、少しだけ低くなった。
「……本来なら、こういう問題は園崎家が先に対処しておくべきなんです」
「……園崎家が?」
「ええ」
圭一は首を傾げた。
「……何でだよ?」
「まあ、色々とあるんですよ」
詩音は苦笑した。
「興宮には昔から、園崎家と付き合いのある人たちが沢山います。商店街の人たちもそうですし、土地や建物の管理に関わっている人たちもいます」
「……ああ。そういや、そうだったな」
「それで、そういう人たちから、街の中で困ったことがあると相談が来たりするんです」
「……へえ」
「もちろん、警察に相談することもあります。でも、昔からの付き合いもあって、まずは園崎家に話が来ることも少なくないんですよ」
「……なるほどな」
圭一は頷いた。確かに、園崎家は興宮でも相当な影響力を持っている。以前訪れた屋敷を思い出しても、普通の家とは到底思えない。まして、詩音の母親である茜が、ダム戦争の後始末や地域の交渉に関わっていたという話も聞いている。そんな家なら、街の問題について相談を持ち込まれることもあるのだろう。
「……で、今回もそういう話が来たってわけか?」
「はい。最近、商店街の裏手で怪しい人たちを見かけるって話がありましてね」
「……ふむ」
「それで葛西に調べてもらったら、どうやら薬の運びに関係してるらしい、と」
「……なるほど」
圭一は少し考えた。
「でもよ。それなら葛西さんが何とかすりゃいいんじゃねえのか?」
「……圭ちゃん」
「ん?」
「葛西一人に、何でもかんでも押しつけるわけにはいかないでしょう?」
「……ああ、まあ」
「それに、葛西が動くと、どうしても園崎家の人間だって知られちゃいますから」
「……なるほどな」
詩音は続けた。
「今回の相手は、まだ詳しいことが分かっていません。変に刺激して逃げられても困りますし、だからといって放っておくわけにもいきません」
「……そこで、俺の出番ってわけか」
「はい」
詩音は笑った。
「……圭ちゃんには、まず相手が本当に薬を運んでいるのか、確認してもらいたいんです」
「……ほう?」
「それで、もし現場で違法な取引をしているようなら、止めてもらう。もちろん、危険なら無理をせず、警察に連絡します」
「……なるほどな」
圭一はしばらく黙った。確かに、今回の仕事は怪物退治とは違う。相手は普通の人間である。しかし、違法な薬を売りさばいているとなれば、放っておくわけにもいかない。何より。
「……へへっ」
圭一は口元を緩めた。
「……つまり、初仕事ってわけだな!」
「ふふっ。そういうことです」
「よっしゃ!」
圭一は立ち上がった。
「任せとけ! このスパイダーマン様が、悪党どもをまとめてお縄にしてやるぜ!」
「……圭ちゃん」
「おう?」
「くれぐれも、やりすぎないでくださいね?」
「分かってるって!」
「本当ですか?」
「ああ! 相手は普通の人間なんだろ? 怪我させないように気をつけるさ!」
「……はい。それならいいんですけど」
詩音は小さく息を吐いた。
「それじゃあ、場所を説明しますね」
圭一は頷いた。そして、再び夜の街へ目を向けた。
「……よっしゃ。スパイダーマン、初仕事開始だ!」
興宮の旧市街。再開発地区から少し離れたその一帯には、古い商店や住宅が密集していた。表通りには飲食店や小さな商店が並び、夜になってもそれなりに人通りがある。
しかし、一本裏道へ入れば、途端に雰囲気が変わる。古びた倉庫。営業を終えた店舗。ひび割れたコンクリートの壁。そして、街灯の少ない細い道路。そんな一角を、赤と青の影が静かに移動していた。
「……ふむ」
圭一は建物の屋上へしゃがみ込み、眼下を見下ろした。少し離れたところに、古い倉庫がある。その前には、一台の小型トラックが停まっていた。荷台には幌がかけられ、運転席の近くでは二人の男が何やら話し込んでいる。
「……あれか?」
『ええ。葛西から聞いた場所は、その辺りです』
詩音の声が無線から響いた。
「……ふむ」
圭一は目を細めた。しかし、すぐに眉を寄せる。
「……なあ、詩音」
『はい?』
「俺、今あの倉庫の上にいるんだけどよ」
『ええ』
「……これだけじゃ、普通の運送屋と変わんなくねえか?」
『……そうですねぇ』
「だろ?」
圭一は腕を組んだ。トラックが停まっている。男が二人いる。それだけで違法な薬を扱っていると決めつけるわけにはいかない。まして、圭一には薬の取引に関する専門的な知識などない。外から見ただけで、何を運んでいるか分かるはずもなかった。
『圭ちゃん。とりあえず、少し様子を見てもらえますか?』
「……おう。了解」
『ただし、勝手に飛び込んじゃ駄目ですよ?』
「分かってるって!」
『……本当ですか?』
「信用ねえなぁ!」
圭一は呆れたように答えた。しかし、詩音が念を押すのも無理はなかった。これまでの圭一は、何か問題を見つけると、つい自分から飛び込んでしまうところがあった。特に鉄平との戦いでは、後先を考えずに動いてしまった場面も少なくない。今度は、同じ失敗を繰り返すわけにはいかなかった。
「……ま、しばらく観察するか」
圭一は屋上に腰を下ろした。そして、眼下の様子を眺め始めた。男たちは相変わらず話し込んでいる。時折、倉庫の方へ目を向けたり、道路の方を確認したりしているが、それだけでは何とも言えない。圭一は小さく欠伸をした。
「……ふぁあ……」
正直なところ、少し退屈だった。先ほどまであれほど気持ちよく街を飛び回っていたのに、今は暗い倉庫をじっと見つめるだけである。何とも地味な仕事だった。
「……なあ、詩音」
『はい?』
「ヒーローって、もっとこう……派手な仕事するもんじゃねえのか?」
『……何を言ってるんですか』
「いや、だってよ。俺、今ただ屋上で座ってるだけだぜ?」
『それも大事な仕事ですよ』
「……そうかぁ?」
『そうです。何も起きないなら、それに越したことはないでしょう?』
「……まあ、そりゃそうだけどよ」
圭一は頬杖をついた。すると、その時。
「……ん?」
倉庫の扉が開いた。中から別の男が姿を現す。男は大きな鞄を抱えており、外で待っていた二人へ何やら声をかけていた。圭一は身を乗り出した。
「……おっ。動きがあったぜ」
『本当ですか?』
「ああ。今、倉庫から男が一人出てきた」
『……何か持っています?』
「鞄だな。結構大きいやつ」
『ふむ……』
詩音は考え込んだ。圭一はそのまま様子を見守った。男は鞄を地面へ置くと、待っていた二人のうち一人と何かを話し始めた。その後、もう一人の男が鞄を持ち上げ、トラックの荷台へ運んでいく。そして、再び倉庫の中へ戻った。
「……何だ? 普通に荷物運んでるだけじゃねえか」
『……そうですねぇ』
詩音も少し困ったような声だった。しかし、次の瞬間。
「――おい! だから、話が違うって言ってんだろ!」
怒鳴り声が響いた。圭一は顔を上げた。倉庫の前で、男たちが言い争いを始めていた。
「……おっ?」
圭一は身を伏せた。男たちの声が、夜の静かな路地へ響いている。
「こっちは頼まれた通りに運んでんだぞ!」
「だから、数が合わねえって言ってんだよ!」
「知るかよ! そっちの確認が間違ってんじゃねえのか!?」
圭一は首を傾げた。どうやら、荷物のことで揉めているらしい。もっとも、何を運んでいるのかまでは分からない。しかし、話はそれだけでは終わらなかった。
「……だったら、薬は全部こっちで引き上げるぞ!」
その言葉に、圭一の目が細くなった。
「……薬?」
さらに男が続けた。
「こんなもん、警察に見つかったら終わりなんだぞ! 分かってんのか!?」
圭一はゆっくりと顔を上げた。
「……なるほどな」
無線機へ手を当てる。
「……詩音。どうやら当たりみたいだぜ」
『……本当ですか?』
「ああ。薬がどうとか、警察に見つかったら終わりだとか言ってやがる」
『……なるほど』
詩音は少し黙った。
『でも、まだ慎重にお願いしますね。何を扱っているか、実際には確認できてませんから』
「……おう」
圭一は頷いた。その時だった。倉庫の扉が再び開き、中から小柄な男が姿を現した。先ほどの三人とは違い、その男は随分と若く見えた。男は何かを訴えるように話していたが、他の男たちは聞く耳を持たない様子だった。やがて、一人が若い男の肩を乱暴に押した。
「……おいおい」
圭一は眉を寄せた。どうやら、単なる口論では済みそうにない。若い男が後ずさる。それを追うように、別の男が腕を掴んだ。
「――ちょっと待てよ!」
圭一は思わず立ち上がった。
『圭ちゃん?』
「悪い、詩音。ちょっと様子が変わった」
『……何があったんです?』
「揉めてる。しかも、一人が無理やり引っ張られてるみたいだ」
『……圭ちゃん』
「ああ。分かってる」
圭一は一度、深く息を吸い込んだ。そして、眼下の男たちへ目を向けた。
「……とりあえず、話を聞いてみるぜ」
「――おい、そこの兄ちゃん!」
突然、頭上から声が響いた。
「……あ?」
男たちが顔を上げる。しかし、そこには誰もいない。
「……何だ?」
「今、声しなかったか?」
男たちは周囲を見渡した。その時。
「――へっくしょん!」
何とも間の抜けたくしゃみが響いた。同時に。シュッ!白い糸が勢いよく飛び出した。
「……うおっ!?」
倉庫の前にいた男の一人が、突然飛んできた白い物体に驚いて身を引いた。糸は男のすぐ脇を通り抜け、背後の壁へ張りついた。
「……な、何だ!?」
男が振り向く。すると、その頭上から、赤と青の影がゆっくりと降りてきた。
「……あっ」
蜘蛛の巣を思わせる模様のついたスーツ。胸元には黒い蜘蛛の印。そして、白いレンズのついた奇妙なマスク。その人物は、壁に張りついた糸を片手で掴みながら、何とも気まずそうに男たちを見下ろしていた。
「……いや、違う違う」
赤と青の人物は慌てて首を振った。
「間違えた、間違えた! 今のは違うんだ!」
「……は?」
「いやぁ、悪いね! ちょっと鼻がムズムズしちゃってさ!」
男たちは呆然としていた。しかし、赤と青の人物はまるで気にしていない様子だった。
「……えーっと。とりあえず、もう一回やり直そうかな」
そう言うと、その人物は大袈裟に顔を上げた。
「……へっ、へっ、へっ……」
男たちは思わず身構えた。
「……へっくしょん!!」
シュッ!今度は左手首から白い糸が飛び出し、男の手に持っていた鞄へと張りついた。
「うわあっ!?」
男が驚いて鞄を放す。しかし、その鞄は地面へ落ちることなく、糸によって勢いよく引き上げられた。
「……おっと!」
赤と青の人物は片手で鞄を受け止めた。
「……いやぁ、参ったね! どうも今日は花粉がひどいみたいだ!」
「……な、何なんだ、てめえ!?」
男の一人が怒鳴った。しかし、赤と青の人物は軽く肩を竦める。
「おっと、失礼! 自己紹介がまだだったね!」
そう言うと、彼は両足を建物の壁へつけた。そのまま、まるで地面に立っているかのように、壁を数歩歩く。そして、男たちの少し前へ軽やかに着地した。
「どうもこんばんは! 親愛なる隣人、スパイダーマンです!」
「…………」
男たちは固まった。無理もない。突然頭上から声が聞こえたと思えば、白い糸が飛んできて、挙げ句の果てには全身タイツの奇妙な人物が降りてきたのである。しかも、そいつはくしゃみをするたびに糸を飛ばしている。どう考えても、まともな人間ではない。
「……何だ、こいつ……」
一人が呟いた。しかし、スパイダーマンは聞こえなかったかのように話を続けた。
「いやぁ、ちょうどこの辺りを散歩してたんだけどね。何やら楽しそうな声が聞こえてきたもんだから、つい寄っちゃったんだ!」
「……散歩?」
「そうそう! 夜の散歩って気持ちいいよねぇ! 特に屋上から見る景色なんて最高でさ!」
圭一は大袈裟に両腕を広げた。
「いやぁ、この街って本当に綺麗だよね! 昼間はちょっと騒がしいけど、夜になるとネオンがこう、ぱあっと輝いてさ!」
「……おい」
「ん?」
「……てめえ、何が目的だ?」
男の一人が低い声で尋ねた。圭一は首を傾げた。
「目的?」
「ああ」
「……うーん。そうだなぁ」
圭一は顎に手を当てた。そして、少しだけ考える仕草を見せる。
「……強いて言うなら、近所の見回りかな?」
「……見回り?」
「そうそう! ほら、最近この辺り、物騒なんでしょ?」
圭一は周囲を見渡した。
「怪物が出たり、妙な事件が起きたり、色々あるみたいだしねぇ」
そこで、男たちへ向き直った。
「……それでさ。君たち、さっきから何をそんなに揉めてるの?」
「……関係ねえだろ!」
「いやいや、そんなこと言わないでよ!」
圭一は笑った。
「困ってることがあるなら、相談に乗るよ? 僕、こう見えて結構親切なんだ!」
「……ふざけんな!」
男が怒鳴った。しかし、圭一は気にしない。
「……あ、それとも」
圭一は片手に持っていた鞄へ目を向けた。
「……この荷物のことで揉めてたのかな?」
男たちの表情が変わった。
「……おい。それを返せ」
「え? これ?」
圭一は鞄を掲げた。
「……駄目?」
「当たり前だろ!」
「……そっかぁ」
圭一は少し残念そうに肩を落とした。しかし、すぐに顔を上げる。
「……じゃあさ、一つ聞いてもいい?」
「……何だ」
「……これ、中身は何なの?」
「……!」
男たちは黙った。圭一は続けた。
「さっき、薬がどうとか言ってたよね?」
「……てめえ!」
「それに、警察に見つかったらまずいとか何とか」
圭一は首を傾げた。
「……もしかして、あんまり人に見せられないものだったりする?」
「……黙れ!」
男の一人が、突然圭一へ掴みかかった。しかし。
「……おっと!」
圭一は軽く身体を捻った。男の腕が空を切る。圭一はそのまま、ひょいと後ろへ跳び退いた。
「危ないなぁ! いきなり掴みかかってくるなんて!」
「……この野郎!」
男が再び突っ込んでくる。しかし圭一は、今度はその場で軽く跳び上がった。男の頭上を飛び越え、背後へ着地。
「……よっと!」
振り返った男が、驚いたように目を見開く。
「……なっ!?」
「いやぁ、元気がいいねぇ!」
圭一は笑った。
「でも、そんなに怒ると血圧上がっちゃうよ?」
「……ふざけやがって!」
男は拳を振り上げた。しかし、圭一はそれを軽く躱す。そして、片手を突き出した。
「……へっくしょん!」
シュッ!白い糸が飛び出し、男の袖口と背後の壁を繋いだ。
「……うおっ!?」
男は思わず足を止めた。腕を引こうとするが、糸がしっかりと張りついている。
「……な、何だこれ!?」
「……あっ!」
圭一はわざとらしく声を上げた。
「ごめんごめん! また出ちゃった!」
「……てめえ!」
「いやぁ、困ったなぁ! どうも鼻の調子が悪くてさ!」
そう言って、圭一は再び腕を構えた。
「……へっ、へっ……」
「……お、おい!?」
「……へっくしょん!!」
シュッ!白い糸が今度は男の胸元へ飛び、先ほどの糸と重なった。
「……うわあっ!?」
男はさらに身動きが取りにくくなった。圭一は満足そうに頷いた。
「……うん。これで風邪も治りそうだね!」
「……ふざけんなあああっ!!」
男が怒鳴る。しかし、圭一は再び首を傾げた。
「……あれ? まだ駄目?」
そして、わざとらしく鼻をすすった。
「……へっ、へっ……」
「……や、やめろ!」
「……へっくしょん!」
シュッ!今度は男の足元へ糸が飛び、靴と地面を繋いだ。
「……うおおおっ!?」
男は完全に動きを封じられてしまった。圭一は両手を腰へ当てた。
「……いやぁ、参った参った!」
そして、得意げに胸を張る。
「どうも今日は、鼻風邪がひどいみたいだねぇ!」
「……この野郎おおおっ!!」
男の怒声が、夜の路地へ響き渡った。その時。
『……ぷっ』
耳元から、小さな笑い声が聞こえた。圭一は一瞬、固まった。
『……あはっ……あははっ……!』
「……お、おい?」
『……圭ちゃん……! く、くしゃみって……! あはははっ!』
詩音だった。どうやら、無線越しに一部始終を聞いていたらしい。
「……おい、詩音! 笑うなよ!」
『だ、だって……! いきなりくしゃみで糸を撃つなんて……!』
「……いや、これはだな!」
『ふふっ! 圭ちゃん、随分楽しそうじゃないですか!』
「……う、うるせえ!」
圭一は思わず小声で言い返した。しかし、その様子を見た男たちは、さらに困惑したようだった。
「……おい、こいつ……誰と喋ってんだ?」
「……知らねえよ……」
男たちは互いに顔を見合わせた。圭一は慌てて咳払いをした。
「……こほん!」
そして、何事もなかったかのように男たちへ向き直った。
「……さて、と!」
圭一は両手を広げた。
「それじゃあ、そろそろ本題に入ろうか!」
「……てめえ、何者なんだよ……!」
倉庫の前では、残った男たちが警戒した様子で圭一を見つめていた。圭一は鞄を地面へ置き、両手を軽く掲げた。
「いやいや、さっき名乗ったでしょ? スパイダーマンだって」
「……そんな奴、聞いたことねえ!」
「……えっ!?」
圭一は大袈裟に仰け反った。
「嘘でしょ!? 最近、結構頑張ってるつもりなんだけどなぁ!」
「……知らねえもんは知らねえんだよ!」
「……そっかぁ」
圭一は肩を落とした。
「……やっぱり、まだ知名度が足りないか」
無線から、詩音の笑い声が小さく聞こえた。しかし、圭一は今度こそ気にしなかった。目の前には、まだ二人の男がいる。そのうち一人は、先ほどから若い男の腕を掴んだままだった。圭一はそちらへ目を向けた。
「……それでさ」
声の調子が、少しだけ変わった。
「……その人、離してあげない?」
「……あ?」
「ほら。嫌がってるみたいだし」
「……てめえには関係ねえだろ!」
「……そうかな?」
圭一は首を傾げた。
「……困ってる人がいるなら、関係ないってわけにもいかないんだけど」
男は舌打ちした。そして、若い男を乱暴に押しやると、圭一へ向き直った。
「……舐めやがって!」
男はゆっくりとポケットへ手を伸ばした。圭一はその動きをじっと見つめていたが、取り出されたものを見るなり、途端に身を強張らせた。
ナイフだった。
街灯の光を受け、銀色の刃が鈍く輝いている。
「こいつが何か分かるかぁ!」
男はナイフを突き出し、得意げに声を張り上げた。
「……え?」
圭一は一歩後ずさった。
「そ、それって……ま、まさか……ナイフ!?」
「へへっ! ようやく分かったか!」
「う、嘘だろ!? ちょっと待って! それ、本物!? 本当に刺さるやつ!?」
「当たり前だろうが!」
「いやいやいや! 待って待って! それは反則でしょ!? そんな物騒なもん出されたら、こっちだって困っちゃうって!」
圭一は両手を胸の前に掲げ、慌てふためいたように首を振った。その姿に、男はますます気を良くしたらしい。先ほどまでの警戒心はどこへやら、口元には下卑た笑みが浮かんでいる。
「はっ! 何がスパイダーマンだ! 結局、ただの腰抜けじゃねえか!」
「そ、そんなこと言われてもさぁ! こっちは丸腰なんだよ!? ほら、見て! 武器なんか持ってないでしょ!?」
圭一は両手を広げてみせた。
『……圭ちゃん?』
無線の向こうから、詩音の呆れたような声が聞こえてきた。
『……何をやってるんですか』
しかし、圭一はそれには答えなかった。男の方へ向き直ると、さらに情けない声を上げる。
「お、お願い! それだけはしまって! 頼むから! ね!?」
「だったら大人しく地面に伏せろ!」
「えぇ!? 地面!? こんなところで!? いやぁ、それはちょっと……スーツが汚れちゃうし……」
「ふざけてんのか、てめえ!」
「ふ、ふざけてないって! ほら、ちゃんと怖がってるじゃん! うわぁー! 怖い怖い! ナイフだぁー!」
圭一は両手で頭を抱え、大袈裟に身体を縮こまらせた。
もっとも、その白いレンズの奥では、男の動きが一つ残らず捉えられていた。ナイフを握る右手、踏み出した左足、前のめりになった上半身。蜘蛛の能力を得た圭一にとって、その動作はあまりにも緩慢だった。
しかし、男にはそんなことなど知る由もない。
「へへへ……さっきまでの威勢はどうしたよ!」
「いやぁ、参ったなぁ……」
圭一は困ったように頭を掻いた。
「……じゃあさ、一つだけお願いしてもいい?」
「あぁ!?」
「そのナイフ、ちょっと下げてくれない? ほら、危ないし」
「うるせえ!」
男が一歩踏み込んだ。
「これ以上ふざけた口叩くんじゃねえぞ!」
「……あっ、そう」
圭一は小さく頷いた。
「じゃあ、仕方ないか」
次の瞬間。
――シュパッ!
圭一の右手首から、白い糸が飛び出した。
「……あ?」
男が間の抜けた声を漏らす。
糸は男の股下へ一直線に飛び、その急所へ命中した。
「――ッ!?」
男の身体が、びくりと跳ねた。
「おっ?」
圭一はわざとらしく首を傾げた。
「……どうしたの?」
「お、おま……っ! な、何を……!」
「え? 何って……蜘蛛の糸だけど?」
圭一は自分の右手首を見せびらかした。
「ほら、さっき言ったじゃん。スパイダーマンだって」
「ぐ、おぉぉ……!」
男はナイフを取り落とし、その場に膝をついた。両手で股間を押さえ、苦悶の声を漏らしている。
しかし、圭一はまだ終わらなかった。
「おっと! 危ない危ない! 刃物を落としちゃ駄目でしょ!」
――シュパッ!
もう一本の糸が飛び、地面に落ちたナイフを絡め取った。そのまま軽く手首を引くと、ナイフは男の手の届かない場所へと放り出される。
「はい、没収っと!」
「て、てめぇ……!」
「ん? 何? まだ何かある?」
圭一はしゃがみ込み、男の顔を覗き込んだ。
「いやぁ、でもさ。さっきのは本当に怖かったんだよ? だってナイフだぜ? ナイフ! 俺、ああいうの苦手なんだよなぁ!」
『……圭ちゃん』
無線から、詩音の声が聞こえた。
『さっきから、随分と楽しそうですねぇ……』
「いやいや、詩音! 俺は真剣だって! ほら、危険な刃物を持った凶悪犯だぞ!? ここは慎重に対処しないと!」
『……その割には、相手の方がずっと怖がってるみたいですけど?』
「……気のせいじゃね?」
圭一は肩をすくめた。
すると、膝をついていた男が、怒りに顔を歪ませながら立ち上がろうとした。
「こ、この野郎……! ぶっ殺して……!」
「あっ! ちょっと待って!」
圭一は慌てたように両手を振った。
「駄目だって! そんな急に動いちゃ!」
――シュパッ! シュパッ!
今度は両手首から、短い糸が立て続けに飛び出した。
男の胸元へ。
続いて両腕へ。
さらに腹部、肩、足元へと、白い糸が次々に貼りついていく。
「な、何だこりゃ!? お、おい! やめろ!」
「いやぁ、暴れるからさ! 危ないでしょ?」
圭一は男の周囲を軽快に回り込みながら、手首を小刻みに動かした。射出される糸はどれも短い。しかし、一本一本が男の衣服や身体に絡みつき、重なり合うたびに、その自由を奪っていく。
「ほら、じっとして! すぐ終わるから!」
「ふ、ふざけんな! 取れねえ! 何だよこの糸!」
「蜘蛛の糸だってば! 何回言わせるんだよ!」
圭一は器用に男の背後へ回り込むと、さらに数本の糸を撃ち込んだ。白い繊維が幾重にも重なり、男の両腕は胴体へぴったりと固定される。それでも男は必死にもがき、身体を左右へ捩って抵抗した。
「て、てめえ! こんなことしてタダで済むと思ってんのか!? おい! 聞いてんのか!」
「……あー、はいはい」
圭一は呆れたように肩を落とした。
「悪いんだけど、ちょっと静かにしてくれない?」
「うるせえ! さっさとこの糸を――」
――シュパッ!
「んむっ!?」
男の口元へ、白い糸が勢いよく貼りついた。
途端に男の怒声が途切れる。
「……おっ! 静かになった!」
圭一は満足げに頷いた。
「いやぁ、便利だなぁ、これ! 今まで色々試してきたけど、こんな使い道もあったとは!」
「んんっ! んむむむっ!」
「ん? 何? 聞こえないなぁ」
圭一はわざとらしく耳に手を当てた。
「……ああ、そうか! 喋れないのか! いやぁ、ごめんごめん!」
『……圭ちゃん』
無線から詩音の声が聞こえた。
『……今の、絶対わざとですよね?』
「え? 何が?」
『……いえ、もういいです』
圭一は肩をすくめると、再び男へ向き直った。
「さてと! それじゃ、仕上げといきますか!」
――シュパッ! シュパッ!
圭一は左右のウェブシューターを交互に操作し、男の身体へ次々と糸を放った。胸元から腹部、腰、膝、そして足首へ。何本もの白い糸が折り重なり、男の身体を包み込んでいく。
「んんんーっ! んむむっ!」
「はいはい、動かない動かない! もうちょっとだから!」
圭一は男の周囲をぐるりと回り、最後に足元へ糸を撃ち込んだ。自由を奪われた男は、そのままバランスを崩して尻餅をつく。
「んぐっ!?」
「……よし!」
圭一は両手を腰に当て、自分の作品を眺めた。
そこには、首から下を白い糸でぐるぐる巻きにされ、おまけに口まで塞がれた男が転がっていた。鼻の周囲だけは空いているが、それ以外はまるで巨大な繭である。
「……うーん」
圭一は顎に手を当てた。
「なかなかいい出来じゃないか? ちょっと不格好だけど、初めてにしちゃ上出来だろ!」
「んんんんっ!!」
「おっと、そうだった」
圭一は男の口元を覗き込んだ。
「鼻は塞いでないから、呼吸はできるよな? よし、大丈夫!」
そして、満足げに立ち上がった。
「それじゃ、警察の人が来るまで大人しくしててくれよ! あ、ちなみに糸を無理やり剥がそうとしても無駄だからね?」
「んむむむむっ!!」
「……いやぁ」
圭一はしみじみと呟いた。
「さっきまであんなにうるさかったのに、すっかり静かになっちゃったなぁ」
『……圭ちゃん』
「ん?」
『……随分と性格が悪いヒーローですねぇ』
詩音の声には、呆れと笑いが入り混じっていた。
「何言ってんだよ、詩音! 俺はただ、平和的に悪党を無力化しただけだぜ?」
『……平和的、ですか』
「そうそう! 殴ってないし、蹴ってないし! な?」
圭一は繭の中の男に同意を求めるように顔を向けた。
「……なあ?」
「んんんんんっ!!」
男は必死に何かを訴えていたが、何を言っているのかはさっぱり分からない。
圭一はやれやれと肩をすくめた。
「……まったく。助けてやったってのに、礼儀のなってねえ奴だなぁ」
『……誰を助けたんですか、誰を』
「ん? そりゃもちろん……」
圭一はそこで、ようやくもう一人の男へ視線を向けた。
「……あれ?」
先ほどまで威勢よく騒いでいたもう一人の男は、いつの間にか数歩後ずさっていた。目の前で仲間が白い繭に変えられていく光景を、呆然と眺めていたらしい。
圭一はそんな男に向かって、ひらひらと手を振った。
「やあ! お待たせ!」
「ひっ……!」
「いやぁ、悪い悪い! ちょっとこっちに夢中になっちゃってさ!」
圭一は繭になった男を親指で示した。
「……それで、君はどうする?」
男は答えなかった。ただ、目の前の赤と青の蜘蛛男を、恐ろしいものでも見るように見つめていた。
「ちなみに……」
圭一は右手首のウェブシューターを軽く掲げた。
「……まだ糸、たっぷり残ってるんだけど?」
「ひ、ひいいいいっ!!」
男は悲鳴を上げると、踵を返して逃げ出そうとした。
しかし、その時には既に圭一の右腕が前へ伸びていた。
――シュパッ!
白い糸が飛び出し、男の上着の背中へ張りついた。
「……うわっ!?」
圭一は軽く手首を引いた。それだけで男は体勢を崩し、勢いよく尻餅をつく。その隙に、圭一はもう一方の腕から糸を放ち、男の上着を背後の壁へ固定した。
「……はい! これで一人追加!」
「……くそっ! 何なんだよ、これ!」
男は必死にもがいた。しかし、糸はびくともしない。
圭一は満足そうに頷いた。
「……うんうん。やっぱり二号はいいねぇ!」
『……圭ちゃん、随分と調子がいいですねぇ』
「当たり前だろ。 この日のために何回改良したと思ってんだよ!」
圭一は得意げに手首の装置を掲げた。
「今じゃあ、こんなふうにちょっと指を動かすだけで――」
その時だった。
「――この野郎!」
倉庫の入口から、もう一人の男が飛び出してきた。
手には、一本の鉄パイプが握られている。
「……おっと?」
男は怒声を上げながら駆け寄り、その鉄パイプを大きく振り上げた。しかし、圭一は慌てなかった。
以前なら、反射的に殴り返していたかもしれない。だが、相手は普通の人間である。蜘蛛の力を持つ圭一が、まともに拳を振るえばどうなるか。それは、鉄平との戦いで既に思い知らされていた。
圭一は軽く身体を沈めた。
鉄パイプが頭上を通り過ぎる。
「……うおっ!?」
男は空振りした勢いで前のめりになった。圭一はすかさず横へ回り込み、鉄パイプの先端へ糸を撃った。
――シュパッ!
白い糸が巻きつく。
「……はい、没収!」
圭一は糸を引き、男の手から鉄パイプを奪い取った。そのまま、近くの屋根の上へ放り投げる。
「……なっ!?」
男が呆然とする。
圭一は軽く肩をすくめた。
「危ないよ、そんなもの振り回しちゃ!」
「……て、てめえ……!」
「ほら、もし誰かに当たったら大変でしょ?」
圭一は首を傾げた。
「……っていうか、あれだけ大きく振りかぶったら、当てる前にバレちゃうと思うんだけどなぁ」
「……くそっ!」
男は後ずさった。
そして、突然踵を返して走り出す。
「……あっ!」
圭一は声を上げた。
「ちょっと待ってよ! まだ話の途中なんだけど!」
しかし、男は振り返らない。そのまま細い路地へ飛び込もうとした。
圭一は軽く溜息を吐いた。
「……仕方ないなぁ」
右腕を伸ばす。
――シュパッ!
白い糸が男の上着の背中へ張りついた。
「……うおっ!?」
圭一はその糸を引き、男の勢いを弱めた。そして、軽く跳び上がる。男の頭上を飛び越え、進路を塞ぐように着地した。
「……はい、通行止め!」
「……な、何なんだ、てめえはぁっ!?」
男は悲鳴のような声を上げた。
圭一は両手を腰へ当てた。
「だから、スパイダーマンだってば!」
そして、片手を軽く掲げる。
「……ほら、落ち着いてよ。別に怪我させるつもりはないんだからさ」
男は息を荒くしていた。しかし、圭一がそれ以上近づかないことを確認すると、ようやく動きを止めた。
圭一はその様子を見て、小さく頷いた。
「……そうそう。その調子!」
そのまま、ゆっくりと口を開く。
「……それじゃあ、少しお話ししようか」
数分後。
倉庫の前には、奇妙な光景が広がっていた。
壁際には、白い糸によって動きを封じられた男たち。一人は全身を繭のように包まれ、もう一人は上着を壁へ貼りつけられている。そして最後の一人も、圭一に説得され、両手を糸で固定されたまま座り込んでいた。
少し離れたところには、先ほどまで運ばれていた鞄や荷物がまとめて置かれている。
そして、その前に立っているのは、赤と青のスーツを着た蜘蛛男だった。
「……ふうっ!」
圭一は大きく息を吐いた。
「……一件落着、ってところかな?」
『……お疲れ様です、圭ちゃん』
詩音の声が響いた。
「おう! どうだ?今の」
『ふふっ。なかなか頑張りましたねぇ』
「だろ!?」
圭一は得意げに胸を張った。
「いやぁ、やっぱりウェブシューター二号は最高だぜ! あいつら全然動けなくなっちまったしな」
『……圭ちゃん』
「ん?」
『……怪我はありませんか?』
「……へ?」
『圭ちゃんのです』
「ああ! 全然平気だぜ!」
圭一は両腕を広げた。
「ほら、この通り!」
『……見えませんけどね』
「……あっ」
圭一は固まった。
そうだった。
詩音は無線越しに声を聞いているだけである。圭一が何をしているのか、実際に見えているわけではない。
「……わ、悪い悪い!」
『ふふっ。まったく、圭ちゃんは……』
詩音は呆れたように笑った。しかし、すぐに真面目な声へ戻った。
『それで、荷物の方はどうです?』
「……ああ」
圭一は足元の鞄へ目を向けた。男たちが運んでいた荷物である。もっとも、中身までは確認していない。
「……まだ開けてねえけど、どうする?」
『……そのままにしておいてください』
「……ん?」
『中身は警察に確認してもらいましょう。圭ちゃんが勝手に触る必要はありませんから』
「……なるほどな」
圭一は頷いた。
『葛西にも連絡しました。今、警察へ知らせてもらっています』
「……おお。仕事が早いな!」
『ふふっ。圭ちゃんが暴れてる間に、こっちも色々やってたんですよ?』
「暴れてねえよ」
『……そうですか?』
「そうだよ。むしろ、かなり穏便に済ませた方だぜ!?」
圭一は思わず言い返した。
確かに、今回は相手を殴っていない。鉄パイプを振り回してきた男も、糸で武器を取り上げただけである。少なくとも、以前のように力任せに戦ったわけではなかった。
もっとも、相手を繭にして散々からかったことまで穏便と言えるかは、少々疑問だったが。
『……はいはい。分かってますよ』
詩音は笑った。
『でも、圭ちゃん。まだ終わったわけじゃありませんからね』
「……?」
『警察が来るまで、もう少し周囲に気をつけていてください』
「……おう。了解!」
圭一は頷いた。
そして、倉庫の前へ目を向けた。
捕まえた男たちは、すっかり大人しくなっていた。
そのうち一人は、先ほどから圭一を恨めしそうに睨んでいる。
あのナイフを持っていた男だった。
「……ああ、そうだ」
圭一は男の前へしゃがみ込んだ。
「そういや、君だけまだ喋れないんだったな」
「んんんっ! んむむむっ!」
「はいはい、分かってるって!」
圭一は男の口元に貼りついた糸の端を掴み、ゆっくりと剥がしてやった。
「……ぷはっ!」
男はようやく口を開けると、大きく息を吐いた。
「……て、てめえ……!」
「やあ! おかえり!」
圭一は軽く手を振った。
「……おかえりじゃねえよ! 何なんだよ、あの糸は!?」
「えー? せっかく取ってあげたのに?」
圭一は腰に手を当てた。
「……そんな怖い顔しないでよ!」
「……てめえのせいだろ!」
「……えっ?」
圭一は首を傾げた。
「……いやいや、僕のせいって言われてもなぁ」
そして、少しだけ考える。
「……まあ、確かに糸でぐるぐる巻きにしちゃったのは悪かったかもしれないけどさ」
「……だったら解けよ!」
「……それは駄目!」
圭一は即答した。
「だって、また暴れられたら困るじゃねぇか!」
「……くそっ!」
男は舌打ちした。
圭一は苦笑した。
「……まあまあ。そんなに怒らないでよ」
そして、少しだけ身を乗り出した。
「……それより、ちょっと聞きたいんだけどさ」
「……何だよ」
「……君たち、本当にあの薬を売ってたの?」
男は黙った。
圭一は続けた。
「……いや、別に今ここで全部喋れってわけじゃないんだけど」
少しだけ声を落とす。
「……もしそうなら、もうやめた方がいいよ」
「…………」
「……あんなもの売ったって、誰も幸せにならないだろ?」
男は何も答えなかった。
圭一も、それ以上は追及しなかった。
正直なところ、圭一には彼らがどういう事情で薬を扱うようになったのか分からない。金のためかもしれない。誰かに頼まれたのかもしれない。あるいは、もっと別の事情があるのかもしれない。
しかし、だからといって、違法な薬を売ることが正当化されるわけではない。
圭一はゆっくりと立ち上がった。
「……まあ、あとは警察の人に話してよ」
そして、軽く肩をすくめた。
「僕はただの、親愛なる隣人だからね!」
男は呆れたように顔を背けた。
圭一は苦笑した。
しかし、その時。
「……あ、そうだ」
圭一はふと思いついたように顔を上げた。
「……一つ忘れてた!」
男たちが怪訝そうに圭一を見る。
圭一は右腕を掲げた。
「……へっ、へっ……」
「……お、おい!?」
男の一人が顔を引きつらせた。
「……へっくしょん!!」
――シュパッ!
白い糸が飛び出し、男のすぐ横にある壁へ張りついた。
「……うわああっ!?」
圭一は大袈裟に頭を抱えた。
「……あちゃあ! また間違えた!」
「……てめえええっ!!」
男の怒声が響く。
圭一は笑いながら両手を振った。
「ごめんごめん! 今度こそ本当に最後だから!」
『……圭ちゃん!!』
無線から、詩音の声が響いた。
「……へ?」
『……遊ばないでください!!』
「……っく、あはははは」
圭一は笑いをこらえ切らずに爆笑した。同時に詩音も笑いを漏らす。
『まったく! せっかく上手くいったんですから、最後までちゃんとしてください』
「……わ、悪かったって!」
『……もう!』
詩音は呆れてなのか、あるいは笑い憑かれていたのか、溜息を吐いた。
圭一は頭を掻いた。もっとも、マスクの上からでは、ただ頭を撫でているようにしか見えなかったが。
「……へいへい。反省してますよ」
『……本当ですか?』
「……ほんとだって」
圭一は慌てて答えた。
すると、詩音はようやく小さく笑った。
『……ふふっ。なら、よろしいです』
圭一は胸を撫で下ろした。
「……ったく。結構厳しいなぁ」
『圭ちゃんが調子に乗るからですよ』
「……へいへい」
圭一は肩をすくめた。
そして、改めて夜の街へ目を向けた。
遠くから、微かにサイレンの音が聞こえてくる。
どうやら、警察が近づいてきたらしい。
「……おっ」
圭一は顔を上げた。
「……詩音。そろそろ来たみたいだぜ」
『……そうですか』
「ああ」
圭一は頷いた。
そして、捕まえた男たちへ目を向けた。
「……それじゃあ、僕はそろそろ失礼するね!」
「……あ?」
男が顔を上げた。
圭一は片手を掲げた。
「警察の人が来るから、ちゃんと説明してあげてよ!」
「……てめえ、逃げんのか!?」
「……逃げる?」
圭一は首を傾げた。
そして、ふっと笑った。
「……いやいや。逃げるんじゃないよ」
圭一は両腕を広げた。
「……次の仕事が待ってるかもしれないでしょ?」
そう言うと、右腕を頭上へ伸ばした。
――シュパッ!
白い糸が伸び、建物の外壁へ張りつく。
圭一はその糸を軽く引いた。そして、男たちへ最後に手を振った。
「……それじゃあ、またね!」
次の瞬間。
圭一の身体が勢いよく宙へ舞い上がった。
「……うおっ!?」
男たちは目を見開いた。
赤と青の蜘蛛男は、建物の壁を駆け上がるように移動し、そのまま屋上の向こうへ姿を消した。
残された男たちは、ただ呆然と夜空を見上げていた。
そして。
「……何だったんだ、あいつ……」
誰かが、ぽつりと呟いた。
しかし、その問いに答えられる者は、誰一人としていなかった。
「――いやっほおおおおっ!!」
興宮の夜空に、再び歓喜の叫びが響き渡った。
圭一はビルの間を勢いよく飛び回っていた。先ほどまでの緊張感など、すっかり消え失せている。
「……へへっ! どうだ、詩音!」
『……何がです?』
「初仕事だよ、初仕事!」
圭一は勢いよく身体を振り上げた。
「いやぁ、なかなか上手くいったんじゃねえか!?」
『……そうですねぇ』
詩音は少し考えるように答えた。
『……まあ、合格点はあげてもいいかもしれませんね』
「……おっ!?」
圭一は目を輝かせた。
「……マジか!?」
『ええ』
「……よっしゃあっ!!」
圭一は拳を握った。
そして、思わず夜空へ向かって叫んだ。
「――スパイダーマン、初仕事大成功だああああっ!!」
『……圭ちゃん』
「……ん?」
『……声、大きいですよ』
「……あっ」
圭一は慌てて口を閉じた。
しかし、すぐに笑い出した。
「……はははっ! 悪い悪い!」
詩音もつられるように笑った。
『……まったく。本当に楽しそうですねぇ』
「そりゃあな!」
圭一は頷いた。
「……だってよ。何ていうかさ」
『……はい?』
「……ようやく、本当にスパイダーマンになれた気がするんだよな」
詩音は黙った。
圭一は続けた。
「……今までは、ただ自分の力に驚いて、装置を作って、怪物と戦って……って感じだっただろ?」
『……ええ』
「……でも、今日は違った」
圭一は眼下の街を見渡した。
輝くネオン。行き交う車。夜道を歩く人々。
その誰もが、圭一の存在に気づいているわけではない。
しかし、それでも構わなかった。
「……自分から街を見回って、困ってる人を見つけて、ちゃんと助けられた」
圭一は笑った。
「……何か、いい気分だぜ」
無線の向こうで、詩音はしばらく黙っていた。
そして、やがて小さく笑った。
『……そうですね』
その声は、先ほどまでとは少し違っていた。
『……私も、圭ちゃんに頼んで良かったと思ってますよ』
「……おっ?」
『ふふっ。だって、園崎家の人間が直接動いたら、色々と面倒なことになってたかもしれませんから』
「……ああ。そういや、そうだったな」
『でも、圭ちゃんのおかげで、少なくとも今夜の取引は止められました』
「……へへっ」
圭一は照れ臭そうに笑った。
しかし、すぐに得意げな声へ戻る。
「……ま、そういうことなら、またいつでも頼ってくれよ!」
『……ふふっ。本当ですか?』
「ああ!」
圭一は大きく頷いた。
「何たって、俺はスパイダーマンだからな!」
『……圭ちゃん』
「……ん?」
『……僕、でしょう?』
「……あっ、悪い悪い。忘れてた」
圭一は固まった。
詩音はくすくすと笑った。
『……ふふっ。まだまだですねぇ』
「……ちくしょう!」
圭一は思わず頭を抱えた。
しかし、すぐに笑い出した。
「……まあ、いいじゃねえか! ちょっとくらい!」
『……駄目です』
「……厳しいなぁ!」
『ふふっ。教育係ですから』
詩音は楽しそうに答えた。
圭一は呆れたように溜息を吐いた。
しかし、その表情は明るかった。
そして、再び右腕を伸ばす。
――シュパッ!
白い糸が夜空を切り裂いた。
圭一は身体を大きく振り上げる。そして、頂点へ向かう途中で糸を離した。
赤と青の身体が、再び夜空へ舞い上がる。
眼下には、興宮の街が広がっていた。
そのすべてが、今の圭一には新鮮だった。
これまで歩いていた道路。見上げることしかできなかった建物。そして、何気なく通り過ぎていた街の風景。
それらが、今はまるで違って見える。
圭一は両腕を広げた。
夜風が全身を包み込む。
「……へへっ!」
圭一は笑った。
そして、勢いよく叫んだ。
「――さあて! 次はどこへ行こうかなぁ!!」
その声は、夜の興宮へと響き渡った。
こうして、前原圭一のスパイダーマンとしての本格的な活動が始まった。
まだ世間には、ほとんど知られていない。まだ街の人々も、その正体を知らない。
しかし、それでも。
赤と青の蜘蛛男は、確かにこの街に存在している。
そして、これからも。
誰かが助けを求める限り、興宮の空を自由自在に飛び回ることになるのだろう。
もっとも、その前に。
『……圭ちゃん』
「……ん?」
『……ところで、今日の報告書なんですけど』
「……は?」
『……ちゃんと書いてくださいね?』
「……ほ、報告書!?」
『はい』
「……何だよ、それ!?」
『今日、何をしたのか。どんな人たちがいて、何を確認したのか。後で整理しておきたいですから』
「……ちょっ、待てよ! そんな話聞いてねえぞ!?」
『……ふふっ。今、言いました』
「……お前なぁ!!」
圭一の絶叫が、夜空に響き渡った。
その声を聞いて、詩音はまた楽しそうに笑い出した。
どうやら、スパイダーマンの仕事というものは、悪党を捕まえて終わりというわけではないらしい。
そんな現実を、圭一は早くも思い知らされることになるのだった。
<雑談>
作者はアメスパも好きです。
トビー版 → 一番強いスパイダーマン
アンドリュー版 → 最も蜘蛛らしいスパイダーマン
トムホ版 → 若々しく多才なスパイダーマン
圭一版 → 最も口が達者なスパイダーマン(自称)
……なお、相棒からは軽口の再教育が必要だと思われている模様。