放課後。
中学校の屋上には、初夏の生温い風が吹いていた。フェンスの向こうには再開発の進む興宮の街並みが広がり、建設途中の高層ビルからは、今も工事の音が響いている。
そんな景色を背に、前原圭一はベンチへ腰を下ろしていた。
「……で、結局どうなったんだ?」
「どうなった、とは?」
隣に座る園崎詩音が、手元の新聞から顔を上げた。
「昨日の女だよ。あのトカゲ女。そっちでは何か聞いてないのか?」
「ああ、律子さんのことですか」
詩音は新聞を広げ、記事の一角を指差した。
「今朝の報道によると、事件の後、警察に身柄を確保されたそうです。詳しい事情については、まだ調査中みたいですね」
「……ふぅん」
圭一は新聞を覗き込んだ。
昨夜、興宮の再開発地区で発生した騒動は、今朝から各局のニュースで大きく取り上げられていた。異様な姿の女が暴れ回り、周辺の建物に被害が出たこと。そして、現場に現れた正体不明のスパイダーマンと、救助活動に従事したキャプテン・トミタケの存在。
もっとも、新聞の内容はテレビと大差なかった。
事件の経緯については不明な点が多く、女がどうしてあんな姿になったのかも明らかにされていない。
「……間宮律子、ねぇ」
圭一は小さく呟いた。
昨夜、あれほど苦戦させられた相手が、ごく普通の名前を持つ一人の女性だったというのは、何とも奇妙な感覚だった。
戦闘の終盤、女の身体は次第に人間の姿へ戻っていった。あの時の光景は、今もはっきり覚えている。
「……それにしても、変だよな」
「何がです?」
「いや、あいつの身体だよ。爪も尻尾も、どう見たって本物だったじゃねえか。それが最後には元に戻っちまうんだぜ?」
圭一は自分の手を見下ろした。
蜘蛛に噛まれたことで、圭一自身も普通の人間とは異なる身体能力を手に入れている。しかし、あの女の場合は、それとは明らかに違っていた。
筋肉も皮膚も、身体の構造そのものが変化していたのである。
「しかも、あの回復力だ。普通の人間なら立ってられねえような攻撃を受けても、すぐに動き出すんだぜ? 一体どうなってんだよ、あの身体」
「……そうですねぇ」
詩音は少し考え込んだ。
「病気か何かなんでしょうか?」
「さあな。俺だって医者じゃねえし、そこまでは分かんねえよ」
圭一は肩を竦めた。しかし、そこでふと、昨夜の戦闘の光景が頭をよぎった。
リザードウーマンとの戦いも、ようやく終わろうとしていた頃のことである。圭一はウェブ・グレネードを使って女を拘束しようとした。ところが、その直前、何者かが現れ、突然銃撃を仕掛けてきたのだ。
あの連中は、一体何者だったのだろうか。
「……そういや、詩音」
「はい?」
「昨日の連中のことなんだけどさ」
「……昨日?」
「ほら、リザードウーマンと戦ってた時に、いきなり銃を撃ってきた奴らだよ」
その言葉を聞くと、詩音は表情を引き締めた。
「……ああ、あの人たちですか」
「ああ。思い出してみりゃ、妙な話だと思ってさ。俺があの女を捕まえようとした途端、いきなり銃撃してきたんだぜ?」
圭一は腕を組み、昨夜の出来事を思い返した。
突然響いた銃声。銃を構えた正体不明の男たち。そして、自分へ向けられた明らかな敵意。あの時はリザードウーマンへの対処に追われ、相手の正体を確かめる余裕などなかった。しかし、改めて考えてみると、どうにも不可解なことばかりだった。
「……あいつら、何がしたかったんだろうな?」
「……そうですねぇ。圭ちゃんを狙っていたのか、それとも、あの女の人が目的だったのか……」
「俺を?」
「ええ。少なくとも、圭ちゃんに向かって撃ってきたんでしょう?」
「……まあ、そうなんだけどさ」
圭一は頭を掻いた。
「でも、俺があいつらに何かした覚えなんてねえぜ? そりゃ、最近は街中で派手に暴れてるから、目をつけられてもおかしくねえけど……」
「ふふっ。そこは少し自覚があるんですね」
「……おい!」
詩音は小さく笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「ただ、圭ちゃん。あの人たちが何を目的にしていたのかは、まだ分かりませんよ。もしかすると、リザードウーマンを捕まえようとしていたのかもしれませんし」
「……だったら、何で俺まで撃つんだよ。こっちはあいつを捕まえようとしてたんだぜ?」
「……確かに、そうですよねぇ」
詩音は顎に手を当て、しばらく考え込んだ。
「例えばですけど……あの女の人を、警察に捕まえられたくなかったとしたら?」
「……ん?」
「圭ちゃんが先に捕まえてしまったら、その人たちにとって何か都合が悪かったのかもしれません。だから邪魔をした、とか」
圭一は目を瞬かせた。
「……なるほどな。つまり、あいつらはリザードウーマンを連れ去ろうとしてたってことか?」
「そういう可能性もある、というだけですよ。今は何の証拠もありませんから」
「……まあなぁ」
圭一は溜息を吐いた。
「でも、普通の警察じゃなかったよな、あいつら。そもそも何の説明もなしに撃ってきやがったし」
「ええ。少なくとも、正体の分からない人たちが武器を持って現れたというのは、気になりますね」
「……だろ?」
「葛西にも、一応調べてもらいましょうか。あの時間に現場の近くで、不審な車や人を見かけた方がいないかどうか」
「……おお、頼むぜ!」
「ただし、あまり期待しないでくださいね。圭ちゃん自身、相手がどこの誰かも分からないんですから」
「……分かってるって」
圭一は頷いた。
何者かが、リザードウーマンを追っていた。
いや、あるいは、最初からスパイダーマンを狙っていたのかもしれない。どちらにせよ、単なる通りすがりの集団とは考えにくかった。
しかも、あの女は人間離れした身体能力を持っていたのである。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「もし、あの女を捕まえようとしてたんだとしたらさ……あいつら、何であんな化け物みてえな奴のことを知ってたんだろうな?」
詩音は答えなかった。
圭一は新聞へ視線を落とした。昨日まで誰も知らなかった怪物と、その怪物を追う正体不明の武装集団。どちらも突然現れ、騒動の中へ消えていった。
「……何か、裏がありそうだよなぁ」
「……ええ。私も、そう思います」
詩音は静かに頷いた。しかし、そこで何かを思い出したように顔を上げた。
「……あ、そういえば。もう一つ気になっていることがあるんです」
「……ん?」
「昨日、あの女の人が園崎家の名前を口にしたって言ってましたよね?」
「ああ。確かに言ってたぜ」
圭一は頷いた。
昨夜の戦闘中、あの女は園崎という名前を口にしていた。その詳しい意味までは分からなかったが、少なくとも好意的な様子ではなかった。
「……心当たりはねえのか?」
「さあ。今のところは」
詩音は首を傾げた。
「うちは昔から、この辺りの仕事や土地に関わりがありますからね。恨みを持っている人がいても、不思議じゃありませんけど」
「……そんなもんなのか?」
「ええ。ほら、今の興宮って随分変わったでしょう?」
詩音はフェンスの向こうを指差した。
道路の先には建設中の高層ビルが並び、巨大なクレーンがゆっくりと動いていた。
「再開発で新しい会社が進出すれば、儲かる人もいれば、昔の仕事を失う人もいます。園崎家がその全部に関わっているわけではありませんけど、恨みの矛先を向けられることはあるでしょうね」
「……なるほどな」
圭一は頷いた。
「じゃあ、間宮律子もそういう一人なのか?」
「分かりません。そもそも、あの人が何をしていたのかも知らないんですから」
詩音は苦笑した。
「だからこそ、調べてみたいんですよ。うちと直接何かあったのか、それとも別の理由なのか」
「……そうだな」
圭一は腕を組み、もう一度新聞を見つめた。
間宮律子。北条鉄平。この二人が繋がっているのかさえ、今は分からない。だが、どちらも異常な力を持っていたことだけは確かだった。
「……そういや、詩音」
「はい?」
「鹿骨の研究所のことなんだけどさ。前から思ってたんだが、あそこって田舎に建てられたわりには、随分とデカすぎねえか?」
圭一は、以前レナと訪れたダム湖の光景を思い浮かべた。周囲を山々に囲まれたあの場所に、巨大な研究施設が建っている。鷹野三四から研究所の話を聞いた時にも、その規模の大きさには驚いたものだった。
「……確かに、あの辺りじゃ随分と目立ちますよね」
詩音は小さく笑った。
「前にもお話ししましたけど、医学とか生体材料とか、色々な研究をしているそうですよ。何しろ、国から相当な予算が出ているみたいですから」
「ああ、それは覚えてるぜ。鷹野さんもそこで働いてるしな。けどさ、いくら研究所だからって、あんな山奥にあれだけデカい施設を造る必要があるのかねぇ」
「さあ、どうでしょう。でも、私も前に建設計画の資料を見た時は、驚きましたよ。こんなものを造るのかって」
「……ん? ちょっと待て」
圭一は詩音へ顔を向けた。
「お前、研究所の計画書なんか見たことあんのか?」
「ええ、まあ。うちって、土木とか建設関係にも色々と手を出しているじゃないですか。ダムの工事や周辺の開発にも関わっていましたし、研究所の建設についても、多少は資料が回ってきたんですよ」
「へぇ……。そりゃ初耳だぜ」
圭一は感心したように頷いた。
「じゃあ、もしかして研究所の中がどうなってるかも分かったりするのか?」
「そこまでは分かりませんけどねぇ」
詩音は少し考え込んだ。
「でも、建設当時の設計図とか、工事に関係する図面くらいなら、どこかに残ってるかもしれませんよ。うちが直接持ってなくても、関わった業者さんを辿れば何か分かるかもしれませんし」
「……図面、ねぇ」
「もっとも、どこまで詳しいものがあるかは分かりませんけど。研究施設ですから、普通の建物とは事情も違うでしょうし」
詩音は肩を竦めた。
「気になるなら、今度、葛西にでも聞いてみましょうか?」
「……ふぅん」
圭一は、遠くの山々へ視線を向けた。
ダム湖の近くに建てられた研究所。
そして、そこで働いている鷹野三四。
以前、圭一は彼女と科学について語り合い、蜘蛛の糸の研究に役立つ助言を受けたことがあった。
「……鷹野さんも、あそこにいるんだよな」
「ええ。所長さんだそうですね」
「すげえよなぁ、あの人。俺が蜘蛛の糸について話した時も、色々と教えてくれたんだぜ」
圭一は少し笑ったが、すぐに真面目な表情へ戻った。
「……でもさ。あんな研究所なら、鉄平の装備とか、昨日の女みたいな身体のことも研究できるんじゃねえか?」
詩音は、しばらく圭一を見つめていた。
「……可能性としては、あるかもしれませんね」
「だろ?」
「ただし、圭ちゃん。研究できることと、実際に関わっていることは別ですよ」
「……ああ、分かってる」
圭一は頷いた。
「別に、鷹野さんが怪しいって言ってるわけじゃねえよ。ただ、あんな技術を扱える場所がこの辺りにあるってのは、ちょっと気になってさ」
「……なるほど」
詩音は小さく頷いた。
「確かに、調べる候補の一つにはなりますね。でも、今のところ研究所との繋がりは何も見つかっていません」
「……そうだな」
圭一は小さく息を吐いた。
結局、研究所についても憶測の域を出ない。
だからといって、何もせずにいるわけにはいかなかった。
昨日の女は、警察に身柄を確保されている。少なくとも、彼女がなぜあんな姿になったのかを知る機会は、まだ残されているのだ。
「……なあ、詩音」
「はい?」
「間宮律子って、今は警察にいるんだよな?」
「報道によると、そうですね」
「……だったらさ、本人に聞けねえかな?」
詩音は目を瞬かせた。
「……直接ですか?」
「ああ」
圭一は頷いた。
「どうしてあんな身体になったのか。誰かから何かされたのか。それに、鉄平の野郎と関係があるのかもしれねえしさ」
「……でも、簡単には会わせてもらえないと思いますよ?」
「……そりゃそうか」
圭一は頭を掻いた。
警察が身柄を確保している事件の重要人物に、ただの中学生が会いたいと言っても、許されるはずがない。
「……じゃあ、どうすりゃいいんだよ」
「そうですねぇ……」
詩音は少し考え込んだ後、圭一を見つめた。
「前原圭一としては難しいでしょうけど、スパイダーマンとしてなら、少し事情が変わるかもしれません」
「……へ?」
「だって、昨日あの女の人と直接戦ったのは圭ちゃんでしょう? 警察の人たちが知らない情報も持っているんじゃありません?」
「……ああ!」
圭一は手を打った。
確かに、昨日の戦闘で見聞きしたことなら、圭一にも提供できる。
リザードウーマンの能力や、戦闘中の言動。彼女がどのようにして人間の姿へ戻ったのかについても、警察がすべて把握しているとは限らない。
「……つまり、情報交換ってわけか!」
「まあ、そういうことですね」
詩音は頷いた。
「ただし、警察が何か教えてくれる保証はありませんよ。それに、今朝のニュースではスパイダーマンについても色々と言われていましたし」
「……っ、そうか…」
圭一は顔をしかめた。
昨日の事件では、スパイダーマンが建物に被害を与えたのではないかという疑いまで報じられている。
そんな人物が突然警察署へ現れれば、歓迎されるとは限らない。
「……行った途端に捕まったりしねえだろうな?」
「さあ、どうでしょうねぇ」
「おいおい、怖いこと言うなよ!」
詩音は小さく笑った。
「でも、圭ちゃん。あの刑事さんなら、少なくとも話は聞いてくれるかもしれませんよ」
「……あの刑事って、大石のおっさんのことか?」
「ええ。あの人、鉄平さんの事件も調べているんでしょう?」
「……ああ。そういや、そうだな」
圭一は頷いた。
大石蔵人。
以前、圭一が雛見沢の過去を調べていた際に接触してきた刑事である。鉄平の事件にも関心を示しており、警察内部の事情についても何か知っているらしかった。
それに、昨夜の事件では、現場に駆けつけた大石もスパイダーマンを目撃している。
「あのおっさん、昨日の俺の姿も見てるんだよな」
「だったら、少なくとも実在する人物だということは知っていますね」
「……なるほどな」
圭一は腕を組んだ。
「大石のおっさんに、昨日の事件について知ってることを話す。その代わり、間宮律子の話を聞かせてもらえないか頼んでみる……」
「ええ。もちろん、断られる可能性もありますけど」
「……やってみる価値はあるな」
圭一は頷いた。
しかし、そこでふと眉を寄せた。
「……待てよ。そういや、大石のおっさんとは前原圭一としても会ってるんだよな」
「ええ」
「……声でバレたりしねえか?」
詩音は、思わず笑った。
「ふふっ。圭ちゃん、普段からよく喋りますからねぇ」
「何だよ、それ!」
「余計なことを言わなければ大丈夫だと思いますけど、あの人は結構鋭いですからね。気をつけた方がいいですよ?」
「……だよなぁ」
圭一は頭を掻いた。
大石は、一見すると気さくな中年刑事である。しかし、以前話した時にも、こちらの反応を注意深く観察している様子があった。
何も考えずに話していれば、思わぬところで正体を疑われるかもしれない。
「……よし。だったら、スパイダーマンらしく喋るとするか」
圭一はわざと声を低くした。
「やあ、刑事さん。親愛なる隣人、スパイダーマンだ。今日はちょっとした相談があってね」
「……ぷっ」
詩音が吹き出した。
「何だよ!」
「いえ、ふふっ……普段とあんまり変わらないなぁって」
「うるせえ!」
圭一は顔をしかめたが、詩音はなかなか笑いを収めなかった。
やがて、彼女は小さく息を整え、真面目な表情へ戻った。
「……ともかく、圭ちゃん。警察署へ行くなら無理はしないでくださいね。会わせてもらえなくても、勝手に中へ入ったりしちゃ駄目ですよ?」
「分かってるって」
「それと、私や葛西の名前も出さないでください」
「ああ。そこは気をつける」
圭一は頷いた。
詩音は新聞を鞄へしまい、立ち上がった。
「では、私は葛西に連絡しておきます。間宮律子さんのことを調べてもらいましょう」
「……頼むぜ、相棒!」
「ふふっ。任せてください」
詩音は笑った。
圭一もベンチから立ち上がり、屋上の出口へ向かって歩き始めた。
「……それじゃ、行ってくるか」
「……え? 今からですか?」
「おう。善は急げって言うだろ?」
詩音は呆れたように息を吐いた。
「まったく、圭ちゃんは……。昨日あんなに怪我したばっかりなんですから、少しは大人しくしていてくださいよ?」
「大丈夫だって。今日は別に戦いに行くわけじゃねえんだからさ」
圭一は軽く笑った。
しかし、その表情はすぐに真面目なものへ戻った。
「……でも、これだけは確かめておきてえんだ」
「……何をです?」
「鉄平の野郎も、昨日の女も、どうしてあんな力を持ってたのかってことだよ」
圭一は、屋上から見える街並みへ目を向けた。
今も多くの人々が行き交い、工事の音が響いている興宮。
そのどこかで、誰かがあのような力を生み出しているのかもしれない。
もちろん、まだ何も分からない。
だが、もし本当にそうならば、今後も同じような事件が起こる可能性がある。
「……昨日みたいな騒ぎ、何度も起きちゃたまんねえからな」
詩音は、しばらく圭一を見つめていた。
そして、静かに頷いた。
「……そうですね」
その後、いつもの笑みを浮かべた。
「では、ご武運を。スパイダーマンさん」
「おう!」
圭一は片手を上げた。
「まあ、警察署に話を聞きに行くだけだけどな!」
「……ふふっ。それが一番心配なんですよ」
「何だよ、それ!」
圭一は苦笑しながら屋上を後にした。
残された詩音は、彼の背中を見送ってから、もう一度遠くの街並みへ目を向けた。
北条鉄平。
間宮律子。
二人が持っていた異常な力と、その背後にあるかもしれない何者か。
まだ、直接の繋がりは見つかっていない。
しかし、少なくとも昨日までとは違い、今は確かめるべき相手がいる。
「……さて」
詩音は小さく呟いた。
「葛西さんにも、もう少し頑張ってもらいましょうかねぇ」
そうして彼女も、屋上を後にした。
一方、圭一は既に次の行動を考え始めていた。
興宮警察署。
普段なら、できるだけお世話になりたくない場所である。
まして、今度は前原圭一ではなく、スパイダーマンとして訪れるのだ。
どんな反応をされるのか、想像もつかない。
それでも、昨日の事件について知るためには、行ってみるしかなかった。
ただし、一つだけ問題がある。
あの赤と青の格好で、警察署の正面玄関へ現れても大丈夫なのだろうか。
圭一は、しばらく考え込んだ。
そして、ふと笑みを浮かべた。
「……ま、何とかなるだろ」
その考えが、間もなく興宮警察署をちょっとした騒ぎに巻き込むことになるとは、この時の圭一はまだ知らなかった。
§
六月一日、午後六時過ぎ。
興宮の街は、夕暮れを迎えようとしていた。昼間の暑さは幾分和らいだものの、アスファルトにはまだ熱が残っている。再開発地区の高層ビルには西日が差し込み、ガラス張りの外壁が橙色に輝いていた。道路には帰宅を急ぐ車が列をなし、歩道を行き交う人々の姿も増え始めている。
そんな街の一角に、興宮警察署は建っていた。
周囲の再開発によって新しい建物が増えた今では、少々古めかしく見える庁舎だった。灰色のコンクリート壁に四角い窓が並び、玄関前には警察車両が数台停まっている。
その建物を、向かいのビルの屋上から眺めている人物がいた。
「……いやぁ、改めて見ると入りづれえなぁ」
赤と青のスーツに身を包んだ前原圭一は、屋上の縁にしゃがみ込み、眼下の警察署を見つめていた。
顔には白いレンズのついたマスク。両手首には自作のウェブシューターが装着されている。昨日、リザードウーマンとの激闘を繰り広げたスパイダーマンその人である。
もっとも、今の圭一に昨日のような威勢はなかった。
なぜなら、これから向かおうとしている場所は、怪物の潜む倉庫でも、人気のない工事現場でもない。
警察署だったからだ。
「……なあ、詩音。本当にこれでいいんだよな?」
圭一は、マスクの耳元に取り付けた通信装置へ声を掛けた。
『何がです?』
すぐに、詩音の声が返ってきた。彼女は現在、興宮にある園崎家の屋敷にいる。葛西の協力で用意した無線機を使い、圭一と連絡を取り合っているのだった。
「いや、だからさ。俺、今から警察署に行くんだぜ? それも、こんな格好で」
『今さら何を言ってるんですか。自分で行くって決めたんでしょう?』
「そりゃそうだけどよぉ……」
圭一は頭を掻いた。
正体不明の怪物と戦った謎の蜘蛛男。世間での評価が定まっていない以上、警察が歓迎してくれる保証はない。しかも昨日の戦闘では、現場の建物にも被害が出ている。
事情を聞かれるだけなら構わないが、下手をすれば拘束される可能性だってあるのだ。
『大石さんとお話しするんでしたよね?』
「ああ。そのつもりだ」
『だったら、まずは落ち着いて事情を説明してください。昨日の事件について、圭ちゃんが実際に見たことを話せばいいんです』
「……分かってるって」
『それから、前にも言いましたけど、無理に間宮律子さんに会おうとしないこと。警察の人が駄目だと言ったら、ちゃんと従ってくださいね?』
「へいへい。了解しましたよ」
圭一は軽く肩を竦めた。
『……ところで、圭ちゃん』
「ん?」
『今、どこにいるんです?』
「警察署の向かいのビル。屋上だよ」
『……屋上?』
「おう。ここからなら、署内の様子もよく見えるんだ」
通信の向こうで、少し間が空いた。
『……圭ちゃん。まさかとは思いますけど、窓から入ろうなんて考えてませんよね?』
「…………」
圭一は黙った。
『……圭ちゃん?』
「い、いやぁ……」
『……ちょっと?』
「ほら、正面玄関から入ったら、騒ぎになるじゃん?」
『窓から入った方が騒ぎになると思いますけど!?』
「いやいや! そこは大丈夫だって! ちゃんと大石さんを見つけてから声を掛けるからさ!」
『だから、そういう問題じゃ……!』
「よし! じゃあ、行ってくるぜ!」
『あ、ちょっと! 圭ちゃん!?』
圭一は、慌てて通信装置の音量を下げた。
「……ったく、心配性だなぁ」
もっとも、詩音の心配がもっともであることは、圭一自身も理解していた。
しかし、赤と青のスーツのまま正面玄関へ現れれば、受付の警察官から事情を聞かれることになる。そこで素直に正体を明かすわけにもいかない。
大石と直接話をするなら、先に本人を見つけてしまった方が早い。
少なくとも、圭一はそう考えていた。
「……ま、蜘蛛らしく行きますかね」
圭一は立ち上がり、屋上から身を躍らせた。
右手首から白い糸が放たれ、向かいの建物の外壁へ張りつく。身体は大きな弧を描いて宙を進み、圭一は警察署の側面へと回り込んだ。そのまま壁面に手足を吸着させ、周囲の様子を確かめながら上へ這い始める。
目指すのは、二階の一角。
以前、大石と話した際に聞いた刑事課のある辺りだった。
もっとも、どの窓が大石のいる部屋なのかまでは分からない。
「……さて、どこだ?」
圭一は窓から窓へと移動し、建物の中を覗き込んだ。
書類を運ぶ職員。電話を取る警察官。机に向かって何かを書いている男たち。どこも似たような光景で、目的の人物はなかなか見つからない。
「……あれ?」
圭一は、ある窓の前で動きを止めた。
室内には、くたびれた背広姿の中年男がいた。
少し太った体格。人のよさそうな顔立ち。そして、手元の湯呑みを傾けながら書類を眺めている、どこか気の抜けた姿。
間違いない。
大石蔵人である。
「……いたいた」
圭一は、窓枠の横へ移動した。
そして、指を曲げて軽くガラスを叩いた。
コン、コン。
「……ん?」
大石は湯呑みを口元へ運びかけたところで手を止めた。
窓の方から音がした。
最初は、風で何かが当たったのかと思った。しかし、もう一度、明らかに誰かが叩いたような音が響く。
コン、コン。
「……はて?」
大石は首を傾げた。
ここは二階である。窓の外には、人が立てるような足場などない。
それなのに。
「……何でしょうねぇ」
大石は、ゆっくりと窓へ顔を向けた。
そして、そのまま固まった。
「…………」
窓の外に、人間がいた。
赤と青の衣装。顔を覆う奇妙なマスク。そして、大きな白い目。
その人物は外壁に張りついたまま、大石へ向かって片手を振っていた。
「…………」
大石は、数秒間その光景を見つめた。
次の瞬間。
「……な、なななっ!?」
勢いよく椅子から立ち上がった。
「何ですかぁっ!? こんな所でぇっ!?」
湯呑みが机の上で大きな音を立てる。
圭一は、慌てて両手を振った。
「ちょっ、ちょっと! 落ち着いて!」
「落ち着けるわけないでしょうが! ここは警察署ですよ!?」
「分かってるって! だから来たんだよ!」
大石は一瞬言葉を失い、改めて窓の外を見つめた。
そして、ようやく顔をしかめた。
「……あんた、昨日の……」
「そうそう!」
圭一は親指を立てた。
「親愛なる隣人、スパイダーマンです!」
「…………」
大石は黙った。
確かに、見覚えがあった。
昨夜の再開発地区。異様な姿の女と戦っていた、赤と青の謎の人物。大石は現場で、その姿を直接目撃している。
まさか、翌日になって自分の勤務先へ現れるとは思いもしなかったが。
「……いやぁ、驚きましたねぇ」
大石は額に手を当てた。
「昨日見た時も随分と奇妙なお方だと思いましたが、まさか警察署の窓を叩きに来るとは……」
「ははは。ちょっと話があってさ」
「……話?」
「そう。昨日の事件について」
大石の目が、僅かに細くなった。
「……ほう?」
圭一は窓越しに身を乗り出した。
「実は、ちょっと聞きたいことがあるんだ。できれば中で話せないかな?」
「……いやいや、ちょっと待ってくださいよ」
大石は困ったように笑った。
「順序というものがあるでしょう? 何で正面玄関からいらっしゃらないんです?」
「いやぁ、こんな格好で受付に行くのも、どうかと思ってさ」
「二階の窓へ現れるより、よほど普通ですよ」
「……そうかな?」
「そうですよ!」
大石が思わず声を上げた、その時だった。
「大石さん! 今の声、どうしました!?」
廊下の方から、別の警察官の声が響いた。
「……あ」
圭一は固まった。
大石も、扉の方へ振り返った。
「いやぁ、ちょっと……」
扉が開き、若い警察官が顔を覗かせた。
「何かありましたか?」
「……ああ、いえ。少々お客さんが来ましてねぇ」
「……お客さん?」
警察官は首を傾げた。
そして、大石の視線を追って窓の方を見た。
「…………」
「……どうも」
圭一は、窓の外から軽く手を振った。
次の瞬間。
「……うわああっ!? な、何だあれは!?」
「ちょっと! 叫ばないでよ!」
圭一の声が響いた。
大石は、思わず大きな溜息をついた。
「……ほら、スパイダーマンさん」
「……はい?」
「あんたが変なところから来るから、こうなるんですよ」
「……面目ない」
圭一は小さく肩を落とした。
どうやら、詩音の心配は見事に的中したらしい。